〈六〉



 全ての終わりまで一瞬ともつかない刹那のはざま、突然襟が詰まり奇妙な声と共に空気を吐き出す。己の体が大きく弧を描いて舞う。なんだ?もう死んで飛仙にでもなれたのか?


 ぼんやりとしたまま、それがさらに二度。なんだ……怪物に子猫にするように遊ばれているだけか、と絶望し直そうとした。しかし最後に放り上げられると即座に固い地面に落ちた。


「…………?――っ、‼」


 仰向けで動けずにいれば真上から空で手放した剣が落ちてくるのに気がつき、当たる寸前で顔をよじる。庇った腕に刃が触れて赤い筋をつくった。運良く斜めにかすっただけでよかった。跳ね上がった鼓動を鎮めようと深く呼吸し遥かかなたにある細い亀裂を眺める。



ほうけている場合ではない」

「…………え?」



 造次、麅鴞ではない別の影がぎり、入れ違いに頭だけ置いていかれそうなほど体が移動する。踏ん張る暇もなくさらに長巻かれ、恐ろしい速さで引っ張られる。

 と、またいきなり自由になった。慌てて体勢を立て直す。緊縛を解かれた脚が燃えるように熱い。肩で息をしながら状況を把握しようと首を巡らせた。


 前方全面から無数の槍が飛来してくる気配がした。



 ――――避けられない。



 無意識にうずくまった体、しかし衝撃に備えた間がしばらく続き、なんとも感じないのを悟っておそるおそる顔を上げた。



 唸り声が聞こえた。それは夜目には白い、巨大な犬だった。狼のようでもあり、虎のようでもある。少なくとも十頭は眼前で疾走していた。左右上下に跳躍し、咆哮をあげて体躯を凄まじく機敏に交差させ何かと闘っている。天波には彼らが狩りをしているように見えた。


 やがて一際大きな吠え声がし、狂騒が徐々に静まる。天波は片膝をついたまま何も出来ずただ目を瞬かせていた。周囲にたむろしだした巨犬の荒い息遣いに我に返る。この獣たちは。



「…………ヒョウ



 一族の保有する、領地の守護を司る妖。普段は限られた境界内から出さず、出兵その他の緊急の際に使役される。だが、なぜ。


 目の前にぽつりとひとつ、火が灯った。近づいてきた影は背の高い人、裹頭ずきんで覆った顔は見えない。小ぶりの松明たいまつかざして天波を照らした。


「無事か」


 息一つ乱さず悠々と降った呼びかけに思わず腰が砕ける。まったく緊張のない声音は危機が去ったことをものがたっていた。

「お前は……」

「当主のめいで加勢に寄越された」

 それだけ言うと男は屈み、投げ出された天波の脚を検分した。

「怪我をしている。場所を移そう。立てるか?猋に乗れ」

 待て、とその背の向こうを見た。

「さっきの、あれは」

「ひとまず追い払えた。しかし、まだ近くにいるかもしれない」

 それでともかく安堵した。ものの、今度は男を警戒の色濃い目で窺う。

「お……お前は、人、だよな?」

 言えば、佇んだまま解せないという雰囲気を醸し、「人でないものに見えるのか」と澄みきった水のような静かな声で問うた。

「い、いいや……でも」

 天波はどうすればいいのか分からずしどろもどろになる。「その、あれは人の形をしていたんだ。それで……」

 男は屈んだ。腕を突き出す。

「…………?」

「切ってみろ」

「は?」

 眼しか見えない彼はにべもない。

「切って間違いなく赤い血が出れば良いのだろう。麅鴞は人の姿になれれども生血は持っていない」

 説明しているあいだに自ら小刀で薄く線を入れてしまった。

「おい、何してるんだ‼」

 みるみる赤い玉が白い皮膚に浮いてきて天波は急いで押さえた。じんわりと脈打つ温かさが伝わり、しらず涙ぐむ。

「もういいか?」

「お前、馬鹿だろう。自分の腕を切るなんて」


 用は済んだと言わんばかりに、ふい、と男は離れる。天波は荒く目をこすり、気が抜けたことでようやく痛みに気がついた。照らされたももは衣が破れ、皮膚が焼けただれすでに腫れあがっていた。

 男に縋り、なんとか立ち上がって猋の背に乗ったものの、怪我と数日間保ち続けた極限の緊張のせいで消耗した意識を手放すのにはいくらもかからなかった。先導されて移動し別のほらに辿り着いたときには、すでに妖狼の毛並みに顔をうずめていた。





 またそんな裸足で、としかめ面をした女が見下ろした。小さな白い、美しい顔を静かに歪ませてよく怒っていた。でも母上、と幼い自分は木の棒を握り締めたままなんとか説明しようとした。房室へやに母の嫌いな犬が入り込んできたから追い出したのだ。あのまま放っておくと中は荒れるし、母が下僕に命じて殺してしまうだろうから。


 狼家の女がそんなにはしたなくてどうするの、と、彼女は絹袖で口を覆った。まるでくさいものを見るかのように娘に首を振った。


 女はおとなしく男たちに従っていればいい。それが母の考えだった。女は一族の為に子を産みやす。庇護され、慈しまれて当然であり、守られて然るべきもの。わざわざ男に混じって危険なことをする必要はないし、してはならない。力も強さも男のほうが勝るのだから、女は女の務めを果たし、蝶よ花よと愛でられ尊ばれていればそれで良い。染みひとつない手を撫でながら、母は言葉の裏でそう言った。


 実際、彼女は本心からそう信じていたし、そうしてただ自身の美しさを追求し、夫により愛されるにはどうしたらいいかをひたすら考える時を過ごすことを許された身分の者だった。父もそんな妻を大事にしていて、互いに幸せなのだとは分かっていた。しかし、自分はそれを言う時の母が嫌いだった。


 残念ながらそれからすぐに病で亡くなってしまい、幼稚なままだった自分が本気で意見をぶつける機会はとうとう無かった。母は最期まで感情を強く表に出すことなく静かに逝った。大声でわめくところも、歯を見せて笑う姿もついぞ見ないままだった。正直、顔ははっきりとは思い出せない。ただ、気分に合わせて香を楽しんでいた姿だけが脳裏に焼きついている。


 晩年、よく甘い香りを漂わせていた。すこし粉っぽく鼻につくそれが麝香じゃこうだと知ったのはつい最近のことだ。その匂いは最も母親の記憶を呼び覚ます。そして、まさに今も鼻先に感じた。





 上から氷柱状に垂れ下がる岩からしたたる水が薄く開いた瞼に当たった。冷たくて急速に夢から現実へと引き戻される。


 慌てて起き上がろうとして動かした節々の痛みに呻いた。しかし、右脚の膝から下の感覚は無い。掛けられていた衾衣ふとんをがばりと払うと、腿の半ばから薬草を磨り潰したものと布で覆われ、倍に膨れた色の悪い足先だけが覗いていた。


 天波はじっとりとあぶらの浮いた額を拭った。頭の芯がぼうっとして熱い。周囲を見回せば大きな洞穴のなか、頭の横には小さな毬香炉まりこうろが置かれており、覚醒を誘った麝香の匂いはこれだった。体を検分する。所々に受けていた傷もすべて手当てされていた。ほぼ全裸だが寒くはない。洞内は外気が遮断されて暖かい。とはいえひとつくしゃみをして、被せられていたのをまた手繰たぐり寄せた。

 傍には熾火おきびが焚かれており、天波の着ていたものは乾かすために岩の上に広げられていた。どこかで滴音がする。ひどい喉の渇きを感じ水を探して立ち上がろうとした。と、気配を感じて振り返る。


「起きたか」


 天波を助けたあの男が歪に伸びる石筍せきじゅんの間を縫って現れた。平静と腰を下ろし、抱えていたものを降ろす。小ぶりな二頭の兎だった。火を挟んでこちらに顔を向ける。「気分はどうだ」

 最後に見た時と同じく裹頭姿で表情は分からなかったが、声の調子はやはり穏やかだった。

「あの、ありがとう。おかげで本当に助かった……水は、あるかな」

 かすれ声で言ったのに彼は革囊かわぶくろを差し出した。

「もといた洞穴に戻るのは危険と思ったゆえ、お前の荷はまだあちらに置いたままだ」

「……鳥は」

 首を振った。「残念ながら。しかし城へは私が伝令を出したから心配ない。ここはお前がもといたところから南東に歩いた別の洞だ。谷の中央らへんに近い」

 天波はぼんやりと聴いていた目を剥いた。

「待て。いったい何日経った?他の者たちは結局どうなった?李酉を知らないか、私と一緒にいた伴當はんとうだが」

 男は矢継ぎ早に問うた少女から目を焚火へ移した。

「……お前は二日寝ていた。私が助けたのはお前一人だ。ここに来てその間襲撃はない。城からの知らせ以外鳥もない。苣火のろしも…上がっているのは見ていない」

「……そうか」


 天波は力を失くして背を丸めた。痛む頭を押さえる。なんということだろう。しかし、実際に襲撃にった。おぞましい気を放つ妖魔。あれは紛れもなく人でも獣でもない。やはりあれがそうなのだ。顔を覆った指の間から声を絞り出した。


「皆……やられたのか」

 これには男は答えなかった。ただ黙って枯れ枝を折る。

「二回目にあれが来た時、私の家付きの姿だったんだ。まったく気づかなかった…………」

「夢を読まれたか、もしくは寝言を聞かれたか。考えている時があまりに長すぎたか。あれはさとりの化物だから、こちらの意識を読む技に長ける」

「それだけで?なあ、まさかだけど、潭凱はあいつに食われたりしていないよな?」

 もしそうだったら、とそそけ立ったが、男は興味なさげにまたひとつを火に放った。

「あのやかましい僚班りょうはんだろう。このあいだ城に怒鳴り込んできて騒ぎを起こした。今ごろ謹慎になり見張られている」

「そ、そうか…………」


 それならば大丈夫か、と安堵したが、自分が選んだ探索隊が失われたことは変わらない。しばしの時を仲間をいたむために費やし、それから大きく息を吐いて顔を上げ、無言のままの男を見た。


「お前は加勢しに来たと言ったな?あの連れていたものは猋だろう?」

 是、と頷いた。

「当主が猋をお遣わしに?」

「城では麅鴞について過去の文献を洗いざらい調べていた。当主はこの谷に居るものがやはり麅鴞で間違いないと確信を得たようだ。谷に入った者たちを憂慮して猋を動かした」

「お前は?」

「当主から一時的に猋を預かった。二十いる。いまはこの洞の入口を守らせている」

 そうではなく、と天波は首を振った。

「当主からわざわざ遣わされるほどだ。伴當か?名を訊いても?」

「ああ……素律そりつだ」

「…………申し訳ない、聞き覚えのない名だ。私は不心得者であまり出仕していなかったから、存じ上げないのかもしれない。すまない」

 いや、と素律は目を伏せた。「私もあまり人と交流していないから、お前と似たようなものだ」

「私は天波だ」

 すると彼は初めて笑ったように目を細めた。

「お前は有名だから知っている。尸位素餐むだめしぐらいの狼家の長子」

「ひどい言われようだ。事実だが」

「自分で了解しているのか」

「ああ。でも、なにもたださぼっていたわけじゃない」

 頬杖をついた天波に、素律は、ふ、と息を吐いた。

万騎はんきに口止めしても無駄だぞ。あいつらは話好きだ。繋がりの深い伴當にはすぐ耳に届く」

「私が内密に出兵したことまでばれてるのか⁉」

「まあ、それも知っていて当主はお前に今回のことを任せたのだろう」


 天波は乾いた笑いを浮かべた。それが事実ならこの探索は罰としての意味合いもあったのだろうか。だとしたら自ら名乗りを上げた自分はさぞ滑稽だったろう。


 そういえば、と素律は薬草を石の上で潰しながら問うた。

「なぜお前は初めから、この任を万騎が断ると言い切っていた?金を積まれれば飛びつく奴もいそうだが」

 天波は掻き合わせた衾衣にくるまっててのひらを火にかざした。

「万騎は基本的に勝算のある戦しか受けない。確実に領地に帰って報酬を満額受け取れるような仕事しかしない。こんな敵の得体もしれない帰還できるかも分からない不確かな任はどんなに大金を提示されたって受けないさ。万騎は当主の私兵じゃなくて傭兵だもの。登狼登虎も彼らには関わりないからなおさら命を張る道理がない」

「万騎の物の考え方をよく分かっているようだな」

「だが万騎がなんでも金に動くと思って汚れ仕事を押しつけようとする僚班がいかに多いかも知っている。だけど、彼らには彼らなりの考えがある。そこは履き違えるべきじゃない」

 素律は天波の言に肯定も否定もせず、ただ呟いた。

「お前は万騎が好きなのだな」

「ああ。私は伴當よりも万騎になりたかったんだ」

「奇特だな。名家出身で万騎に?」

 悪いか、と額を拭った。素律は淡々と手を動かす。

「万騎が使えないゆえ、てっきりはじめから子飼いの下僕を連れていると思っていた」

「確かに潭凱は優秀だが、なにがなんでも私を守ろうとする。私も無意識にひいき目で見てしまって任務に集中できない。公私混同は避けたい」

「ほう。素行のわりに存外真面目だ」

「それはどうも」

 短く返して、深く息を吸った。話すのが苦しくなってきた。体は熱いのに外側は悪寒がする。そんな様子を見て取り、素律は焚火をまわって近づいた。おもむろに布をめくって天波の脚を晒す。

「――なんだ?」

「寝ているあいだ、ひどい汗をかいていた。それでまた冷えたのだろう。一度体を洗ったほうがいい。丁度よく奥に湧き水がある。しかも湯で少し熱いくらいだ。あたたまれる」

 本当か、と目を輝かせた。じつは肌の粘ってべたつく感じが大層不快だったのだ。

 素律は天波の右脚に巻いたものを丁寧に取る。皮膚は敵に絡め取られたあとが水膨れのように腫れて青紫色になっていた。

「触ると痛むか?」

「まだ……少し」

 素律はひとつ頷き布にくるまったままの天波を軽々と抱え上げた。呆気にとられて声も出ないのには頓着したふうもなく、洞穴の奥へと足を踏み出す。

「しばらく我慢しろ」

「いや、大丈夫だが……」

 正直どうすればいいのか困っているこちらに気づく様子もない。すらりとした体格によらず安定感のある腕に支えられ、いたたまれなくなり顔を逸らした。潭凱とも唯真とも違う男の感触に狼狽うろたえた。


 緩い坂を下ると湯気が沸き立つ水のほとり、素律はふちに天波を降ろす。


「飲まなければ特に害はないようだ。奥は深さが分からないから行くな。――衣を寄越せ」

「いやあの、」

 天波は思わず肩を抱く。これを取れば素裸なのだが。

 素律は呆れた息をついた。

「暗くてよくは見えない。というか、傷の手当てをしたのは私だぞ、今さら」

「それとこれとは別だろう」

「……分かった。後ろを向いておくから、さっさと入れ」


 有無を言わせぬ口調に従い、おずおずと衣を脱ぐと肩まで水に浸かる。岸の水深は腰を下ろしてそのくらいだった。そういえば、と後ろ手に衣を受け取った背を見つめる。襲撃の際、荷をすべて置いてきてしまったようだから、この衣は彼のものだ。そう考えると汗まみれにして悪いことをした。


 水は素律の言ったとおり熱いくらいの湯で、天波はしらず、ふう、と息を吐いた。脚は痛むがそれよりも不快感から開放されて心地良い。しばらくそうしていて、はたと気がついた。男がまだいる。

「ちょっと」

 背を向けて腕を組んでいたほうは、なんだ、と返す。

「なぜいる」

「歩けないのにどうやって戻ってくると?」

 それはそうだが、と天波は口を尖らせた。

「じゃあ、しばらくして来てくれればいいから」

「こう暗くては何かがあったときに対応できない。入口は猋が守っているが万一ということもある。いまは独りになるべきではない状況だ。分からないか」


 分かっているけれども、と更に返事に窮す。気まずいことには変わりない。それなら話しているほうが幾分ましだ。そう思って声を掛けた。


「素律は、あれが本当に麅鴞だと思うか?」

「どうだろうな。今まで出遭ったことがなかったゆえ絶対とは言えないが、明らかに尋常でない気だった」

 天波も思い出して頷く。髪をほどいて水に揺らした。

「あれはかくという、もとは老猿の妖だと言っていたひともいたけど、一理あるかもしれない。なんでもそいつは人の女をさらって妻にするそうだ。だから女は殺さないのかも。一人だけ生きて帰ってきた鈴丞りんしょうも女だし、今回は私より李酉が先に襲われた」

「であればなおのこと危険だろう。狙われているということだ」

「そうかな。殺してはまずいと思っているならその隙を突ける」

 それに、と笑った。

「もし私を狙うのなら攫い損だな。私はまだ女じゃないから」

 直後、失言に気がつき、しまった、と口を押さえる。こういうことを男に言うと困らせるのだった。つい気が緩んで潭凱に話すようにはばかりなく言ってしまった。

「……なるほどな。お前が假小子おてんばの理由が少しは分かった」

 素律は溜息とともに返した。しかし、と話を続ける。

「もし仮にあれがその化物ならば、子を産まない女はそのまま仲間にしてしまう、とも。十年もすれば同じ姿になり、人だった頃のことを忘れてしまうらしいぞ」

「そんな話もあったのか⁉とんでもない奴だ。ますます野放しでは帰れないな」

 反応がおかしかったのか、少し笑った気配がした。

「どのみち、長丁場になる。お前は脚が治るまで動けないし、あっちは最悪なことに人に寄ってくる大凶。我々を追って領内に引き入れてしまうのは絶対にあってはならない。もうどうあってもここで討ち取らなければならなくなった」

 だからこそ貴重な猋が二十も派遣された、と呟いた。

「……私たち、二人でやるのか?」

「頭数を増やしたとて探索隊の二の舞になる。これ以上伴當も僚班も欠かしたくはないだろう。人のにおいを辿って街に行かれたらそれこそ大惨事だ」

 天波はできるのか、という疑問の沈黙を投げかけた。素律はまた息をつく。

「いまのところ、なぜか奴は谷から出ようとしない。我々がいるかぎりこちらに気を取られて他所よそへは行かないだろう。やるしかない」

「……すまない。足を引っ張って」


 素律はひとりでもやるつもりだろう。もちろん、もう選択肢などない。しかし、あれほどの脅威をたった二人で倒せるのか、天波にははなはだ疑問だった。いまだに異形の敵と対峙したときの、おののいて言うことをきかなくなった身体からだの感覚が忘れがたい。


「怖いか」

 静かに訊かれて俯いた。

「怖い。けど、みんなの無念を晴らすと決めた。絶対に退治して帰って、それで当主に一言物申す」

「……?何を?」

 天波は淵に縋って座り込み髪を絞る。

ふるいものにしがみついたままじゃ、こういう避けられたはずの危機がこれからも起きる。それに対処も遅れる。登狼登虎がそもそも行う必要のあることなのか、審議してもらいたい。現に、万騎は受けていないけど十分に一族の力となっている。正直今の一族は私には家柄だの名家だの、そういうことを重んじすぎて自分で自分の首を締めにかかっているような気がしてならない。それを一度じっくり考えてもらう切欠になるかもしれない」

 反芻する間を置いて素律が首を傾げるのが分かった。

「……面白いことを考える。一族の革新、か」

「そう言うと大袈裟かもしれないけど、私が何より嫌なのは死ななくていいことで仲間が死ぬことなんだ。伝統を重んじた上での死があまりにも多すぎる。その最たるものが登狼登虎だと私は思う」

 素律は岩にもたれた。

獅子ししの子落とし、というものを知っているか」

「なんだそれは」

「どこかの異国のたとえ話だ。子に苦難を与えその力を試すという。獅子という伝説の獣は産んだ子を谷に落とし、這い上がって来られたものだけを育てる」

 説明し目を細めて洞穴を見渡した。

「ここはまさに千仭せんじんの谷だ」

「そんなことをしてどうするんだ」

「わざと試練をつくり子を成長させたいということだろう」

「死んだら意味無いじゃないか。それに、私たちは犬猫のように子をやせはしない」

 まあ、もっともな意見だ、と素律は肩を竦めた。

「しかし登狼登虎を通過した者は心身において強靭で逆境に忍耐強い者が多いのもまた事実だ。弱小一族である我々の繁栄に貢献していることは否定できない」

「それはそうかもしれないけど……お前は、これからもこのままで良いと?」

「伝統とは正か悪か、義か不義かで容易たやすく判断できるものではない」

「……私が当主だったら、こんなのやめさせたい」

「とはいえ常に時代の様相をかんがみそぐわないと感じる慣例への改革についてを考慮するのは決して無駄ではないだろう。正直驚いた、そんなことを考えているとは。じゃじゃ馬なだけではないようだな。お前歳は?」

「十六。もう子どもじゃないぞ。そういうお前も、私が言ったことを頭ごなしに否定しないんだな。いくつなんだ?」

「意見とはたとえ自身の考えと異なっていても広く聞くものだ。私は十九だ」

 それほど歳が離れていなかったことを意外に思う。素律は終始、年齢とそぐわない、悟ったような雰囲気を醸し出していたから。


 見透かしたのか、彼は頭を振った。

成人おとなならもう少し落ち着け」

 余計なお世話だ。天波は足許に水をかけてやった。




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