『二章:友愛』
大学教授は世間で思われているほど金になる商売ではない、という俗説をどこかで聞いたことがあったが、少なくとも菊池はそこまで金に不自由しているわけではないらしい。
大学に停めてあった明らかな高級車をぞんざいに扱いながら岡朋美の家へ向かう彼女を見ながら、そう思う。
「お義母さんはお姉ちゃんが死んだことを伝えられてません」
片手運転で適当にハンドルを操りながら菊池は口を開いた。
「まだ六十代なんですけどね。実は私たちのお父さん、お母さんの夫はほんの二週間前に死んじゃってるんすよ。その上で娘もってなるとちょっと精神の負担が大きすぎるってことで一旦何も伝わってなくって。そういう訳なんで話を聞くにしてもまーくんも記憶喪失だってことは伏せて話してくださいす」
父親が死んでいるということは病院を出た後携帯を見て把握していたが、詳細までは知らなかった。
事情を聞くに、二週間前娘、つまり相本美録に会いに行く途中交通事故にあったそうだ。
原因はアクセルとブレーキの踏み間違えと、高齢ドライバー問題を感じさせる理由であった。
「なるほど、わかりました。ちなみに相本間近さんとお義母さんの関係は?」
「それがですねー相本さんこれで案外人間関係を築くのが得意だったんすよね。顔がいいのもあるんでしょうが、なんというか」
人の弱みに付け込むのが上手かった。
彼女はそう評した。
「悪い意味じゃないんすよ。ただ誰でも持ってる人の心の闇とか暗い部分を見つけて、すぐに寄り添えるタイプだったんす。だから上川さんみたいな厄介な例も多いんでしょうけど、とにかくお母さんと相本さんは義理の親子とは思えないくらい仲が良かったんす。お母さんも娘以上に相本さんを気に入ってたんじゃないかってくらいで」
それはなんというか、相本間近の恐ろしい部分に思えた。
人一倍心に闇を抱えた人物がそれ故に人の痛みに敏感で、それ故に優しいというのは美談である。しかしそれを積極的に利用したような、どこか打算めいた生き方をしたような、人間関係をただこなすものとして理解したような恐ろしさがあった。
「辛さや寂しさほど付け込みやすい部分はないすからね。私なんかはそういうのがないんで、そういう意味ではあんまり相本さんとは仲良くなかったのかもしれませんけど。あ、もう着きますよ」
車で数時間。奈良県の田舎の家に菊池は車を停めた。
「要はあんまり怪しまれないようにしてほしいす。お母さん勘はよくないんすけど流石に仲の良かった義理の息子が記憶喪失で何も気づけないほど馬鹿ではないす。喋りすぎるとボロが出るし喋らなすぎると違和感がある。聞きたいことだけ雑談交じりに聞いてすぐに去るくらいのやり方にしてほしいんす」
「わかりました」
少々厄介だが仕方がない。今回は義理の母親のところにたまたま娘と寄った義理の息子という形で行かせてもらおう。その中で聞きたいことを聞くという形だが、菊池から聞けずに岡朋子に聞くことはあまり多くない。相本間近と妻の人物評、近況の話が主になるしそこは問題ないだろう。
あとは岡朋美自身について、そして相本間近と妻との関係について、彼女を犯人と疑うわけではないが気にすべきだとも思う。
なんにしても菊池もわかって話を進めてくれるわけで、そう難解な部分はないだろう。
やるべきことを頭の中で整理し、菊池に目配せすると彼女は扉を叩いた。
「おかあさーん」
曰く、インターホンは壊れてから修理していないとのことで、何度か街中ではあるまじきセルフコールをしたのちに、何食わぬ顔で鍵のかかっていない扉を開いた。
外観から想像したよりは数倍綺麗に整理された屋内を少し探索すると、あろうことか庭でぼーっと日向ぼっこをしている岡朋美を見つけた。
「あら遊子また勝手に入って」
こちらを見てそう言うとよっこらせ、と脳内で声が再生されるような立ち上がり方で岡朋美はこちらに近づいた。
背は150くらいだろうか、なるほど六十代にしては老けて見える。髪はほとんど白く、やつれており、格好はずいぶんとボロ臭かった。
「そう思うんならインターホン直しなよー」
「いつか直そうと思ってねえ。あらまーくんも来てるじゃないの急にどうしたんあがってきあがってき」
私の存在に気づくと気を良くしたように岡朋美はそそくさとリビングへ足を戻し、茶を淹れてくれた。
「ごめんねー大したもんないけど。まさか急に家に来るとは思わんからねえ」
「突然お邪魔して申し訳ありません。」
「まーくんと遊びに行っててたまたま近くに来てたからさーせっかくだし顔だけでも出しとこうかなってー」
「あらそうなの思い付きで動きすぎよね」
言葉とは裏腹に迷惑そうになく岡朋美は娘たちの話に相槌を打った。
「仲いいんやねえあんたら。美録抜きで遊びなんか怒られるで」
「妻も今友達と遊びに行っているみたいで、それなら私たちもとドライブに出ているところでして」
即座に私は妻の死を誤魔化す。ちらっと菊池が私の方を見たが、アイコンタクトも良くはないだろうと判断し無視する。
「美録に旅行するような友達いたんかね?うーん」
岡朋美の反応に少しまずかったか、と感じたがそんなもんかねえと気にせず流すことにしたらしかった。
「お姉ちゃんも社交的になったってことだよーねえ、お姉ちゃん最近変わったと思わない?」
菊池は私のフォローと同時に妻の話題を持ち出した。
「んー私は最近会ってないからなあ。前会ったのは正月かねえ。電話したんも、あーでもあの子今ストーカーに悩んでるって聞いたかんね。どっか行きたくもなるんかね」
ストーカー、またこの話である。妥当な推論であればこれが犯人に繋がる鍵なのだろう。
「まあ何もしてこんだけマシなんやろけど困るわなあ。何もなくても本人は精神的に辛いやろし」
「そもそもなんでお姉ちゃんがストーカーに会うんだろうね。あんまり人に会わない生活だったらしいんだけど」
「そんなん犯罪者の考えることなんかわからんよ。でもまああの子もだいぶ変わった子やったからねえ。変わった人に好かれるんかもしれんなあ。ああでも旦那さんにはいい人来てくれてよかったけどね」
くるりと、考えるような姿勢からこちらを向いてフォローする。まあ聞いていた限りでは相本間近は変わり者だったらしいし何もおかしなことはないのだが。
「やっぱりお義母さんの目から見ても妻は変わってましたか?」
「んーああ」
少しこちらを不思議そうに見てから岡朋美は考え込んだ。
「まあ何というか情熱的っていうんかねえ。あんたらもわかるやろうけどとにかく感情で動くような子やったし、それで痛い目にあったことがなかったんが奇跡みたいやったからなあ。なんというかまーくんと付き合った時ももう付き合ったと聞いた時には墓場に入るまで考えてるような口ぶりやったし、まーくんも振り回されながらようついてきてくれたってもんやわ」
ぽろぽろと娘に対する感想が出てくる。どうにもずいぶんと破天荒な妻だったらしく、相本間近もそれに合わせていたようだ。
相本の冷めた人物像からすると感情的で先導しがちな性格の妻が性に合ったということなのかもしれない。
「昔からじっとしとれん子やったし、なんというんかねえずっと子どものままって感じやったね。それは娘二人ともやけども」
そんなことないよーと笑う菊池を見て確かにと思う。
整理すると得られた情報としては、
・妻の性格は子どもっぽく破天荒で感情的
・旅行に行く友達はいない
・ストーカーについて岡朋美が知っていること(ほぼ菊池と変わらず)
・岡朋美は妻とそもそも正月から会っていない。電話程度。
といったところだろうか。
あと気になるのは、一応父親のことも聞いておきたいか。妻の二週間前に亡くなったとのことだったが、動機にかかわってくるかもしれない近況の重大な出来事だ。
しかし最近死んだ人の話を出すのは非常に厳しい。菊池から聞けるだけで留めるのが今後の岡朋子との関係を維持するためにも賢明かもしれない。
「そういう私たちのところはお父さんに似たのかもね」
など、尻込みしている私を無視して菊池は即座に次の話題へと飛んだ。身内にしかできない手法と言える。
「そうねえあの人もあんなことになるまではずっと遊びに行き続けてたしね。まあそうやって娘に会いに行くときに事故にあっちゃったんだから本望というべきかなんというべきかね」
私にも目もくれず娘に会いに行き続けるなんて冷たい人よねえ、とぼやく。
「お義父さんは」
と、ここで言葉を選ぶ。
お義父さんはよく家に遊びに来ていたのか。いやどうにも娘に会いに行くということは相本間近のいないときだったのかもしれない。
馬が合っていなかったのか、あるいは相本間近も流石に義理の父とは接し辛かったのかもしれない。
自分から避けていてもおかしくはないだろう。そういう意味では仕事中にきていたとみるべきか。
「私はお義父さんとはあまりお会いできませんでしたから残念です。私の仕事の時にいらっしゃっていたものですから」
「ああごめんなさいね。どうにもあの人もまーくんとは気恥ずかしいものがあるみたいでねえ。ほら昔気質の人だから、うちに美録をもらいに来た時も殴られてたもんねえ」
なんとか推論から現実を引きずり出し良い回答をできたようだ。しかしなんという父親であろうか。昔気質というより今風に言うならオラオラ系というべきだ。どうにも娘煩悩な父親だったらしい。
とはいえ特別珍しい人というわけでもないし、確かに相本間近のような人間とは合わなそうである。
「お義父さんもストーカーのことを聞いていればいてもたってもいられないでしょうからね。とはいえお義母さんも連れて行ってくれればとは思いますよ。流石に置いていくなんてのは」
そう言って、私は初めて湯呑に手を伸ばした。途中から些か喋りすぎた気もする。ただでさえ今日はもう長く動いているのだ。喉が潤いを欲しているのを感じ始めていた。
しかし、その私の話が終わるよりはやく、岡朋子は、湯呑を床に落とした。
「あ、あんた」
何が起こったのかと驚きそちらを見ると、足元に飛び散った湯呑の破片や茶など気にすることなく岡朋子が目をひん剥いてこちらを見ていた。
「あんた誰よ!」
ぞわっ、と全員の毛が逆立つのを感じた。一番言われてはいけない言葉、いや落ち着けこれは違う。
「お、お母さん何言ってるのよまーくんでしょ」
一瞬の動揺に対応が遅れた私より速く菊池は母親を抑え込んだ。
これはまだ大丈夫だ。記憶喪失だと知られることは痛みでも何でもない。
しかし言葉の衝撃には少したじろぐ。なるほど、私にも覚悟が足りていなかったのかもしれない。
「あんたは偽物よ!私にはわかるのよ!まーくんはね!」
「いや、ここらで失礼させていただきます」
老人とは思えない剣幕で捲し立てだした岡朋子に身の危険を感じ、菊池と席を立つ。
「出ていけ!二度と来るんじゃない!」
ガチャン、と何かが投げつけられるような音が背後から聞こえてくる。玄関を出るまで岡朋子は決して立ち上がりはしなかったがその怒鳴り声は聞こえ続けた。
「まいったな……話過ぎましたかね」
「うーんそうすねえお義父さんの話は憶測で話すとボロが出ちゃうのは仕方なかったですし、攻めすぎた気もしますね。私としてはそんなにおかしなことを言っていたとは思えなかったんすけど」
シートベルトを締めながら、たいして気にした様子もなく菊池は言葉をつづける。
「お義父さんが死んじゃってから精神が不安定な部分があるのかもしんないす。私も知りませんでしたけど。たまには顔出したほうがよさそうすねえ」
「いいんですか?あのまま放って出てきて」
「いいんすよ。むしろいるほうが厄介でしょう。一人にしたほうが気も落ち着きますって」
確かに、あの場で私は居続けるほうが問題だろう。私だけ席を外してもよかったが、どうにも菊池は少し母親に冷たい気もする。
「まだ、まーくんの件が終わってませんしね。第一」
アクセルを踏みながら菊池はにっこり笑った。
「まー君といるほうが面白いす」
なるほど、そういえばこの人は私と仲が良くなかったし、妻にも会っていなかったと言っていた。初めは愛しい姉のために私に手を貸すと言っていたが、よく考えれば変な話である。そして母親が困っていても面倒に見えれば放っておく、彼女のやること言うことのどこかかみ合わなさはこの言葉に起因するのだろうか。
ふと、自分が彼女を容疑者から外して考えていたことに気づく。なんとなく彼女の言葉を信じていたが、彼女もまた岡朋美よりも遥かに犯人に近いのだ。
気を引き締めてかからねばならない。
「事件についてなんすけど、そもそもまーくんは人間関係ばかりで事件そのものに関して聞いてこなかったんですけど、そこらへんの説明をしときますね」
自分の中で考えをまた整理しようとしなおした瞬間に菊池は提案をした。
「ああ、そういやそうですね」
確かに動機から探る程度にしか考えていなかったが普通は犯行現場について詳しく聞きたいものだろう。探偵でもあるまいしそこから犯人を見つけられるとは考えていなかったが、無論妻の死に大きく関わることである。
「まずお姉ちゃんとまーくんはリビングで倒れてたんすけど、凶器として挙げられてるのがそこにあった灰皿なんすよね」
「灰皿?私は喫煙者だったんですかね?」
「いやいや流石に喫煙を忘れないすよ。来客用だったんすかね?お姉ちゃんも吸いませんでしたし。あ、上川さんは吸うって聞きました。家の中では吸わなかったらしいすけど庭で話しながら吸ってて、洗濯物に匂いがついたってお姉ちゃんが怒ってたらしくって。ああ、あとお父さんも吸いますね。あの人は部屋の中でも気にしなさそうす」
見たわけじゃありませんけどね、と付け加えた。
「まあ私が現場に行ったときにその灰皿がなくなってたんですよ。警察も吸い殻なり落ちてたら気づくでしょうし、凶器は灰皿で決まりでしょう」
なるほど。鈍器としか聞いていなかったから凶器は知られていないのかと思っていたがわかってはいたらしい。
「代わりに現場にあったのが変な話なんすけどお二人の結婚指輪でした」
「指輪?」
そう言って自分の指を見る。もちろん指輪などない。
「はい、なんでかわかんないんすけどお二人の指輪は外されて床に落ちてたんすよね。まあでもこれあんまり役に立たないんすよね」
確かにそうだ。もし私が犯人ならばお互い指輪を外す場面があっても不思議でないしストーカーならば自分の好きな女性の愛の証を消したくなるのはわかるからだ。
「で、もう一つはリビングのガラス戸が割られていたことす」
「ガラス戸?」
「まああの家って間取りとして玄関の反対側に庭があるんすけど、リビングからその庭にガラス戸を開けてすぐに出れたんすね。そこを開けてさっき言ったようにまーくんと上川さんは庭を見ながら腰かけて話したりしてたらしいんすけど、そのガラス戸が外から割られて、つまり犯人が外から入ったんじゃないかっていう話なんすよ」
「それはまた犯人がストーカーだと思える話ですね。でも」
「そう。でも、です」
菊池はこちらのセリフを奪って続けた。
「ストーカーが窓を割って室内に入り、灰皿を奪ってお姉ちゃんを撲殺。その前後にまーくんも殴る。というのが妥当な推論す。でもそれだとおかしいす」
「何故鈍器が現場で調達されたのか、ですね」
「そうす。ストーカーなら綿密な計画を立てて殺してそうなもんすよ。実際生活をいくらでも調べられたんすから。私なら凶器は用意しますし、第一寝込みを襲います。これではまるで突発的な犯行すよ」
全くその通りである。金属バットを片手に夜中にベッドに殴りこんだほうが余程手間はかからない。
「第一これって入間ちゃんが学校に行ってる昼間に起こったんすよ。いくらなんでも計画性がありません。そしてこれも疑問なんすけど」
「果たしてそのやり方で二人もリビングで襲えるのか、という疑問ですね」
「そうす。おかしいですもん。窓を割ってきた犯人が不意を突いて一人なら殴れると思いますよ?でも二人とも逃げもせずにリビングで殴られてます。片方が玄関で倒れていたら納得できるんすよ。片方を殴ってから逃げたほうを追って殴る。どうにもまるで片方が殴られている間もう片方は何をしていたんすかね」
「その逃げたほうをリビングに運んだというのは?」
「いやあ聞きたくないでしょうけど二人とも相当な血の量でしたからね。運んで来たら他のところに血が付きますよ」
なるほど、となると。
「私が妻を殺し、外部犯に見せかけるため窓を割って自分の頭を殴った」
「ら、凶器はどこへいったのか、すね。それに明らかにまーくんの傷は自分でできる範囲じゃなかったらしいですもん。傷口も倒れ方も完全に誰かに殴られてたって聞きましたよ」
「うーん」
謎である。明らかに外部犯に見えながらそうでもない。私が犯人かと思えばそれもおかしい。
「何か見落としているのかもしれませんね」
そういう私に菊池は笑いかけた。
「まあ明日もまだなんとか調べられそうなんすよね?どうしますか?」
「そうですね」
今日はもう暗い。大阪に戻るころには日が変わりかけているだろう。
「あ、まず泊まるところがないんすよね。私の家に来ます?夫の部屋貸しますよ」
「いいんですか?」
「どうせ使いませんしねえ。あと聞かれもしませんでしたけど、入間ちゃんはまーくんの入院中は上川さんの病院で過ごしてたんすよ。流石院長の力すよねえ」
ああ、そうか流石に娘も殺人現場には帰れない。当然どこかに預けられていたわけだが、なるほどそこなら安心だろう。
それはさておき明日だが、現場には流石に行けはしないだろう。娘に話を聞くのも必要だが、一番は上川の話を聞くことだろうか。
となると。
「明日の予定が決まりました」
「お、いいすね早いです。どうしますか?」
「病院に戻って娘と上川に会います。そうしたらもう警察に向かっても大丈夫です。一緒に来てくれますか?」
案外さっぱりした予定に菊池は少し驚いた様子だったが。
「もちろんす」
と、楽しそうに笑うのだった。
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