〈七〉



 震える脚から力が抜けた。一目散に走った兵舎で目にしたのはすでに息のない万騎兵の死体で、それが三つ、無造作に集められて血溜まりの中に横たえられていた。


「ひどい……」


 泣き崩れながら悲惨なありさまと臭気に吐いた。血で汚れた複数の足跡と彼らが帯剣していないのを見るに丸腰のところを大人数でやたらめったらに蜂の巣にされたのだと分かった。史進の行動は素早く、伝令役の口を封じて万騎本隊への情報を絶っていた。


 崙はむせび泣きながら傍らに落ちた白い羽を黒く染めた小鳥をすくう。牙族の使う小さな伝鳥もまた、羽虫を払ったかのごとく斬り捨てられていた。両手で包んだ、まだほんのりとぬくいそれを胸に抱いて嗚咽おえつを漏らし、額を床に擦りつけてどうあっても息を吹き返さない者たちへ詫びた。


 やがて、立ち上がる。小鳥を主人の胸に横たえ、せめてもの哀悼に掛布で覆った。この寒さだ、明日には一緒くたに塊となって凍ってしまうだろう。埋めてやりたいが、崙にはその時間はなかった。鹿射へ戻らなければならない。


 そう焦るのに、衝撃から立ち直れず、頭には霞がかかったように思考の回転は遅く、伴って歩き出す一歩一歩がおそろしく疲労を誘った。のろのろと亀の歩みで進みながら、ぼんやりとこれからのことを考える。はたして史進に正直に言って門を開けてもらえるだろうか。いや、とても思えない。すでに南門は閉鎖され、掖門えきもんくぐり戸もないから南に抜けて最短で瓊勾たちに追いつくのは無理だった。顔を隠して用心深く兵舎を離れた。先ほどから、行き合う兵の視線が何か含んだものであるのを感じる。史進が自分を見張っておけと言ったのだろうか。ならば今にも捕らえられてまた牢に放り込まれてもおかしくはない状況だ。

 危機感に急き立てられ、やっと足早になり外に出てうまやを覗いた。万騎と交換した野牛を奪って北から出られるかもしれない。しかし首を振った。一人で操れるとは思えない。それに目立つ。


 どうしたものか、と目抜き通りに抜けながら鬱々と考えた。早く瓊勾に追いついて伝えなければ、鹿射が袋の鼠になる。何も思いつかないままに北門の近くまで来る頃には、すでに空に星が見えていた。非常時の北門は不用心にも開けっ放しだ。しかしこれは夜陰に乗じて逃げ出す者のためでもあるから、史進たち埋州軍が平民のことをないがしろにしているわけではないことは窺えた。


 ひっそりとして喧騒の少ないなか、小ぶりの荷車が崙の目の前をゆっくり通っていく。二頭の驢馬ろばかれた車の後ろには脚をぶらつかせた子供が二人、寒そうにしていたがはしゃいでいた。避難するんだな、と何気なくそれを見送り、はっとして駆け寄る。


「――待って!」


 急に前に飛び出たのに馭者ぎょしゃの男が慌てて手綱を引いた。

「危ねえだろう!」

「おじさん、お願いがあります。ぼくを一緒に乗せてってくれませんか?」

 男は呆れたように崙を見た。

「おまえ、親は?」

「置いていかれた」

 もはやなりふり構っていられない。

「馬もなくてどうしようもない。おじさんたちはどこへ行くの?」

「南門はもう開かねえと言われたから、俺たちは北回りでしゅく州へ行く」

「粛州?四泉じゃなくて?」

 ああ、と髭の伸びた顔を寒そうに強ばらせ頷いた。「四泉に行ったって助けてくれる保証はねえ。四泉人はかんの強い二泉人が嫌いだからな。それに俺たちは戸籍がないから棨伝てがたも持ってない。検閲があるならどうせ国から出られないかもしれんからな」


 戸籍がないということはどこか別の土地から来た流氓るみん泉賤どれいの身分の者だ。鉱山街をねぐらにする住民は複雑な経緯の流れ者も多く、給田を受けていない人も多い。二泉では屈岸に限らず特別に珍しいことではなかった。


「ぼくは鹿射に行きたくて。途中まで乗せてもらえませんか?驢馬の世話は出来るよ」

 男はしばらく考えていたが、後ろの子供たちを見た。

「秋口に女房を亡くしてな。下の奴がぐずるとうるさい。おまえ、面倒みれるか?」

「小さい子と話したことはないけどお伽話なら沢山知ってる」

 いいだろう、と男は顎をしゃくって吹きさらしの荷台を示した。



 門を越えるときは緊張した。小さな子供ふたりとくっついて兄妹に見えるよう縮こまる。顔を見られないように少女を抱き寄せれば、くすぐったそうに笑い声を立て、崙はその無垢な声に弱った琴線が触れて、不覚にもまた泣きそうになった。夜闇に溶け入るように進む一行はゆっくりと北門を抜ける。兵卒はおんぼろの荷台に乗った子供などろくに見もせずに手を振った。



 覆いのない荷馬車はひどく寒かったがざらざらと荒んでいた心はいくらか癒された。子供たちの父親は口は悪いが優しくて驢馬の扱いが良いことを褒めてくれたし、下の妹は懐いてくれてあまり泣かなくなった。上の兄も話してやる寓話が面白いのか、次の話をねだって付きまとう。数日しないうちにそらんじるまでになった。

 崙は父親に怒られるばかりで手放しに褒められた思い出がなかった。弟に触れさせてもらったこともない。だから距離の近さに正直戸惑ったが、嫌な感じはなくむしろ嬉しかった。そして照れくささがすっかり抜けた十日後に、ようやく川向こうに鹿射の陰影をみとめた。





「おじさん、ありがとうございました」

 下げた後ろ頭を軽く叩かれる。

「こっちも助かったよ」

 持って行きな、と渡された袋には干し芋が入っていた。彼らのなけなしの食糧の一部だ。感謝して受け取り、気をつけて、と互いに言い合って崙は馬車を見送る。兄妹が見えなくなるまで手を振ってくれた。律儀に最後まで振り返し、息を吸い込んで視線を目的地に投げる。

 見たところ戦乱の煙もなく、人気ひとけもなく、鹿射は不気味なほど静かに見えた。左右を見れば橋と思われる建築物は無残に折られて水に沈んでいた。川を直接渡って行けるかしらと土手を降りてみる。融雪で水量はあるが流れは緩い。濁った水は手を差し込むと身を切られるほど冷たかったが、決心してくつはかまを脱いだ。まとめて頭の上に担ぎ、足を踏み出した。


 冬の冷たい陽の光が水面に反射しまばゆく美しかったが崙はそれどころではない。広い川幅を半分ほど来たところですでに脚の感覚は無く、水深は胸にまで及んでいた。体が気がつかないうちに痙攣けいれんして、顔は青白くなり心臓が止まるのではないかと恐怖に身がすくむ。もう頭上の荷を支える腕も今にも落ちてしまいそうだった。ふと、軟弱だな、と笑われた時のことを思い出す。崙は悔しさに紫色の唇を噛み締めた。


(鹿射は、すぐ目の前なのに)


 もう足は一歩も動かなかった。行かねば、瓊勾たちが死ぬ。そう焦るのに流れに押されて転げてしまいそう、進むことも戻ることも出来ず、凍りはじめた鼻水を啜った。固まったまま、荒くなる息を耳鳴りのなかで感じていると、ふいに、突如としてかいの音を聞いた。


 ぎしぎしと関節が鳴るのに怯えながら川上を振り向く。近づいてきたのはいかだだった。

 航行には浅い川を悠然と下ってきた即席づくりの舟に乗った者は前方に人影を発見していぶかる。


「おい、大丈夫か!」


 子どもは川を渡ろうとしていたのか、今にも死にそうに震えていた。

 碇石いかりを降ろして引っ張り揚げると立ち上がることも出来ずに座り込んだ。衣でくるみ、温石おんじゃくをあてがうとやっと我に返ったのか瞬く。

孩子ぼうず、いくらなんでもこの時期に川越えは無謀すぎる」

 そう茶化して皆で笑ったが、少年は揺れる指先で後ろを指した。

「橋が……」

「――ああ、俺たちの仲間が壊した。少しでも逃がさないようにな」


 呆然と仰いだ。男たちのいかめしい甲冑よろい、そして筏に立てられた仰々しい錦の旗。


「……禁軍旗……」


 そうさ、と崙を助けた男はこちらの気など知りもせずに歯を見せて笑った。

「鹿射は完全に包囲した。これから討滅戦になる」

 意気揚々とした言葉に、心は奈落に突き落とされたかのように黒く沈んでいった。




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