救い(その手)は誰が為に

無気力カンガー

一章 プロローグ

 いつの頃からだったか、暗い空間にいた。

 上も下も闇に覆われ、自分の手すら見えない。

 叫びたくても声は出ず、涙すら流れない。

 ただ暗い空間に居るしかない。居ることしか出来なかった。

 何も出来ないことは苦痛であり、感情を露わに出来ないことは虚しかった。

 そこにいる理由は分からず、ただ呆然とするだけの時間。

 何時からだったかは覚えていない。気付いた時には既にこうなっていた。

 暗闇しかない世界。

 まるで世界に一人だけのような孤独感。

 そうであるにも関わらず、何故かこの暗闇は心地良く感じた。

 なんとも不思議な感覚だ。そう思う理由も、感じた訳も分からず、ただ漠然と『そういうもの』と認識する。

 そんな中にいるのに相反する気持ちになるのはどういうことか?

 『いつも』そんな疑問が思い浮かぶくせに解明出来ない。そんな時間がないのだ。

 だってこの後は毎度同じ展開が待っているのだから。

 ――ふと、背後から光が当たった。

 やっぱりと思うよりも早く、振り返る。


 そこには一筋の光があった。

 自らを照らすように向けられたその中には誰とも分からない右手だけがあった。

 まるで救いの手を思わせるそれは、しかし与える印象とは別に酷く傷だらけだ。

 数多の裂傷や火傷で埋め尽くされているであろうそれは、だがどうしてか、安らぎや穏やかな気持ちにさせてくれる。

 その手に触れたい、掴みたいと願い、自らの腕を伸ばす。

 応えるように傷だらけの手はこちら向かい迫ってくる。

 『手だけが迫る』という、一見恐怖を抱きそうな絵面だが、やはりそんな気持ちは沸いて来ず、寧ろ早く触れたいと思った。

 そうして互いの距離がどんどん縮まり、あと数cmで触れようとして――。



「いだっ……!」

 不意に目が覚めた。

 辺りを見回せば見慣れた自室の風景。それが逆さに見えるのはきっとベッドから転げ落ちたのが原因だろう。それが正しいと言わんばかりに頭が痛い。

 痛む頭を擦りながら起きる。机の上に置かれている目覚まし時計を見ると、針は六時を指していた。

 夏休みに入った為自堕落に二度寝をするのもいいかもしれない。

 そんな怠惰な誘惑に負けそうになった頭を振って払った。

「予兆……なら良いんだけどなぁ」

 欠伸を噛み殺し、ふと呟く。

 物心がついた頃から見ていた夢故にそんなことはないと思うが、ついそう思わずにはいられなかった。

 今年……というよりつい一週間前に十四の誕生日を無事迎えることが出来た。

 一般的、且つ平均的に『アレ』が覚醒めてもおかしくない年齢だ。だから期待してもおかしくはないだろう。

 しかし、現実は残酷で、今日もまた何も変わりはしない。



「おはよう……」

「おはよう。早いね」

 眠気眼で欠伸を噛み殺しながら挨拶をすると、母――葵は返事をした。

 腰まである長い髪を一つに結んだ妙齢の女性。エプロンをし、台所に立ち、料理をする様は一般的にイメージされる母親の姿であり、事実彼女はうら若くも母だ。

 例え身長が百五十cm手前くらいしかなく、並んで歩くと第三者からは妹にしか見えない事が多い見た目だが、れっきとした母だ。

 水道の水をコップに注ぎ、一気に飲み干す息子を見て、笑顔を浮かべた。

「夏休み始まったからてっきり昼まで寝てるのかと思った」

「流石にそんなだらしないことしないよ」

 ……いやまあ、一瞬誘惑に負けそうにはなったけど……。

「へぇ、たけるは偉いねー」

「ちょっ! やめ! 頭撫でるなって!」

 近くにいた息子――健の頭を背伸びして撫でると、当の彼は恥ずかしそうに手を退けて離れていった。

 十四歳という思春期真っ盛りの少年には、照れくさいようだ。親子のスキンシップを逃れるようにはリビングにいくと、リモコンでテレビを点ける。

 画面にはニュースキャスターの姿、左上に映されていた時計は六時十分を示していた。

「ナァ〜」

「おはよう、セキ」

 そのタイミングでテーブルの下にいた愛猫のセキが足元にまで来て鳴いた。

 健が生まれた時には既に家で飼われていた黒猫。生まれ持ったものか、外傷によるものか、右目が閉じられている。その状態が『隻眼』だからか、それから取って『セキ』と名付けたらしい。

 もうかなりの年寄りだからか、あまり外に出ることはなく、常に家でダラダラゴロゴロとする毎日だ。

 そんなだらしない猫は、身体を丸め欠伸をしている。

 その姿を見ていると、ふとさっき母が言った言葉を思い出す。確かにせっかくの夏休みだ、少しばかりでも怠けてもよかったかもしれない。

「あ、そうだ」

 そんな邪な思考を過るかのように、母が声を上げた。

「なに?」

 訝しむ息子の視線に気付きつつも、微笑を浮かべる。

「今日って『あの日』でしょ、だからあの人にお弁当持っていって欲しいの」

「ああ……」

 嬉しそうに語る母とは対照に健の顔は浮かない。

「……父さん、まだ帰ってこれないんだ」

「仕方ないよ、そういう『お仕事』なんだから」

 その理由は彼の父に由来する。

 健の父はある組織に所属しており、その中でも中心的な立ち位置にいる人物だ。

 それ故に仕事が忙しく、プライベートの時間もあまりない。家に帰ってくることも少なく、一年に数える程度だ。

 物心がついた頃には既にそうであった為健からすれば今更のことなのだが……母の方はよく愛想を尽かさないなと感心する。

 その証拠とばかりに二週間に一回は彼女お手製の弁当を渡しに行く習慣が出来ていた。そしてその日が今日なのだ。

 しかし、いつもは自分で渡しに行くはずが、何故か今日は健に任せるつもりらしい。

 何か用事でもあるのだろうか?

「……わかった。持ってくよ」

「ありがとう」

 疑問を感じつつも返事をし、それを確認すると母は笑顔を浮かべ、再び朝食の用意をする。

 鼻歌交りに調理する姿は楽しそうで、「ならやっぱり自分で行ったら?」とつい口から出そうになった言葉を呑み込む。

 いや、健も別に会いたくない訳ではないのだ。

 寧ろ会ったら言おうと思っていたことすらある、だから問題はない。……ないのだが……。

「……二ヶ月ぶりか……」

 如何せん、久しぶりの邂逅というだけに動悸が速くなる。

 家族と会うだけなのに緊張するというのは変な話だが、それだけ健にとっては大事なことだ。

 僅かな不安を抱きつつも、少年は決意と気合を胸にする。

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