〈六〉



 しらず溜息が出た。それが数度続いたところで呆れた顔をされる。

「いい加減切り替えろ。こうなると分かっていただろう。だから無駄な情をふり撒くなと言うに」

 瓊勾は隣で野牛を進める驤之を力無く見た。

「あんたは小童こどもと見るやすぐに甘やかす。悪い癖だ、他国にはああいう刺客だっているんだぞ」

 我ら一族のように、と続けた。苦々しい叱責に、だって、と呟いたが反論できずなおも嘆息し、手にした面を見下ろした。投げ捨てられたのか小さくひびが入っている。



 崙は朝を待たずに行方をくらませた。しばらく鹿射城付近を探し回ったがどこに隠れたか出て来てくれず、結局刻限が迫り、瓊勾たちは屈岸へった。どうにか無事に逃げていてくれと願うしかない。


 しっかりしろ、と言われてさらに落ち込んだ。

「俺たちの命はあんたに預けてあるんだぞ。二泉の小鬼こおによりも万騎が無事に帰れるよう考えてくれよ」

「分かってる……」

 瓊勾は鬱々とした気分で前方に迫る山を見据えた。



 鹿射から屈岸までの途上、避難民や郡兵に行き合い、情報交換しながら埋州西端を目指した。降雪などの悪天候もあいまってそうして野牛うまで三日ほどの距離を五日かけて進み、曲がりくねる細い峡谷の街道の前方に間口の小さな閭門りょもんをみとめた。それは岩肌のあいだにそびえて閉じられていた。

 二層の門楼を構えた古いが堅牢な門上で矢をつがえる影が見える。警告の旗が振られ、瓊勾たちは歩みを止めた。


「貴軍の所在を問う!」

 誰何すいかの声に答える。しばらくして軋んだ音を立てて扉が開いた。門の向こうには鉱夫の街、屈岸の雑然として狭い道が続いていた。

 警戒の色濃い街は万騎が入郷してさらに緊張が漂う。瓊勾たちが意外に思ったのは予想以上に民がとどまっているということだった。せせこましい通りに野牛を踏み出すと、珍しいもの見たさに薄汚れた子供たちが顔を突き出したが親に無言で襟首を掴まれ隠された。

「住民が避難していないのか」

「のようだが。瓊勾、あれが屈岸城だ」

 驤之が前方の小ぶりな建物を指す。屈岸の県城は他の街と比べて縦に長かった。おそらく敷地が狭いためだろう。

 囲った浅いほりに渡した橋の前まで来ると、門卒が槍を交差させる。それで下馬し、野牛を預けて城の中に案内され、いくらも経たないうちに議場のような広房ひろまで図面を広げていた首脳陣たちに引き合わされる。その一人に相対あいたいした。


「州司馬におかれてはご健在でなによりだ」


 来たか、と笑って男は仮面の女に形ばかりの礼をしてみせた。

牙領がりょうで会って以来か。徐楽からは聞いている。共に戦ってくれるとな」

「それはあなた方の作戦次第だ」

 腕を組んで言った瓊勾に史進は眉を上げた。

「それにその前に、なぜ民を逃がさない。今ならまだ間に合う」

「北門は開けている。逃げるならいつでも逃げられる。出て行かないのはあいつらの勝手だ」

「どうするつもりだ。まさかこんな不利な地形で籠城戦をするつもりじゃないだろうな?」


 山に囲まれた屈岸は街の全てが壁で囲われているわけではなく山腹にまで住居が広がる。鉱山には無数の獣道が通っていて山越えしようと思えばそれほど苦ではない。


 史進は頭を掻いて地図を見下ろした。

「意見が割れていてな。俺は鹿射まで戻ったほうがいいと思っているが、桂州軍に鉱山坑を根城にされたくないと言う奴もいる。伏兵が怖いからな。それにすでに埋州軍おれたちが屈岸にいることが禁軍と桂州軍には知られているから連中はこちらに向かっているだろう。東と南の山に陣取られれば上から攻撃される。それは阻止したい」

 彼の周囲の配下たちは目を見交わして難しげな顔をした。とはいえ、と節くれ立った指で羊皮をなぞった。「鹿射を取られては囲まれる。徐楽も殺させてはならん。敵の目は屈岸に向いているが、あちらもいずれ包囲されるだろう。万騎には屈岸が攻められているあいだ、鹿射に侵入されないよう守っていてもらいたい。この間のように留守を狙っていきなり焼き討ちされてはたまらんからな」

「屈岸で禁軍と州軍両軍を相手すると言うのか?無謀だぞ」

「山に陣取り、南門を開けて敵を街に誘い込む。連中、開門していれば降伏したと思って入ってくるだろう。そこを上から叩く。すでに準備を進めている」

「勝算は」

「鉱道は迷路そのものだ。不慣れな奴が入れば生きて出られないが、こちらには道を知り尽くした鉱夫がいる。もし敵が街に入らず山での戦いを望んでも分散した俺たちを潰すのは容易じゃない」

 そうか、と瓊勾は史進を見た。

「あなたも元鉱夫だったな」

 にやりと笑う。

「埋州は鉱山の土地だぞ。屈岸に限らず州内のいたるところで石を掘っている。州兵に徴用された者に元鉱夫はごまんといる」

 地の利は彼らにあるということだ。

「……良いだろう。あなたたちが屈岸で戦っているあいだ、我らが鹿射を守る。州牧は何があっても鹿射から動くつもりはないようだが、必要なら御身の大事を図り連れ出すことも出来るが?」

「徐楽は兵を残して逃げ出すくらいなら自刃する。万騎が不相応に分を乗り越えるのは勧めない」

 それもそうか、と瓊勾は思い直した。州牧である徐楽が逃げ出せば州軍の士気は下がり、賛同している民の失望と反感をあおる。

「わざわざ来てもらってすまないな。申し訳ないついでに、ひとつ頼みがあるんだが」

「なんだ?」

 史進は顔に似合わず本当に言いにくそうにした。

「あんたらの馬を貸してほしい」

「……野牛を?」

 不穏な空気が流れる。驤之が眉根を険しくした。瓊勾はそれを目線でなだめて問う。

「なぜ?」

「屈岸の周りは急坂、ほぼ崖と言ってもいい。そんな中での戦闘になれば禁軍より練度で劣る俺たちはまず馬に気を遣わなけりゃならない。崖を駆け下りながらやり合うのなら、どうしても強靭な騎馬が要る」

「確かに野牛は馬よりも丈夫だが、乗り馴れないもので戦えるのか?」

「桂州軍も禁軍を待って動かない。敵が来るまでまだ猶予がある。それに、埋州軍は馬の扱いが上手いからすぐ使えるようになる。――頼む」

 上官が頭を下げたのに配下たちも倣う。瓊勾はしばらく無言で見下ろした。

「いくら屈岸が決戦の場とはいえ、鹿射が安全圏とは限らないだろう。州牧を捕らえに禁軍が来る可能性も否めない。我々も扱い慣れた野牛のほうが力を発揮出来る」

 驤之が訴えた。瓊勾はうなだれた男たちにどうしたものかと思案する。

「瓊勾、考える余地などないぞ。埋州軍の駑馬どばなど我々と釣り合わん」

「……しかし、屈岸は複雑な地形ゆえ戦闘になれば敵味方ともに苦しい戦いになる。馬もな。二泉主は武勇の王だ。戦場の地形も把握して抜かりなく手を打ってくるだろう。もし借りられるのなら五百全てでも足りないと思っているのだろう?」

 ぬかづく州司馬は体勢を崩さないまま頷いた。

「実をいえば、おぬしらに依頼する時に野牛の貸与も受諾してはもらえまいかと考えてはいたのだが、俺たちは鹿射での接戦を予想していたからそれは要らんだろうと高を括ったのだ。……見誤った」

「――であれば、別に代金を頂かねばな」

 瓊勾、と驤之が咎めた。史進ががばりと起きる。

「では」

「そちらの騎馬と交換しよう。しかし馬は生命線だ。高くつくぞ。前金も跳ね上げる。もしかすればあなたの資産から切り崩してもらわなければ足りないかも」

「構わない。万一俺が死んだらやしきごと買い取ってくれ」

 それで笑んだ。「分かった。我々は高みの見物をさせてもらうんだ。そのくらいは協力しても良いだろう。とはいえ野牛は貴重だ。丁重に扱うと念書をもらうぞ。五百より欠かせばその分代金は上乗せだ」

「恩に着る……‼」

 もう一度頭を下げた史進らに、驤之はいたく不服そうにした。瓊勾は見返して謝罪のために首を振った。





 野牛の乗馬指南に翌の丸一日をかけ、次の朝には慌ただしく鹿射へ戻る。


「敵の動きは逐次伝える」

 言った史進に瓊勾は否と返した。

「こちらの伝令を数人残すからあなたの手をわずらわせることはない」

 それには苦笑う。

「信用できない、か。分かった。そうしてくれ。どのみち事が進めば今度は鹿射が戦場になるやもしれん。次に会うのはその時だ。――徐楽を頼んだ」

 瓊勾は頷き返し交換した馬の手綱を取る。

「不利になり助けが必要ならいつでも呼んでくれ。契約のもと馳せ参じる」

「そうならないよう尽力する」


 万騎が南門から来た道を戻り始め、その影が峡谷に消えるまで見送っていた史進はきびすを返した。



 日暮れに県城まで戻れば小さな影が橋の上に佇み自分を待っていた。


「……よくもまあ、心にもないことを次から次へと言えたものだ。口がかゆい」


 悪態をついてめつけてくる少年を史進は鼻で笑う。

「戦とは大半が駆け引きだ。大将の指一本で有利にも不利にもなる。まあ、それが醍醐味さ」

「まるで盤上の遊戯のように言う」

畢竟ひっきょう、人の生とはそんなものだ」

 橋の欄干に腕を凭れほりを見下ろした。「誰かの振ったさいころで誰かが得をし損をする。赤子が死んで老耄おいぼれが生き残る。善良な州牧が悪とされ圧政を布く王がそれをちゅうす。あみの目のようになったこの盤上で、いつ誰が脱落し生き残るのかなぞ、誰にも分からん」

 少年の顔色が変わった。それをさらに小馬鹿にしてわらう。

「……禁軍に、話は通したんだよな?ぼくがここにいること」

「ああ。禁軍にも桂州軍にも使者を送った」

「父は今回の功労者、その息子であるぼくが埋州軍に人質となっているのなら迂闊に手は出せない」


 崙は瓊勾たち万騎が屈岸に到着する少し前に史進と顔を合わせた。埋州が誅伐で鏖殺おうさつし尽くされない為には自分が有用だと訴えた。


「謀叛を摘発した者の息子を逆賊と一緒に殺したと知れ渡れば王に非難が行く。禁軍はどうしたって埋州を踏みにじれない」

 言い募るが相手はただ黙って顔を伏せ、泥水を見つめている。

「埋州軍はぼくを餌に交渉して降伏する代わりに叛乱民の救済を取り付ける……それで解決する。だろ?」

 史進は肩を震わせた。表情は見えない。

「州司馬!」

「……おめでたいぼっちゃん。大逆はいかなる理由があろうとも死罪だと教わらなかったのか」

 笑いをこらえきれず、喉奥を震わせた。崙は青褪あおざめる。

「どういうことだ……?禁軍になんて話したんだ」

 ついに噴き出した。しばらく声をあげて笑い、必死の形相の少年を見下ろした。

「――禁軍は屈岸に来ない」

「……なんだって?」

「さらに言えば桂州軍も俺たちが鹿射にいると思っている」

 崙は開いた口が塞がらない。震える体が発汗した。

「ぼくを、だましたのか」

「州城から上手く逃げ出したのに、またのこのこと戻って来て今度は夷狄いてきの味方とはな。ぼっちゃんはお優しいことだ。そのまま親のもとへ帰れば良かったのに」

「徐楽さまは……万騎は」

「徐楽には悪いが死んでもらう。本人もそのつもりだ。国軍も主犯を捕らえねば示しがつかんだろうしな。俺たちは四泉へ逃げて次の機会を待つ」

 史進はいて来られた野牛を見た。

「すぐに民と共に北上する。街に残りたいやつは好きにしたらいい。鹿射が攻められた後はなし崩しに埋州全土は陥落だ」

「万騎をおとりにして自分たちだけ逃げるつもりか!」

「徐楽には力が足りなかった。州の重職に破落戸ごろつきまがいの俺などを据える豪胆さ、それによって自分より位の低い者たちの支持は受けることが出来たが、他の州牧や朝廷の心は掴めなかった。掴めると信じて早まった、それがあいつの敗因だ」

「あなただって徐楽さまにひとかたならない恩義があるはずだ。あの方は埋州の救済者だぞ。みすみす死なせるのか」

「だからこそ他人に尻を拭わせることはしない。全ての責任を自分で負う為に頑として鹿射を動かん。徐楽は言わなくても俺のことはお見通しだ。俺が潔く玉砕などするわけがないとな。まあここで意志を継ぐ者が絶えるよりは落ち延びたほうがやつの想いに応えられるだろう」

 崙は怒りに戦慄わなないた。

「その為に、万騎と禁軍を戦わせるのか、自分たちの都合で!その隙に尻尾を巻いて逃げるのか!」

「貪欲な夷狄のいぬどもは他国の戦を金づるとしか見ていない。だからそれに目が眩んで容易く騙される。少ししおらしくしてみれば自分たちの馬まで手放して」

 史進はせせら笑った。

「万騎は徐楽さまの要請で対等な取引で来たんだぞ!」

「主将の首はらない、愚王の暗殺は受けない、契約の途中反故は以後断交。……所詮は虚仮威こけおどしの数合わせにしか使えん。しゃしゃり出ていち泉国の王を討てば報復に自分たちのわずかな領地が攻め込まれるのを危ぶむからだ。半端で小賢しい、ずるい奴らだ。身ぐるみだけむしり取っていく」

 ならば、と酷薄の笑みを浮かべた。

「俺たちが助かるために少しは役に立ってもらう」


 崙は身をひるがえした。寒風に汗を散らして橋を渡りきり道を駆けて行く。史進はその背に呼び掛けた。


「お前も自分の行動にもっと責任を持て。でなければあずかり知らぬうちに己のせいで無益なしかばねを築くことになる」

 意味深な嘲笑にぴたりと止まった。怯えて振り向く。

「……どういうことだ」

「脱牢の責めは当事者がいないなら看守にいくんだよ」

 察しのいいことに少年は驚愕の表情で後退あとじさった。

「……芳麗ほうれいに、何をした」

「そんな女はもういない」

 即座に切り返されて呆然と固まる。史進は畳み掛けるように言を重ねた。

「哀れな女だ。お前のような豎子ガキ一人のせいで斬り殺されなきゃならんとはな。あれの命を無駄にしたくないなら、万騎なんかと馴れ合わず今すぐ埋州を出て父親のもとへ帰るのが頭のいい身の振り方だ。お前の父とて、最善を尽くしたとはいえ処罰は免れんぞ。治領で乱が起きたのだから」

「芳麗を殺したのは、お前か」

 肩を竦めた。「違う。だがその場にいたら俺もそうした」

「この……冷血漢。お前たちなんかより、万騎のほうがよほど情に厚い。同じ二泉民として恥ずかしい限りだ。ぼくは逃げない。絶対に」


 崙は絶対に涙を見せないよう、もう振り返らなかった。その小さな背を今度こそ消えるまで見送り、史進は血のように赤く染まった夕空を見上げる。山々に遮られあたりはすでに手許が見えないほど暗い。


 夜の凍てつく風に衣をはためかせ、ぼそりと呟いた。

「許せ……徐楽」




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