一話

「いってきます」

 そう言って家を出た。玄関の表札には『今井』と書かれている。母方の姓らしい。

 健の家は一軒家だ。二階建てで庭もある。年収とかは聞いたことはないが、父は相当稼いでいるらしい。

 一見すると裕福で悠々自適な生活をしていると思うだろうが、そんなことはない。

 今のご時世金だけでどうこう出来る訳ではないし、物資も余分にあるわけではない。

 常に節制とまではいかないが、無駄な贅沢は出来ない。

 それは親が権力者であっても関係ないことだ。

「……今日もまたデカイことで」

 そう呟いた視線の先には樹があった。

 青々と茂り、葉は風に流され音を起てている。

 立派な大木だ。真っ直ぐに、天にまで届くかの如く大きい。その辺の民家など容易く見下ろせる程だ。

 《護大樹ごだいじゅ》と呼ばれるそれは、全高五百mを超えるとされてる大樹だ。

 『大樹』とは言ったが正確には幾多もの樹木が互いに喰らい合う様になって出来たものだとか。

 その為、幹だけで百mは超え、地上からでは天辺を目視することが不可能な超大型の植物となった。

 健が物心つく頃には既にあったものであり、なんでも『荒れた環境』から住民達を護っているそうな。

 だからこそ《護大樹》という名が着いたのだろう。

 事実、都市を覆う程に広がっている枝と葉だが、不思議な事にちゃんと日の光は入ってくる。本来なら身体に害となる程に強まった紫外線だが、それを無害に近いレベルにまで下げてもくれる。

 そんな有り難い大樹があるのは都市の中心であり、その周辺にはいくつもの重要施設がある。

 健の父がいるのはその内の一つだ。治安や防衛といった荒事の解決に努める組織にいる。

 仕事内容から《護大樹》に一番近い位置にある大きな建物、それが目的地だ。

「行くか」

 有害ではないとはいえ、夏特有の焼くような日差しの中、健は歩み始めた。



 ――二十年前に世界は変わったのだという。

 ある日、何の予兆もなく世界を揺るがす大地震が起きたらしい。

 それは不思議なことに人間にしか感知出来ない『揺れ』で、物理的な被害はゼロだった。

 しかし、それからだ。

 世界に超常の力を持った者が現れ始めたのは。

 誰が呼んだのか、そういった力を持つ者達は《エイジ》と名付けられた。

 彼らにより世は乱れ、世界の均衡は崩れた。

 一時期は正に世紀末、力こそ全てな無法な世となった。殺し殺され、奪い奪われが当たり前の惨い時代。

 健が物心つく頃にはそんな時代の幕は降りていたが、それでも世界に残された傷跡は未だある。

 環境は著しく変化した。緑は減り、砂漠や荒野が増えた。この日本も例外ではなく、その影響で一年を通した平均気温は四十℃になっている。

 《護大樹》のおかげで都市の中は人間が暮らすに適した環境になっているが、一歩でも町の外に出れば待っているのは灼熱地獄だ。更には凶暴化した獣が餌を求めて彷徨っている、見つかった日には骨すら残さず平らげられるだろう。

 そうした様々な変化により世界人口は最盛期の一割にまで減った。人類は滅亡の道を進んでいるのではないかと思う破滅思考の人間が増えたのは必然だろう。

 尤も、健が住む町には無縁の話だ。

 全く問題が起きないと言えば嘘になる。ついこの前だって異能に目覚めたばかりの《エイジ》が、慣れない力を持て余して被害を齎したことがあった。

 幸い死者は出なかったし、その者はすぐに拿捕されたようだ。

 この世界において、《エイジ》の暴走は然程珍しいものではない。問題なのはそれに対処出来る存在がいるかどうかだ。

 そしてこの町にはそういった存在がいる。

 健が憧れ、いずれは力になりたいと思える人が。



「え……いないんですか?」

 目的の建物に入り、いざ受付の係員に用向きを伝えると、返ってきた言葉に健は愕然とした。

「はい、コウ様は今お仕事で都市外におられます」

「いつ帰ってくるかは?」

「申し訳ございません。例えご家族であろうとも、お伝えすることは出来ません」

 淡々と語る受付員を前に健はがっくりと肩を落とす。

 コウ――健の父は多忙の身だ。それは知っているし、理解もしている。だがそれでも、母からの差し入れがある日にいないとはどういうことだろう?

 コウはマメな性格だ。健や母の誕生日は覚えているし、何か用事や約束をすっぽかすような人ではない。

 何か事件が起き、対応をしているのだろうか? それならば納得がいくが、そうだとしてもせめて一報くらいは欲しい所だ。

「お? 健じゃん」

 母の手作り弁当を片手に、「どうしよう」と悩んでいると声を掛けられた。

 そちらを振り返ると、一人の女性がいた。

 紫がかった髪を肩の所で切り揃えた、二十代前半程のその人は右手を挙げ近づいてくる。

「凜華姉」

 それは健の知人にして、父の同僚でもあった。

 立花凜華。コウの部下の一人だが、組織に入る前からの付き合いがあるらしく、それは十数年にも及ぶ。その関係で昔から健はよく面倒をみて貰っていた。

 彼が彼女を「姉」と呼ぶのはそんな経緯と親しみがあるからだ。

「どうしたの? 何か用」

 顔を伺う様に近くに来られると、強い『臭い』が鼻孔を突く。

 凜華は一見すると見目麗しいのだが、その容姿とは裏腹に喫煙者である。コウも喫煙者そうなのだが、彼女の場合コウよりも吸う本数が多いらしく、常にタバコ特有の臭いを漂わせている。

「う、うん。実は……」

 久しぶりに嗅いだそれに一瞬顔を顰めるものの、健は困ったような表情に変えると右手に持っているものに視線を向ける。

 それを追うように凜華も見ると納得したようで「ああ」と声を漏らした。

 付き合いの長さからやはり事情を知っているらしい。

「コウに渡すんでしょ? いいよ、私がやっておくから」

「え、いいの?」

 思わぬ申し出に顔を向けると、凜華はニカっと歯を見せながら笑う。

「構わないよ別に。どの道、この後私はアイツに会うから問題ないわ」

 そう言うや否や弁当箱を受け取ると凜華は踵を返す。

 コウに劣らず凜華も忙しい身だ。だから用件が終わったのなら、さっさと場を離れるのは当然の行動だ。

「あの、凜華姉。父さんは……」

「ん? 『相変わらず』よ」

 そんな彼女に掛けた言葉。父に関する問いは、『いつも通り』の返答。

 足を止めることもなく、そのまま本部の奥に行く凜華を健は静かに見送った。

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