第5話 ―堀井敬三と三島東太郎―
全田一たちが那須ホテルを離れる少し前、飛鳥会館の中庭にある噴水の中央にそびえ立っている柱時計の時刻は午前十一時半を指そうとしていた。
会食に用意されたテーブルでは、テラスから大きな日よけのようなテントをいくつも並べてあり、まだ容赦ない陽射しからの攻撃を防いでくれている。
諏訪弁護士と古舘会計士は音禰と若人二人を待ち構えるように、テント下の丸い大きなテーブルのそばにある椅子に腰掛け、所在なく紅茶をすすっていた。二人の側にはキリッとした若者が一人遠くを見渡すように立っていた。
「ところで諏訪さん、その方は」
古舘会計士が若者を指差して尋ねた。
「ああ、彼は堀井敬三といって、ウチの所員です。有能な若者ですよ。犬神佐清を探し出したのは全田一さんですが、彼も相当協力したらしいです。今回も私の助手を買って出てくれまして、わざわざ東京から出て来てくれたんです」
「東京から?岡山の所員じゃないんですか」
「ええ、東京事務所の所員なんです」
「人手があるとなにかと助かりますからな。それにしても遅いですな、彼らは」
古舘会計士も堀井にならって中庭の入口の方を向いた。
ちょうどその時、最初に到着したのは鬼頭千万太だった。彼は軽く三人に会釈をしてテーブルに近づいていった。諏訪弁護士も古舘会計士も立ち上がって彼を迎え、古舘会計士の左側の椅子に座るよう促した。するといつのまにか犬神佐清もすぐそばに立っており、挨拶を終えると千万太の左側に座るよう促した。古舘会計士はあらためて自己紹介と諏訪弁護士を紹介し、今回のパーティの目的を語り始めた。
「事前にお聞き及びのことと思いますが、飛鳥グループの総統がお亡くなりになり、遺言状により、後継者の候補として三人の方に白羽の矢が立てられました。残念ながら、その内の一人であった高頭俊作氏は、昨日、不幸な事故にあわれまして、今回のパーティには参加出来なくなりましたが・・・」
そこまで話すと、千万太が話をさえぎった。
「彼は殺されたって聞いたんですが、本当ですか?」
すると諏訪弁護士がややむっとした顔で静かに答えた。
「それはいずれ警察より正式な報告があると思いますが、我々ではなんとも言いようがありません。それよりも話の続きを」
古舘会計士は千万太が落ち着くのを待って、再び話し始める。
「えー、後継者候補と申しましたのは、本来の後継者となるためには、こちらのお嬢さんと結婚していただく事が条件となっているからであります。いささか突飛な仕組みになってはおりますが、いち早くお嬢さまの心を射抜かれた方が、後継者として認められることとなります」
「なんや、かぐや姫の話みたいやな。ほんで、そのお嬢さんはどこにおるん?」
佐清は関西弁でまくしたてた。千万太はその様子を見て、
「やだなあ関西人は。うるさくて仕方ないよ」
「なにを!」
二人が言い争いになりそうになったところで堀井敬三が間に入り事なきを得ると、
「そういった言動や行動もちくいち報告させていただくことになりますよ。せいぜいお利口さんになさって下さいね」
二人をなだめるように諭した。
そこで諏訪弁護士が二人に忠告した。
「本日より三か月のちの今日、お嬢さんがお選びになられた方が、飛鳥グループの後継者となります。あまり言いたくないのですが、すでに高頭氏が不幸なことになられております。お二人とも、ご自分の安全はご自分でお守り下さい。お二人はライバルになるわけですから」
そう言った途端、二人の間には激しい火花がぶつかり合ったように見えた。
正午になる少し前、音禰は萌黄色の薄手のワンピースで現れた。ツバの広い白のハットを頭上に飾っている。いかにも清楚でお嬢様らしい着こなしであった。
後でわかったのだが、音禰が那須ホテルを出て飛鳥会館の中庭に来るまでにちょっとした出来事があったので、そのことを先に述べておこう。
音禰が那須ホテルから飛鳥会館へ来る途中、奇妙なお婆さんに会った。そのお婆さんは、「音禰さん」と名前で呼んだという。名前で呼ばれた以上、人違いではなかろうと振り向くと、海老のように腰の曲がった老婆がいた。その老婆は飛鳥会館を指差して、ボソボソとした低い声で音禰に尋ねた。
「あそこに行けば高頭俊作に会えますかな」
高頭俊作といえば、先日殺された人と記憶していた。まさかそんな人がいるはずもない。関わるのも面倒だと思った音禰は、そのあやしげなお婆さんから一刻も早く離れたかったので、少し冷めた言い方で答えた。
「存じません。お婆さんはどちらの方?駐在さんをお呼びしましょうか」
するとその老婆は、クルリと踵を返すと、割と元気そうな足取りで道の向こうへ去っていった。
その様子は那須ホテルから音禰を見送って出た従業員も目撃していたので、後に老婆の素性を聞いてみたが、誰も知らぬ老婆だということがわかった。
だが、そのときはさほど重要な事とは想いもしなかったので、音禰もみんなには言わずにいたのであった。
場面を飛鳥会館の中庭に戻そう。気乗りのしない音禰が最後の登場人物だとわかったとき、音禰はワンピースの裾を指でつまんで、
「遅くなりました」
ひとこと挨拶して、空いている諏訪弁護士の隣に座ろうとした。そしてそのとき、その椅子を手にしている若者に一瞬、目を奪われた。しかし、すぐに表情を立て直し、何事もなかったかのように振る舞う。
その若者こそ、昨日の夜更けに突然現れて、ある意味鮮やかに自分の唇を奪っていった三島東太郎ではないか。
「ええ、皆さんお揃いになりましたので、お顔合わせの昼食会を始めたいと思います。私とこちらにおりますのが、今回の主催者であります弁護士の諏訪と会計士の古舘さんです。私の隣におりますのが助手の堀井です。何かありましたら、なんなとお申し付け下さい。では、乾杯の前にそれぞれ軽く自己紹介ということでいかがでしょう」
すると音禰がすっと立ち上がり、千万太と佐清に軽く会釈をした。
「今日ははるばる遠くまでおいでいただき、ありがとうございます。私が音禰でございます。まだ神戸で大学に通っておりますので、正直、今すぐ結婚なんて考えていませんが、仲良くしてくださいね」
すると順番など関係ないとばかりに佐清が名乗りを上げる。
「犬神佐清ですっ!大阪から来ました。そんなに近くに住んでるんやったら、いつでも会えますな」
席順でいうと、順番を奪われた格好となった千万太も負けてはいない。
「鬼頭千万太といいます。こんな綺麗なお嬢さんなら、ボクも神戸に引っ越ししてもいいですよ。学校の送り迎えもして差し上げましょう」
二人とも昨日は那須ホテルの一階ロビーに張り付けだったため、玄関からすぐに部屋へ上がった音禰の姿を見ていない。どうせ田舎の地味女ぐらいにしか想像していなかっただけに、音禰の美しさはまばゆいほどに彼らの瞳に焼きついた。これほどまでの美女と結婚し、なおかつ莫大な財産を相続できるのなら、何をおいてもライバルに打ち勝たねばならない。いきおい、競争心が火花を散らすのは必然のことだろう。いささか突然の抗争勃発に慌てた古舘会計士は、二人を諌めにかかる。
「お二人とも節度ある振る舞いをお願いしますよ」
「わかってますがな。でもあんまりお嬢さんがお綺麗なもんやさかい、ボクらびっくりぎょうてんですわ」
佐清は関西弁で親近感をアピールする作戦らしい。しかし、岡山出身の音禰は関西弁を話さない。千万太はそんな佐清の様子を冷ややかに見ていた。
やがてテーブルには和会席の膳が運ばれてくる。給仕は那須ホテルのスタッフが行なっていたが、音禰の膳を運んだのは堀井だった。堀井が近づいて来た時、音禰の体は微かに震え、ちらっと見上げるように堀井の顔を見たが、ニコッと微笑んだだけで何事ないような態度だった。それでも堀井は離れぎわに音禰の手に小さく折りたたんだ紙片を握らせた。音禰も何食わぬ顔ですっとワンピースのポケットにその紙片をねじ込むと、今までと変わらぬ表情で前を向いた。
続いてワイングラスには地元産の白ワインが注がれていくと、諏訪弁護士がグラスを掲げ、
「ちなみにこのワインは、音禰さんのお兄さんである久弥さんの奥さんの実家で製造されたワインです。それではお近づきのしるしに、カンパイ」
千万太は一口飲むとテーブルに置いたが、佐清は一気に飲み干し、おかわりを要求した。
「こら美味いワインやなあ。思わず飲み干してしもたわ。せやけど、こんなんが毎日飲めるやなんて、お嬢さんらは幸せやなあ」
給仕にあたる女中が再びボトルを持って佐清のグラスに二杯目を注いだ。
諏訪弁護士は飲めるクチだが、古舘会計士は下戸である。苦み走った顔をする古舘会計士とは反対に諏訪弁護士は笑ってたしなめる。
「犬神さん、酔っ払っても、誰も部屋まで送ったりしませんから、そのおつもりで」
「ボクもそんなにマヌケじゃないですからご心配なく。それより、お嬢さん、いや、音禰さんは料理がお得意ですか?ボクは大阪でバーテンをやってるんですが、料理だって得意なんですよ。バーテンの前はしばらく板前修行もしてましたから」
馴れ馴れしいのは大阪で培ってきた気質の賜物だろうか、はたして天性のものか。
「犬神くん、少し落ち着いたらどうだい?まるではしゃぎ回る犬みたいだな」
千万太は落ち着いた口調で佐清を牽制する。
「せっかく対面してるんやから、大いにアピールしとかんとな。あとで吠え面かきなや」
そんな二人のやりとりを見ていた音禰であるが、今のところは落ち着いた様子である。
「バーテンさんってかっこいいわね。今度、そのお店に連れてって下さいね。それで、千万太さんは、どんなお仕事をしてらっしゃるの?」
名指しされてうれしくないわけがない千万太は、佐清に負けず劣らず胸を張って話し出す。
「ボクは小さな工場ですが、設計を担当してます。機械の部品ばかりでつまらないですし、毎日夜遅くまで大変です。でも将来は自分の設計事務所を持ちたいと思っています」
「がんばってね」
足蹴にしたつもりはないが、音禰にはあまり興味のなかった世界であり、少し対応が冷たくなってしまった。そのことに気づいた音禰は次のように言葉を続けた。
「私の欲しい天秤ばかりも設計してもらおうかしら」
「よろこんで。小さな機械なら、きっといいものを提供できます」
すると佐清が横から茶々をいれる。
「なんや、キミかておおきに尻尾ふってるで」
千万太は一瞬ムスッとしたが、その言葉で完全に打ち解けた。
「まあ、お互いライバル同士だが、仲良くやろうよ」
「せやな。ケンカしてもしゃあないな」
音禰はニッコリと微笑んで、
「食事が終わったら音楽を聴きに行きましょう。新しいレコードを買ってきたの」
諏訪弁護士は音禰の行動を見ていて安心した。あくまでも冷静な雰囲気だと。
「なんなら、次のパーティはダンスになさいますか?用意させますが」
「お願いします」
諏訪弁護士は音禰に何か企みがあるのかと思ったが、堀井と名乗っている男に命じて用意をさせた。その時、堀井が諏訪弁護士に何やら耳打ちをした。
「なになに、全田一さんがまだ来てないって。おおかた警察の人との会議が長引いているんじゃろ。いずれ来なさることじゃろうから、用意はそのままにしときんさい」
するとその言葉に音禰は、堀井の表情を伺いながら、
「あの人、きっと来るわよ。だって名探偵さんなんでしょ?後ろめたいことがある人は、今のうちに白状しておいた方がよくてよ」
そして今度は佐清や千万太の方へ振り返り、
「あなた方もそうよ。田舎までは聞き及びないけど、都会でやらかしてるイタズラも、みんなあばかれること間違いなしよ」
そんな音禰の言葉にたじろぐ二人。そこで、諏訪弁護士が二人の素行調査結果について報告するよう、堀井に示唆した。
堀井はカバンから封筒を取り出して、中の書類を読み上げる。
「えー、それぞれの方について調査を行なった結果、特に今回の遺言に対する不備な点は確認できず・・・とのことです」
ほっと肩をなでおろす二人。安心したのか、すぐに口を開くのは佐清だった。
「なんやびっくりさせて。まあ、確かに夜の仕事やけど、法に触れるようなことはしてへんからな」
すると、千万太までもが、
「佐清君と違って、ボクなんかは絶対安心でしたけどね」
と、やや赤ら顔でいきまいた。
諏訪弁護士は二人の表情を確認しながら、
「いやいや、驚かせて申し訳ない。しかし、最低限の身元調査ぐらいはやっておかねば、職務怠慢ですからな。それじゃ、お嬢さん、食事が終わったらホールの方へ」
割と和んだ雰囲気の中、みんなの箸が進む中、千万太の膳では箸のつけられていない小鉢があったが、どうやら彼は酢の物が苦手だそうだ。
「子供みたいね」
などと音禰にからかわれて、千万太の顔が真っ赤になった。佐清はその赤ら顔を見てからかう。そんなやりとりが増えていた。
やがてデザートまでを平らげ、空腹を満たした若者たちが立ち上がろうとしたとき、中庭の入口に二人連れの人影が見えた。全田一と磯川警部である。
全田一は音禰に向かって一礼の後に挨拶をした。
「遅くなってすみません。何しろむずかしい事件になったもので、色々と伺いたいこともありますし、こちらの警部さんも参加させていただいても構いませんか」
古舘会計士は磯川警部に軽く会釈をして二人を招き入れた。
「構いませんよ。でもみなさんはもうお昼を済ませてしまいましたので、これからホールの方へ移動します。お二人さんは、ここでお昼を召し上がってから、ホールへお越しになってはいかがですか?」
磯川警部は申し訳なさそうに、
「呼ばれてもいないのに、ご相伴にあずかってもよろしいかな」
諏訪弁護士は笑いながら、
「ははは、警部さんのお昼ごときで空になるような台所じゃありませんよ。それに、本家本陣で起きた事件じゃ、解決してもらわねば困ります。米蔵が無くなるのが早いか、事件の解決が早いか、見ものですな」
「諏訪さん、笑い事じゃありゃせんがね。まあ、全田一さんもいらっしゃることだし、すぐに解決しますよ」
「ほほほ、そう願いたいものですな。では、堀井くん、彼らの支度を頼むよ。それが終わったら、君もホールへ来たまえ」
「はい」
堀井は諏訪弁護士や音禰に一礼すると、全田一や磯川警部の方へ向き直り、自己紹介に名刺を渡した。全田一はいかにも興味ありげに名刺をのぞき込む。
「ほう、東京の事務所からわざわざこちらまで。何か特別な理由でも・・・?」
「いや、犬神佐清さんの消息筋に少しかかわったものですから、その縁で。少しでも事情を知っている者の方が役に立つだろうとのことです」
「なるほど」
全田一はうなずきながら答えた。
「ところで堀井さん、あなた手毬唄の謎について諏訪さんから何か頼まれていませんか?例えば、手毬唄の歌詞に出てくるお姫様のこととか、三羽の雀の話とか」
「いいえ、特には」
「そうですか」
それだけ聞くと全田一と磯川警部は堀井の案内でさびしく中庭の膳を所望することとなった。
磯川警部は、不思議な顔で全田一に尋ねた。
「さっきの押し問答には、何か意味があるんですか?」
「いや、ちょっと探りを入れただけです」
「はて?いったいどんな」
「手毬唄の歌詞の内容がどれぐらい伝わってるのか。まあ、あれだけでは大したことはわかりませんがね。あとで諏訪弁護士にも問いただしてみましょう。それよりもボクはお腹が空きましたよ」
キョトンとしている磯川警部を尻目にちゃっちゃと箸をすすめる全田一、納得いかぬ磯川警部の表情は対照的であった。
ホールではすでにダンスパーティーの用意が整っていた。ここでは昼間の参加者に加えて、賢蔵や真一郎、辰弥までもが顔を出していた。新しい家族になるやもしれぬ連中の顔を見に来たのであろう。大勢のさんかによって、雰囲気だけはさながらミニ舞踏会のようであった。
まだ暑さが残る季節の昼食会の後だから、みな服装はフォーマルではなかったけれど、流れているBGMはヴァイオリンを主体としたノクターンだった。
ここでも古舘会計士が先陣の場をしきる。
「さあさ、飲み物はご自由に。あとは順繰りにお嬢さんとのダンスをお楽しみ下さい」
そう言われても、今までダンスなぞ踊ったことのない二人。やや臆した感じだったが、
「ええい、ままよ」
とばかりに、最初にエスコートに挑んだのは佐清である。
「やったことないので、適当ですがよろしく」
そう言って音禰の手をとった。
「うふふ、チャレンジャーね。お手並みを拝見するわ」
音禰のステップは軽やかだった。高校生のころ少し嗜んだことのあるステップは、佐清を魅了した。
「すごいな、音禰さん何でもできるんや」
密着した音禰から放たれる女性特有の芳香と音禰の体を支えている手のひらから伝わる滑らかな肌の感触。もろ肌ではないにせよ、薄着のワンピースである。肌から伝わる温もりさえ感じ取れた。佐清は、下手は下手ながら上手く音禰に合わせていた。少しでも長くこの時間を過ごすためにも、熱心にステップを教わる必要があった。それを見かねた古舘会計士は、レコードを変えた。
「さあ、曲を変えます。パートナーも変わって下さい」
やっと順番が回ってきたと思った千万太は、少し後悔していた。どうせできないのなら、勇気を持って、先にチャレンジャーになれなかったことを。とはいえ、すでに済んだことである。
「すみません。全く腕に覚えがないので出遅れました。申し訳ありませんが教えていただけますか」
「正直なのね。嫌いじゃないわ」
そういうと音禰は千万太の手を取り、基礎的なステップを丁寧に教えた。もともと素質があるのか、簡単なステップだけならすぐにマスターする千万太に、古舘会計士も諏訪弁護士も素直に拍手を送った。
ちょうどその時、ホールの扉が開いて全田一と磯川警部が入ってきた。あでやかな音楽に耳を奪われた二人だったが、目の前ではひと汗かき終えて、息が上がっている千万太の姿が見えた。
「やあ、お楽しみのところお邪魔しますよ。我々も同席させていただきますが、どうぞお気になさらずにお続けください」
全田一はそういうと、暖炉の隣にあるソファーにどっかと腰を下ろして、女中から飲み物を拝借した。なかなか全田一ほど肝が据わっていない磯川警部もそれに倣って全田一の隣に座った。
ちょっと一瞬時が止まったような感じがしたが、佐清が再び音禰に挑んできた。
「音禰さん、もう一度ボクにもレッスンをお願いできますか?」
佐清の申し出に対して否やもなく、音禰は快く佐清のエスコートを受けた。
「古舘さん、もう少し早いリズムの曲はあるかしら。いいえ、ワルツぐらいでいいのよ」
すると古舘会計士は、数あるレコード棚の中から、ショパンのアルバムをチョイスし、
「ございますよ。ショパンでよろしいかな」
音禰はワンピースのスカートの部分を少し持ち上げて、
「結構よ。ありがとう。じゃあ佐清さん、まいりましょう」
佐清は音禰のリードによってホールの中央部まで引きずられていく。まだステップを覚えきれていない佐清は、まさに引きずられていった感じに見えた。
音禰はぎこちない佐清に、丁寧に教えていたが、勢いだけで足を動かしている佐清は、千万太ほど才能があるとは思えなかった。二曲も踊ると、あっという間に息が上がる佐清に比べて、音禰は平気な顔をしている。ヘトヘトになった佐清は転がるようにして千万太に助けを求める。
「もうだめだ、次は君の番だろ」
そういう千万太も、まだ先ほどの疲れが取れていない。
「なによ、ダメねえ二人とも」
その時だった。その様子を見ていた堀井敬三がゆっくりと音禰の前に立ちひざまずく。
「お嬢さん、わたくし目がお相手つかまつります」
堀井はそういうと、おどろきのあまり立ちすくんでいる音禰の手を取り、もう一方の手を音禰の腰に回す。やがて、ワルツに合わせて優雅にステップを踏む堀井と音禰。誰の目から見てもピッタリのコンビに見えた。
「あのう」
音禰が何かを言いかけると、
「しっ、大きな声は出さないで」
堀井が音禰の耳元でささやいた。音禰は小さくうなずいて小声で話しかける。
「どうして東太郎さんじゃないの?堀井さんていうのがホントの名前なの?」
「いろいろ訳があってね。こんど会うときはまた別の名前になってるかもしれませんよ。それより、あの手紙は見てくれましたか?」
「まだ見てません。みんなが私の周りをずっとついてくるものですから」
「じゃあ、トイレ休憩でも入れますか」
ちょうど一曲が終わるころ、堀井は音禰を古舘会計士の前までエスコートし、音禰の手を古舘会計士に預けた。
「ほう。堀井君、大した腕前だね。どこで習ったのかね」
古舘会計士は音禰の手を受け取ると、驚いた顔で堀井に尋ねた。
「学生の頃に少々。色々なアルバイトをしたものですから」
堀井が答えると、古舘会計士は諏訪弁護士に目線を送ったが、諏訪弁護士のジェスチャーは我関せずといったものだった。
音禰は古舘会計士に預けられた手をそっと引き抜くと、
「申し訳ありません。古舘先生のお相手は、化粧直しのあとで構いません?」
音禰からダンスの相手をするという確約の言葉に、古舘会計士も断るすべはなく、
「どうぞごゆっくり。男古舘、逃げも隠れも致しませぬゆえ」
などと冗談まで飛び出す始末。
音禰はワンピースの裾をすっと持ち上げて一礼すると、くるっと体を回してホールを出て行った。あとに残された堀井は諏訪弁護士はおろか佐清や千万太からも呼び止められて、どこで教わったの、どれぐらいのキャリアがあるの、自分にも教えてくれろだの、あっというまに一時の人気者になっていた。
そのころトイレについた音禰は、さきほどワンピースのポケットにねじ込んだ紙片を開き、中に書かれてある手紙を読んでいた。すると、
「まあ、大胆ね。でもいいわ。正体をあばいてやるから」
音禰は紙片を丸めて洗面所のゴミ箱にポイっと捨てた。ちなみに、中に書かれていた文面は、
「今宵二十五時、
貴女の部屋にてご相談いたしたき候
灯りを消してお待ちいただきたく候
尚、このこと他言無用にて」
と書かれてあった。夜の夜中に独身女性の部屋を訪れるというのだから、確かに大胆極まりない。しかも、莫大な遺産を指定された婿候補と結婚することのみで相続とされる相手に対してである。
ただ、音禰は心なしか安心していた。自分が知っている昔の東太郎ならば、決して野蛮な人種ではないことを。しかし、思い出せば、昨夜の出来事。彼はいきなり自分の唇を奪って去っていったではないか。それに先ほどのダンス。いきなり現れては自分と他の二人を引き離し、ものの見事に踊り切った態度。
実は音禰が高校生のころに教わったダンスのステップは、みな東太郎仕込みであった。家庭教師の合間、気分転換にと音楽を聴きながら毎日のように練習していたのである。従って、東太郎が音禰のステップについてはすべてを把握しているし、音禰をリードしながら踊れるのも当たり前なのである。
「それにしても・・・」
音禰は何ゆえ東太郎が偽名を使っているのかわからなかった。しかも、今度会う時はまた違う名前かもしれないという。いったい東太郎にどんな秘密があるのだろう。音禰にとっては、夜中に忍び込んで来る不届き者よりも不可思議なアドベンチュラーに興味がわいた。残念ながら佐清や千万太では、このドキドキする感覚は得られなかった。
しかしながら、自分はその二人のうちどちらかと結婚しなければならない運命にあるのだ。そう思うと自分が妙にいじらしくなってくる。それでも、偉大で親愛なる父が築いた飛鳥家を守るためには仕方のないことなのだと自分に言い聞かせていた。
少しおセンチになった自分を慰めて、化粧直しした顔を鏡に映してみた。
「さて、もうひと頑張りするしかないか」
音禰は洗面所を出てホールへ戻る。そこには、東太郎こと堀井敬三にダンスのステップを一所懸命習っている佐清と千万太と全田一の姿があった。先の二人はわかる。だけど全田一までが、ステップの練習をすることはなかろう。
しかし、全田一にも考えがあった。少しでも多くの情報を堀井から引き出したかったのである。
「全田一さん、あなたまで練習されてどうするおつもりですか?もしかして、私と踊ってみたい?」
すると全田一は、照れるように頭を掻きながら、
「いや、それは遠慮しておきましょう。お二人から殺意にも似た嫉妬の視線で押しつぶされてもかないませんからね。それよりも、そろそろ我々に少し時間をいただけませんか。出来ればお一人ずつ。十分程度で終われば、夕食の時間には間に合うと思うのですが」
諏訪弁護士は古舘会計士と申し合わせた上、
「今回の主催は我々ですが、主賓は音禰さんですので、お嬢さんの了解を第一にお願いします」
すると待ち構えていた音禰は、少し彼らと距離を置く時間が欲しかったのだろう。
「構いませんわ。どなたから始められます?」
と二つ返事で了解をもらった。磯川警部は、
「ではまず、お嬢さんからお願いします。どこか空いてる部屋はありませんか?」
「一階の一号会議室へまいりましょう。古舘さん、準備をお願いできますか」
音禰はテキパキと指示を出し、自ら先陣を切ってホールから会議室へと向かった。
その部屋は、三人がけのテーブルが三台とパイプ椅子が十五脚あったが、テーブル二台を向い合せにして聞き受け側に一脚の椅子、聞き取り側に二脚とさらにその後ろに二脚の椅子が設置された。
進行はいつの間にか西屋から戻ってきた出川刑事がとりおこなう。
「さっき西屋の方でも聞いて来たんですがね、お嬢さんは手毬首塔っていうのを聞いたことはありませんか」
「いいえ。中学生のころ郷土の歴史について調べたことがありますが、聞いたことがないです」
「笛小路の御隠居に手毬唄のことを聞きましたが、全部は覚えてないっていうんですね。何か他に調べる方法はないですかね」
「西屋のおばあさんや篤子おばさんが知らなければ、村長さんにでも聞いてみたらいかがでしょう。あの人、以前は学校の先生だったと聞いています」
出川刑事は、うんうんとうなずきながらメモに書き留めた。さらに、
「殺された高頭俊作とは面識がないということでしたが、あなたはそういう苗字に覚えがありませんか。犬神や鬼頭でもいいです」
「さあ、私にはとんと」
すると横から全田一がしゃしゃり出て来て、
「音禰さん、堀井さんとは面識がおありでしたか?」
「いいえ、なぜそう思われるのかしら?」
音禰は一瞬、まゆがピクリと動き、動揺した表情を見せたが、すぐに元の落ち着いたいつもの顔にもどった。
「あなた、東京へ行ったことはありますか」
「何度かありますわ。お父様の付き添いや修学旅行も東京でしたから」
「ああいや、プライベートで旅行されたことはありませんか」
「いいえ、ありません」
「そうですか、私からは以上です。他の方もよければ、音禰さんにはお引き取りいただいて、次は諏訪さん、古舘さんの順に来ていただくというのはどうでしょう」
磯川警部や出川刑事も了承した。
音禰が諏訪弁護士を呼びに行ったようで、数分後に諏訪弁護士が入ってきた。
諏訪弁護士は案内された椅子に座ると、
「いやあ、このたびはとんでもないことになりましたな。若林の件もまだ片付いていないのに」
そのことは磯川警部らには初耳だったらしく、一斉に全田一の方を見た。
「いや、まだ関連性があると決まってないので、話がややこしくなってはと思って黙ってました。いやね、佐兵衛翁の遺言が公表される前のことですが、諏訪さんの部下の若林という人が神風タクシーにやられてるんですよ。若林さんも遺言の内容をご存知だったらしく、今度の件では何かおきやしないか心配されてたそうなんですね。しかし、東京ではただの事故として処理されたらしいので、今のところはなんとも」
磯川警部は苦虫を潰したような表情で、
「東京ですって?いったいこの事件はどこから始まってるんですか」
「それはさておいて、諏訪さんの聞き取りを始められたらいかがでしょう」
出川刑事は気を取り戻して、諏訪弁護士に向きなおった。
「わかりました。東京のことは後で聞くことにしましょう。では、まず、高頭俊作、犬神佐清、鬼頭千万太の三人について、どのように探し出したのですか」
「これは古舘さんと手分けして、同業者をあてにするなり、探偵を雇うなりしました。全田一さんもその一人です」
「高頭俊作は誰が発見しましたか?」
「これは若林のツテで依頼した探偵が探し当てました。発見には難儀したと聞いています」
「では、犬神佐清は誰が発見しましたか?」
「そこにいらっしゃる全田一さんです」
全田一は頭をかきむしりながら、
「いやあ、確かに見つけたのはボクですが、諏訪さんの東京の事務所からいくつかヒントをいただきましてね、そのヒントをたどるとあっという間に見つかったという次第です。ですから、ボクは単に居どころを確認したに過ぎません」
それに対して諏訪弁護士は全田一をねぎらった。
「そんなことはありゃせん。堀井が言うには、何人か依頼した中で最も早く見つけ出したのが全田一さんだったと」
出川刑事はやや疑わしい表情で、
「全田一さんと堀井氏は面識があったんですか」
「いいえ、ボクの窓口はいつも若林さんでしたから、堀井さんとは今日が初顔です」
続けて磯川警部が諏訪弁護士に尋ねた。
「昨日、那須ホテルのロビーで三人と落ち合って、打合せをすることになってましたよね。それまでに三人と会うことはなかったのですか」
「ええ、とりあえず探偵からは本人確認も取れたし、居どころもわかったという報告を受けましたので。それぞれみな信頼できる探偵たちでしたから」
「写真や何かを送ってもらうとかはしなかったんですか」
「最後の鬼頭千万太さんを見つけ出すのに結構な手間がかかりましてな。写真のことなど気がつきませなんだ」
すると全田一が、
「そういえばボクも写真なんか提出しませんでしたね」
渋い顔の磯川警部は、
「全田一さんらしくもない」
出川刑事は再度諏訪弁護士に向かい、
「鬼頭千万太は誰が発見しましたか」
「彼は古舘さんとこの探偵さんが見つけたと聞いています。何でも博多にいたとか」
今度は磯川警部がひじをテーブルにのり出して、
「今回のパーティーの案内はどちらから出されましたか」
「それは古舘さんの事務所からです。ちょうどその頃、手が離せない裁判がありまして、古舘さんのところは忙しくなる合間だからと快くお引き受け下さいました」
すると今度は全田一がひざからのり出して、
「すると、三人の情報についてはいつも共有されていたのですね」
「もちろんです。隠す必要がありませんからな。それよりもいっときも早く三人を見つけ出すことが我々の使命でしたから」
「ちょっといいですか」
いきなり全田一が話題を変えた。
「基本的なことですが、音禰さんはあの遺言の内容に納得されているのですか」
諏訪弁護士は少し考えながら口を開く。
「確かにお嬢さんは百パーセント納得している訳ではありません。何しろあの若さで、見ず知らずの人と結婚しろと言われたのですから。それでもお嬢さんは、飛鳥家のこと、会社の従業員のこと、小作たちのことを考えると、あの遺言を受け入れるのが最良という答えに行き着いたのだと思います」
出川刑事は、疑問を呈すように諏訪弁護士にたたみかける。
「なぜそれが最良なんですか?」
諏訪弁護士は出川刑事を諭すように答える。
「もし、お嬢さんが遺言の内容を受け入れない場合、飛鳥家のグループや資産がバラバラになってしまいます。法外な相続税を支払うこととなりますが、バラバラになってしまうよりははるかにマシです。そのことは、私よりも古舘さんの方が詳しいでしょう」
全田一は、特にこれ以上諏訪弁護士から情報を得られないと判断すると、
「いい頃合いです。古舘さんと入れ替わってもらいましょう」
次が自分の番とわかっていたのだろう、諏訪弁護士と入れ替わりに入って来た古舘会計士は、椅子に座ると、
「さあ、なんでも聞いて下さいな。でも、諏訪さんの知ってる以外のことは、知りませんぞな」
磯川警部は音禰が相続しなければならない理由について尋ねた。
「それはじゃな、タワケという言葉があるが、あれは田んぼを分けることから由来される言葉でな。昔から財産を相続させるのに、兄弟に田を分けて相続させることで結果的に資産がドンドン小さくなる様をさすという。つまりはまとめて相続させることで事業を守る方法が一番と言うわけじゃ。どのみち相続税は払わにゃぁいかん。しかし、兄弟で分けてしまえば、相続税もそれぞれ、事業税もそれぞれ、損益の補てんも出来んようになってしまう。これはグループとしてよくない。というのがワシらの見解じゃ」
「しかし、なぜ音禰さんに白羽の矢が立ったのでしょう」
「賢蔵さんや英輔さんはすでに村の人間ではない。久弥はグループ全体を統括するよりも、地元の顔を利かせた役割の方が良い。そうお考えになったんでないかな」
「それならば、遺言の内容もそのように指示すればよかったと思うのですが」
「私もそう思う。しかし、今回の内容については、私らの知らぬ因果が含まれておるのじゃろう。遺言状の内容に書かれてある一言一句は理解できても、その奥にある意味までは明らかにすることはかなわなんだということですな」
「すると、諏訪さんと古舘さん、それに若林さんあたりは遺言状の文言についてはよくご存知だったのですね」
「ええ、若林くんも諏訪さんが動けないときによく働いてくれたようですから」
「古舘さんには若林さんのような助手はいなかったんですか?」
「いましたよ、黒川探偵事務所というところですけどね。今回特に岩下三五郎という男が活躍したと聞いています。でも先日辞めたらしいですが」
「何故辞めたのでしょう」
「なんでも実家のお袋さんが倒れて、面倒をみなきゃいかんようになったとか。実家は長野だと聞きましたが」
結局、古舘会計士からは諏訪弁護士が知りうる以上のことはわからなかった。ただ、全田一だけが岩下なる男のことを気にしていたようだったが・・・。
続いて呼ばれたのは犬神佐清であった。彼は持ち前の明るさで陽気に受け答えする。ここでも出川刑事進行で進められた。
「いきなりですが、なぜあなたが今回の遺産相続にかかるお婿さん候補に選ばれたと思いますか?」
佐清は悪びれることなく、
「そら、誰かがボクのこと推薦してくれたからやとおもてます」
「それは誰でしょう」
「さあ、わかりまへんな。さっきも言いましたけど、はっきりいうて夜の世界に身を置いてる者やさかい、あの人らとは住んでる世界が違いますがな」
「で、もし選ばれたら受け継ぐつもりかね」
「そらそやろ、どんぐらいあるんか知らんけど、莫大な財産らしいやんか。それにあのべっぴんさん、その両方が手に入れられるんや、受けつがん方がアホやで。」
一般論的には佐清の言う通りである。馬鹿かよっぽどの理由がなければ、他人から見れば夢のような話である。
しかし、どこの馬の骨ともわからぬ者に大事な娘の相手とするなど、とてもあの偉大なる佐兵衛翁の考えることとは思えなかった。
まずは出川刑事が昨日の夜のアリバイを訪ねた。
「昨晩キミはどこで何をしていたかね?」
「アリバイですか。部屋で一人でテレビ見ながら酒を飲んだり、手持無沙汰でホテルの周りを散歩してみたり、そんなとこですな」
「つまりはアリバイなしってとこだな」
すると全田一が突然体を乗り出してきて、
「あなたのご両親はどんな方でしたか?」
「あのう、あなたはボクを探し当てた人ですよね。あなたも警察関係の方ですか?ホールでも随分、警部さんたちと親しげでしたが」
今度は磯川警部がそれに答える。
「この人は我々も昔から知っている優秀な探偵さんだ。今回、君らを発見するところから携わっておられるので、こうしてご足労いただいている。だからある意味、警察関係の人と思って、余す事なく全田一さんの質問にも答えてくれたまえ」
佐清は一応納得した様子で全田一の方へ振り返った。
「ボクの親父は大阪の難波っていうところで雇われの板前をしていて、お袋はそこの女中やったらしい。ボクも親父の真似をして板前になろうおもて学校も行ったし修行にも出た。せやけど三年前、親父の店の主人に騙されて、やってもない罪をきせらせて、莫大な借金背負わされて、挙げ句の果てに酒に溺れてクルマに跳ねられて死んでまいよった。その保険金で借金は返せたけど濡れ衣は晴れんまま。おふくろは近所にも親戚らにもたたかれて、劇薬飲んで自殺しよった。兄弟もおらんし、一人になったボクは仕事も手につかんと夜の町をさまようとった。警察に保護されたときには、もうボロボロやった。勤めてた店もクビになるし、どないしよかおもてたときに声をかけてくれたんが、今の店のマダムやった」
いつの間にか佐清は泣きながら話をしている。その時、何かを尋ねようとした出川刑事を全田一が、すっと手を出してさえぎった。こんな場合はとことん喋らせた方がよいのである。それを理解した出川刑事は、そのまま椅子に腰掛けた。
「三日ぐらいふさぎ込んでたけど、このままじゃあかん。ほんで親父とお袋の仇をとったらなとおもて、今の仕事してる。そやから、親父もお袋も今度の事件には関係ないねん」
少し静寂の間があった後、全田一がもう一度尋ねた。
「あなたのおじいさんやおばあさんはどこにおられますか」
肩をしゃくらせながらも答える佐清。
「親父が広島でお袋が岡山やと聞いてますが、ボクが生まれた頃にはもう亡くなってたと、聞いてます」
全田一は磯川警部にも目配せをして、
「今日のところはこれで結構です。涙を拭いたら、次に千万太君を呼んでもらえますか」
佐清はポケットからハンカチを取り出し、クシャクシャになった顔を拭きながら部屋を出て行った。
数分後、何やら不思議そうな顔つきで千万太が入って来た。千万太は椅子に座る前から不信感をつのらせていた。まさに佐清の様子を見たからであろう。
「何かあったんですか。佐清君の様子がおかしかったんですが」
のっけから少し怒った表情である。
「いや、なんでもないんだ。しかし、やけに心配するね。強烈なライバルだろうに」
出川刑事が軽くジャブを入れてみると、
「ライバルですけど、戦友とも言えるかも知れませんね。すでに一人死んでますし」
「なるほど。だけど、オレたちがいじめて泣かせた訳じゃないぜ。それはそうと、キミはこの話を受けたとき、身に覚えがあったかね」
千万太は即座に答える。
「いいえ、全く何が何やらわかりませんでした。でも、ボクにもそんなチャンスがあるなら、ぜひとも乗ってみたいと思ったんです」
「それはなぜだね」
「今の工場はこれ以上の発展は無さそうだし、まだ若いうちに抜け出せるもんなら抜け出そうと思ってた矢先でしたから」
すると磯川警部が話を変えた。
「ところで変なことを聞くようだが、君たちは以前から顔見知りだったんじゃないかな」
磯川警部の疑問に対して、千万太は不思議そうな表情で、
「何故そう思われたのか知りませんが、ボクたちは、いや、少なくともボクはみなさん初対面です」
「君を探し当てた探偵さんは誰かね」
千万太はしばらく思い出していたが、
「名刺をもらいましたけど、その人とは二回ほど会ったきりですから。そのあと、古舘さんの代理の方だという人に一度だけ会いました」
「それは岩下という人?」
「ううん、そうでしたかねえ。その人に免許証を見せて確認して、それでおしまいって感じでしたから」
すると先ほどと同じように全田一が千万太の両親について尋ねた。
「母親は、ボクが小学生の頃、病気で亡くなりました。父は去年、やはり病気で。それと腹違いの兄がいますが、東京で大きな銀行に勤めています。兄からすれば、出来の悪い弟のことなんて、まるで知らないといった感じで、あまり相手にしてもらえません」
全田一は期待していた回答が得られたのか「なるほど、そうですか」と言ったきり、それ以降は黙ってしまった。
出川刑事は一応、事件当日のアリバイを確認したが、やはり部屋にいたということで、所在証明にはならなかった。
全田一は、次に堀井敬三の聞き取りをと指示したのだが、諏訪弁護士の事務所で急用ができたらしく、諏訪弁護士が堀井氏に命じて向かわせたという。
それを聞いた磯川警部は、
「困りますなあ諏訪さん、こんな場合は現場を離れてもらっちゃいかんということは、あなたもよくよくご存知でしょう」
それに対して諏訪弁護士は、
「確かにそうかもしれません。しかし、ウチにはウチの緊急事態もあるのです。私が現場を離れてもようござんしたか?まだ堀井君に行ってもらった方がいいでしょう。それが私の判断です。なあに堀井君なら心配ありませんよ、明日にはこちらに戻りますから」
そう言われて渋々納得するしかなかった。どうあがいたところで、もう行ってしまったのだからしかたあるまい。
この日は、夕方からイブニングパーティーがあるということもあり、聞き取りはここで中断せざるを得なかった。
イブニングパーティーは午後五時からの開場とされていた。時計の針は午後四時三十五分を指している。まだ二十五分も前だというのに、佐清はホール前のベンチシートで今や遅しと待ち構えていた。まだ給仕のスタッフさえ外の用意が整ってない状態だった。
しばらくすると、中から女中が一人出てきて、テーブルだの灰皿だの準備を始めると、「なんか手伝おか?」とか「あれ運んだろか」とか、手持ち無沙汰なのか、落ち着きがないのか、止まることを知らないおもちゃみたいだ。女中も将来の主人になるかもしれぬ人を手伝わせたとあっては大変だと、これまたいらぬ心配をしなければならない。
そこへようやく現れたのが古舘会計士であった。
「犬神さん、えらい早いご到着ですなあ」
と声をかけられた佐清は、砂漠の中のオアシスを見つけた気分だった。
「ああ古舘さん、やっと来てくれましたか。部屋におっても暇で暇で。ちょっと早いとおもたけど、早すぎて困っとったんですわ」
「開場は五時ですから。それまではまだ二十分以上もありますよ」
「かというて、本を読むでもなし、テレビを見るでもなし、誰かと何かしてた方が落ち着くやないですか」
古舘会計士は、だからといって佐清の相手をしている暇はなかった。会館のスタッフたちといろいろ打ち合わせをしなければいけない。
そんなおり、ロビーから千万太がやって来る姿が見えた。古舘会計士にとっては渡りに船であった。すぐに千万太の視界に入るよう、大袈裟な身振りで手を振り、
「鬼頭さん、こっちこっち。犬神さん、お話し相手も来られたようですし、私はこれで失礼しますよ」
古舘会計士は逃げるようにしてその場を立ち去ると、渋い顔をして千万太が佐清のそばへよった。
「佐清くん、随分と早いね。何かたくらんでる?」
佐清自身、本当に暇だっただけなので、特に何もかくすこともなく、
「単に手持ち無沙汰やっただけや。そういうキミこそ早いやないか。なんの魂胆や?」
「時間に遅れたら失礼だろ。それにまだボクたちはただの婿候補。身内でも客でもない。ちゃんとしてるとこ見せておかないとね。でも、キミがボクより早く来るとは思わなかったよ」
二人はホール入口にある長椅子に腰を下ろすと、音禰の印象などについて話し出した。
「しかし、あれやな。田舎のお嬢さんっていうだけで、どんだけかなとおもたけど、あんなべっぴんやとは思わんかったな。しかも大学へ行ってるらしいし」
「そう、つまりはキミとは釣り合いが取れないということだよ」
「まてまて、ならキミやったら釣り合いが取れるっていうのか?」
「ううん。でもキミよりましかな」
「なんや、五十歩百歩やっちゅうことやな」
「だけど、なんで飛鳥佐兵衛は遺産相続のために、こんなややこしいことするのかな。何でボクたちが選ばれたのかな。不思議に思わないか?」
「それが、わかるようやったら簡単や。せやけど目の前にあるチャンスはつかまな損や。あのべっぴんさんも遺産も全部もらうで。学識はないかもしれんけど、その他はみんなオレの方が勝っとる。早うにあきらめた方がええで」
「キミはボクの何を知ってるというかな?ボクだって学生時代は水泳部だったんだ。体力には自信があるぜ」
「よおし、ならオレもここからは遠慮せずに真剣勝負や。正々堂々と戦おう」
「ああ望むところだ。だが気をつけろよ。高頭俊作って奴は、どうやら殺されたらしいから。ボクたちも狙われてるかも知れないし」
「ああ、お互いにな」
この瞬間、二人は握手をしていた。果たしてこの友情は本物なのだろうか。
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