第6話 ―にばん目の雀―
やがて午後五時を迎え、ホールの扉が開かれた。
開場と同時に佐清や千万太が入ると、同じように時間ちょうどに駆けつけてきた磯川警部と等々力警部補も入ってきた。
諏訪弁護士と古舘会計士はすでにホールの奥で何やらゴソゴソしているようだ。
五時を十五分も過ぎると、ようやく全田一が現れ、佐清や千万太に挨拶すると、磯川警部の隣の位置を陣取った。
早速磯川警部は、隣に来た全田一に小声で話しかける。
「全田一さん、あなたここで何か起きるとお思いですか」
すると全田一はさりげなく、同じように小声で答える。
「どうでしょう。昨日の今日ですからね、わかりませんが、ボクのお目当ては堀井敬三なんですがね。諏訪さんは、明日には来ると言いましたが、もしかしたら、今宵のうちに来るんじゃないかと思いましてね、こうして待ってるんですがね」
そういえば、諏訪弁護士は確かに、明日には来ると言っていた。
「あなた堀井敬三が犯人だと思ってるんですか」
「まさか。まだそこまでは思っていませんが、可能性の一つではあります」
やや不思議そうな顔で、
「堀井敬三が犯人なら、その動機は?」
「例えばです。堀井敬三と岩下三五郎が同一人物だったら、又は堀井敬三がどこかで 犬神佐清や鬼頭千万太らと、いやもっと突き詰めていえば、高頭俊作とつながってないか。さらには、音禰さんと以前から顔見知りではないかとか。ボクは音禰さんの堀井敬三に対する目線が犬神佐清君や鬼頭千万太君への目線とがなにやら少し違うような気がするんです」
たまりかねたようすの等々力警部補が、
「そりゃ違うでしょう。婿候補と弁護士の助手なんですから」
すると磯川警部も、まさかというような顔で、
「堀井敬三と岩下三五郎が同一人物ですって。そんなことなら、とっくに古舘さんが気づいているでしょう」
全田一は困ったような顔をして、
「いや、あくまでも可能性の話ですから、あらゆる可能性を想定するのが我々探偵の性分ですから。そこから少しずつ消去していくわけです」
等々力警部補は一応うなずいて見せたが、本心はかなり呆れていた。
そして、そろそろ五時半になろうとするころ、ようやく主賓である音禰が姿を現した。その両サイドには、兄の賢蔵と久弥が侍っていた。兄として一度、妹の婿候補の顔を見ておこうという腹だろう。
音禰の今宵のドレスはグリーンのレース生地にパールのネックレスを飾り、長い黒髪を後ろに束ねた髪飾りのアクセントには黄色いリボンがあしらわれていた。簡素な装飾であるが、だからこそ音禰の美しさが引き立っていると言っても過言ではなかった。
ホールには昼とは異なり、円卓ではなく、向かい合わせとなる形式がとられていた。入口から奥に向かって左側に諏訪弁護士、音禰、賢蔵、久弥、全田一の順に、右側に古舘会計士、佐清、千万太、磯川警部、等々力警部補の順に据えられていた。全田一の隣には堀井が座る予定になっていたようだが、彼の姿はない。
やがて全員が席に座ると、乾杯用の食前酒が配られ、諏訪弁護士が晩餐会の始まりの号令をならす。
「堀井はウチの所用で今回は出席できないと思いますが、まあ主要人物は揃っているのですから、問題はありますまい。それでは、新たな出会いを祝して乾杯」
それぞれの思いを胸に晩餐会は始まる。BGMには、バッハのゆるやかな曲が流れている。今宵のコースはフレンチのようだ。意外と器用にテーブルマナーを操る佐清とは違い、やや戸惑いを見せる千万太。さすがに板前修行したと豪語するだけのことはある。
音禰はこれまでの生い立ちや暮らしぶりを二人に聞く。自慢話も加えて軽快に答える佐清とやや遠慮気味に答える千万太。それぞれが対照的だった。
そんな佐清や千万太らの一挙一動の様子を探るように見ていた賢蔵であったが、彼らの会話に参加することはなかった。
食事が終わると、ダンスパーティーの続きが始まる。そう、再び舞踏会の開催となるのである。
その前に古舘会計士が、ひとこと挨拶代わりのオリエンテーションを発した。
「ここからは自由参加、自由解散といたします。なお、明日の朝は、那須ホテル一階レストランで朝食会にしたいと思いますのでよろしく。時間は七時でお願いします。では、お待たせいたしました。ダンスをお楽しみ下さい」
最初はワルツから始まる。今度は千万太が先陣をきった。先ほど堀井敬三に教わったステップを復習するかのように音禰で試す。その懸命さが伝わったのか、音禰も千万太に合わせながらステップを踏んだ。
一曲目が終わると、待ってましたとばかりに佐清が音禰の手をバトンした。上達は佐清の方が先行したか。それでも音禰と同レベルとはいかず、一曲終わるころには肩で息をしていた。
そんなやりとりを二曲ずつこなし、三曲目に千万太が再び音禰の手を佐清から受け取ろうとしたそのときであった。佐清が、音禰の背中を指さした。
「音禰さん、背中に赤い糸くずがついてますよ。千万太くん、取ってあげて」
それを聞いた音禰は千万太に背を向けて、
「取ってくださる?」
と言ったとたん、千万太はブルブルと震え出し、みるみる顔が真っ赤に染まっていく。それを見た佐清は音禰と千万太の間に割って入り、
「どないしたんや、これやんか」
と言いながら、赤い糸くずをとった。
その瞬間、千万太は佐清を睨んだ。訳の分からない佐清は、
「なんや、オレ悪いことしたか?」
佐清を睨んでいた千万太は、そのまま踵を返すと、すっ飛んでいくようにボールを出て行った。
「あっ、鬼頭くん」
古舘会計士が慌てて呼び戻そうと声をかけたが、その声は届かず、等々力警部補が後を追うようにホールを出たが、ついには間に合わなかった。
全田一は、音禰の足元に落ちている赤い糸くずを拾い、
「彼は色盲だったようですね。そのことを知られるのはまずかったのでしょうか」
諏訪弁護士は腕を組んだまま考え込んでいたが、何やら古舘会計士に耳打ちをしていた。
何が何だかわからないのは音禰も同じである。困惑した表情のまま近くの椅子に腰掛けると、目の前の古舘会計士に、
「古舘さん、今夜はとても疲れましたわ。申し訳ありませんが、これでお開きということにしていただけませんか」
すると古舘会計士は、参加者に向けて、
「誠に申し訳ありませんが、ちょっとトラブルがありましたようで、お嬢さんもお疲れの様子なので、今宵はこれでお開きにさせていただきます。」
音禰は古舘会計士のあいさつが終わると、参加者に一礼した後、静かにホールを出て行った。全田一も磯川警部も仕方ないと言った感じだ。特に警察として有力な参考人と目していた佐清、千万太、音禰の三人のうち、すでに二人が出て行ったのだからお手上げだ。
仕方なく、磯川警部は佐清を呼び止めて話を聞くことにした。
「キミは千万太君が色盲だと知っていたかね」
すると佐清は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、
「そんなん知るわけないやないですか。それよりも、何で色盲やったら逃げださんならんのですか?」
それは磯川警部にとっても不思議だった。元来色盲は病気ではなく遺伝的なものである。しかも女性よりも男性の方が、その因子を受け継いだ場合、より顕著に現れる。従って色盲であっても逃げ出すほどの事ではないというのが一般的な見解ではなかろうか。されど、千万太は飛び出していった。
千万太の仕事は工場での部品の設計や製作がメインである。特に色盲だからといって不都合はなかったのだろう。しかし、色々と待遇的に不利だったことがあったかもしれない。
次に全田一は矛先を変えるように糸くずの話を持ち出した。
「あの糸くずは、いつついたのでしょう。あなたはいつ気付きましたか?」
何をいわんやとばかりに、
「あのときですよ、千万太くんに手を譲ったあのとき」
「グリーンに赤ですからねえ、割と気づきやすいと思うんです。だから、千万太くんの色盲を確認しようと、誰かが故意にあの糸くずをつけたのではないかと思うんですが」
すると磯川警部は困惑した顔で、
「それはいったい何のために?」
「それはまだボクにもわかりません。しかし、ダンスが始まる前には、あの糸くずは絶対についてなかったと思います。佐清くんはどう思いますか」
突然振られた佐清だったが、
「そうですねえ。もしボクと踊る前からついていたんやったら、千万太くんから音禰さんの手をもらったとき気づくわな」
佐清の答えも全田一の見解に肯定的な意見だ。
次に二人は古舘会計士に話を聞いた。
「やあ古舘さん、またぞろ急な展開になりましたねえ」
いつでも気軽に声をかけるのは全田一の流儀なのだろうか。
「いやはや、まだこれからも嗜好があったんですがね。お嬢さんが疲れたとおっしゃるものですから」
「それはそうでしょう。婿探しといいながら、無理矢理知らぬ人と結婚させられるのだと考えれば、ある意味苦痛以外の何物でもない。それを平常であるかのように振る舞える音禰さんの精神は立派過ぎるほど立派だ」
古舘会計士は不思議そうな顔で、
「何かありましたかな?」
すると全田一は平然とした表情で、
「何かあるんじゃないですか?」
まるでおうむ返しのような問答である。
それ以上は進展を望めないと思った全田一は話の話題を変えた。
「ところで古舘さんは、千万太くんが色盲であることをしってましたか?」
「私は知ってましたよ。彼を探し当てた報告書にも書いてありましたし。ですから、 今さら何を慌てているんだろうと思いました」
「そのことは、諏訪さんもしっていますか?」
「報告書の内容を逐一確認している訳じゃありませんからな。でも、報告書はそのまま複写したものを渡しましたよ」
最後となった諏訪弁護士への聞き取りだったが、ここは全田一が先鋒を名乗り出た。
「諏訪さん、あなたは千万太くんの色盲をご存知でしたか?」
すると以外な答えが返ってきた。
「いや、私は知りませんでした」
「古舘さんによると、彼についての発見の顛末に関わる報告書に記載してあるとききたしたが」
「いや、私にとっては、鬼頭君が見つかったという知らせだけで充分ですから、細かいところまでは見てませんでしたな。古舘さんを信用してますし、彼が間違いないというなら、ましてやです」
「では、話題を変えましょう。あなた、堀井氏は、明日には戻るだろうとおっしゃってました。なのに一応、晩餐会の席は用意されてましたね。何故でしょう」
「特に深い意味はありません。元々出席の予定でしたし、向こうでの所用が早く済めば間に合うかも知れないと思ったからです」
「向こうでの所用というのは」
「新見事務所と東京事務所の登記の件です。彼は両方の事情をわかっていますから」
この質問には、あらかじめ答えが用意されていたかのようだった。
今夜は事件が起こったわけでもなく、ただ晩餐会に参加した一人の若者の秘密の一部が暴露されただけに過ぎない。これ以上無理矢理引き止める理由もないため、やむなく解散となったのである。
しかし、警察はもっと千万太の身辺に注意すべきだったのである。
その夜。佐清は部屋でうとうとしていた。食器棚の上にあるおおきな置時計は二十一時半を少し回った時刻を指している。
少しばかりアルコールの入っている体は、色々な環境変化により疲労をきたしていた。そろそろ寝落ちするだろうと思われた瞬間、部屋に設置されている電話のけたたましい呼び鈴によって起こされた。
我に帰った佐清は、寝ぼけ眼のまま受話器を上げると、フロントの従業員が出た。
「外線です。おつなぎしますか?」
佐清は「ああ」とだけ返事をすると、しばらくして外の電話とつながった。
「犬神佐清さんだね。オレか?オレのことはいい。ところでアンタ、ライバルを出し抜こうと思ってるんじゃないかな」
「誰かは知らんけど、大きなお世話や。千万太が相手やったら、オレの楽勝や」
「ふふふ、そうでもないかも知れんぜ。取り引きをしようじゃないか。窓の外を見てみな」
佐清が言われた通り窓の外を見ると、何やらあやしげな腰の曲がった老婆の姿が見えた。
「何やらあやしい婆さんがおるな」
「その婆さんはオレの使いだ。こそっと抜け出て、その婆さんのあとをついて来い。話はそれからだ。お前さんが来ないと言うなら、この電話を千万太の方へ切り替えてもらってもいいんだぜ」
佐清は一瞬ためらったが、すぐに思い直して、
「わかった。すぐに出る」
そういって受話器をおいた。その約五分後、全身黒ずくめの衣装に着替えた佐清の姿が置き時計の前にあったが、あっという間に闇の彼方へと消えていった。
同じ日、さらに深夜の出来事である。時刻は二十五時になろうとしていた。
音禰は那須ホテルのスイートでもじもじしながら待っていた。晩餐会を早く切り上げたかった音禰の意図は、早めに軽い睡眠をとっておきたかったからである。
初対面の人と打ち解けるための心労を使い切っていた音禰は、さすがに疲れ切っていた。そんな状態で東太郎の指示する二十五時まで起きていられる自信がなかったのである。かといって眠ってるところを訪問されるのを良しとするほど開放的ではない。
晩餐会から部屋へ戻ると、すぐさま入浴を済ませ、温かい紅茶で軽くのどを潤すと、電気をつけたままベッドへもぐりこんだのである。
元来音禰は明るい部屋では深い睡眠をとれない体質であった。従って、明かりをつけたままにしておけば、いつものように数時間程度で目が覚めるだろう。そう思ったからである。果たして、二十五時を迎える前に、音禰は目が覚めた。
「ふう。ギリギリセーフね。さすがに東太郎さんでも寝顔を見られるのは恥ずかしいわ」
などと独り言をつぶやいていた。その瞬間ふいに誰かが音禰に声をかけた。
「おはよう。ちょっと前からいたんだけど、気持ちよさそうに寝ていたから、起こせなくてね」
音禰はドキッとして、思わず声を上げそうになった。しかし、そこはたしなみある女である。同時に東太郎であることの安心感もあって、大事には至らなかった。
「先生、どうやって部屋にお入りになったんですの?カギはかけておいたはずですけど」
すると東太郎は、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「こんな部屋の鍵なんか、ボクにかかれば一瞬だよ。それよりも、佐清や千万太たちはちゃんと踊れたかい?少しはレッスンの効果はあったかな」
「なんだか途中でお開きになりましたわ。千万太さんが色盲だったことがわかって、それに憤慨した千万太さんが突然出ていかれて・・・」
「ほう、彼は色盲だったのかい。でもそれだって珍しいとはいえ、前例がないわけじゃない。逃げ出すほど恥ずかしかったのかな」
いつの間にか東太郎はベッドのすぐそばに来ている。
「それにしても先生、少し大胆すぎやしませんか。先日は随分と失礼なご挨拶でしたわ。それに今宵も。それにどうして堀井敬三なんていう名前を名乗ってらっしゃるの?」
東太郎は、パジャマのままの音禰のすぐ隣に腰掛け、そっと肩を抱いた。
「今からしばらくの間、キミは色々な衝撃的な事件を目の当たりにするだろう。高頭俊作が殺されたのが最初といってもいい。犬神佐清や鬼頭千万太もどうなるかわからない。でも、キミにはボクがついているから」
そういうが早いか、東太郎は音禰をベッドの上に押し倒し、その唇を奪う。
ねっとりとした熱い吐息が音禰の体温を上昇させた。それを自覚した音禰がやや抵抗するも、男の力には勝てない。そう思って力を抜いたとたんに、東太郎は熱くたぎった手をパジャマの内側へと侵入させてきた。さすがに驚いた音禰が声を上げようとするが、東太郎の唇にふさがれているために声が出ない。やがて荒々しくもやさしい指の旋律は音禰の心を完全に説き伏せた。観念した音禰は覚悟を決めたように目をつぶる。どうせ、自分は見知らぬ人と結婚させられるのだ。それよりも最初だけは東太郎にあずけよう。そんな覚悟であった。
音禰とて、東太郎に恋焦がれた時期もあった。家庭教師として色々なことを教授されていた時のことである。その乙女心に再び火がついたといっても過言ではない。やがて東太郎は、観念した音禰を生まれたての姿にすると、自身の燃えたぎる情熱を打ち付け、炎のような野心を遂げた。
演奏が終わった二人はゆっくりとその体を離し、もう一度軽く唇を合わせた。やがて我に返った音禰が東太郎に問いかける。
「今夜相談したかったことってこういうことでしたの?」
「ごめんよ。でも、キミがあいつらと踊っていることがやけに腹立たしくて。今をおいてキミを奪うときはないと思ったから」
「でも、お父様のご遺志を守ってあげるためには、あなたと結婚することはできませんわ。それに先生はどうして偽名を使っているんですか」
「そのこともはっきり言っておかねばならないと思ったから、急いで今夜忍び込んでくるような真似をしたんだ。不躾だったのは反省するところだけど、ボクの想いもわかってほしかったからね。ボクの本当の名前は高頭五郎っていうんだ。そう、殺された高頭俊作の従兄弟なんだよ。だから、キミの存在や佐兵衛翁のことなんかも事前に少し知っていたんだ。今、キミの目の前で起こっている事件はまだ続く気がする。ボクが高頭俊作の従兄弟であることは今しばらく伏せておかないと、ボクにも危害が及ぶ可能性があるんだ。だからもう少しの間、色んな名前でボクの本性を隠す必要があるんだ。だから、このことは誰も知らない二人だけの秘密にしておいてね、内緒だよ」
音禰はどこまで東太郎、いや高頭五郎のことを信用してよいのか不安になった。家庭教師をしていた時代から偽名を使わねばならない境遇とはいったいどんなものだったのか。また、どういういきさつで三島東太郎や堀井敬三などという偽名を名乗ることになったのかなど。わからないことが多すぎる。もしかしたら、自分が乙女心に恋焦がれた東太郎の顔も作られた顔だったのか。
東太郎はそんな不安げな音禰の様子を察したのか、
「大丈夫。訳あって色んな名前を使いこなしているけど、キミが知ってる東太郎は昔のままの東太郎だよ。ただ、ボクにも色んなことがあったから、どうしてもいくつかの名前を持たなきゃならなかったんだ。そのことと、キミを愛する気持ちとは別だということをわかってほしい。今夜はそのことを言いたかったんだ。」
音禰は現時点では彼のいうことを信用するしかなかった。自分に微笑みかけてくれる優しい表情は昔の東太郎のままだ。
東太郎はもう一度口づけをかわすと、そっとベッドから出て身支度を始めた。
「明日は昼頃に現れる予定だ。それまではボクがここに来たことは内緒にしておいてね」
「はい」
音禰とて、今宵の出来事を他の誰に話せるはずもなく、自然、二人だけの秘密を持つことになったのである。
今宵も更けていく。そろそろ秋の装いを奏で始めている山々の木々たちがゆっくりと衣替えをするように静かに・・・。二人の秘密を闇の中に埋めながら・・・。
音禰がその身をゆっくりとベッドにしたためた夜。別の部屋では、むっくりとベッドから起きだす姿があった。鬼頭千万太である。千万太は、ベッドから抜け出すと、外出着に着替え、壁に据えてある時計を見た。時間は午前二時を指している。
千万太のあてがわれている部屋には裏庭を展望できる窓が設置されており、その窓から下を見下ろすと、小さな人影を確認した。その人影はまるで海老のように腰の曲がった老婆のように見える。千万太は老婆に向けて、小さな懐中電灯で合図を送ると、その老婆はこっくりとうなずいて林の陰に隠れた。
千万太は、部屋の扉をそっと開け、廊下に誰もいないことを確認すると、抜き足差し足で階段を下りていく。やがて一階のレストラン脇の裏口までたどり着き、施錠されていないドアを静かに開けると、そのまま外へ出て行った。
千万太は、林の陰に隠れている老婆の姿を見つけると、ゆっくりと近寄り、
「で?話を聞こうじゃないか」
と声をかけたが、老婆は無言のまま、ついてくるようにと手招きをして、林の中へと消えていく。千万太もその後を追いかけるようにして林の中へ消えていった。
翌日の朝、音禰はけたたましい置時計のベルの音で目が覚めた。昨夜の情熱的な語らいが、まだ音禰の肌に興奮を残していた。同時に自分がすでに処女でないことの実感とともに妊娠に対する脅威を覚えなければならなかった。思い出したように浴室に駆け込み、昨晩の激情の証拠を消し去っていく。彼の残り香を熱いシャワーで流し落とすと、急に自分がいじらしくなるのを覚えた。大人になったことへの恥じらいと自立心との葛藤も入り混じった妙な感覚だった。
入浴のあと洗面台の鏡の前に立ち、そっと自分の乳房を抱えてみる。自分はいけないことをしたのだろうか。感情を優先させたことに違いはない。けれど、期待していたとまでは言わないが、雰囲気にのまれたとはいえ、自らも望んだ結果である。そう思いながら朝の支度をしていた。
今朝のモーニングはホテルのレストランに七時集合だ。時計を見るとまだ六時半を少し過ぎたところである。あらかたの用意はできているが、あまり早く行くのも何だか好んで参加しているようで気が引ける。かといって時間に遅れるのは性格的に許せない。昨日も会場に到着したのは五分前だった。
音禰は少しの間を潰すのに紅茶を飲もうと思い、ポットのそばに寄ったときだった。思い出したのである。以前に、その引き出しの中にあったメモ書きを。あの紙片はどこへやったかしら。あれは、昨日の朝、全田一たちがやって来たときに見つけたのだから、あの時に来ていたニットのセーターのポケットに違いない。幸いなことに、そのセーターはまだ洗濯物入れの中に残されていた。便箋の一枚をやや乱暴にちぎった痕のある紙だった。そしてそこには『古坂史郎に気をつけろ』と書かれてあった。
高頭俊作と古坂史郎が那須ホテルにチェックインしたころには、まだ音禰はホテルに到着すらしていなかったので、古坂史郎なる人物が何者なのか見当もつかなかったのである。ましてや、今現在行方知れずとなっているのでさもあらん。
音禰は、その紙片を化粧台の引き出しにねじ込むと、紅茶を飲むのもあきらめて、指定のレストランに向かうこととした。やや重い足を引きずるように。
レストランでは、すでに昨夜の晩餐会と同じ顔ぶれがほぼ全員が集まっていた。ほぼ、と言ったのは、そこに一人の顔が欠けていたからである。
佐清は隣の空いている席を見下ろしながら、
「千万太くんまだ寝てんのかな。コッチは早く寝過ぎて、朝早ようから散歩までしてきてるし、お腹ペコペコやのに」
すると古舘会計士は、青沼支配人を呼び、フロントからモーニングコールを送るように指示した。
数分後、渋い顔をして戻ってきた青沼支配人が古舘会計士にモーニングコールの結果を報告した。
「鬼頭さんのお部屋ですがね、何度コールしても誰も出ないんですがね」
それを聞くや否や韋駄天のように駆け出した全田一は、二階の客室へとつながっている階段をかけあがり、千万太にあてがわれている部屋のドアを叩いた。
「鬼頭さん、千万太くん、起きてたら返事して下さい」
すぐ後ろから等々力警部補がやってきて、同じようにドアの外から呼びかけるが、やはり何の反応もない。
事態を把握した青沼支配人は、フロントから合鍵をもってきて、ようやくドアが開いた。最初に足を踏み入れたのは等々力警部補だった。あたりに足跡などの形跡がないか注意しながら、部屋の中に入っていく。全田一は青沼支配人に誰も中に入らぬよう見張りをしてもらい、次いで自らも室内の捜査を始めた。
部屋の中は、確かに昨晩は誰かがいただろう痕跡が残っていた。窓際に設置されているテーブルセットには、空のグラスと飲みかけのビール、そして無造作に転がっていたボールペンがあった。
全田一は、そのボールペンに異常なまでの関心を示した。するとその様子を不思議そうに見ていた等々力警部補が声をかける。
「全田一さん、何か気になりますか」
すると全田一は当然のように、
「ボールペンがあるんですよ。この相棒がどこかにあるはずなんです」
「相棒とは?」
「ペンがあるんですから、相手はメモ書きかなんかでしょう。まさか、ボールペンがマドラーの代わりになったとは思えませんからね」
そういって全田一は食器棚の中に設置されている水割りセットのマドラーを指さした。それを聞いた磯川警部はメモが書かれたであろう紙片の捜索を、自分はこの部屋、等々力警部補には寝室の捜査を指示した。
全田一もリビングや寝室以外の部屋を捜索してみたが、結局のところなにも見つからなかった。
磯川警部は、食器棚にあるグラスを確認していたが、全田一の方を振り返り、
「もしかして、もうひとり他に誰かいたかもしれませんな。グラスは一つしか残っていませんが」
「そうですね。その可能性はありますね」
そんな会話をしている頃、全田一はドアの外が何やら騒がしいことに気づいた。等々力警部補が慌てて部屋の外に出ると、佐清と青沼支配人が何やら押し問答をしているように見えた。等々力警部補がどうしたのかと佐清に尋ねると、ものすごい慌てた様子で、
「ち、ち、千万太くんが、が、れ、れ、冷凍庫にい、い、られて、て、て・・・」
ロレツが回っていないので、はっきりとわからない。
「千万太がどうしたって?」
「い、い、いいから、レ、レストランに来てください」
佐清は等々力警部補の手を取ると、一目散に階下へかけおりていった。
佐清に連れられてレストランに戻ると、そこには白蝋のような顔をした諏訪弁護士や古舘会計士、音禰、それと給仕スタッフ達が硬直して立っていた。
諏訪弁護士は黙ってレストランの厨房を指さした。等々力警部補が中に入ると、コックの一人が大きな冷凍庫の前でしゃがみ込んでいた。そして等々力警部補の顔を見ると、冷凍庫の中を指で示しながら、何やら大きな声でわめいている。
等々力警部補が冷凍庫の中をのぞいてみると、そこには歪んだ顔の形相の千万太が体を折り曲げるようにして凍りついていた。しかも、その体にはいくつもの白い花がちりばめられていた。
「こ、こ、これは」
等々力警部補も思わずどもるほどの悲壮な姿である。
そのあと、全田一や磯川警部も厨房までやってきて冷凍庫の前の悲惨な状況を見て、ううむと唸るしかなかった。
磯川警部から連絡を受けた県警新見署の連中は、一時間後にはぞろぞろと集まってきて、現場検証を行っていた。
検死を行ったのは倉敷医大の目賀重亮教授である。中国筋では法医学の権威といわれるその人であり、さすがに飛鳥グループ関連の事件だけあって、県警も大いなる配慮に抜かりない。
先日に引き続いて飛鳥会館の一階会議室を捜査本部として対策会議を開き、本多教授から検死の報告を受けた。目賀教授が述べた内容は次のとおりである。
「もちろん、解剖してみんと確実なことは言えんが、死亡時刻は昨夜の九時から十時ごろで、死因は絞殺ですな。凶器は細いロープのようなもの。もちろん、冷凍されたのは殺害されたあとじゃな」
磯川警部は他の外傷の有無について聞いてみたが、他には無いという回答だった。
続けて警部たちは鑑識の報告を聞いた。
「現場に争った後はなく、犯行現場は別だと思われます。なお、冷凍庫に入れられたのはほんの数時間前と予測されます。まだ完全に凍っていませんから」
等々力警部補は遺体のそばに落ちていた白い花について尋ねた。
「あれは白菊ですね。どこから調達したのかはわかりませんが、調理場にはありませんでしたから、犯人が持ち込んだものと思われます。それと遺体のそばにテープレコーダーが見つかっています。それに接続されていたイヤホンが被害者の耳とつながっておりました。再生してみたら、高頭俊作が殺されたときにベッドルームで見つかったものと同じ横笛の曲が演奏されました。さらにポケットの中にはメモ用紙が入っていました」
全田一は鑑識から磯川警部に手渡されたメモ用紙を奪い取るように手にすると、ゆっくりとひろげてみた。そしてそこには『午前二時 老婆の指示』とだけ書かれてあった。
ホテルの宿泊者台帳と照らし合わせた結果、それが千万太自身の文字であることが判明すると、磯川警部は電話を掛けながらのメモであろうと結論付けた。全田一もその説に反対はなかった。
しかし、またもや余分なものが残されている。元来、何も証拠を残さぬように現場を立ち去るのが犯人の行動である。果たしてそれは犯人が持ち込んだ物なのか被害者自身が持ち込んだ物なのか不明な点はあるけれど、今回についてはあからさまに遺留品が残されているのである。すると等々力警部補がつぶやいた、
「老婆とはいったい何者なのかね。それに不可解なのは長袖と塩水、そして冷凍庫と白菊。一体何の判じ物なんでしょうねえ」
その言葉に反応したのは全田一だった。
「等々力さん、今の後半、なんとおっしゃいました?」
「いや、不可解なのは長袖と塩水、そして冷凍庫と白菊。一体何の判じ物なんでしょうねえと」
等々力警部補は先ほどの独り言をオウム返しするように口にした。
すると全田一は、急に頭をかきむしりはじめた。
「ああ、何か聞いたことがある。長袖と塩水、冷凍庫と白菊・・・長袖に塩、冷凍と白菊。ああ思い出せない。磯川さん、これはきっと何かありますよ。もう一度あの色紙を研究してみる価値がありそうですね。それと手毬唄と。手毬首塔というのはまだ見つかりませんか。そこに謎を解くカギがあると思うんですよ。雀は三羽いたのですから。あともう一羽の判じ物があるはずです」
磯川警部は、等々力警部補に新見署を上げて山の中を探索するように命じた。さらには、色紙に書かれてあった句の内容と手毬唄を知る人物の探索も同様に命じた。
はっきり言って捜査当局は行き詰まっていた。いまだに手毬唄の謎も色紙の句の解読もままならない状態であった。さらには、三人の候補のうちすでに二人が被害者となっている。加えて古坂史郎の行方もわからないままである。
それでも関係者をあたって、一通りの聞き取りは行わなければならない。磯川警部、等々力警部補、出川刑事そして全田一の面々は、那須ホテルに赴き、まずは関係者一同に、しばらくは那須ホテルから出ないように要請した。
諏訪弁護士や古舘会計士は事務所の用事もあったが、連続殺人事件とあってはやむを得ないと腹を据えた。音禰も学校の授業はあったが、まさか主賓が座をはずすわけにもいかないのは百も承知である。困ったのは佐清だった。
「一応、一週間の休みはもらったが、それ以上は困るな。それに殺された連中がみんなお嬢さんの婿候補やろ?次に狙われてんのがボクなん?警察は守ってくれるんかいな」
さすがに目前で次々と人が殺されていては、恐怖を感じるのも仕方のないこと。磯川警部は、万全を期して警護することを約束した。しばらくは、自分の部屋からは出ぬようにと忠告し、部屋の前には警備を置いた。
そして最初の事情聴取の相手として、第一発見者である厨房のコックを選択した。そのコックは鵜飼章三といって、いつもは新見市内の飛鳥グループのレストランでサブチーフを務める男だった。この日は、連泊されるであろう客人たちのディナーを用意するために、その食材として冷凍して保存されていた鹿肉を解凍するために冷凍庫を開けたのである。そのとたん目の前に転がっている鹿肉ならぬ死体を発見し、腰を抜かして動けなくなったというのが顛末らしい。
続いて音禰の聴取を行う。今日も警察の相手をしなければいけないのは、若き乙女にとっては苦痛極まりないものだろう。しかしながら、音禰はその試練に耐えなければならなかった。
またぞろ出川刑事とテーブルを挟んでの問答となる。
「さて、お疲れのところ恐縮ですが、しばしご協力下さい。まずは、昨夜二時から三時までの所在確認をしたいのですが」
「その時間は、疲れていたこともあって、部屋で寝ておりました。誰とも会いませんでしたので、音禰にアリバイなし、とでもお書きください」
「いやいや、何も疑ってる訳じゃないんです。皆さんにひと通り聞くことになってるマニュアルみたいなものと考えてください。そして、朝までおひとりでしたか」
音禰は一瞬躊躇したものの、
「ええ、朝まで一人でした。一度も目が覚めませんでしたわ」
「よほどお疲れのだったんですね。それで今朝、下のレストランに来られて・・・」
「ええ、そうしたら千万太さんがおられなくて、あとは皆さんがご覧になった通りです」
すると全田一は、
「それで、我々がレストランを出ていった後の様子を聞かせて下さい」
「私はあまり食欲もなくただじっと座って様子をうかがっていたのですが、佐清さんはお腹がすいてるからと、トーストをかじりはじめました。諏訪さんも我々もと言いながらフォークを持ったところまでは覚えておりますが、それ以降は・・・」
「その後厨房が騒がしくなったと聞きましたが」
「そうですね。誰かが大声で叫んでいました。それを聞いてテーブルにいたみんなの声がした方に駆け寄ってみると、一人の方が座り込んで冷蔵庫か冷凍庫かわかりませんでしたが、その前で叫んでおられました。古舘さんは私には来るなと言う仕草をして、諏訪さんと二人で見に行かれました」
「二階に我々を呼びに来たのは佐清くんでしたが」
「佐清さんも何が起こっているのか想像は出来ていたようで、諏訪さんが佐清さんに警察の方を連れてくるように言って、それで駆け足でレストランを出て行かれました」
全田一は少し考えていたが、
「他に何か気づいたことはありませんか」
音禰もしばらく考えていたが、
「そういえば、諏訪さんが小さな声でぼそっとつぶやかれていました。何て言ってたかな。確か、きちがいだがしかたない・・・とか」
全田一はその言葉に妙に反応した。
「きちがいだが?きちがいだからじゃなくて、きちがいだがって言ったんですか」
「確かそうだったと思います。私の聞き違いだったかしら」
磯川警部は全田一に、
「だがとだからでそんなに違うんですか?それにきちがいらしき人物がいますか?」
「磯川さん、だからこそ『てにをは』が重要なんですよ。やはりこれはいち早くあの色紙の文言を解読する必要がありそうですね」
結局音禰は三島東太郎の訪問を隠したままで聴取を終えた。
次に諏訪弁護士を呼んでくるようにお願いし、しばらくここに逗留するよう要請した。
諏訪弁護士は部屋に入り、椅子に座るとあたりを見渡し、ご苦労さんと挨拶すると、神妙に聴取を待った。出川刑事は丁重な口調で質問をはじめる。
「まずはひと通りアリバイを聞きたいのですが、昨夜の二時から三時にかけては何をされていましたか?」
すると諏訪弁護士は答えを用意していたかのように、
「昨夜は古舘さんと色々と打ち合わせをしていましたよ。顔合わせ会が終わった後のことやお嬢さんの身の振り方などを。そのあとは二人とも寝ていたと思いますが」
「それはどちらで?」
「言いそびれていたかも知れませんが、我々はこの村の出身ではありません。そんなに遠くはありませんが、地元の家までの往復時間を考えると、あまり合理的ではありません。そこで我々はいつもこの村に用事がある時は那須ホテルに泊まるのです。全田一さんには離れの和室にお泊まりいただいておりますが、ワシらは一階の一番奥に、そう、丁度お嬢さんがお泊まりなっている部屋の真下に二つ部屋がありましてな、そのうちのツインの部屋を使わせていただいております」
「つまり、昨晩は那須ホテルにいたということですね」
「そういうことになりますな。昨晩も一昨晩も」
「ホールでの出来事の後、あなた方は鬼頭千万太を探そうとなさいましたか」
「なぜそのようなことを聞かれるのか不思議ですが、警察の方々が探されるだろうと思っていましたし、翌朝七時のことは、晩餐会が始まる前に伝えてありましたので、翌朝には出て来られるだろうと思っていました」
次に、磯川警部にバトンタッチすると、
「質問を変えましょう。千万太くんの遺体には白菊が散りばめられていたのですが、このことについて何か思い当たることはありませんか」
「さて、わかりませんな」
すると全田一が割り込んできて、
「長袖と塩なんです。もう一つは冷凍と白菊なんです。なんか関わりがあるように思うのですが、わかりませんか」
「まるでなぞなぞですな。私らみたいに頭のかたい者が解けるような問題じゃなさそうですな」
全田一は続けて問いただす。
「諏訪さんは、我々が千万太くんの部屋を確認している時、何やら暗示めいたことをおっしゃられましたね」
諏訪弁護士はなにやら不審な表情で、
「うん?なんのことかな」
「音禰さんが聞いたらしいんですよ。きちがいだがしかたないというような意味を」
諏訪弁護士はしばらく考えていたが、ため息をついて、
「いや、とんと思い出せませんな。思い当たることもありませんが。古舘さんとお間違えになったのでは」
あまり納得した感じではなかったが、全田一はこれ以上はと思い、引き下がった。
「最後にもう一つだけ伺いますが、飛鳥家の三種の神器である斧琴菊の菊は白菊のことではありませんか」
「はて、特に白菊でなければならんとは聞いたことはないが?」
「その斧琴菊はいまどちらに?」
「それならば、私の事務所で預かっておりますが」
「それは誰でも持ち出せますか?」
「いいえ、私と一柳という副所長しか金庫をあけられませんからな」
「堀井さんならばどうです」
「なにゆえの疑問かわかりませんが、我々二人以外の者が金庫を開けるには、鍵を壊さない限り無理でしょうな」
これ以上は何もヒントが得られそうになかったので、続いて古舘会計士に話を聞くことにした。
古舘会計士はキッと目の前の出川刑事を一目すると、
「もう二人もやられましたな。早いこと犯人を捕まえてもらわんと、次は佐清くんが危ないんと違いますか」
すると出川刑事は前のめりがちに、
「なぜそう思われますか」
古舘会計士は、当然でしょうと言わんばかりに、
「音禰さんのお婿さん候補三人のうち二人までがやられたんですからな。そんなことぐらい、今どきの小学生でも考えよりますて」
「ところで昨晩は諏訪さんと一緒だったそうですね」
「ええ、今後の打ち合わせやらなんやらで」
「ご就寝されたのは何時ごろでしたか?」
「あそこの部屋はツインベッドがありましてな。諏訪さんは嗜むクチじゃが、私は下戸でな、ビールを一杯も飲めばたちまち眠くなる。昨夜もコップに注がれたビールをちびちびやりながら話しとったんじゃが、そのうちすこぶるねむうなったでのう。先に休ませてもろうた。時計を見たわけじゃないが、かれこれ十時は回っとったんじゃなかろうか」
「ビールの用意はどなたが?」
「そりゃ諏訪さんが冷蔵庫の中から。しかし、ビールの一本や二本、各部屋に備え付けてある冷凍庫に入っとるぞな」
確かに各部屋には冷蔵庫、テレビ、食器棚、洋服ダンスなどから設置されており、いちいちボーイを呼ばなくても、不便なく過ごせるようになっている。
すると全田一が乗り出してきて、
「音禰さんから聞いたんですが、我々が二階の千万太くんの部屋を調べている時にレストランの厨房で千万太くんが死体で発見されましたね。そのときに、諏訪さんがきちがいだが仕方がないというようなことを口走ったらしいのですが、あなたはどうです」
古舘会計士は首をかしげながら、
「さて、わかりませんなあ」
「諏訪さんは、古舘さんが言ったんじゃないかとおっしゃったんですが」
すると古舘会計士は即座に断言した。
「いいえ、私ではありませんし、その意味もわかりませんな。キチガイって、誰もそんな人なぞおりませんがな」
こうしてなんの成果もなく、捜査は暗礁に乗り上げたまま、古舘会計士までの聞き取りが終わったのである。
最後に佐清を呼んで話を聞くことになった。
佐清はかなり神妙な様子で、まるで雨の中に捨てられた仔犬のように小さく震えていた。そしていささか咎めるような口調で訴えた。
「刑事さん、次はオレなのか?みんなそう思ってるんやろ?なんとかならんのか?はよう犯人を捕まえてえな」
すると出川刑事はじっとにらむように、
「いや、もしかしたらキミが犯人じゃないのか。昨日の夜は何をしていた?」
「なんでオレが犯人なんや。狙われてるんはオレやろ?」
「しかしねえ、これでライバルがいなくなった訳だし、一番有利になったよね」
「あのな、そんな危ない橋を渡らんでも、他の奴らより自信あるし。そうか、オレをこういう事態に追い込んだら、オレが候補を辞退するとおもてんのかな。それやったらそいつの思うツボやな。よっしゃ、意地でも降りひんで、ほんでもってあの子に気にいられるよう奮起したんねん」
「おいおい、あんまり突飛な行動は謹んでくれたまえよ。まだ疑いがはれたわけじゃないんだから」
と磯川警部がたしなめると、
「わかってます。せやからボクの身辺警備、よろしゅうに。容疑者かもしれんから、目を離したらあかんで。これでオレは安心やな」
全田一はニコニコしながら、話しかける。
「佐清くん、あのお嬢さん、綺麗だね。過去にどこかでみかけたことある?」
突然妙な方向へ話が向きだしたので、呆気にとられる佐清だったが、この質問には磯川警部や等々力警部補も驚いた。
「え?いや、しらんなあ」
佐清は随分と過去を遡って、記憶の中にある音禰の印象を探してみたが、いっこうに思い出せなかった。
「ホンマに会ったことあるんですか?ボクと音禰さんは」
全田一はずっとニコニコしたままで、
「ちょっと思いついただけなので、ボクの思い違いだったらごめんなさいね」
すると横から等々力警部補が、
「そんな形跡があるんですか。そういえば全田一さんは三人の居所探しに協力されてたんですね。その途中で何かそんな兆しがあったんですか?」
全田一はボリボリと頭をかきながら、
「ホントに思いつきなんですが、でも佐兵衛翁が縁もゆかりもない彼らを大事な一人娘の結婚相手として選択しますか。普通はありえないです。従って、佐兵衛翁と三人の候補者にもどこか接点があるはず。というのがボクの考えなんですがね」
すると佐清は何かを思い出したようだ。
「そういえばボクがまだ小さい頃、おふくろから聞いたことがある。そんときに岡山から出てきた話はしてたと思うけど、女の子の話はなかったと思うな。やっぱ会うたことないんちゃうかな」
全田一は佐清が話しをしている間中、ずっと頭をかきむしっていたが、
「佐清くんの警護を手厚くお願いします」
そう言って佐清を部屋まで送るよう等々力警部補に依頼した。等々力警部補は、新見署の警官に警護の人数を増やすよう支持し、佐清は迎えにきた警官に抱えられるように部屋を出た。
全田一は出川刑事に、
「一刻も早く手毬首塔を探しましょう。それが事件解決の近道ですよ、きっと」
すると出川刑事は、頭をかかえながら、
「しかし、色紙の文言は判読せにゃならんは、塔は探さにゃならんは、手毬唄も探さにゃならんは、古坂史郎もまだ行方しれずだわって、人手がナンボあってもたらんぞな」
全田一は、まだ頭をかきむしりながら、
「塔と手毬唄はセットで解決しますよ。色紙の文言は、早苗さんに聞けばなんとかなるかもしれません。こっちのことばかりで本家のことを忘れてましたが、あっちにも参考人になる人はたくさんいますよ」
「で?古坂史郎の方は?」
すると全田一の動きが止まる。
「まずは生きているのか、それとも・・・」
驚いたのは等々力警部補である。
「まさか、もうやられてるってことですか?」
「いや、あくまでも可能性の話です。でもあなた方は生きてる人間しか探してないですよね」
全田一の言葉に驚愕するも、確かに生きている人を探す場合とそうでない場合は探し方が異なる。しからば捜査方針も変更を余儀なくされてしまう。
磯川警部は、午後からの捜査について、飛鳥家本陣へ出向く班と手毬首塔を探す班に分けて行うこととした。
これで全員の聞き取りが終わったはずだが、全田一は動こうとしない。どうしたのだと磯川警部が尋ねると、
「まだ堀井さんの聴取が終わっていません。今日戻るんでしたよね。もう少し待ちまちたかったんですがね。しかし、そろそろ昼どきですな。我々も腹ごしらえをしようじゃありませんか」
と言うと、碇を下ろしていた重い腰を上げ、今度は先陣をきってレストランへと向かう。するとそこには早苗が待ち受けていた。早苗は諏訪弁護士などから聞いていたのだろう。全田一らの一行を見ると、丁寧にお辞儀をした。そして磯川警部に対し、
「音禰がえらい世話になっとるようで。申し遅れました。飛鳥早苗でございます」
全田一も早苗と対面するのは初めてだった。
全田一が早苗の印象について、後にこう語っている。
「おだやかな表情ながら、真の強さと思慮深い大らかさを感じる女性。音禰さんは早苗さんを見て育ってきたのだろう」
事実、音禰は早苗に育てられた箱入り娘である。良くも悪くも早苗が鏡となっている。
早苗は一行を奥のテーブル席へ案内すると、
「えらいことになっとるみたいですなあ、なんでも音禰の婿さんになるやもしれん人が、立て続けに殺されたとか」
すると出川刑事が疑わしそうな目つきで、
「奥さんとこへはどんくらいの話がいってますかな」
早苗はひょうひょうとした感じで、
「うちへは清水さんが逐一報告してくれはるんで、まあだいたいのところは」
清水巡査には本陣への連絡をしておくよう、等々力警部補が指示していた。これは後に訪問するだろう際に、あらかじめ地元の警官からの報告があった方がいいだろうという考えからだったが、おおよそ間違いではなかった。
「まずはお昼をお食べんさい。お話は後でじっくりとうかがいますぞな」
「それもそうじやな。まずはお言葉に甘えよう」
磯川警部がまずは席に着くと等々力警部補、出川刑事、そして新見署の警官たちがあとにつづく。全田一はというと、早苗のそばにゆき、
「昨日、今日、音禰さんにお会いになりましたか?」
と聞いた。
すると早苗は答える前に、
「もしやあなたが全田一さんかしら。諏訪さんからええ男じゃと聞いとります」
早苗からの意外な答えにやや翻弄しかけるも、
「まいりました。賢明な方ですね。ところで音禰さんとは?
早苗もニッコリうなずき、
「失礼いたしました。まだ音禰とは会うておりません。朝の出来事以来、ホテルの部屋で伏せっていると聞きましたが」
「心配ではないんですか?」
すると早苗は急に厳しい目になり、
「これから飛鳥グループを背負ってもらわねばならん身、これぐらいの事でへこたれるようじゃ、先がもたんぞな」
とは手厳しい見解である。
「まあ、まずはゆっくりお昼を召し上がれ」
一同は早苗の心づくしに甘えることとなった。
そのころ音禰の部屋では、小さな息遣いが不安におののいていた。佐清と違って、あからさまにターゲットになっているわけでないはないが、急激に起こる事件に気持ちがやや逃げ腰になっていた。
それよりも、高頭俊作や鬼頭千万太が自分に関わりを持ったせいで殺されたのだとしたら、自分にも責任があるのでは・・・と。
一時間ほど前、佐清が見舞いに訪れたようだが、気分がすぐれないとして、面会を断った。これ以上自分と関わりを持つことで佐清が危険な境遇にさらされるのなら、いっそのこと会わない方が良いのではとも考えた。
そんな弱い気持ちのまま、ベッドでうずくまっていたそのとき、ドアのロックがガチャリと開く音がした。スッとドアが開いて、そこに現れたのは三島東太郎だった。
東太郎はゆっくりと音禰に近づき、ベッドに腰掛けた。
「お嬢さん、どうしました?」
優しくかけた言葉に、ぬくもりを感じた音禰はとっさに東太郎に抱きついた。
東太郎は音禰の体をベッドに押し倒し、口づける。さらに横暴な手は音禰の寝巻きを全てはぎ取り、白く美しい肌を露出させた。
「誰か来たらどうするの」
不安気に音禰が尋ねると、
「みんなお昼を食べに行ったさ。早苗さんがしばらく相手をしてくれるよ」
そういうと、東太郎は再び唇で唇をふさぎ、さらには自らも素肌をさらす。
音禰はいけないことをしているという不倫感はあるものの、東太郎に対する恋心までは否定出来なかった。
熱い吐息とともに二人はまたぞろ深い想いに落ちていく・・・。
想いを果たした東太郎は、肌のものをつけながらも音禰を勇気づけようと言葉をかける。
「もうボクはキミなしの人生は考えられない。今のキミの境遇は理解しているつもりだが、我慢強く待ってほしい。佐清はそのうちきっとあきらめるさ。誰もが命は惜しいからね」
音禰は東太郎に振り向き、
「まさか、あなたがあの人たちを」
東太郎はそっと音禰の肩を抱いて、
「まさか・・・、ボクの知らない出来事だよ。そんなことより気を確かに、いつものキミらしく気丈な音禰でいるんだよ。また様子を見に来るから。それよりもまずは、あの全田一と対決しなきゃな。そろそろ昼どきもおわりそうだ、キミも着替えて颯爽とみんなの前に登場するんだよ。早苗おばさんもその方が安心するだろうからさ」
「東太郎さん、あなたは東太郎さんよね」
「うん、いまは東太郎でいいよ。いずれは本名で堂々と名のれるようになるさ」
それだけ言うと、ベランダへ続くドアを開いて出て行った。ここは三階だというのに大丈夫なのだろうか。
しかし、音禰はもうそんな心配はしない。「だって彼はスーパーマンなんだもの」
すでに音禰の中の東太郎はそういう存在になっていた。
さあ、東太郎が言ったようにいつまでも塞いでいるわけにはいかない。音禰は気を取り直してワンピースに着替える。今日は思い切って赤を主体にしてみよう。ブルーのベルトとカチューシャを身につけて、精悍さを強調した。
部屋を出ると、目の前に廊下がありその先に階段がある。階段には複数の警官が警備にあたってくれているようだが、東太郎はこのいくつもの目をどうやって掻いくぐって来たのだろう。確かに彼はこのドアから入ってきたはず。不思議には思ったが、そのことは今度会ったときに聞けばよい。そう思って階段を一歩ずつ降りてゆき、二階の佐清の部屋の前で立ち止まると、ドアの前の警官に一礼し、彼らがオロオロするのを尻目にドアをノックした。
「佐清さん、お昼にまいりません?閉じこもっていてもしかたないわよ」
音禰がドアの外から声をかけると、すぐさま中から佐清が顔を出した。
「やあ、キミの方から声がかかるとは思わんかったな。すぐ用意するから、ちょっと待ってて」
佐清は寝巻きを着ていたわけではない。ポロシャツに薄手のジャケットをはおうだけである。まさか、ドレスコードがあるわけではないので、タイの着用は不要だ。
佐清は候補として一人残った自分を奮い立たせるチャンスだと思った。すこしでも気にしてくれるなら、まだ望みはあると。
「お待たせ」
そう言って、すっと腕を差し伸べた。
音禰はそれを笑顔でかわす。
「私たち、まだそういう関係じゃありませんわ」
佐清は、苦笑いで誤魔化しながら、
「ちょっとフライングやったかな。リズムでのってくれるとおもたんやけどな」
それでも並んで歩く様子はまるで同級生の下校の様子を見ているようだった。
レストランに着くと、ちょうど警察連中の食事が終わったところだった。すれ違う前に二人を見つけた全田一は気軽に声をかけた。
「いや、音禰さんたちはこれからですか」
といい、磯川警部を振り返った。
「じゃあ聴取は早苗さんから始めることにしますか」
磯川警部と全田一は、テーブルを立ち、再び会議室へと足を運んだ。
音禰と佐清がレストランの中に入り、テーブルにつこうとしたとき、奥から早苗が出てきて、まずは音禰の前に立ち、ぎゅっと抱きしめた。
「よう頑張って出てきたな。お使いさんが降りて来てくれはったか?」
音禰はなんのことだろうと思ったが、
「昔から飛鳥家に危機が訪れるとき、手毬首塔のお使いさんが来て、手を差し伸べてくれるっていう言い伝えがあるんやけど、ちごたかな」
音禰の頭の中には東太郎の姿が浮かんだ。
「うん、しっかりしろって言ってくれた」
早苗は佐清を見ると、
「あんたは?」
と聞いた。早苗と佐清は初対面である。
佐清はちょっと緊張した感じだったが、さすがはバーテンダー、持ち前の陽気さで自らを売り込む。
「この度はご招待いただきましてありがとうございます。犬神佐清と申します。音禰さんと仲良くなれるようがんばります」
何をどう頑張るのかはさておいて、早苗はこのとぼけた青年を心から歓迎した。
しかし、実際の状況は、必ずしも良いとは思われなかった。なぜなら、三人いた候補者がすでに一人になってしまっているのだから。これでは音禰に選択する余地がなくなってしまう。なのに、なぜ音禰も早苗も平然としていられるのだろう。
二人で来た都合上、音禰は佐清と二人でランチをとることになった。
音禰は東太郎をお使いさまに仕立て上げ、とりあえずは彼のいうことを信じることにした。
それにしてもよく考えたら、東太郎との情交の痕跡がまだ自分の体内に残っているのだと思うと、佐清を前にして多少恥ずかしかった。
しかし、父佐兵衛の遺言を守るためには、この佐清と結婚しなければならないのか、もはや自らの身は東太郎のものとなってしまっているのに。
佐清にとってはチャンスとばかりにしゃべりまくる。わかってはいるものの、気が乗らない音禰は返事が曖昧になる。
「音禰さんは飛鳥の家をどのように動かすつもりですか」
「そんなこと、まだわかりません」
「新しく新見の町にレストランを作りませんか」
「まだ何も考えていません」
「まずはデートに誘ってもいいですか」
「まだ大学の研究も終わっていませんので」
「遺言どおりだと、結婚相手はもうボクしか残ってませんが」
「はあ、急にそう言われても。もう少し待っていただけません?」
と、こんな調子である。
取調べを行う部屋では、磯川警部から早苗を連れてくるようにとの命令を受けた出川刑事が部屋を出ていった。その出川刑事とすれ違いざまにドアをノックして入ってきた人物がいた。堀井敬三である。全田一をはじめ、一同は大いに驚いた。忘れていたわけではないが、まさか自分からやって来るとは思わなかったからである。
「どうぞ、どうぞこちらへ」
全田一は進んで歩み寄り、椅子へと案内する。
「昨日は急に事務所へ行くように親方に言われたものですから、でもボクにも聞きたいことがあるって聞いたので、自ら参上した次第です」
全田一は屈託のない笑顔で、
「いやあ、あなたみたいに積極的に協力していただけると助かります。では、早速ですが、事務所の急用って、今回の事件に関係のあることでしょうか」
すると堀井は冷静な顔で答える。
「事務所の登記の件ですよ。親方から聞いていませんか」
全田一は諏訪弁護士から聞いていた彼への用向きを思い出した。
「そうでしたね。今日はいつこちらへお着きになりましたか?」
「お昼頃ですかな。親方に報告がありましたから、それを先に」
すると全田一は、より核心に触れる。
「あなたは、ここに来る前にも高頭俊作、犬神佐清、鬼頭千万太の三人に会ったことがありませんか?」
「いいえ」
「あなたは岩下三五郎氏にお会いになったことは?」
「いいえ。それはどなたです?」
堀井は恐ろしいほど落ち着いていた。際どい質問にもピクリともしない。
「では、早苗奥様にお会いしたことは?」
「それもありません。親方からは色々と話を聞いてはおりましたが、こちらに来るのは今回が初めてです」
「鬼頭千万太くんが殺されたことは?」
「親方から聞きました」
なかなか尻尾を見せない相手に、やや困惑しかけたが、次の質問にやや反応があった。
「古坂史郎、どこかで見かけませんかねえ」
「さあ、知りませんねえ」
受け答えだけ聞けば、まさに柳に風と言ったところだが、全田一はそこで質問を終えた。
「ボクからは以上です。あとは磯川さんたちにお任せします」
そう言って後ろへ下がった。
磯川警部たちは、一昨日や昨日のアリバイや、手毬唄のことなどを聞いてみたが、やはり何の手応えもなかった。
続いて早苗が呼ばれたが、齢七十と思われぬ達者な足取りである。案内された椅子に座り、さあなんでも聞いてござれとばかりに身構えた。
全田一は、率直に聞きたいことをストレートに質問した。
「我々が困っているのは、遺言状に付録されていた三枚の色紙なんですがね。これ、お読めになれませんかねえ?みんなの話を聞くと、奥様も読めないと伺ったのですが、念のため」
早苗は、三枚の色紙を手に取ると、
「はあ、これは兄さまが晩年、ずっと枕元に据えてあった色紙ぞな。いつのまにやらなくなっておって、どこへやったかと思うておったに、遺言状にはさんであったとか。あのときは音禰のことが心配で、それどころやなかったもんやけん、私も読めぬと言うて放っておったが、兄さまからは一応聞いておるぞな」
そして一枚目からおもむろに読み始める。その三種の句は次の通りである。
かささぎの 身を白菊に 初霜かな
むざんやな 冑の衛士の 夜は燃え
一つ家に 汐干に寝たり わが袖は
全田一はそれを聞いたとき、またもや頭をボリボリとかきむしりながら、
「さ、さ、早苗奥様、それらの句のい、い、意味はあるんですか?」
すると早苗は、少しも慌てることなく、
「全田一さんでしたか、私も兄から何度か聞かされておりましたので、読めることはかないますが、その意味までは聞いておりません。ただ、天井の絵を見て思いついたというとりました」
全田一はやっとわかったのである。塩と袖、正確には汐と袖。そして冷凍と白菊、これも正確には霜と白菊なのである。
「なぜ最初の被害者が塩水に浸かっていたか、なぜ千万太君が冷凍庫に入っていたか、これでわかりますよね」
すると出川刑事が憤慨したように全田一に突っかかる。
「だったら何でこんなややこしい殺し方をしなきゃならねえんです?それに残りはどうやって殺されることになるんです?」
「残念ながら、そこまではまだ。少なくとも佐兵衛翁の遺志が働いていることは確かでしょうね」
ようは其角や芭蕉の句に百人一首の歌をミックスさせた言葉遊びなのだ。しかして、この判じものがいったい何を意味するのだろう。それがわからなければ、句の謎が解けたとはいわない。全田一はますます迷路の奥へと入り込むのである。
そのころ音禰は佐清に捕まったまま、なかなか離してもらえずにいた。今度、大阪か神戸で会おうとか、関西まで一緒に帰ろうとか。しかし、佐清の心情もわからないではない。自分さえ佐清との結婚を肯んじさえすれば、彼は一国一城の主になれるのである。
だからこそ、音禰は佐清と二人だけになることを避けた。彼とて若き血潮がたぎる若者なのである。間違いが起こらないはずもない。事実、東太郎もそのような行動に出たではないか。
「佐清さん、お昼が終わったら、学校の試験勉強をしようと思ってましたの。学期が始まるとすぐに試験があるものですから」
佐清もさすがに勉強のことと言われると、ぐうの音もでなかった。まさか、音禰に薬学に関する学術を教授できるわけもない。
「仕方ありませんね。また、夕食時に。今度はボクがお迎えに上がりますから」
やっと佐清の手から逃れると、部屋に戻り寝室に設置されている鏡台の前に座ると、どっと肩から力が抜けた。中学高校と一貫の女子高に通い、大学に入っても茶道のサークルに所属していた音禰は、異性との交流は授業や研究室以外ではほとんどなかった。そんな彼女がいきなり複数の男性を相手にお見合いのような経験をしているのである。さぞ多くの神経を使っているのであろう。
さらには東太郎との関係もある。一気にかけ上った階段に息切れしている自分を鏡の中に見つけると、またもや大きくため息が出るのである。
「お父様の遺言、あの三人じゃなくて東太郎さんの名前があったらよかったのに」
そんな独り言をつぶやきながら、ベッドに倒れこんだ。
ランチ後の昼のひととき、誰もがそうであるように、音禰もまた睡魔に襲われる。学校の試験があるのもうそではない。試験勉強しなければならないのも事実である。しかし、今はそんなことを考えるもの億劫だ。
叔母の言っていた『手毬首塔のお使いさん』。音禰にとっては東太郎なのだろうか。次はいつ現れるのだろうか。会いたい、そばにいてほしい。そういう対象として考えるようになっていた。
あの夜、東太郎と交わした熱い抱擁を思い出しながら目をつむると、東太郎の笑顔が思い浮かぶ。
「ああ、東太郎さん」
しかして、音禰には自らの運命と個人の恋愛とを天秤にかける勇気もなく、父の遺言状に従うしかないと思っていた。そんな自分がいじらしくなり、瞳からは一筋の涙がつたう。
結果的に音禰は睡魔との戦いには勝てなかった。
午後の泡沫のひとときは、そっと音禰を包んでいった。
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