第2話 ―佐兵衛逝く―

 獄門墓村は山奥の寒村である。都会と比べると、さすがに夜は涼しいが昼間は意外と暑い。盆地の気候が影響して、熱気がこもるのである。

 その暑さが衰弱している老人の体にはこたえた。巷では、そろそろ盆祭の用意たけなわのころ、佐兵衛の容態は急変する。

 八月八日午後四時、とうとう早苗の呼びかけに返事をしなくなった。いや、できなくなったのだろう。早苗はあわてて村医者の村瀬幸庵を呼んだ。幸庵の言うには、

「今日明日ということはなかろうが、盆を越すか越さぬかといったところかもしれん」

 早苗は京都に大阪に、そして神戸に連絡を入れた。夕方のことだけに、今日中に到着する者は無かったが、大阪にいた英輔一家だけは、自家用のクルマを奮発して、その日の夜遅くに着いた。但し、英輔自身はまだアメリカにおり、クルマを運転してきたのは息子の一彦だった。元々早くから盆休みの帰省を計画していたらしく、行動は早かった。

 賢蔵も音禰も帰省の予定はしていたが、学校の用事が残っていたため、即日というわけにはいかなかった。それでも二人は、早苗から連絡をもらった翌々日には、獄門墓村に到着していた。


 一族一堂が揃ってから三日目の夜。三人の息子たちと一人の愛娘に囲まれて、まさに激情ともいうべき人生を送ってきた佐兵衛の一生が幕を閉じようとしていた。夏のことだから、夜とはいえ、部屋では扇風機がウンウンと音を立てていた。枕元では誰も口をきくものはなく、ただ佐兵衛の息づかいを聞いていた。

 賢蔵の妻は克子といい、学校で知り合った仲らしい。子供は娘が一人で、名を鈴子といった。妻も娘も黙って賢蔵のそばにいる。英輔の妻は燁子といい、一彦と美禰子という一男一女に、恵まれた。彼らもまた、燁子のそばで佐兵衛の様子を見守っていた。久弥の妻は鶴子といい、長男が慎太郎、次男を辰弥といった。鶴子は早苗とともに家事に忙しく台所であたふたしていたが、慎太郎と辰弥は自分たちの部屋にこもって出てこなかった。音禰はというと、台所と佐兵衛の寝所を行き来しながら、兄弟たちの家族の世話を焼いていた。

 静まり返った部屋の中は、適度な緊張感で包まれていた。誰もが佐兵衛の息が今すぐに事切れることなど想像していない。それでも枕元に座っている村医者幸庵の存在がやや重く感じられる緊張感の源となっているのかもしれない。

 佐兵衛の寝所は三十六畳敷の和室で、天井には十三列八段に仕切られたマスに百人一首のカルタが描かれていた。四隅が柱にあたるので、ちょうど百枚の絵柄が貼り付けられることとなる。もう数十年も以前、賢蔵が生まれた時分に妻月代の弟、隆二に勧められて始めたのがきっかけで、趣味としては相当はまったクチである。まさかカルタ大会に出ることはなかったが、解説本を買ったり研究本を買ったりしていた。それがこうじて寝所の天井を張り替えたのである。それ以降、毎夜毎晩眺めていたおかげで、ほとんど覚えてしまったようだ。

 佐兵衛の静かな寝息を聞きながら、所在なさげにしていた鈴子がふと天井を見上げた。

「この天井って綺麗ね。何が書いてあるのか、さっぱりわからないけど」

 それを聞いて賢蔵も克子も天井を見上げた。

「これはじいさんが百人一首にはまってから作らせたものなんだ。鈴子も知ってるだろ、百人一首」

「ふうん、百人一首なんだ。あんまりよく知らないけど。ウチの学校じゃ習わなかったからなあ」

 すると暇を持て余していた一彦が話に割って入ってきた。

「オレ、じいさんから聞いたことがある。なんでも、当時の絵を描いた画家と筆をとった人、それにこの天井をはめた大工も、みんな親戚だって言ってたような」

「そんな話、聞いたことないわ、兄さん知ってる?」

 燁子は賢蔵になげかけたが、賢蔵は黙って首を振った。

 そのときである。今まで会話には入らず、じっと天井を見渡していた美禰子が数ある中の一枚を指差して呟いた。

「みちのくの しのぶもじすりたれゆえに みだれそめにし われならなくに」

 美禰子はけっしてその歌を故意に選んだわけではなかったろう。されどその声が届いた途端、今まで閉じられていた佐兵衛のまぶたがかっと見開いた。

 その様子があまりにも突然だったため居合わせた一同は大いに仰天したが、ハッと気づいた賢蔵は、たまたま隣にいた一彦に台所へ行って早苗と音禰を呼んでくるようにと使いを走らせた。

 ドタバタと慌てふためくように駆け出した一彦だか、そんなに慌てる必要もなく、佐兵衛の目は見開いたまま、天井を見上げていた。

 夢から覚めたような佐兵衛は意識はあるようなものの、夢うつつな状態で朦朧としていた。知らせを聞いた早苗と音禰は、手に持っていたお椀やらお盆を放り投げるようにして台所を飛び出していた。

 寝所に着くなり、音禰は佐兵衛の枕元にひざまずき、じっとその見開いた目を見つめていた。そして、小さな声でそっとささやいた。

「お父さん、音禰よ、わかる?」

 しかし、佐兵衛の目は音禰を見ることは出来ても、その想いを伝えることは叶わなかった。すっと笑みを浮かべるだけで、その目線は遅れてたどり着いた早苗に向けられた。早苗は音禰の隣に座って、音禰と違い一言も話さず、佐兵衛の手を拝むように握りしめていた。

 やがて意を決したかのように再び天井を見上げた佐兵衛は、ゆっくりと目を閉じて、大きく息を吸った。その息をまたゆっくりと吐き出しながら、一同を見渡していく。最後にその視線を音禰へと移し、笑みを浮かべたまま止まった。音禰も佐兵衛の手を取り、声をかける。

「お父さん」

 その途端、佐兵衛の顔は微笑んだまま、瞳孔が開いていくのがわかった。音禰は慌てて幸庵を呼ぶ。

「先生」

 幸庵は佐兵衛の手を取り、やがてその手をゆっくりと懐へ戻した。

「ご臨終です」

 泣き崩れる早苗と音禰、肩を落とす賢蔵。そしてうつむいたまま、肩を震わせる一彦たち。知らせを聞いて久弥をはじめ、慎太郎や辰弥たちも駆けつけたが、臨終の際には間に合わなかった。この瞬間、波瀾万丈で激情の人生を送った飛鳥佐兵衛の生涯は幕を閉じたのである。



 佐兵衛の葬儀は、それは盛大に執り行われた。寒村とはいえ、旧家本陣を取り仕切る一大庄屋の大地主である。村一同が挙げての葬儀とあいなった。さすがに、英輔もアメリカから帰国し、無事に参列できた。臨終に間に合わなかったことを悔いてはいたが、渡米したときに覚悟はできていたらしい。

 葬儀の後、一同は佐兵衛の寝所であった三十六畳敷の大広間に集まっていた。その親戚一同を前にして、諏訪弁護士と古舘会計士が上座の中央に座っている。古舘会計士は参集された人々の顔を確認すると、おもむろに立ち上がって、その場を司会進行よろしく仕切り始めた。

「みなさん、お疲れ様でした。多くの方々に見送られて、御前様もさぞお喜びのことでしょう。葬儀が終わった直後で誠に申し訳ないのですが、先ほど伺いましたところ、英輔さんは近日中にアメリカへお戻りになるとか。その前に、お知らせしとかないけんことがありますけん、お疲れのところ恐縮ですが、こうしてお集まりいただいた次第であります」

 おおよその内容を察したのか、賢蔵が古舘会計士に問いかけた。

「古館さん、それはおやじ殿の遺言の話じゃなかろうか」

 すると今度は古舘会計士に代わって諏訪弁護士が立ち上がり、手元のカバンから紫色の風呂敷つつみを取り出した。

「お察しの通り、佐兵衛殿の遺言状です。親戚一同が全て揃っておられる時に公表する様にと賜っております。お聞きしますと英輔さんはまたアメリカに戻られるとか。そうすれば次に集まれるのがいつになるかわかりません。従いまして、本日、公表のお時間をいただきました」

 岡山の片田舎とはいえ、村全体が飛鳥家に染まっているような土地柄である。「殿様も庄屋殿には口きけぬ」とはやされた時代もあったのは、そう遠い昔のことではない。それほど飛鳥家の威光は尊大だということ。そんな莫大な財産と権限が、付与する後継者の公表である。ましてや血縁の親戚たちが興味や関心を示さない訳がない。

「明日は何があるかわからんからな。みんなの顔が揃ってるうちにサッサと済ましてしまおうや」

 英輔は自分は関係ないとばかりで言い方がぞんざいになる。

「では、ご承知いただいたということで、さそくに始めさせていただきます」

 そういうと、諏訪弁護士は紫の風呂敷つつみを開いて、中から巻物のような仰々しい紙巻きを取り出し、一度、頭の上でその紙巻きを仰いでから、神妙な作法で開き始めた。そして諏訪弁護士の目が遺言状の一行目の文言までたどり着くと、咳払い一つおさめて、遺言の内容を読み始めた。

 その内容というのは次の通りである。


飛鳥家一族の相続を記す三種の神器斧琴菊は、次の条件の下に飛鳥音禰に与える。

一つ、音禰はこの遺言状が公表されし日より三か月以内に次の三人、高頭俊作若しくは犬神佐清若しくは鬼頭千万太のうちいずれかを配偶者とすべし。

一つ、三人の配偶者候補のうち、いずれもが音禰の申出を棄却した場合、音禰は一つ目の条件より解放され、何人と結婚するも自由とする。

一つ、三人の候補が全て死亡、又は遺言状が公表されて後、六カ月以上に亘り行方がわからなかった場合も前項に準ずる。

一つ、音禰が三人の候補者との結婚を肯じなかった場合、又は遺言状が公表された時点で既に結婚している場合は、定期預金及び有価証券を四等分し、三人の息子たちと早苗とで均等に配分し、法人事業及びその他流動資産については音禰が継承するものとする。

一つ、音禰が既に死亡せし場合は、家屋及び田畑及び機械器具については久弥が、法人事業経営権及び流動資産については賢蔵と英輔で等分するべし。

一つ、前項にて、すでに久弥が死亡せし場合は代わりに早苗が継承するものとす。

一つ、前項にて、賢蔵並びに英輔が死亡せし場合は、当該分を早苗が継承するものとす。

一つ、音禰以外の者が遺産を相続した場合、無条件で相続相当評価額の十分の一を学校法人飛鳥学園に寄贈すること。これを拒否する者は相続権を失うものとする。

一つ、前項にて、三人の候補並びに三人の息子がが死亡せし場合は、流動資産の五分の一を早苗に譲り、五分の三を音禰が継承するものとし、五分の一は諏訪、古舘両氏により学校法人飛鳥学園に寄贈するものとす。


 実際にはこの遺言状に登場する人物における生死の組み合わせによって、事細かに記載されているのだが、ここでは最低限の内容以外については省略しよう。

 つまりは、配偶者として候補に挙げられた高頭俊作、犬神佐清、鬼頭千万太なる人物と結婚することで、莫大な全財産が音禰の下に落ちるということである。しかして、候補に挙げられた三人とはいかなる人物なのか。賢蔵も英輔も久弥も、さらには儀兵衛でさえ知らぬ人物のようである。では、早苗はどうであろう。一通り遺言状が読み終えられた刹那、早苗の表情にうっすらと笑みが浮かべられた。それを見逃さなかったのは、果たして音禰だけのようだった。しかし、その場で直接尋ねるのをはばかったか、両のこぶしを握りしめたままうつむいてしまった。それもそうだろう。思いもよらぬ内容とそこに参列している人々の視線が突き刺さるように痛い。もし人の視線のみで物理的な攻撃が可能だったなら、音禰は即死していたかもしれない。

「何よそれ、あたしのことなんか一言も書いてないじゃない」

 そう叫びながらいきなり立ち去ったのは賢蔵の一人娘の鈴子であった。

「ホント馬鹿にしてるよな、こんなへき地まで来て期待させておいて」

と、吐き捨てるように文句を言って次に立ち上がったのは、英輔の隣にちょこなんと座っていた美禰子と一彦だ。久弥の息子たちは二人とも口をへの字にゆがめてしきりに貧乏ゆすりをしながら座っている。

「早苗さん、この遺言状は本物かね」

 そう訊ねたのは儀兵衛である。

「さて、あたしはなんにも知りませんぞな。そのへんは諏訪さんと古舘さんがよおくご存じぞな」

 しばらく参列者の様子を見ていた諏訪弁護士が賢蔵の方に向き直って語り始めた。

「儀兵衛さんも賢蔵さんもみなさん聞いてください。私もこの遺言状がニセモノであって、普通に御子息方々へ普通に相続される内容なら、もっと今回の仕事は楽だったでしょう。しかし、この遺言状は法的に一切の誤りがありません。一字一句が生きています。法廷で争われるのはご勝手ですが、間違いなく敗訴に終わるでしょう。この内容に間違いがないことについては、古舘さんの連判があることで、さらに信憑性の高いものとなっています」

 諏訪弁護士の言葉は重く参列者の心にのしかかり、みな成す術もなく音禰と諏訪弁護士を睨みつけることしかできず、ぞろぞろと部屋に戻っていった。

 諏訪弁護士はそっと音禰の肩をたたいた。

「音禰さん、しばらくは我慢しなさい。そのうち吉報が届きますよ」

「でも、見ず知らずの人と結婚なんて考えられません。お父さまはいったい何を考えておられたのでしょう」

「三人の身元も居所もおおよそわかっています。全ての人が見ず知らずじゃないかも知れませんよ」

 諏訪弁護士はおだやかな笑顔を浮かべ、音禰をなぐさめた。

「それってどういう」

不思議そうに諏訪弁護士を見返す音禰に古舘会計士が後ろから声をかけた。

「まあ、我々にお任せください。きっと悪いようにはならないから」

 それでも音禰の顔から不安げな表情が消えることはなかった。


 そのころ賢蔵の部屋では英輔一家も集まり、遺言状についての評定が行われていた、

「あんな内容なら、はなから我々を集めなければよかったのに。私は最初からじいさんの遺産なんかあてにしてなかったし」

 賢蔵が吐き捨てるようにいうと、

「ああら、あたしはしてたわよ」

 と鈴子が口をとがらした。

「それならもっとじいさんが生きてるうちに顔を見せておくんだったね」

「そのとおりだ。美禰子も一彦も面倒がって行かなかったからな、仕方ないだろ」

 英輔も二人をなだめるような口調である。

 美禰子はふてくされるようにソファに腰をおろし、

「でもさ、音禰さんって、姻戚からみると私の叔母になるけど、彼女の方が私より五つも年下よ、ちょっとしゃくにさわるわね」

「そうだな、確か久弥のとこの辰弥くんと同い年だったな。じいさんも若い娘と結婚できてはりきってつくった子だったからな」

「でもお産が原因で亡くなったんでしょ、珠世さんてひと」

 すると、その話に英輔が割って入る。

「なんでも、桃の選別場のパートだったらしいが、おやじ殿が検品に行った時に見染めたって聞いたがな。兄さんのお袋さんもオレのお袋もどこぞへ逃げよったみたいだが、珠世さんが死んだときは、おやじ殿の泣きようったら、そりゃあ壮絶だったな」

「最後の老楽の恋だったからな。激しさもいっそうだったろうよ」

「それにしても、よくもあんな若くて綺麗な人がおやじ殿みたいなおっさんに身を任せる気になったもんだ。まあ、金の力だろうけどな」

「お前はホントにそう思っているのか。ならば美禰子に聞いてみるがいい。女という生き物が、本当に金の力だけでなびくのかどうか」

 すると美禰子はすかさず答えた。

「賢蔵おじさん、確かにそうじゃないわ。金でも顔でない、きっと特別な魅力があったのよ、おじい様には」

 今まで沈黙を守っていた鈴子も応戦する。

「そうね、そうかもね。お父さんとおじいさんは、どっか雰囲気が違うのよ。私もおじいさんなら許してたかも」

「鈴子!」

とがめるような賢蔵の顔はゆでだこのように真っ赤になり、

「馬鹿ねえ、お父さん。冗談に決まってるじゃない」

「ホント、おじさんどうかしてるわ」

 すかさず美禰子もちゃちゃを入れる。

 気を取り直した賢蔵は、鈴子と美禰子、そして一彦に言いくるめるように諭した。

「お前たちも既に新たな人生のスタートを切っている。今日のことは忘れて、自分なりの人生を送ることだ。じいさんは、最後にそのことをお前たちに教えたかったのかも知れないよ」

 鈴子も美禰子もその言葉に返す手段は持っていなかったようだ。

 それでも悔し紛れに鈴子が愚痴をこぼす。

「ちょっとでも遺産がもらえたら、もうちょっと遊べると思ったのにな」

と言い、美禰子も同調する。

「そうねえ。でもしかたないわ。これもおじいさんからの訓導だと思って働くわ」

 その通りである。実際、鈴子も美禰子も一彦もすでに成人しており、いっぱしの社会人として生活している。つまりは現在の生活において金銭的に困っているわけではないのである。

 そんな子供や孫たちのこともわかっていたのだろう。佐兵衛は血縁一同に均等に財産を分配するよりも、村の産業を守ることを優先させたかったのだろうと思われる。

 一旦落ち着いた雰囲気が流れた賢蔵と英輔一家であったが、そこへミョウチクリンな顔をして儀兵衛がはいってきた。

「なあ、お前たち、遺言状と一緒にこげえなもんが出てきよったんじゃが、なんかわかるか?これについては諏訪どんも古さんもわからんというてつかあさる」

 そういって取り出したのは三枚の扇形の色紙である。その色紙にはミミズが乾いてへばりついたかのような模様をした文字らしきものが墨で描かれていた。

「なんか書いてあるようじゃが、ワシには読めん、賢蔵、お前ならどうじゃ」

 賢蔵は色紙を受け取り食い入るように眺めていたが、

「こりゃ、達筆すぎるのか、クセがありすぎるのか、私にも難しいね。英輔はどうだ」

 英輔は色紙を受け取ることさえせずに、

「賢蔵兄さんが読めないものをボクが読めるわけないでしょう」

 英輔ははなからあきらめている。

 その横から口をはさんだのが、鈴子だった。

「早苗ばあちゃんなら読めるんじゃない」

 賢蔵と英輔は互いの顔を見合わせて立ちあがろとしたとき、儀兵衛が二人を止めた。

「早苗さんもわからんというとった」

 賢蔵は立ちかけた腰を下ろすとため息をついた。

「これもまた、諏訪さんに依頼するしかないんだろうな」

「しかし、この色紙がおやじ殿の遺言となんか関係があるのかな。もう、遺言状の内容ははっきりしたし、みんな納得してるだろ」

 英輔はそういって賢蔵を見ると、口をへの字にしかめていた賢蔵は、うーんと唸るように重たそうな口を開く。

「久弥は納得しとらんだろうな。それに音禰の婿候補も気になる。いったいどこの誰なのか、さっぱりわからんからな。それも含めて諏訪さんに尋ねる必要があるだろう」

「確かに。しかし、高頭とか犬神とか鬼頭とか、みんな変わった苗字だな。でもなんか鬼頭ってのは聞いたことがあるな」

 英輔は腕を組んだまま、過去の記憶を絞り出すように考え込んだ。すると、賢蔵は何かを思い出したように目を見開いた。

「そういえば、私も犬神っていう名前に記憶があるな。ところで久弥はどうしている。あいつらの一家はあのあとどうした」

 その問いかけには儀兵衛が答えた。

「久弥なら音禰となんか話しとったぞ。遺産をもらった後、自分をどうするつもりだとかなんとか。音禰のことじゃ、むげにはせんじゃろうが、久弥にとっては死活問題じゃけえな。それに息子らの将来のこともある。慎一郎も辰弥も飛鳥の遺産をあてにしとったに違いないけえ」

 賢蔵は少し心配げな顔をして英輔に話しかける。

「英輔、ちょっと一緒に行って久弥をなだめてこよう。あいつも悪い奴じゃないが、気が短いのが悪いところだ。ちょっと興奮するだけで瞬間湯沸かし器になるからな。酒なんぞ飲ませた日にゃ手におえん猪みたいになるぞ」

 うなずいた英輔は賢蔵とともに部屋を出て、先ほどの大広間へと久弥と音禰を訪ねて行った。

 しかし、そこには二人の姿はなく、諏訪弁護士と古舘会計士がちょこなんと座って、何やら相談事をしていた。

「諏訪さん、久弥はどうしました。それに音禰は。なんか久弥が音禰に言い寄ったとか聞きましたが」

 賢蔵が訊ねると、まるで何事もなかったように答えた。

「いやあ、久弥さんもあまりに突然なことで驚かれたでしょうが、一言愚痴をこぼされただけで、若女将さんと一緒にご自分の離れへ帰らはったと思います。音禰さんは、早苗さんと一緒やないですか」

「叔母さんの部屋かな。なら心配することはないか。あいつもさぞ驚いているだろう。ちょっといって話してくるか。英輔は久弥の様子を見に行ってくれないか」

 そこで賢蔵は早苗の部屋へ、英輔は久弥の住む離れへと向かっていった。音禰は確かに早苗の部屋にいた。突然のことで驚く遺言状の内容に面食らっていたが、安心するようになだめられていた。

 久弥も自分の離れにいた。酒は飲んでいたが、ブツブツと独り言をつぶやいているだけで、嫁にも息子たちにもあたることはなかったが、機嫌は良くなかった。英輔が声をかけてもたった一言、

「おやじ殿の遺言じゃけえな。仕方あるまい。あとは音禰にすがるだけじゃ」

 まるでふて腐れたような言い草だが、かといってどうこうしようという腹積もりはなさそうだ。慎一郎にしても辰弥にしても同じような感じだった。

 久弥一家の様子を確認した英輔は何事もない報告を賢蔵にして自分の部屋に下がった。こうして莫大な財産をめぐる遺言状は公開され、その初日を終えたのである。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る