変身
ふましー
『序章:狂愛』
私が気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一人の全く別の人間に変わってしまっているのに気づいた。
「おい目覚めたか」
その言葉に首を右へ向ける。幸いにも四本の手足が(そう、手、足である)少しも邪魔をすることなくスムーズに動きその首の動きに対応すると、私の二つの目に小汚い面をした一人の男を映した。
男は私をなんとも思わないような淀んだめでみようとしながら、ふと惜しくなったように手に持った煙草にもう一度接吻した。
小汚い男がよりシーツの染みのように汚く見えるようにこの部屋は全く、白く、清潔であった。もちろん、生まれるとき人間が全てそうあるが故、私はこの場所がどこであるのかを把握した。
「おはよう相本。何がどうなっているかよくわかんねえだろうから落ち着いて聞け」
その小汚い面をした壮年の白衣の男は腰かけていた小さな椅子から立ち上がり、ひどく緩慢な動作で吸っていた煙草をポケット灰皿に押し込むと、こちらを見もせずに何食わぬ顔で続けた。
「ここは俺の病院だ。お前は自分の家で側頭部に大きな怪我をして気絶して発見されたところをここに連れてこられた。が、怪我の心配はいらん。そんで三日ほどゆっくり眠りながら治療されて今ようやっと起きたってとこだ。わかるか?」
なるほど三日。これはかなりの時間眠っていたらしい。どおりで何が何だかわからないわけである。とはいえ、間をおいてだんだんと意識が戻ってきているのも確かだ。
自分の身体を把握する。なるほど手足は特に異常を感じないものの、頭には少しばかりの窮屈さを感じる。手を頭に当ててみると何かしら帽子のように頭を覆っていることがわかった。痛みはないものの、恐らく左側頭部に少し違和感があり、よくみると右手の指も少し痛めていた。
「はい、大丈夫です。目覚めで少し意識がはっきりしていませんがとりあえず」
まず言わねばないないと思っていた言葉を口にする。
「ここはどこ?あなたは誰?」
一瞬、固まった表情の男が、ふらっとこちらに近づいた、かと思うと途端にものすごい形相へと変貌した。
「お、お前記憶がないのか?」
「ええ、まるっきりありません」
「ここがどこかも?」
「まあここは病院ですけど」
定型句に乗っただけのセリフを自分で訂正する。
「いや、まいったな。短期的なものかもしれんが……」
目の前の男はふらふらとした足取りで後退し、落ちるように椅子に腰かけた。重みに耐えかねた椅子が大声で男の行為を非難するのを無視して、男はふと思い出したように携帯を取り出し、少しいじった後こちらに向き直った。
「とりあえずお前の娘さんを呼んだが、えっとまずはお前、本当に記憶がないんだな?何も?」
「全くありませんが、日本語は話せますね。都道府県もすべて言えます。ただ、調味料のさしすせその、せとそが思い出せません」
困惑しきった彼に何食わぬ顔で告げる。もちろん適当を言っているだけなのだが当たり前のように彼の笑いを起こすこともできず深いため息だけが返答となった。
「申し訳ありませんが私について教えていただけないでしょうか。思い出すきっかけにもなると思いますし、生活に必要でしょう」
もちろん一番は好奇心であるがそれは置いておいて。
「あ、ああお前は相本間近。三九歳の立派なおっさんで娘が一人いる。勤め先は有名な化粧品会社の研究員なんだが、死生道って会社に聞き覚えは?」
「名前はありますが働いていた記憶は全く」
「まあいい。娘の名前は相本入間。十四歳の中学生だ。ちなみに俺は上川洋平。お前とは大学のサークル仲間で今はこの病院の医者だ。大学は逢坂大学だったが、まあ覚えてないだろう」
なるほど。ようやっと頭が冴えわたってきた。
「私は相本間近」
そう、私は相本間近なのだ。ようやっと理解してきた。と、同時に酷い興奮に襲われた。
心臓が高鳴りうるさいばかりか、血液が流れる音までもが辺りに伝わるのではないかと言わんばかりである。
今のこの信じられない状況に興奮するなというほうが困難であるが、しかし上川にこれ以上動揺を与えるのは良いことではない、と思い平静を保ちもう一度上川に話しかけようとしたとき、病室の端で何かが動くのが見えた。
「お父さん?」
ふと見ると病室のドアを開けたのは十四歳ばかりの中学生、などと知らないふりをするのも変な話で、相本入間が立っていた。
冷たい、不機嫌そうに見える表情にきつめの三白眼、たとえ整っていようが見る人全員があまり良い印象を抱かないであろう顔つきである。
勢いよく開け放たれた横開きのドアはその扱いに反抗するように入間へと帰ろうとしていたようだったが、ぐっと強い力で押し込められていた。
「お父さん怪我はどうだったの?心配ないって聞いてたけど」
「あーそのことなんだが」
私がどういうべきだったか頭を悩ませる前に上川がフォローするように口を開き、非常に言いづらそうに上川が頭を掻きむしった。孫悟空のように頭を締め付けられた今の私にはできないことであるが特に嫉妬心はない。
「ごめん入間さん。お父さん記憶喪失なんだ」
私は困った様子の上川に助け舟を出すようににっこりと笑いながら入間に話しかけた。
感謝でもされるかと上川を見たところどちらかというと絶望という面持ちであり、娘のほうは一瞬瞬きを挟んで口を開いた。
「記憶……喪失?」
何を言っているのか受け入れられないという顔である。
三日の目覚めから起きた自分のほうがまだはっきり受け答えをしていたということを考えれば些かオーバーなリアクションにも見えないことがなく注意をしたかったが、よく考えれば父親が側頭部を殴られ意識を失って、また意識を得る代わりに記憶を失ってきたら確かに、まだ冷静な方かもしれない。
「それって、もしかして私たちのことも忘れちゃってるってこと?」
「まあさっぱりわからないね。ハリーポッターの方がまだ身近に感じられるくらいだよ」
「え、じゃあそれって」
そういうと倒れるんじゃなかというほど衝撃を受けた顔をしていた入間は反面ずかずかとこちらに歩み寄ってきたかと思うと大声で怒鳴り散らした。
「じゃあ私も何も覚えてないっていうの?お祖母ちゃんも上川さんも、お母さんも何もわからないってこと?」
「うん。妻まで忘れているというのは相本間近としては最悪の出来事だろうね」
ものすごい剣幕に軽口を叩くとよしきたと言わんばかりに彼女はさらに言葉をつづけた。
「じゃあ!お母さんが死んじゃったこともわかってないっていうの?」
「おい!入間ちゃん!」
十四歳の剣幕に距離を取りかけていた上川が寸でのところで間に入り入間を抑え込んだ。
「うるさい!上川さんは黙っててよ!ただでさえお母さんが死んだせいでこれから大変だってのにお父さんまでこんなんじゃ使い物にならないじゃない!私の生活どうしてくれるのよ!」
母親を亡くしたにしては中々機械的な悲しみ方を叫ぶ彼女は、上川がいなければ私に掴みかかっていたと思われるように私をにらみつけた。
「家事係がいなくなって私がやらなきゃいけないのにお父さんがこれで仕事できなくなってみてよ!どこからお金を出さばいいの?給料持ってこれない父親なんて食えない豚よ!」
「お母さん?もしかして私の妻は亡くなっているのですか?」
入間の怒涛の口撃にもどこ吹く風で平然とそう答える私を無視して上川は隣のベッドに入間を無理やり座らせ(犯罪ではないだろうか?)、落ち着かせたあとこれまた本日数回目の言いづらそうな顔で口を開いた。
「ああ、まあそこらへんも話していかなきゃいけないんだが、わかった。どうせ記憶もないんだ気遣いは無用らしい。全部話しちまうぞ」
「お願いします」
記憶喪失にも関わらず冷静な受け答えをすることと、妻の死に記憶喪失故に動揺が全くないことを踏まえ、段階をすっ飛ばした説明をしてくれるらしい。
この適応の速さは頭の良さと、何より相本間近への信頼のなせる業だろう。妬ける部分も今の私は抑え込んだ。
長い話を要約するとこういうことである。
相本間近には相本美録という妻がいた。きわめて豪胆な人物らしかったがともかく、その妻が先日自宅のリビングで撲殺されていた。凶器は見つからず、現場から持ち出されたという説が濃厚。そしてそのとき目の前で倒れていたのが驚くべきことに(今更であるが)私というわけで、私もまた同じ凶器で頭を殴られ気を失っていたらしい。
部活帰りの娘がそれを発見、見知った仲である上川に助けを求めやってきた上川が事態を知って通報、今に至るというわけである。
「それは、なんというかご愁傷様なのですが」
一通り事件のあらましを、相本間近の身に起きた一連の、人生終了の悲劇を客観的に聞いたものの、もちろん私は悲しくないため、なんというか悩みながら上川に告げた。
「まあ当のお前がこれじゃあなあ」
悲しいものも悲しみにくいという態度の上川に食いつくように睨む入間だったが、変なことを言わないように黙って座っていた。
「概要はわかりました」
まあ出る結論は変わらないのである。
要は私は相本間近なのだ、ということ。これが今の私にとって一番重要なことなのは明白であろう。
「私は、相本間近だ」
そう呟いて、私は無理やりベッドから起き上がった。
「おい!何してんだお前」
「私は相本間近なのです」
こちらを睨む入間に一瞥し、心を入れかえる準備をする。
「相本間近ならばやることは一つでしょう」
そう、私は相本間近、私は相本間近なのだ。
よし。
妻の死の真相を確かめに行こう。
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