故人万里

合澤臣



 見渡せば色味のない灰色の街、地平にかかるのは茶色く低い山々。さらに遠くには薄ぼんやりとして空に溶け入る、街と同じ色の紗幕のような霞がまるで蜃楼まぼろしのように浮いていた。


 山ばかりだ、と辟易して悪態をつく。鼻をかすめるのは暗渠あんきょから漂う汚泥のにおい。道端で痩せた野良犬が焦げた何かをむさぼっている。うち棄てられた残飯には蠅がたかるが片付ける者もなし、鐘楼しょうろうの下では物乞いが蹲り、浮浪者がたむろする。

 路地裏で響く喧嘩の怒号、茶碗の割れる音、唾を吐くきたならしい嗚咽おえつと下卑た嬌声。しかし、子供の姿は少ない。孤児は女衒ぜげんに捕らえられて泉賤どれいとして売られる。街で見かけるのはきちんとした親のいる子供か、すでにどこかに雇われている使用人、あるいは貴人の息子や娘。と言っても貴族はわざわざ歩いて移動などしない。大抵は馬や軒車くるまに乗るものだ。

 活気があるといえば聞こえはいいが、狭い土地にぎゅう詰めにひしめく民家や露店はぼろぼろで猥雑だ。周辺を山が囲う閉塞した小郷。それがここ、二泉国はまい州、石杉せきさん県の西の端、屈岸くつがんだった。



 接続した街道は北は四泉国との国境まで続き、南は分岐してけい州や東のしゅく州へと続く。街というのはふつうは壁で囲まれているもので、ここもそれは同じだが街道の通る南北の門は大きく箭楼やぐらがあるのに対し、西の門はそもそも存在しない。その外は国外、由霧ゆうむと呼ばれる瘴気が満ちる人外の地だからだ。そして東の門は木造で小さく門卒も数えるほどしかいない。向こう側はそのまま山林に面している。使うのは山で働く者――鉱夫たちが仕事の出入りでしか行き来しない門だった。


 必然、街もその家族が多い。男が多く女は少なかった。正直に言ってしまえばむさくるしいことこの上ない。汗と泥土の混じってよどんだにおいも苦手だった。だから今日も息を詰めて雑踏の中を足早に駆け、やがて走り出す。それでも街を抜けるまではもたない。苦しくなって途中で盛大に息を吐き出し、あとはもう諦め風に乗るままに吸い込むしかないが、歩いているよりは臭気はましに思った。自分の息遣いだけが鼓膜に強く響く。走りすぎて胸が焼けるように熱い。それでも足は止まらず、石畳が見えないほどの人混みを縫うように駆けていく。


 大途おおどおりをまっすぐ南へ駆けて、少しひらけた道は南門へ向かって緩やかに傾斜している。それを脇に逸れ山腹に繋がる急な坂道を登って行った。街から離れた山肌は富裕層のやしきが立ち並ぶ。そのひとつ、今のところ自身の住む家に辿り着き、門前で立ち止まり息を整えた。


「ぼっちゃん?」


 気の抜けた顔をした門人が呆れた声を出す。それに頷き額の汗を拭った。

「お帰りなさいまし。……どうかなさったんで?」

「父上は、戻ってきている?」

 いまだ荒い呼吸のまま問えば男ははい、となおも不思議そうに首を傾げた。

 脇戸をくぐって中へと入り、下女にも驚いた顔をされる。「ぼっちゃん、泥だらけですよ」

 足を洗うのももどかしく、急いで書房しょさいへ向かい、隔扇とびらを叩く。

「父上、ただいま帰りました」

 中で声がしたのでそのまま開くと、父親は難しい顔をして煙管きせるっていた。息子の汚れた姿を見て顔をしかめる。

ろん保鏢ごえいはどうした」

「はぐれました」

「あからさまに嘘をつくな。またまいて戻ったのか。なんの為に金を払って雇っていると思うのだ。昨今子どもがひとりで出歩くのは危ないと言っているであろうが」

 険を含んだ声で凄まれて崙は肩を竦めたが、それでも言い返した。

「まかれるほうが阿呆なのです。それより父上、屈岸ここにいつまでおられるのですか。早く鹿射ろくしゃに帰りましょうよ。ぼくはもう我慢なりません」

 鹿射は埋州の州首都、屈岸よりずっと大きい街で、崙たちの本邸がある。

 父は渋い顔をした。

「お前が私の視察にどうしてもついて来たいと言うから連れて来たのに、もう帰りたいと?我儘も大概にしなさい。それに、本邸ではいつも出掛けたいと駄々を捏ねるではないか」

「鹿射では老師せんせいが家に来るのですもの。ずっと房室へやにいなくてはならない。それに、娟媚けんびがいて息が詰まる」

 そう言った崙に父は卓子を叩いて睨み据えた。

「自分の母を呼びつけにするよう育てた覚えはない!」

 びりりと書房の空気が震撼して崙は縮こまった。だって、と内心で不平を垂れる。娟媚は本当の母上じゃないし。

 それに、彼女は自分のことを無視しているようだった。挨拶したのは初めて顔を合わせた時だけだ。去年、弟が生まれてからさらにいないものとして扱われている。そう、思う。

「講義で何を学んでいるのだ。お前は親に対する礼も取れないのか。そんなことでは官吏になるなぞ到底無理だ。そもそも地頭が良いことに胡座あぐらをかきおごっていては必ず身を滅ぼす」

 反駁したい。とはいえ、これ以上父を怒らせると説教が続いて厄介なので謝る。父は卓子に広げられた書文から目を上げないまま、保鏢にも謝りなさい、と言ってもう出て行けと手を振った。それでおとなしく退さがってやっと帰ってきた保鏢たちに詫び、大きく溜息をつきながら自房じしつへと戻る。牀榻しんだいに倒れ込み仰向けになると、鳥の紋様が描かれた天花板てんじょうをぼんやりと眺めた。



(……つまらないなあ)



 実際、崙にとって勉学や礼儀作法の講義とはつまらないものだった。大抵一回読んだり教わったりすれば覚えてしまうことを何度も復習する意味が分からない。退屈を紛らわすのに街に出るのは良い暇つぶしになった。見たこともないものや食べたことのないものが溢れていて楽しい。とはいえ、屈岸はにおいに慣れなくて早く離れたいが。


 どこかに転がっていないだろうか、と寝返りをうった。心を躍らせるような、熱中できるような何かを、昔からずっと探していた。






 そのまま寝入ってしまったらしく、すっかり暗くなった頃に下女に揺すられ起こされた。

「……父上は?」

夕餉ゆうげはもうお済ましになりましたよ。ぼっちゃんのは持ってきたほうがいいですか?」

「いや、飯庁しょくどうへ行くよ」

 目を擦りながらそう返し、共に房室を出た。短い走廊ろうかを渡っているところで父の書房の明かりが煌々と光っているのが見え、中で二、三の影が動くのをみとめて下女を見上げる。

「お客さん?」

 問われて女は曖昧な顔をした。「みたいですけど、裏口からお通りになったのであたしらは誰だか知らないんですよ。顔も隠しておいでだったし」

 ちょっと気味が悪くて、と苦笑したのに笑い返した。崙がこだわりなく父親の悪口を言うものだから、邸の下仕えたちも崙には気安い。

「鹿射からかな?」

「どうでしょうねえ。馬でおいでになったから」

「いつ来たの?」

「つい先ほどですよ」

 さっき、ともう一度明かりを見た。すでに街の門は閉まっているはずだ。ということは、市中の者なのか。


 なんとなく引っ掛かりをおぼえつつ遅い夕飯を済ませ、手習いをしていると微かに外で物音がする。薄く窓を開いてみれば、夜陰の静けさに混じり裏手で馬の駆ける音が遠ざかっていった。さらに耳を澄ませていると突然自分を呼ぶ声がして飛び上がった。慌てて応対に出ると昼間よりさらに険しいしかめ面で父が灯火を手にして立っている。

「どうかされたのですか?」

「明日、鹿射へ戻る。荷をまとめておきなさい」

 それだけ言うとくるりと背を向けて書房に戻って行く。崙は明日、と口中で繰り返した。なんとも急な話だ。下仕えたちはてんてこまいだな、と他人事のように思いながら隔扇とびらを閉めた。父の憂うような苦悶するような表情が頭にこびりついて離れなかった。




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