〈一〉
あれほど身を刺すように降り注いでいた陽は徐々に力を弱め、
首を少し竦ませるひんやりとした冷気で肺を満たした。ゆっくりと顔を覆った布を解く。
素顔を晒せるのは独りになった時だけだ。しかしそれは単に窮屈なものを全てとっぱらって開放感を味わいたいだけで、自分自身は今も昔もこの顔に
ではあるが、時おり
悩みの種はそればかりではなく、傷を受けた時に入り過ぎた毒のせいで確実に不調を来たしているということだった。これは諸刃の剣だった。この毒は尋常ならざる力を引き出すと同時に生命を
疼痛は以前のような安穏とした生き方に戻るのがもはや不可能であることをまざまざと思い知らせる。幼い頃から、こと人間関係において自分がどこまでも不器用であるのには自覚があった。実の親兄弟とさえも満足に意思疎通できず、言われるまま流されるままに道を決めてきた。許されたのはほんの少しの自由だけ。とはいえ半分は他者に強制されてきた人生ではあったけれども、良きにしろ悪きにしろ、変わらず静かに波風なく過ごしてきた。
しかし、状況はすでに一変した。自分は一族の王になってしまったのだ。
一族には掟がある。王――族主になるには『
生まれて初めて好いたといえる女ができた。十五で成人してからというもの、家に従うままに
美しく英悟でたおやかな女だった。なぜお前のような者が妓女になっているのかと問えば柔らかく笑んで首を振った。異人の自分には、行く場所がないのだと。確かに彼女は外の血を色濃く受け継いだ青い瞳と獣皮色の巻き毛を持っていた。こちらの目にはそれはとても神々しく眩しく見えたものだが、一族にとってはそうではないらしかった。
傷を負ってから彼女には会っていない。少なからず驚かせ、憐れまれることが分かっているから二の足を踏んでいた。
何度目かの溜息を聞き咎めたのか獣が鼻を上向けた。見返して微笑み、遠くで聞こえる足音が近づいてくるのを感じて、顔に布を巻き直した。
「当主。お時間です」
「
はい、と相手は穏やかに微笑む。蛍星は乳兄弟であり
「今日の合議は長引きそうですね」
「そのようだ」
困ったことになりました、と蛍星は憂うように空を見上げる。つられ、自分たちの心情など知ったことではないというような雲ひとつない晴天に目を細めた。
瞼を
「姉上。いい加減に起きてください」
おお、と
「早いことだ
「何用だ、ではありません」
唯真は手を叩く。「今日は重要な合議があると言いましたよね?早く準備なさってください」
「分かっているさ。しかし、なぜお前が?」
弟は厳しい表情で出入口を指差した。呑気に
「
「すまん。護耳をしているとつい眠りが深くなる」
唯真はさらに困った顔で腰に手を当てた。
「
天波は笑ってその肩に腕を回した。「まあ、そう熱くなるな。言いたい奴には言わせておけ。ところで湯浴みの時間はあるかな」
唯真は何度目かの溜息をついた。「早く入らないと冷めてしまいます」
よし、と飛び降りる。腕を組んで颯爽と
「潭凱」
は、と返事をして、天波よりいくらか歳上の男は膝をついた。彼は狼家の
「馬の具合はどうだ」
「調子の悪いものはおりません」
「得物はどうだ」
「万事
ふ、と天波は微笑み、
「完璧、完璧。潭凱はいい子だ」
「どうした」
「もういいですから、さっさと
姉の背を押して追いやってまたもや息をつく。俯いたままの下僕を見下ろした。
「ごめん、潭凱。あの人はほんとうに慎みというものがなくて」
いえ、とそちらは立ち上がる。生真面目な顔が主人の後ろ姿を追い、憂うように
「逆に心配です。お嬢のあの型破りなお人柄が、何がしかの危険を招かないか……」
「危険?」
問い返した唯真にはそれ以上答えず、潭凱は心の中でざらついた不安を持て余す。
天波は成人してからというもの、ますます強く、そして美しくなった。通り過ぎれば誰もが振り返るほどの麗姿、黙っていると
潭凱はもともと孤児だった。それを狼家の家督で天波の父、狼家
少しでも自覚してもらえないかと頭を悩ませていると、
「待たせた!」
威勢よく言ったさまはまるで
「湯冷めしますよ。もう夏じゃないのですから。それにそんな薄着で」
「なんだ。昔みたいに拭いてくれないのか」
つまらなさそうに言ってきたのに頬をひくつかせた。こちらが気を遣ってあえて触れないようにしているのが分からないのだろうか。
「お前に頭の
唇を突き出したのを見て盛大に溜息を漏らす。
「おねだりばかり上手くなって」
「何か言ったか?」
いいえ、と首を振り、
「やはり
「またそんなことを。
城仕えには位がある。一族の長たる当主に謁見できる最低限の位を
天波は齢十二で早々に登狼に受かって僚班となったが、長らく駄々を捏ねて登虎を受けようとしなかった。やっと重い腰を上げて受けたのは十五の成人になった去年だ。
彼女は城の中枢にいるよりも外の世界を好んでいた。つまりは領地から各国に派遣する傭兵部隊、万騎に入りたいと望んでおり、これまでも何度かこっそりついて行ったことがある。万騎は当主と個々に契約した兵でしがらみ少なく自由度が大きいが、そのぶん危険な任務が多い。所属する兵たちは気性荒い者が過半だった。そんな万騎に大名家狼家の家督が大事な娘を入れるはずはなかった。
とはいえ案の定、天波はよほどの大事でないかぎり城で開かれる合議に参加しようともしない。あらゆる特権と莫大な禄を与えられる身分、当主を拝顔できる貴い立場だというのに、今でも自らが仕える王の顔さえよく知らないのだった。
「伴當といっても末席だもの。当主なんて豆粒だぞ、豆粒。わざわざ見ようと頭を上げなきゃ見えないだろう」
「
「しょうがないだろ、炊き出しを手伝っていたのだもの。どのみち冬至と正月には直々にお言葉を
ひとつに括った髪を優美に揺らし、天波は馬に跨った。潭凱も連れ添う。潭凱は天波と共に登狼を受けたが、目的は主を守るのに城へ入る特権を得るためだったから、彼もまた当主にはさほど関心はない。それに今日の合議は僚班も召集されたと聞いたので王は顔を晒してはいないだろうと思われた。
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