第10話 想いを懸けるもの2

 空には一面に厚雲が広がり、山には冷たい空気が重く淀んでいました。

 十年あまり前、一匹の獣とも出会わなかったあの日を繰り返すように、キドはただただ歩き続けました。 

 息が切れだした夕暮れには、雪が舞い始めました。やがて明るみは消え、目に映る物はなくなりました。冷たい雪の欠片を頬に受けながら、キドは歩く程に変わる森の音に耳を預けました。

 寒さで耳の付け根がじりじりと痛み、やがて痛みが感じられなくなった頃、暗闇で枯れ葉を集め、火を起こしました。炎に照らされて浮かび上がったのは、大岩のひさしでした。そこは以前、金色の鹿の親子に出逢った時と同じ岩陰でした。体は、出逢いの運命というものを知っているようでした。


「あいつはきっとここに来る」

 キドは待ちました。


 どのくらいの時が経ったのでしょう。火は今にも消えそうに揺れていました。

 キドは片膝をついて座り、目を閉じていました。狩りの時にハヤに教わったように、耳と鼻、肌の感覚を使って、辺りの様子をうかがっていたのです。


「来た」

 味気のない雪の匂いに、甘い香りが混じり始めていました。

 すぐにも微かな足取りが聞こえ、後ろに流れていく風が乱れました。キドは大きく弓を引きながら立ち上がり、目を開きました。


 二十間ばかり離れた所で、雪が泉のさざ波のようにきらめいて流れていました。その中心で、あの金色の鹿が駆けていました。とうに寿命は過ぎているはずでしたが、老いは全く見えず、輝く美しさは、何年もの間 キドの心を捉え続けた美しさそのものでした。


 鹿の黒い瞳は駆けながらも、じっとこちらをうかがっていました。鹿は、キドがいることを知りながら、近付いたかと思えば遠ざかり、そしてまた近付いていたのです。


「おまえはなぜ逃げぬ。我が腕を試そうとでもいうのか」

 キドは低くつぶやきながら、白い矢じりを向けようとしました。ですが、鹿の動きはまるで捉えられませんでした。雪に光を残すほどに速く、また波打つように振れながら駆けていたのです。


…ただ、闇雲に走る獣などいない…

 心にハヤが教えてくれた言葉が響きました。

…皆、次に走り行く先を見つめている。目で見るのではなく気配を感じて。その先で、静かに光る所を見つけられたら、そここそは、安らぎを求める獣が次に走り行く所…


 キドは再び目を閉じ、鹿の気配を追いかけました。

 しかし、何ということでしょう。閉じられた瞼の向こうにあったのはハヤの気配でした。いつも連れ添い歩き、息づかいを分かち合ってきた相手です、間違えるはずがありません。

『なぜに!』

 慌てて目を開ければ、先には鹿が駆けていました。そして目を閉じれば、美しくも悲しそうなハヤの気配があったのです。


『どうしておまえなのだ。わしの心に住んでいた鹿は、ハヤだったとでもいうのか』

 心の叫びに、しなやかな気配は頷いたようにも、首を振ったかのようにも見えました。さらに気付けば、その気配は、いつも矢じりの飛びゆく方に先回りしているようだったのです。

『そこに、おまえの求める安らぎの場所があるというのか。ハヤよ、わしは自分の目を信じる。心を見るから、そこに住み続けた鹿が、おまえと重なって見えてしまうのだ。もし、おまえなら、瞳の前に姿を現しておくれ!』

 祈りながら目を見開きました。

 やはり、先にいたのは鹿でした。キドはその駆けゆく先に、小さな灯火を見たような気がしました。

「ならば、よし」

 指に食い込む弦を放しました。


「!」

 白い矢じりを持つ矢と金色の鹿は、互いを求めているように宙を切って重なりました。

「あぁっ」

 キドは片手で目を覆いました。突然、目の前に昼の太陽のようなまばゆい光が差し込んだのです。ですが、それはほんの束の間のこと。手を降ろせば、すでに二つに分かれた光の筋が消えていく所でした。一つは厚い雪雲の彼方に、もう一つはどこか山の奥に。

 幻だったのかもしれませんが、空に消えた筋の中には、寄り添い合う二頭の鹿の姿があったようでした。


 目を前に戻せば、暗闇にぼうと浮かぶ光の塊がありました。キドは雪中に走り出ました。鹿は黒い木の根元に横たわっていました。矢は胸に深く突き刺さり、すでに鹿は息絶えていました。

「心に住み続けた鹿よ。おまえの住まう世界に立ち帰れよ。そして生まれ変わり、再び光をまいて駆けめぐれよ」

 まだ温もりの残る毛皮に手を当て、空を仰いで祈りました。

 目をつぶると、ハヤの顔が思い浮かびました。先ほどの悲しげな様子は消えています。

『おお、共に喜んでくれているのか。今すぐに戻る。待っていておくれ』

 丁寧に雪で鹿の体をおおいました。

「おまえの体はどうしても切り裂くことはできない。あとで必ず弔いにくる」

 そして立ち上がり、暗闇に向かって走り始めました。



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