十話
――眼が熱い、喉が苦しい、身体が震える。
左腕に抱き締めている金髪の少女を上手く捉えることが出来ない。
ぼやけた視界はメガネを外した裸眼の様だ。
しかし頬に滴る水で原因を理解する。
泣いているのだ。溢れんばかりに瞳に涙が溜まっているのだ。そのせいで視界がぼやけていたのだ。
――何故?
そんな疑問が浮かぶが、理由ははっきりとしない。
ただ眼前で苦しんでいる少女が愛おしくて、大事で、護ってあげたくて、ずっと一緒にいたくて、生きていたくて……。
――でも。
右手が握っている物を持ち上げる。
それは指一本で引くだけで容易く人の命を奪う凶器……拳銃だ。
詳しい知識はないが、それでも使いやすいオートマチック式の黒い銃なのはわかった。
それを件の少女の胸――心臓の位置に突き付ける。
――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
心は必死に悲鳴を挙げている。
止めてくれ、そんな事しないでくれ! 『俺』からまた大切な人を奪わないでくれ!
感情は懇願していた。
身体は悪あがきでもするかのように拒んでいた。
それでも。
――お願い。
少女は『死』を望んでいた。
――殺せ、さもなくば“手遅れ”になるぞ。
自身の内にある《希望》は容赦をしなかった。
お前の望んだ“願い”を叶える為だ、その為の“犠牲”だ。
そう言わんばかりに身体は勝手に動く。
それに全力で抵抗している為か、ただ嗚咽を漏らすしか出来なくなった『彼』の頬を優しく撫でる少女は笑顔だった。
苦しく、辛いはずなのにも関わらず優しく微笑んでくれる。
貴方は悪くない。そう、子どもに言い聞かせるように母の如く慈愛を授ける。
それで抵抗が緩んでしまったのは彼女の狙い通りだったのだろうか?
――愛してるよ。
そんな陳腐な台詞が、文字通りそのまま引き金になった。
気付いた時には弾丸が彼女を貫いた。
鮮血が散る。紅い花弁の様にも見えるそれは命を奪った証だ。
力なく項垂れた少女の表情は微笑んだまま。いっそ本当にそのまま寝ているだけではないかと思える程に綺麗だ。
だが世界は残酷で、優しくはない。
『彼女』は死んだ。『彼』が望む《救済》に不要な存在だから。生きていれば世界は救われないから。
――ぁ……ああ、ああああ!!
頭はとうに理解している。理屈も通る。
『彼女』が生き続ける事は世界にとって害でしかなく、世界の寿命は急速に減ってしまうのだ。
生きていては駄目だ。生を許してはいけない。
間違いはなく、紛れもない正義だ。
それなのに、どうして……。
愛する人を失ってまで手にした『救い』はどうしてこんなに虚しいのか……。
――っ!!
ただの亡骸となった少女を抱き締めて泣き叫ぶ。
《希望》の為に
『救済』という人間の頃に最後に願ってしまった呪いのせいで『彼』は幾つもの大切な人を失った。
彼等を……この少女を失ってでも救う価値がこんな世界にあるのか?
『力』を得て、身勝手好き勝手に世界を荒らして、生き残った者すら醜く生存圏を奪い合う。
こんな奴らの何処にそんな……。
今更疑問を抱こうとも、もう遅い。
『彼』は既に『救済の装置』となってしまったのだから。
命が尽きるまでその時まで逃れる事は出来ない。
こうして世界は救われた……愛する者を殺す事で、救えてしまった。
本人の意思とは関係なく、人知れず今日もまた『彼』は業を背負う。
「――っ!」
勢いよく健は飛び起きた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
過呼吸が起きる程に動悸が速く、しかしそんなもの関係ないと言わんばかりに両の手のひらを見た。
そこには少女も、少女の命を奪った凶器もなく、今までと同じ普通の手だった。
「はぁっ……はぁー……」
そこで安堵したのか、健は胸に手をあて、大きく深呼吸をする。
「なんだったんだ、今の」
今まで見たことのない悪夢に頭を抱える。
ある男と女の最期の逢瀬とでもいうのか。それにしてはえらく残酷なものだ。
夢の中で健は男の視点だった、だからか『彼』の気持ちが痛い程伝わってきた。
男は何故かは分からないが、世界を救うという使命を持っていたらしい。その過程で今まで多くの仲間や大事な人を失ってきたようだ。
そしてまた一人。今度は愛した少女を殺す選択を迫られた。
男は必死に抵抗したが、自らが過去に抱いた《希望》に抗うことは出来ず、少女もまたそれを受け入れる形でその命の灯を消した。
その時の男の心の内は、絶望と慟哭に染まっていた。
したくもないものをした。それも心の底から好きだった少女を自らの手で殺めてしまったのだ。
想像するだけでも辛いそれを、健は直に感じ取った。
やり場のない憎悪、あんな《希望》を抱いてしまった自分に対する怒り、また同じ事が起こりうるであろう可能性に対する絶望。
夢だとわかってても、その夢から覚めた後だとしても、あの瞬間感じた感情を忘れる事は出来ない。
ただの夢物語というには後味が悪く、未だに残滓は健の心にこびりついている。
「はぁ……」
最悪な目覚め。
カーテン越しに窓をのぞくと外は明るい。次いで机の上にある目ざまし時計を見ると時刻は六時を指している。
「デジャヴ」
唯一の違いは景色が逆さになっていないくらいか。
それ以外は大体昨日と同じだ。眠気が手招きして二度寝でもしようかなどと思考に至る所までだ。
昨日は拒否したから今日は別にいいか、と思わなくはないが生憎同居人が一人増えている。
健も男だ、女の子の前でだらしない格好はしたくない。
ラナの生態は不明だ。朝に弱いのかどうかすら知らない程付き合いは浅い。だから起きているかは分からないが、念に越したことはないだろう。
彼女とは昨晩多少の問答はしたのだが、どうにも要領の得ない答えしか返ってこない。強いて挙げるなら、健が作った素麺を美味しそうに食べていたというくらいか。
博己の言うことが本当なら彼女はクローンだ。生まれてからまだそんなに時間が経っていないのかもしれない。
となると自我や自己がまだ確立していないのだろうか?
「……ともかく起きるか」
欠伸を噛み殺しながら伸びをする。
小難しい事を考えても仕方ない。彼女のこれからについては葵と話し合う必要がある。一人でどうこう出来る問題ではないからだ。
だからこそ、自分の事はきっちりとしないといけない。母に余計な手間は掛けさせてはいけない。
――さて、そうと決まれば着替えるか。
そう思い、ベッドから降りようと手に力を込めた瞬間。
「んー……」
「……ん?」
唐突に背後から女の声が聴こえた。
それがくぐもったり、驚く程低いホラーテイストなものであれば飛び上がりもしただろうが、耳に入ったのはつい最近聴いた声だった。
声の主に心当たりがある健は、壊れたブリキのおもちゃのようにぎこちなく首を回す。
視線の先、つい今し方寝ていたベッド……そこに金髪の少女の姿があった。
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