第11話 母なる温もり1

「ハヤよ、帰ったぞ」

 キドは意気揚々と小屋の戸を開け、板間に駆け上がりました。

 今にも燃え尽きようとしている油火の淡い光の中、ハヤは囲炉裏の傍らに横になっていました。

「起きよ、ハヤ。とうとう、わしはあの鹿から解き放たれたのだ」

 はしゃぐように言いながら、白い手を取ったキドの息がとまりました。


…手の内に感じる、生きる者が持つことのない冷たい硬さ…

…視線を飛ばした先、衣のはだけた胸に鈍く光る血の流れと一枚の大鷲の羽根…


「ハヤ、温もりはどこにやった。それにその傷は、矢羽はどうしたのだ。わしが射たのは金色の鹿だ。だのにどうして、おまえが傷を負っているのだ」

 答えることのない愛する者を前にして、体から力という力が抜けていきました。キドはただ首を落とし、凍りついた囲炉裏を見つめました。


「おまえは人の衣を借りた鹿の化身だったというのか」

 掠れたつぶやきが涙とともに床に落ちました。

 足元にあった油火も、心もとなく揺らめいて、その芯を落としました。ですが、何によるのでしょう、爪先ほどもない炎は消えず、まるで命の源を頼るように囲炉裏に流れ、黒い炭の欠片に留まりました。

 炎は、炭に熱の根を宿して燃え立ちました。息を吹きかけているわけでもないのに大きくなっていきます。 


…炎よ、もういい。失せてくれ…

 力なく首を振ったキドの頬を、弾けた火の粉が叩きました。

 見上げれば、いつの間にか、小屋中が金色に輝いていました。全てのものへの慈しみに満ちた微笑みを浮かべた観音様が目の前に立っていました。


「キドや、どうして、そのように虚ろな瞳をしているのです」

 美しい調べのような声がキドの耳を撫でました。

「ああ、観音様。わしはハヤを見つめるために、あの骨で矢じりを作りました。だのにそれは、ハヤの命を奪ってしまったのです。わしが作り、放った物とは何だったのでしょう」

キドは嘆きながら尋ねました。

「おまえは己の思いを懸け、一つの矢じりを作りました。それは弓を射る者の魂を乗せて放たれる物。そしてこよなく愛する者を、自らの瞳で見るための物。それでよかったのです」

「ですが、ハヤは行ってしまいました、ずっと遠くに」

「おまえは、我知らずにあの鹿に母の心を贈り、さらに自分の思いをしっかりとハヤに伝えたのです。あとはハヤが忘れていた母なるものの温もりを届けるだけ」

 観音様の姿は次第に小さくなっていき、頷きとともに消えました。


「これは一体どうしたことか」

 キドは涙を拭いました。

 観音様の神神こうごうしい姿は去ってしまったというのに、小屋の中はまだ輝いていたのです。

「親鹿の…」

 壁に掛かっていた毛皮が、とうに無くしていたはずの艶と輝きを取り戻していました。


「ハヤ、もしやおまえは、母なるものの温もりというものを待っているのか」

 弾かれたように立ち上がったキドは、ハヤの体に毛皮を掛けました。

 毛皮は熱いほどの温もりをもち、さらに輝きを増しました。冷たく白かったハヤの唇にわずかに紅色が戻ってきました。


「ハヤ、わしの瞳に映るおまえは、そこに」

「キド、私を導く人…」

 キドは夢中で血の通い始めた手を握りしめました。そして程なく、ハヤはそっと目を開いたのでした。


・・ ・・ ・・


「忘れていた私の覚え…あなたに伝えたい私の幼い頃のこと…」

 キドは訥訥とつとつと語られ始めたハヤの言葉に耳を傾けました。




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