〈一〉



 そういうわけで崙たちは急遽鹿射の本邸に帰ってきた。さっそく継母と顔をつき合わせなければならず気まずかったが、ともあれ慣れ親しんだ故郷はやはり落ちつく。屈岸に滞在したのはほんの十日ほどだったものの、それでも随分と懐かしい気がしてしまう。


 戻ってその日の晩に父は慌ただしく出掛けた。今日は帰れないという。お勤めが忙しいのだなと思いつつ下女を従えて歩いていると、赤子を抱えた娟媚と鉢合わせした。


「あ……」


 互いに立ち止まり、崙は落ち着かなげに目を伏せた。まあ、なんということはない。回廊端に避けて女が通り過ぎて行くのを待った、しかし、じっと見下ろされているのが分かっておずおずと顔を上げた。

「……なんですか?」

 問われたのが意外だったのか相手は慌てて目を逸らした。

「なんでも、ないわ」

 そう小さな声で言い、そそくさと去って行く。不快げに見送り、崙は隣の下女に言ってみせた。

「なに、あいつ」

妻室おくさまはこのところお疲れですから」

 とりなしに鼻を鳴らして溜息をついた。

「陰気なひとだなあ」

 ぼっちゃん、とたしなめられても反省せず、遠ざかる後姿を睨み据えた。





 夜半、大きな物音がして目を覚ました。夢か、と瞬けば、また。それで被衾ふとんを蹴って起き上がり窓を開く。外の光景に唖然と口を開いた。


「――なんだ、あれ」


 西の空は夜闇の中で赤々と燃えていた。近くの家では悲鳴や喧噪が聞こえる。崙は内院なかにわへ裸足で飛び出した。


 屋外では下仕えたちがおろおろと同じように空を見ている。

「なに、あれ」

 近くの下男に尋ねると、分かりません、と首を振った。

「火事かしら。だったら逃げないと」

「でも、泉はあちらの方角にあるんですよ?」


 州都にはふつう大きな泉がある。市内に飲水をはじめとした生活用水を賄い、田畑への給水を担った。消火の際ももちろん使われる。


 崙もどうすればいいか分からない。

「父上はまだ帰ってないの?」

 様子をみるにまだ不在のようだ。ともかく最低限の荷を纏めなければ、と屋内に入ろうとしたところで、門前から馬のいななきが聞こえた。


「皆、無事か!」


 駆け込んできたのは血相を変えた父と衛士。ひとまずほっとする。

「すぐに逃げるぞ!軒車くるまに乗りなさい!」

「父上、逃げるって言っても、どこへ行くんです?」

 父は火事とは別に何事かを焦っているように、いいから、と息子の手を引いた。



 軒車は逃げ惑う人々の群れが邪魔でなかなか進まなかった。馭者ぎょしゃが大声で威嚇してなんとか道を開く。父の雇った数少ない衛士たちも馬上で槍を構えて牽制していた。崙は窓から西を眺める。今も空は燃えていて、火は徐々に近づいて来ている気がした。それは背後に見てとれた。


「……東へ向かってる……」

 鹿射泉があるのは西だ。

「父上は粛州へ出るつもりなのかな?」

「どうでしょう。ただの火事ならそんなに逃げなくてもいいと思いますけど」


 崙は下仕えと一緒だった。父といるともれなく娟媚と一緒に乗ることになる。互いの距離の近い車内でその状況はごめんこうむりたい。


 人の波はますます増えている。止まっては進み、少し進んでは止まる。崙は早々に飽きてしまって、馭者の隣に座らせてもらい道を急ぐ人に詳細を尋ねだした。火災が起きているのは確かなようだったが詳しいことを知っている人はおらず、そのうちただ身を乗り出して背後を見つめるのみとなった。


 やっと軽快に車輪が回りだし、緩い風に吹かれて寝不足の頭でぼうっとしていると、後ろから近づく馬影があった。衛士を見る。崙の乗る軒車は列の真ん中で、衛士は前後を守っている。後ろのひとりに近づいた馬の主が何事かを話しかけ、二言三言返した衛士は追い払うように手を振った。だが、後ろに付いた影は距離を保ったまま、ふいに白く光る何かを振りかざした。


 崙は目を見開いた。それは馬上の男の動きと共に一閃して、衛士が大きく仰け反った。ぐらりと体勢を崩して落馬する。男が手綱たづなを奪い取り笑った。ふと、その目がこちらを見る。目が合った。


 獲物を見つけた狡猾な獣のような顔に崙は震えた。中へ戻りたいのに笑顔で睨みつけられて身体からだが縛りつけられたみたいに動けなくなった。


 男が後ろの軒車を追い越してあっという間に近づいてきた。併走しながら白い歯を見せる。


孩子ほうず。お前の父親の名は何だ?」


 威圧感に気圧けおされてぱくぱくと魚のごとく口を動かすしかない崙に、さらに男は尋ねる。

「父親はどこにいる?」

 それで震える指で前方を指した。そうか、と頷いた男は突如として崙の腕を掴んだ。まま、半身を引き摺る。

 やっとのことで金切り声をあげた。中にいた下僕しもべたちも同じく悲鳴を響かせ崙の脚を押さえる。


匪賊おいはぎだ!」

「ぼっちゃん!」


 抵抗虚しく、既に体は大部分が宙に浮いていた。男が一喝した。

「こいつを真っ二つにしたくなけりゃ手を離しな!」

 怒声に一瞬、下僕たちの力が緩む。その隙を突き男は軽々と崙を小脇に抱えた。


 放心していた崙だったがやっと我に返ってばたつく。

「離せよ!」

「威勢がいいなあ」

 男は朗らかに笑って斬りかかってきた衛士をそのまま横薙ぎに払う。盛大な血飛沫が散り、わずかに頬にかかって叫んだ。

「死にたくなかったらおとなしくしてな」

 そう低い声で唸られれば、崙にはもうどうすることも出来ない。騒ぐ下男下女たちを後目しりめに男の馬はあっという間に小路に入り、軒車からどんどん離れていく。


 揺れに気持ち悪くなりながらも崙は必死に後ろを振り返った。匪賊の駆ける馬はあろうことか西へと戻り始める。今や空はまるで夕陽が沈む直前のように燃える火色で、崙は焦りで身をよじらせた。


「お……降ろせ!」


 勾引かどわかされた恐怖で動転し反抗すれば、騒ぐなよ、と男はじろりと見下ろした。それでも力を振り絞る。頑として動かない隆々とした腕に思いきり噛みついた。

 大きな舌打ちが聞こえたと同時にうなじに衝撃が走り、事態を把握するより先に意識を手放してしまった。







 次に目覚めると薄暗い室内に横たえられていた。首の痛みを感じながら自身の状況を飲み込むべく頭を巡らせども、薄暗い室内は灯火ひとつなく、ただ小さな格子窓からほのかに月明かりが射して輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるのみ。だいたいの家具の位置は分かったもののいったいここがどこなのかは定かではない。動こうとして手足が縛られていることに今さらながら気がつき、噛まされたくつわにも動揺した。

 芋虫のように腰を伸び縮みさせ呻いて荒い息を吐く。声を出せないまま唸って助けを呼んだが、あたりはしんと静まり返っているばかり、鉱山坑にひとり置き去りにされたかのようだった。怖くて心細くて身悶みもだえ、桎梏しっこくを外そうとむやみやたらに暴れた。疲れただけだった。


 しばらく混乱したまま泣いて、ふと微かに聞こえた話し声に頭をもたげる。板戸の下の隙間からほんのりと光が漏れでた。転がるように這い、明るみに縋って近づくと低い声がする。


「――あの男は」


 別の声がもうひとつ。「さてね」

「まさかもう粛州へ抜けたのではあるまいな。追手はかけたのであろう?」

「こっちは民を抑えるので手一杯なんだ。息子をってきただけでも褒めて欲しいね」


 自分をさらった男だ、と崙は硬直した。会話が続く。


「では、今どこにいるか分からないと言うのか」

「見張りは付けてる。州境らへんだ」

泉畿みやこに行かれては困るぞ」

「ではさっさと殺してしまえばいい」

 ならぬ、ともうひとつの声は厳しい調子で言った。

「応答が途絶えれば不審がられる。今の時点で禁軍が出てきては勝ち目なぞない。……あれの息子はどこだ?」


 履音くつおとがこちらに近づいてきて思わず離れた。軋んだ音を立てて光が一気に房室へやの中に入ってくる。眩しさで目を細めた。男二人の人相は逆光で判然としない。


「ああ。起きたのか」

 崙を連れてきた男がしゃがんで覗き込んだ。それで髭面のいかにも破落戸ごろつき然とした顔が分かってびくつく。もう一人は立ったまま後ろ腰に両手を預けている。その姿になんとなく見覚えがあるような気がしてじっと見上げた。

 壮年の、皺のある憂えた顔、白髪のまげと長いひげ、外見に似合わず背はまっすぐ高くて。


「……おい、孩子が何か言ってるぜ」

 唸ったのに破落戸風の男が顎をしゃくる。

「……轡を外してやれ」

 荒く布を解かれて咳き込んだ。信じられない思いで無表情に立つ者の名を口にする。


徐楽じょらくさま…………‼」

「そうか、覚えていたか」


 白髪の老爺――徐楽は呟いた。時おり父が邸に招いていた、父の上官。崙も数える程度顔を合わせたことがある。秩石ちっせき二千せき、この埋州を統べる大官吏。


「埋州州牧しゅうぼく!なぜあなたがここにおられるのですか?なぜぼくを?」


 矢継ぎ早に訊けど、目を逸らされる。横顔になおも問いかけた。

「父は、家の者たちは無事なのですよね?ここはどこですか。どうしてぼくだけここへ?」

「お前は人質ってやつだ」

 答えない徐楽に代わって隣の男がにやりと笑った。

「人質……」

 何の為に、と二人を睨んだ。徐楽が嘆息して額を押さえる。

「……済まないね。君の父上は頑固で、こうするしか意見を聞いてもらえないと思ったんだ」

「どういうことですか」

「孩子に話しても分からないさ」

 肩を竦めた男を崙はさらに睨む。

「ぼくを、殺すのか」

「場合によればな」

 やめなさい、と徐楽が咎めた。

史進ししん、怖がらせるようなことを言うな。崙は賢い。何も伝えずにとどまらせてはかえって酷だろう」

 史進は鼻を鳴らしたがそれ以上はふざけなかった。徐楽は手ずから崙を起こすともう一度謝る。

「君には申し訳ないことをしているが、どうか大人しくしておいておくれ」

 手足を繋がれたままで何とか座り込む。

理由わけを、聞かないと」

 徐楽は一度頷き、おごそかに言った。


「屈岸の民が決起した。埋州軍はそれを援護する。ついては朝廷の腐敗と王の圧政を糾弾し二泉全土に打倒朝廷の蜂起を呼びかける」


 崙はぽかんとその顔を見つめた。


「王……二泉しゅに、逆らう?」


 自分で呟いてみてゆるゆると言葉を理解した。「謀叛むほんということですか……?」

 講義で習っただけの単語を言ってみればとても現実味がなく、自信なさげに大人二人を見る。徐楽は再び頷いた。

「でも……泉主に刃向かうなんて」

 出来るわけがない。国というのは正統な王が君臨していなければ泉が腐る。しかし史進は平気そうに腰に手を当てた。

「各地で乱が起きるのは二泉じゃ珍しい事じゃない。貧しい南ではよく起きる」

「だからといって……」

「崙、君は昔の泉を思い出せるかい?」

 徐楽が教師のように言う。

「先代泉主の治世では、即位した当初はそれはそれは青く透けた命水だった。治世の途中からなぜかくすみ出したものの、それでも今のように濁りきってはいなかった。完全に泥水のようになったのは現泉主が即位なされた三年前からだ」

 たしかに、幼い時分の頃のほうが街の水はまだ透けていた気がする。


 大抵貴人の家々は郷里を巡る環泉かんせんを自邸に引き入れる際に濾過装置を通す。濾過装置というのは誰にでも買えるものではなく、それなりに値の張るものだから士階級のふつうの民の家は街の水を直接使うのが常だった。崙の邸ほどにもなれば水をそうやって濾過して生活用水として使うから、湧いたままの泉水をそのまま飲むことはあまりない。


「王が即位したにもかかわらずこの濁りよう。これはふつうは有り得ないことなのだ。よほどの悪行を犯していて、天に見放されているとしか思えない」

「でも、徐楽さま、泉主というのはそもそも天帝かみさまに認められなければなれないものでしょう?」

「その通り。現泉主は紛れもなく二泉の王だ。しかしこのままでは圧政の代償として二泉の水はやがて涸れてしまうだろう。新たに泉主が即位したとはいえ、民の暮らしは一向に楽になっていない。屈岸は由霧に近く不衛生で困窮のひどい土地だ。耐えかねて決起するのも頷ける。だから、我々は屈岸の民を後押しする」

 崙は咀嚼できずに傾げた。

「埋州を治めるのは徐楽さまのお仕事ではありませんか」

「もちろん、埋州の現状は何度も奏上した。しかし捨て置かれた。氾濫を予防する為の堤を補強しようにも予算も人夫も足りず、税だけが上がってゆく。屈岸などの鉱山を擁する街は険阻な山に囲まれて農地が少なく、実りも足りない。だのに取り立てばかりがひどくなる。朝廷の方針がそうならば、私にはどうすることも出来ぬ。それゆえ泉主の目を覚ます必要があるのだ。民はこんなにも苦しんでいるということを」

「だから、叛乱に手を貸すのですか」

「孩子は二泉主が従うに足る王だと思ってるのか」

 史進が小馬鹿にしたように見下ろしてきて、困って目を逸らした。

「……泉主がお亡くなりになれば水に困る」

「確かにな。じゃあ民がいなくなれば泉主はどうなるんだ?お上品な口に入る米を作ってるのは誰だと思ってる。かいこから糸を紡ぐのは?塩や浄水石を他国とあきなって二泉にもたらすのは?全て民がやっている。民がいなくなれば泉主なんてなんの意味もない」

「……それは、そうだけど……」

「民は王に感謝されこそすれ、虐げられるわれなどない。誰が良いか悪いかなんてのは立場にらないし常に変わるんだ。泉主が全て正しいわけじゃない。そして二泉主の行いは看過すべきものじゃない。だから俺たちはあえて逆らう」


 困惑して二人を見上げ、さらに首をひねった。二人の主張は分かったが、自分がなぜこうして捕らえられているかの理由にはなっていない。


「それで、ぼくにどうしろというんです」

「君の父君ちちぎみは私たちの考えに反対した。おそらく埋州を出奔し泉畿へ直訴に行くつもりだ。文を送られるだけなら真偽のほどの確認はまず州牧である私のもとへと来るからして誤魔化せるが、国府に駆け込まれればこちらの準備の整わないうちに禁軍が出てくる。それは困る。彼には泉畿へ行かれてはならんのだ。願わくば協力を要請したいとなんとか説得をしていたのだが」

「それでぼくを使って脅そうというわけですか」

 徐楽は頷いた。しかし崙は首を振る。

「父上は情けをおかけになったりはしません。ぼく一人の為に直訴をおやめになるような人ではない」

 老爺は驚かなかった。だろうな、と頷いて背を向ける。

「あれは清廉方正で実直な男だ。とはいえ情と義に厚いところもある。そこに訴えかけていたが……予想通りいさめられた」

 徐楽は諦念した寂しげな瞳をしてみせた。彼と父が公私共に親しかったのは崙も知っていた。

「だが時間は稼げる。いまや決起した民はここまで押し寄せている。禁軍が制圧に乗り出す前に他州に協力を呼びかける隙はあろう」

 崙は室内を見回した。

「ここは、州府しゅうふなのですか」

「そう。鹿射城だよ」

「州府の皆さんは謀叛に協力を?」

「行動は各人にまかせた。残ったのは三分の一くらいか。ありがたいことだ」

「……そっちの男は父の衛士を斬りました。父はぼくがここにいるとしてもあなた方に従わない」

「こちらの本気を示す必要があった。お前の父親が俺たちに付けば他州の者も呼応しやすいからな」

「でも殺す必要なんてなかった!」

 少年は自らの言葉に傷ついたようで唇を噛んだ。やれやれと史進は頭を掻く。

「徐楽、俺はもう行くぞ。火を消して州軍が味方だと触れまわらねばならんからな」


 そう言って手を振り去って行った男の姿が見えなくなってから、崙は徐楽に問うた。

「あの人はなんなのです。徐楽さまの私兵ですか」

「いいや。あれは我が埋州州軍を統べる要、軍の長、州司馬しゅうしばの史進。あれももとは屈岸で鉱夫をしていたのだ。埋州には詳しい」

「あんな乱暴な人が州司馬?」

「人のことをわずかな一度きりの交流でこうと決めてかかるのはよろしくない。たしかにあれは君を襲ったが、埋州のことや、二泉の明日を考えて動いてくれておる。老耄おいぼれの私にはもったいないほどの男なのだ」

寡兵かへいの諸州が蜂起しても、禁軍に勝てるはずがない」

「君は何をもって勝ちと言うのだね?」

「また問答ですか」

 徐楽は溜息をついた。「崙、私たちはなにも禁軍を打ち負かそうとは考えていない。この戦いで泉主が泉畿だけでなく国の隅々にまで目を向けて民の暮らしが今より少しでも良くなればいい。それが、私の目指す『勝ち』なんだ」

 そのためにこんな大事にするのか、と崙は理解できなかった。

「それに、ただやられっぱなしではない。できるだけの手は打つ。君には申し訳ないが、父君の行動如何によっては残念なことになるやもしれない。理不尽を強いるが覚悟だけはしておいて欲しい」

 言い置いた背にたまらず叫んだ。

「本当に理不尽です!州牧は自分勝手だ!民を憐れむその口でぼくに死ねと言うんですか!」

 しかしその糾弾にはもうなにも答えはなく、徐楽もまた出て行ってしまった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る