故人万里
合澤臣
序
見渡せば色味のない灰色の街、地平にかかるのは茶色く低い山々。さらに遠くには薄ぼんやりとして空に溶け入る、街と同じ色の紗幕のような霞がまるで
山ばかりだ、と辟易して悪態をつく。鼻をかすめるのは
路地裏で響く喧嘩の怒号、茶碗の割れる音、唾を吐く
活気があるといえば聞こえはいいが、狭い土地にぎゅう詰めにひしめく民家や露店はぼろぼろで猥雑だ。周辺を山が囲う閉塞した小郷。それがここ、二泉国は
接続した街道は北は四泉国との国境まで続き、南は分岐して
必然、街もその家族が多い。男が多く女は少なかった。正直に言ってしまえばむさくるしいことこの上ない。汗と泥土の混じって
「ぼっちゃん?」
気の抜けた顔をした門人が呆れた声を出す。それに頷き額の汗を拭った。
「お帰りなさいまし。……どうかなさったんで?」
「父上は、戻ってきている?」
いまだ荒い呼吸のまま問えば男ははい、となおも不思議そうに首を傾げた。
脇戸を
足を洗うのももどかしく、急いで
「父上、ただいま帰りました」
中で声がしたのでそのまま開くと、父親は難しい顔をして
「
「はぐれました」
「あからさまに嘘をつくな。またまいて戻ったのか。なんの為に金を払って雇っていると思うのだ。昨今子どもがひとりで出歩くのは危ないと言っているであろうが」
険を含んだ声で凄まれて崙は肩を竦めたが、それでも言い返した。
「まかれるほうが阿呆なのです。それより父上、
鹿射は埋州の州首都、屈岸よりずっと大きい街で、崙たちの本邸がある。
父は渋い顔をした。
「お前が私の視察にどうしてもついて来たいと言うから連れて来たのに、もう帰りたいと?我儘も大概にしなさい。それに、本邸ではいつも出掛けたいと駄々を捏ねるではないか」
「鹿射では
そう言った崙に父は卓子を叩いて睨み据えた。
「自分の母を呼びつけにするよう育てた覚えはない!」
びりりと書房の空気が震撼して崙は縮こまった。だって、と内心で不平を垂れる。娟媚は本当の母上じゃないし。
それに、彼女は自分のことを無視しているようだった。挨拶したのは初めて顔を合わせた時だけだ。去年、弟が生まれてからさらにいないものとして扱われている。そう、思う。
「講義で何を学んでいるのだ。お前は親に対する礼も取れないのか。そんなことでは官吏になるなぞ到底無理だ。そもそも地頭が良いことに
反駁したい。とはいえ、これ以上父を怒らせると説教が続いて厄介なので謝る。父は卓子に広げられた書文から目を上げないまま、保鏢にも謝りなさい、と言ってもう出て行けと手を振った。それでおとなしく
(……つまらないなあ)
実際、崙にとって勉学や礼儀作法の講義とはつまらないものだった。大抵一回読んだり教わったりすれば覚えてしまうことを何度も復習する意味が分からない。退屈を紛らわすのに街に出るのは良い暇つぶしになった。見たこともないものや食べたことのないものが溢れていて楽しい。とはいえ、屈岸はにおいに慣れなくて早く離れたいが。
どこかに転がっていないだろうか、と寝返りをうった。心を躍らせるような、熱中できるような何かを、昔からずっと探していた。
そのまま寝入ってしまったらしく、すっかり暗くなった頃に下女に揺すられ起こされた。
「……父上は?」
「
「いや、
目を擦りながらそう返し、共に房室を出た。短い
「お客さん?」
問われて女は曖昧な顔をした。「みたいですけど、裏口からお通りになったのであたしらは誰だか知らないんですよ。顔も隠しておいでだったし」
ちょっと気味が悪くて、と苦笑したのに笑い返した。崙が
「鹿射からかな?」
「どうでしょうねえ。馬でおいでになったから」
「いつ来たの?」
「つい先ほどですよ」
さっき、ともう一度明かりを見た。すでに街の門は閉まっているはずだ。ということは、市中の者なのか。
なんとなく引っ掛かりをおぼえつつ遅い夕飯を済ませ、手習いをしていると微かに外で物音がする。薄く窓を開いてみれば、夜陰の静けさに混じり裏手で馬の駆ける音が遠ざかっていった。さらに耳を澄ませていると突然自分を呼ぶ声がして飛び上がった。慌てて応対に出ると昼間よりさらに険しいしかめ面で父が灯火を手にして立っている。
「どうかされたのですか?」
「明日、鹿射へ戻る。荷をまとめておきなさい」
それだけ言うとくるりと背を向けて書房に戻って行く。崙は明日、と口中で繰り返した。なんとも急な話だ。下仕えたちはてんてこまいだな、と他人事のように思いながら
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます