『一章:遊愛』
「ちょっと待ちなさいよ!何する気なのよ!」
乾いたつまらない言葉を聞きながら病院を後にし、病院を出るときにくすねた自分の携帯電話を開き、出てすぐ、病院の入り口から見て三つ目の花壇のひまわりの前に腰を下ろす。
まずやるべきことは相本間近の知り合いの中から妻の知り合いをあたることだろう。人間関係から動機、普段の生活リズムから殺人手段を絞り込むことが前提となってくる。
目ぼしい名前を探し頭の中でリストアップする。履歴を見ながら情報を集めると気になるのは妻とのメールに出てきた二人。妻の母親、岡朋美。そして妻の妹の菊池遊子だろう。
会社の同僚との仲は良好のようだったが、妻を会わせたような相手は見つからなった。あとは上川、一応入間と、ここらへんが妻の話を聞くには目ぼしい人間だろうか。
「さて」
計画を立てようか。
土をいじりながらゆっくりと頭を回し始める。まず必要不可欠なのは同伴者の存在である。つまりこの殺人の調査において自分と行動を共にしてくれる存在だ。相本間近の記憶がない私がこれから行動するには献身的なパートナーが必要だろう。
となると上川は理想的であるが、残念ながら病院の院長が常に共にいてはくれないだろう。第一次に会ったらベッドから出してもらえないはずだ。
入間は論外だ。これから先できるだけ彼女と行動を共にすることは好ましくない。
「となると、時間はあるが老体の岡朋美、もしくは菊池か」
少し調べてみると菊池はどうやら未亡人らしい。菊池という苗字は元夫のものであり、今は大学で教授をしているとのことである。
まだ時間に都合の利きそうな職業にも感じるが多忙なイメージもぬぐい切れない。
とりあえず連絡を取ってみるのが先か。
そう思うが早いかすぐに菊池に電話をかける。二、三コールほどでガチャリ、とノイズが走った。
「もしもし?まーくんですかね?どうしましたか?」
耳元に流れてきた声は未亡人の大学教授というイメージからはあまり予想できないのんびりとしたものだった。下調べをせずにこの声を聴けばもしかしたら人を間違えたのではないかと思っても致し方ないだろう。
「お忙しい中申し訳ありません。実は折り入ってお話しさせていただきたいことがありまして、今夜にでもご都合つきませんでしょうか」
「あーえーっと誰って感じなんすけど、まーくんですよね?」
「間違いなく」
「あーなんか訳あるんすね。わかりました!何かわかりませんが愛しいお姉ちゃんの旦那の話は何よりも優先ですからね!いつでもいいですよ。今大学なんですけどどこに行けばいいですか?」
「ああ、向かいますよ。逢坂大学ですかね?」
大学は調べ済み。奇しくも私の母校ということになる。記憶はないのだが。
「はいそうすねー。今から来ます?じゃあついたら教えてください!」
そういうと一方的に電話は切られた。
なんというか破天荒というか、いや天真爛漫というべきかもしれない。明らかに実年齢より十は精神年齢が低い。これだから女性は苦手である。
それはともかくとして車もない身では円滑な交通手段は望むべくもない。金銭には不自由しないのが当たり前と考えていたが、よく考えると記憶喪失の後病院から抜け出たやつが何をという話である。
これまた病院から出るときにくすねた相本間近の財布には社会人相応のある程度の金が入っていたが、これだけを使うのであればタクシーを使うのも今後に差し支えそうだ。
というわけでバスの時刻を調べながら乗り込むことに決めた。
逢坂大学は大阪にある私立大学である。潤沢な予算からは十分な敷地がとられており、食堂も一つではない。
到着のメールを送ると菊池からはその中の一つの食堂を選択された。どうやら彼女のお気に入りらしい。
隅の席を取り宙を眺めることしばらく、突然現れたように目の前に、灰色のシャツに真っ赤な薄手のカーディガンを羽織った一人の女性が座った。
なるほど、大学教授とはスーツが適用されていないのだったかと思い出した。それにしても、である。これではまだパジャマのような格好の私のほうがまだ大学教授らしいといえるだろう。
「菊池遊子さんですか?」
「そうすよーって確認が入るのおかしくないですか?ちょっと傷つきますね。先週もあったばかりじゃないですか」
なるほど、写真にあった少しきつそうな姉の見た目とは対象に、垂れ下がった目に緩んだ口元。電話で聞いた通りの声。そしてその見た目ままの性格。これが菊池遊子という人物なのだろう。
「私は記憶喪失になりました」
はっきりと、言いにくいことは先に言っておいた。
菊池はゆっくりと瞬きをし、持ち込んだコーヒーにストローを刺した。
「えーっと冗談で言ってるんじゃないんすよね?ということは、あーいやお姉ちゃんと一緒に頭を殴られてたって聞きましたしね……。不幸中の幸いなんすかね」
すんなりと、というほどではなかったが受け入れた菊池は飲みもせずにコーヒーを置くと、それで?という風にこちらを見た。
「端的に言うと私のお願いは妻の事件を知りたいということなんです」
「お姉ちゃんの、ねえ」
「ええ。私には記憶がありませんが私は相本間近です。であれば彼がしたであろうように妻の死について詳しく知ろう、そう考えているんです」
「警察がもうやってますよ」
熱意を込めた話に対してもまた菊池はのんびりと返し、ストローに口をつける。
「むしろなんで今起きたまーくんが警察署に缶詰にされていないのか謎なんすけど」
「さっき起きて病院を抜け出したからです」
「ひゅー」
恐らくだが上川は私が起きたことをまだ報告していないのだろう。元々彼は私が出ていくことに関して止めないどころか、どこか協力的ですらあった。手荷物を持ち出せたのも意図的に目をつぶってくれていただけに過ぎない。
友人の妻が死んだという状況に同情しているのかもしれない。なんにしても数日私は自由に動けるというわけだ。
もっとも、病院に警察が張り込んでいないのはおかしな話なのだが、いや張り込んでいてこれなのか。
「僕の周りで妻と関わりがあったのは上川とお義母さん。あとはあなたくらいなものです。記憶のない私では妻について人並みに調べるのも困難、ぜひ力を貸してくれませんか?」
「いいすよー」
コーヒーをすすりながら菊池は先ほどまでとは打って変わって、もしくは同様にのんびりと了承した。
「まあ私が知ってるだけのお姉ちゃんとまーくんのことは教えてあげます。大学も夏休みなんで基本拘束はないですしね」
「教授にも夏休みがあるんですね」
「私は助教授す。まーくんは記憶があってもなくても覚えられませんね」
幸運とはまさにこれと言わんばかりに菊池はベストな相手方だったらしい。
「で、何から聞きますか?」
「ああ」
まず聞くべきことのリストを頭から取り出す。
・妻の人間関係。
・妻と私の関係。
・妻の最近の様子。
主にこの三つに分けられるだろう。
「まず私の妻、相本美録の人間関係について聞きたいのですが」
「んーそれよりも先に聞くべきはあなた本人のことすよまーくん」
的確に、鋭い指摘をする。
「記憶があった時以上に異常に自分よりお姉ちゃんですねー。でもそれでは本質が掴みにくいでしょう?ねえ天涯孤独の相本間近さん」
「……天涯孤独?」
「お姉ちゃんとまーくんはびっくりするほど熱愛的でしたけどまーくんのお姉ちゃんへの愛情はどこか変質的でしたよ。なんて本人に言えない話なんすけど」
菊池はまあいいか、と軽く流して説明をつづけた。
「その理由は明白す。相本間近さん、あなたは両親がいません。私も父親がいませんけどそれは最近のことで、あなたは生まれつきいませんでした」
「へえ。それはなんというか、悲しい話ですね」
「親がいないことは別に不幸でも何でもないんすよ。ただその結果あなたがだーれにも愛されずに生きてきてしまったのが厄介でしたね」
「で、妻に惚れこんだと」
「まあそんな学生時代のあなたにお姉ちゃんは手を差し伸べたらしいですね。絵本だとロマンチックな話ですけど現実に即すと共依存の典型以外の何物でもないすからねえ。お姉ちゃんの友人が少ないのもそれが大きいでしょうし、共通の知り合いに会社の人がいなかったでしょう?まーくんが会わせようとしなかったんすよね」
なるほど。どうにもそれは変質的と言われても仕方がないだろう。大学からの知り合いの上川が妻と接触しているということは上川は一定の信頼があったのかもしれないが、どうにも、針のような人物像である。
すなわち、尖っていて折れやすい。
もっとも、記憶のない私から見れば調査としてはずいぶん楽になるのかもしれないという良い面も見えてしまうのだから困ったものである。
「まあそれはまーくんが救われたってことでいいんすけど問題は入間ちゃんすよ。両親から見て自分が明らかに二番目ってのはなかなか悲しいものがありますからね。記憶が戻ったらちゃんと接してあげてください」
この際だから、と忠告をくれる菊池。おそらく相本間近はこのような説法は全く無視していたのだろう。あるいは怒っていてもおかしくない人物評である。
記憶がなくて話を聞けるうちに、という形で本音を話してくれているのだろうが、記憶が戻った自分に何を言われるかわからない中ここまで正直に言ってくれるのも優しさである。
「入間ちゃんに会えばわかるんすけど彼女隠さないくらい誰のことも自分との価値基準でしか見れない子なんすよ。そうなったのはあなた方がお互いばかり見て娘を見なかったからだと思うんす。愛とか友情みたいなものを知らないから人をそういった目でしか見れなくなる。悲しいくないすか?」
全くその通りである。愛が素晴らしいとは相川間近もよく知っていたはずだが、娘には彼の愛の深さゆえにそれが伝わらなかったということだろうか。だとしたら皮肉な話である。
「じゃあ妻と関わりのある人物は本当に上川とお義母さんとあなただけということなんですね」
「そうすね。あと聞きたいのはお姉ちゃんの近況すよねー」
こちらの聞きたいことをこちら以上に理解して話す。大学教授のスキルなのか、それ以上に彼女自身態度ほど愚鈍ではないということらしい。
おっと助教授だったか。
「前提として私もそんなにお姉ちゃんの最近なんか詳しく知らないんすよね。近くに住んでもないすから。んーまずお姉ちゃんは専業主婦です。基本家にいますし、買い物くらいしか家から出ないんじゃないすかね。まーくんの要望通りって感じすよねここらへん」
「つくづく私は変わりものですね」
「全くす。あと、いやこれが警察の一番の候補だと思うんすけどね」
「ほう」
どうやら本題に入ったようで、菊池はコーヒーで喉を潤す。
「お姉ちゃん、ストーカーされてたみたいなんすよ」
「それはそれは」
なんというか、変な話が出てきたという感じである。ストーカー、妻が?
「まあ半年くらいすかねえ。夜家の周りとか朝のまーくんを見送ったときとかにふと視線を感じることが多かったらしくて、人かげもよく見かけたそうなんすよ。家にまで入ってるんじゃないかって、下着とか盗まれてなかったらしいすけど、なんかこう、やっぱり主婦ですからね。家の中に違和感を覚えることが時々あったらしいんすよ」
「半年見てるだけのストーカーって感じですね。意図がよくわからない感じがします」
もちろんストーカーにも色々あるとは思うが、基本そのような捩じれた愛情表現をする者がそのまま見ているだけで満足し続けるとは考えにくい。何かしらアクションを起こしそうなものであるが。
「まあストーカーなんかそういうものなのかもしれませんし。警察に言っても現状盗みも何もありませんでしたからね。あんまり相手にしてもらってはなかったらしくって。死んでからは第一候補に躍り出てますが真相はよくわかりませんね」
ちなみにまーくんは明らかに他人に殴られていた上に凶器が持ち出せないから犯人としてはそんなに重要視されてないみたいいすね。とありがたい言葉をいただいた。
そう、記憶をなくした私自身が犯人という可能性を、もちろん忘れるわけにはいかないと彼女も気づいているのだろう。
そうであれば困るが、菊池曰く人を殺すことがあってもお姉ちゃんを殺すことはないだろうとのことである。
「んー他には上川さんはよく知らないんすよねえ面識もないすし。私から言えるのはこんなところになっちゃいますね。というか、上川さんの病院にいたんすよね?彼とは会ってきたんじゃないすか?」
「はい。特に変わった人物とは思いませんでしたね」
あの状況では娘と私がイレギュラーすぎて上川の人物評は難しいところではあるものの、まともな人物であったとしか思えない。
「ふうん、まあ私は会ったことないんでなんとも言えないんすけど、お姉ちゃんはあんまりよく思ってなかったみたいすよ。なんというか気味悪がっていたような。私に言えないことがあったんだと思うんす」
気味が悪い、そうは見えなかったが、まあお世辞にも容姿が整ったほうとも言えなかったし、ヘビィスモーカーにも見えた。そこら辺を見るに、どう思われてもやむを得ない部分はあるかもしれない。
「あとは、お義母さんについても詳しく聞きたいんです。流石に心情的にももちろん、お年を考えれば私たちを殴って去れるとは思えませんが……」
「ああそれなら言う必要もないすよ」
そういうと菊池はポケットからキーを取り出すとにやりと笑った。
「会いに行きましょ」
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