〈一〉



 あれほど身を刺すように降り注いでいた陽は徐々に力を弱め、払暁ふつぎょうを大分過ぎても房室へやの中に降り注ぐのは白く弱い光で、それは室内にわずかに漂う塵埃じんあいをきらめかせ、ただ静かに窓の欞花もようの影を床に落とすのみ。小さな窓辺に音もなく寄ると、気温差で薄く曇った玻璃をてのひらで拭った。

 首を少し竦ませるひんやりとした冷気で肺を満たした。ゆっくりと顔を覆った布を解く。


 素顔を晒せるのは独りになった時だけだ。しかしそれは単に窮屈なものを全てとっぱらって開放感を味わいたいだけで、自分自身は今も昔もこの顔に寸毫すんごうも興味が無い。もう何年も鏡を見ることはなかったし、これからもおそらくないだろう。


 ではあるが、時おりえぐられた皮膚がうずいてたまらない。傷痕はすでに乾き、肉は塞がっているものの欠損は戻ることはなく、偶然目にした者はみな、醜いらしいこの顔に慌てて視線を逸らす。実の母親でさえも見てはいけないいとわしいもののように眉をひそめた。己としては身に帯びた武勲程度にしか思っていなかったけれども、周りの人間にとってはもっとおぞましいものなのだと分かってからはほんの少しだけ引け目に感じた。隠さなければならないと思えば思うほど傷の痛みが増すようで、時おり自分の小心に呆れて自嘲する。


 悩みの種はそればかりではなく、傷を受けた時に入り過ぎた毒のせいで確実に不調を来たしているということだった。これは諸刃の剣だった。この毒は尋常ならざる力を引き出すと同時に生命をむしばむ。均衡が崩れた時が終わりの時だと、肉体は警鐘を鳴らしていた。


 疼痛は以前のような安穏とした生き方に戻るのがもはや不可能であることをまざまざと思い知らせる。幼い頃から、こと人間関係において自分がどこまでも不器用であるのには自覚があった。実の親兄弟とさえも満足に意思疎通できず、言われるまま流されるままに道を決めてきた。許されたのはほんの少しの自由だけ。とはいえ半分は他者に強制されてきた人生ではあったけれども、良きにしろ悪きにしろ、変わらず静かに波風なく過ごしてきた。



 しかし、状況はすでに一変した。自分は一族の王になってしまったのだ。



 一族には掟がある。王――族主になるには『選定せんてい』を受けなければならない。ついこの間すべからく受け、一族の使役する妖を支配下に置いた。ヒョウと呼び習わすそれは現に今、足元に伏している。巨狼はおとなしく喉を鳴らし、鋭利な鉤爪を持つ後肢で耳を掻いた。紛れもなく自身に傷と毒を与えたのはこれだったが、死闘を経てこうして従わせてみれば恨みなどはなくむしろ愛着が湧いた。抱えるほどもある頭を撫でて、しかしながら無意識に嘆息する。目下の憂いはまさにこの傷痕のことだった。



 生まれて初めて好いたといえる女ができた。十五で成人してからというもの、家に従うままにさいめとってきたけれども自分にとってそれはただたねを残すためだけの作業でしかなかった。ほとほと嫌気が差して自棄やけになり訪れた花街で彼女と出遇った。


 美しく英悟でたおやかな女だった。なぜお前のような者が妓女になっているのかと問えば柔らかく笑んで首を振った。異人の自分には、行く場所がないのだと。確かに彼女はの血を色濃く受け継いだ青い瞳と獣皮色の巻き毛を持っていた。こちらの目にはそれはとても神々しく眩しく見えたものだが、一族にとってはそうではないらしかった。


 傷を負ってから彼女には会っていない。少なからず驚かせ、憐れまれることが分かっているから二の足を踏んでいた。


 何度目かの溜息を聞き咎めたのか獣が鼻を上向けた。見返して微笑み、遠くで聞こえる足音が近づいてくるのを感じて、顔に布を巻き直した。



「当主。お時間です」



 隔扇とびらの外から呼びかけられた声に分かった、と返事し、ふと先ほど拭った窓の外を見る。秋の空気はぴんと張りつめ、霧を濾して冴える緩やかな風のむこうに峻厳として巨大な雪山が佇んでいた。それに目礼すると、外で待っていた男の肩を叩く。



蛍星けいせい。今日も宜しく頼む」



 はい、と相手は穏やかに微笑む。蛍星は乳兄弟であり替身みがわりで、いわばもう一人の当主だ。常には身分を隠してたんと呼んだが、本名で呼ぶのが好きだったから二人きりの時は使うことがなかった。族主になって三月みつき、いまだ他国との商談や臣下たちとの会合は馴れないままのなか、彼の存在は心強い。肩を並べて走廊ろうかを歩きながら、蛍星は周囲をはばかり小声で言った。


「今日の合議は長引きそうですね」

「そのようだ」


 困ったことになりました、と蛍星は憂うように空を見上げる。つられ、自分たちの心情など知ったことではないというような雲ひとつない晴天に目を細めた。







 微睡まどろみのなか、素足を撫でる絹の被衾かけぶとんの肌触りが心地よく、何度も脚を伸縮させて感触を楽しむ。夢の中で誰かが甘く囁く。存分に楽しめと。流れ落ちて漂う意識、しかしそれは突然弾けた。囁きは実際には怒号、誘惑は厳しい叱咤で、天波てんは寝惚ねぼけたまま牀榻しんだいの上で身を起こした。


 瞼をこすった視界に見えたのは困りきった表情の少年、天波が着けていた護耳みみあてを小卓の上に置いた。

「姉上。いい加減に起きてください」

 おお、と欠伸あくびをしてみせた。

「早いことだ唯真ゆいしん。何用だ?」

「何用だ、ではありません」

 唯真は手を叩く。「今日は重要な合議があると言いましたよね?早く準備なさってください」

「分かっているさ。しかし、なぜお前が?」

 弟は厳しい表情で出入口を指差した。呑気に胡座あぐらをかいて伸びをしている天波を見て人影が慌てて背を向ける。

潭凱たんがいがどれほど声をかけても起きないと私に泣きついてきたのです」

「すまん。護耳をしているとつい眠りが深くなる」

 唯真はさらに困った顔で腰に手を当てた。

ろう家の長子ともあろう御方が。姉上の奔放ぶりは目に余ると私まで嫌味を言われているのですよ。分かっておいでですか」

 天波は笑ってその肩に腕を回した。「まあ、そう熱くなるな。言いたい奴には言わせておけ。ところで湯浴みの時間はあるかな」

 唯真は何度目かの溜息をついた。「早く入らないと冷めてしまいます」

 よし、と飛び降りる。腕を組んで颯爽と小房こべやの外へ出た。素足のまま石床に立つ。

「潭凱」

 は、と返事をして、天波よりいくらか歳上の男は膝をついた。彼は狼家の家付いえつき――つまり下僕の青年で、おもに天波の護衛を務めている。


「馬の具合はどうだ」

「調子の悪いものはおりません」

「得物はどうだ」

「万事調ととのえてございます。刃こぼれひとつありません」


 ふ、と天波は微笑み、ひざまずいた男の目の前に腰を降ろした。そのままわしゃりと頭を撫でる。

「完璧、完璧。潭凱はいい子だ」

 睡衣ねまき一枚で開いた襟元の豊かなそれが眼前に迫り、潭凱は深く俯いた。姉上、と唯真が呆れる声を出し、当の本人は不思議そうに見上げる。

「どうした」

「もういいですから、さっさと湯殿ゆどのに行ってください」

 姉の背を押して追いやってまたもや息をつく。俯いたままの下僕を見下ろした。

「ごめん、潭凱。あの人はほんとうに慎みというものがなくて」

 いえ、とそちらは立ち上がる。生真面目な顔が主人の後ろ姿を追い、憂うようにかげりを帯びた。

「逆に心配です。お嬢のあの型破りなお人柄が、何がしかの危険を招かないか……」

「危険?」

 問い返した唯真にはそれ以上答えず、潭凱は心の中でざらついた不安を持て余す。



 天波は成人してからというもの、ますます強く、そして美しくなった。通り過ぎれば誰もが振り返るほどの麗姿、黙っていると玲瓏れいろうとして近寄り難い面立ちだが、口を開けば物売りの店主おやじと話しているような、そんな気安さを感じさせる鷹揚な性格で、実のところその落差に。しかも本人が無自覚だから尚更たちが悪い。知らず知らずのうちに人を籠絡して勝手に支持者が増えており、それは街の者に限らず城に仕える者たちにまでも拡大している。本人には知らせていないがすでに縁談の話が引く手あまた、名のある家からは是非にと使者が連日のように押し寄せている。真面目なところもある天波がそれを聞けば追い返すのは申し訳ないとして絶対に会おうとするから、潭凱はじめ周囲の者が阻止している始末だ。


 潭凱はもともと孤児だった。それを狼家の家督で天波の父、狼家大人たいじんに引き取られて家付きとして育てられた。天波や唯真が生まれた時から仕えてきたので彼女らのことは誰よりも分かっているつもりだ。天波は幼い頃から天真爛漫で側仕えとしてあてがわれた潭凱を大いに困らせた。しかし同時に妙に人を惹きつける気を纏っていて、惹きつけられた側からすればまるで蜜を垂れた大輪の花のような、抗いがたい魅力に溢れていた。今でも変わらず、むしろ成長と共に増している。それが潭凱にはひどく気がかりなのだ。寄ってくるのはなにも無害な蝶ばかりではない。


 少しでも自覚してもらえないかと頭を悩ませていると、しずくを垂らした髪のまま軽装の当人が爽やかに現れた。

「待たせた!」

 威勢よく言ったさまはまるで小童こわっぱだ。潭凱は壁にもたれていた背を離し、やれやれと手巾てぬぐいを差し出した。

「湯冷めしますよ。もう夏じゃないのですから。それにそんな薄着で」

「なんだ。昔みたいに拭いてくれないのか」

 つまらなさそうに言ってきたのに頬をひくつかせた。こちらが気を遣ってあえて触れないようにしているのが分からないのだろうか。

「お前に頭の按摩あんまをしてもらうのが好きなのに」

 唇を突き出したのを見て盛大に溜息を漏らす。

「おねだりばかり上手くなって」

「何か言ったか?」

 いいえ、と首を振り、魚背うおぜのようにつや跳ねる漆髪うるしがみを手巾で包む。頭越しに呼びかけられて指を動かしながら窺う。

「やはり伴當はんとうはつまらないよ。本気で万騎はんきになろうかなぁ」

「またそんなことを。主公だんなさまがお許しになりませんよ」



 城仕えには位がある。一族の長たる当主に謁見できる最低限の位を僚班りょうはんといい、中でも重臣のことを伴當という。召してもらうにはそれ相応の試験があり、前者になるためのものを登狼とうろう、後者を登虎とうこといってどちらも常人では通過できない難関だ。特に一族の中から二十四人しか選ばれない伴當には並大抵のことでは選任されない。


 天波は齢十二で早々に登狼に受かって僚班となったが、長らく駄々を捏ねて登虎を受けようとしなかった。やっと重い腰を上げて受けたのは十五の成人になった去年だ。


 彼女は城の中枢にいるよりも外の世界を好んでいた。つまりは領地から各国に派遣する傭兵部隊、万騎に入りたいと望んでおり、これまでも何度かこっそりついて行ったことがある。万騎は当主と個々に契約した兵でしがらみ少なく自由度が大きいが、そのぶん危険な任務が多い。所属する兵たちは気性荒い者が過半だった。そんな万騎に大名家狼家の家督が大事な娘を入れるはずはなかった。


 とはいえ案の定、天波はよほどの大事でないかぎり城で開かれる合議に参加しようともしない。あらゆる特権と莫大な禄を与えられる身分、当主を拝顔できる貴い立場だというのに、今でも自らが仕える王の顔さえよく知らないのだった。



「伴當といっても末席だもの。当主なんて豆粒だぞ、豆粒。わざわざ見ようと頭を上げなきゃ見えないだろう」

秋祭しゅうさいの叙任式をほっぽり出すなんて前代未聞でしたが?」

「しょうがないだろ、炊き出しを手伝っていたのだもの。どのみち冬至と正月には直々にお言葉をたまわるんだ。焦る必要もない」


 ひとつに括った髪を優美に揺らし、天波は馬に跨った。潭凱も連れ添う。潭凱は天波と共に登狼を受けたが、目的は主を守るのに城へ入る特権を得るためだったから、彼もまた当主にはさほど関心はない。それに今日の合議は僚班も召集されたと聞いたので王は顔を晒してはいないだろうと思われた。




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