恋人
@richokarasuva
第1話恋人
恋人を地元に残してきたことを、後悔しなかった時はない。進路希望が違うことは知っていたし、終わりが来るものであるということも、十分覚悟していたはずなのに。
「いつか戻ってくるから」
その言葉は楔のように、僕をあの青春の日々に引き戻す。
恋人の家は厳しかったから、携帯電話を持たせてもらえていなかった。だからこそ、その涼やかな声、はにかむように歯を見せた笑顔、可愛らしい仕草のすべてが、今にも瞼の裏に浮かんでくるような、そんな切望の日々を送っていた。
ところで、まるきり同じ声、同じ顔、そして何より、同じ仕草の人間に出会ったことがあるだろうか。
双子でもない、血の繋がりもない。怪奇的に言えばドッペルゲンガー、というらしいが、私が出会ったその神秘の残滓とも言うべき存在は。
あろうことか、“彼女”の姿をしていたのだ。無論、彼女は人外の類であるはずがない。今まで血を通わせ生きていたはずの人間であり、それが尚更、僕の心情をかき乱したのは言うまでもない。
僕と彼女が親しくなるのに、そう時間はかからなかった。驚いたことに、その気立ての良い、心優しい性格までもそっくりであった。
隣で講義を聞くことは無論のこと、昼食のみならず夕食を共にすることも増えた。
そのうち私の中に、ある思いが湧いてくる。それはあまりに魅惑的で、何よりも原理的で。人の根本にある、呪いとも言える、愛欲からくるものであった。
そのうち、僕の日々は苦行に転じた。これ以上距離を縮めてはならない。その思いは、僕の首を締める真綿となった。ゆっくりと、優しくも確実に、僕の息を止めていく。
そんな折、ある報せが友人から届いた。“彼女”が、恋人が、遂に携帯電話を持ったということであった。わざわざそのようなことを、と笑ったが、僕の心臓は早鐘を打っていた。
友人が何かを話したが、よく聞こえない。
気づけば、僕は電話を置いていた。ただひとつ鮮明に覚えているのは、彼女が今夜にでも連絡をしてくるのだということだ。それは、ある意味僕にとっての救いだと言えたのかもしれない。
これで呪縛から解き放たれるのだと。しかし、それは些か僕には遅すぎた。僕の気持ちは、もうとっくに、歓迎されざる道へ傾いていたのだから。
きっと“彼女”は僕のこの気持を知らない。知るはずもない。むしろ知らないでいてくれて好都合であるという考えすら湧いてくる。知らないでいてくれれば、こちらも素知らぬ顔でやり直せるだろう。しかし、そうだというのに、僕の心は、未だ路頭に迷い、膝を抱え、歯を鳴らして震え続けていた。この葛藤を、この精神の摩擦熱を、僕はいつまでも忘れないだろう。
昼になり、彼女はまた、僕の向こう側の席に座る。何度見ても、やはりそっくりである。口調から、食べ方まで全く同じなのだ。
と、彼女が手を止め、あの、ちょっといいかな、と僕の目をじっと見る。僕の卑怯な心は、何かを見透かされたのかと恐怖に打ち震えるが、あちらの感情は、それとは正反対の方へ向いているようだった。
デートの誘いを、彼女は僕に、無邪気な恥じらいを帯びて口にした。僕の感情は、雷の落ちたようにびりびりと、痺れるように痛んだ。拒めるはずもない。私は彼女のいない講義で、心中で、あれこれと言葉にならない言い訳をした。それは何よりも自分に向けられたものであることに我ながら嫌悪した。
そうして夜がやってきた。友人の話が真実ならば、きっと今夜、その時が訪れるはずである。
彼女からの電話を待つ間に、いろんなことを思い出した。
出会い、そしてかけがえのない存在であるとお互いに信じあっていた頃のこと。終わりをお互いに予感し始めた頃のこと。そして私が、自らに呪縛を課したときのこと。
まざまざと思い出す中で、どこか、ひずみのようなものが私の中に発見された。なぜ、“彼女”を選んだのか、という疑問が、私の、一番深いところににぽつんと、一人ぼっちで佇んでいた。
だめだ、触れてはいけないと思いつつも、私はそれを吟味せざるを得なかった。
顔ではない、体ではない、ならば人柄、性格であったはずだ。あの心優しい性格に惹かれ、そうやってすべてを愛するようになったではないか。
ならば、今、私の魂に最も近いところにいる彼女は、きっと同じように愛するべき存在であるのではないか。
電話が鳴る。見たことのない数字の羅列は、その先に“彼女”がいることを示していた。
取れば、僕はこの呪いを祓うことができるのだろうか。自らの妄執から解き放たれるのだろうか。否、と誰かが言う。これを取らば、お前にはさらなる受難が待っている、と。永久に虚構に虚構を重ね、欺瞞で自らを固めねばならぬ、と。
私は手を動かせなかった。永久にも思える時間が、着信音の消滅によって終わりを告げた。
私は、なにか化け物を封印するかのように、その着信拒否のボタンへ、躊躇わず指を伸ばした。
そうして、私は“彼女”と私との距離は、無限に分かたれたのであった。
思えばくだらない。過去など存在しているようで、最早この世には存在しないものであるというのに。虚構を信じるようなものではないか、と私は途端に、呪縛に縛られていた自分が可笑しくなった。
きっと“彼女”と自分の関係性など、最初から存在しないのと同義なのだ。
僕は嗤った。すべてを嗤った。“彼女”を嗤った。存在しないはずの、あの美しかった繋がりを嗤った。
朝日が登る。この夜も、すべて虚構のものとして、洗い流されていく。
僕は鏡を見て、頬にある涙の跡に、やっと気づいたのであった。
恋人 @richokarasuva
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