第4話

 小学二年生のとき、隣の席の男子が私に言った。

「お前、何でお父さんのこと書いてないんだよ?」

 当時、授業の一貫で自分の成長アルバムを作った。生まれてから小学校に入学するまでを親に尋ねてまとめ、配布されたノートに自分の名前の由来や思い出を書いたり、写真を貼っていた。その最後のページに両親それぞれの似顔絵と感謝の気持ちを綴る『ありがとう作文』があったのだけど、私はお母さんのことしか書いていなかった。

 お父さんは私が生まれて半年過ぎた頃に事故で亡くなったらしい。まだ赤ちゃんだったのだから、小学二年の私にはお父さんに関する記憶は一切なかった。そのお父さんに『ありがとう作文』を書くのは難しすぎて出来なかったのだ。

「他のみんなもちゃんと書いているのに」

 そのクラスの中で片親の家庭は私だけで、こういうときは何で私だけ? と、いつも感じていた。親に関していじられるのがすごく嫌で仕方がなかったけど、子供の頃は男子に対して人見知りしてしまうこともあって、私から何か言うこともなかった。

「何してるの?」

 気付けば、その懐かしいアルバムを手にして部屋で座り込んでいた。掃除している最中だったのに……。

「掃除機、まだ使うの?」

「あ、うん。ごめん、あと少しだけ」

 お母さんは不満そうに眉間に皺を寄せて、部屋の扉を閉めた。

 アルバムを見つけたことで昔の記憶に引っ張られてしまったけれど、掃除を急いで終わらせるためにアルバムは紙袋に入れてクローゼットの中の上へ仕舞った。いまだに持っていたことに驚いたが、貼ってあった自分の誕生日の写真にお母さんと写っているのを見たら、なんとなく処分しにくくなってしまった。

 その日の夜、しばらく連絡を取っていなかった高校時代の友達からメールが来た。他愛のないやり取りの後、会う約束を交わし、明後日に地元の駅で待ち合わせすることになった。

 約束の日、バイトを終え、地元の駅の改札を抜けて南口へ向かうと友達の沙織がワイドパンツにシフォンブラウスの私服で壁際に立っていた。

「おっ! 茉莉奈!」

「沙織、久しぶり! 髪短くなっているね」

「そう! 高校卒業して一年くらいは長いままだったけど、面倒になって切ってからずっとこのままだよ」

 私と沙織は近くの居酒屋チェーン店に入った。女性の店員に禁煙席を案内され、メニューを見ながらレモンサワーと梅酒、串物や刺身の盛り合わせ、だし巻き玉子などを注文する。

 お待たせいたしました。レモンサワーと梅酒でございます」

 店員がそれぞれのお酒をテーブルに置き、去っていく。私は梅酒をとった。

「それじゃあ、お疲れ~!」

 一口梅酒を飲む。お酒を飲むのも久しぶりだ。

「茉莉奈は今、仕事何しているの?」

 一瞬口ごもったけど、そのまま答えた。

「私は……接客のバイトしてる」

「そうなんだ。私も書店で働いているよ。最近は新人を教えることが多いかな」

「そっか。大変だね」

「その合間に、店長から色々教わることもあるから、パンクしそうになるんだよね」

「教わるって、何を?」

「今、店長候補なの。もう五年目になるからさ。だから、店長に代わってシフト作成してみたり、発注することもあるんだ」

「……すごいね、店長になるんだ」

「でも、桃香の方が楽しそうにやっているよ」

 懐かしい名前だ。桃香とは高校を卒業してから全く会っていない。

「連絡とっているんだね。」

「うん。たまにね。忙しいみたいだから、なかなか会えないんだけど。桃香は水族館でイルカショー担当しているんだって!」

 予想外だった。桃香、そんな仕事していたんだ……。

「難しそうだけど、いいよね。イルカと触れ合ってるなんてさ」

 梅酒をまた飲んだ。最初の一口目の方がおいしかったような気がした。

 それから、店員が刺身などの他の注文した料理を運んできた。それを食べながら、仕事の不満や他の同級生の様子、ネットやテレビの話題などで盛り上がった。続けて梅酒を注文しようか迷ったけどまた頼んでもおいしく飲めない気がして、その後は結局、頼まなかった。


「ありがとうございました」

 紅茶をお買い上げされたお客様を見送る。

「お疲れ、茉莉奈ちゃん。仕事、だいぶ慣れてきたね」

「はい。まだまだ覚えることがたくさんありますけど、どうにかこうにか……」

「ハーブティーの説明、お客さんに出来ていたもんね!」

 悠人くんが箒で床を掃きながら言った。

「悠人くんも紅茶の説明をしていたよね」

「うん。今日のお客様はジャワとアッサムを試飲していたよ」

「ジャワティーって、スッキリして初心者でも飲みやすい紅茶だよね?」

「そう! どの食べ物にも合うよ」

「アッサムティーが……渋くて濃厚?」

「正解。ちなみに、渋いけど香りは甘さがあって、色はコーヒーぐらい黒いよ」

「色まで気にしてなかった……」

「紅茶には日本茶やハーブをブレンドすることも出来るから、基本を覚えたらその辺りの応用をお客様におすすめするようになると理想的だね」

「これから日本茶教室だから時間がないけど、今度、時間のある時に飲んでみるといいよ」

「はい。そうします」

「……あっ、そういえば」

 宏人さんは何かを思い出したように呟き、バックヤードへ入っていった。

「拓人に持っていくように言うの忘れちゃったなぁ……」

 戻ってくるなり、困ったように宏人さんは呟いた。

「悠人はこの後、予定ある?」

「学校行くけど……どうかした?」

「う~ん、拓人に父さんの上着を持って行ってもらいたかったんだけど、伝え忘れて」

「明日は?」

 宏人さんは首を横に振った。

「悠人、学校で行けないだろう? 拓人もそうだし、僕は店があるから行けないんだ。だから、拓人が今日病院に行っている。母さんも泊まりだし」

 二人の会話を聞き、思い切って宏人さんに提案してみた。

「あの……私が届けましょうか?」

「えっ、いやそれは悪いよ。仕事以外のことをお願いするのは」

「私は大丈夫です。病院も近くですし、病室を教えていただければそこまで持って行きます」

「ありがとう、茉莉奈さん!」

「悠人……!」

 宏人さんが悠人さんを咎めるように名前を口にした。

「この際、お願いしちゃおうよ。届けてもらうだけだし。たぶん、父さん困るでしょ?」

 私は悩んでいる様子の宏人さんに言った。

「任せて下さい」

「……それじゃあ、頼んでいいかな」

 病室の番号と白石家兄弟の父親の名前を聞き、上着の入った紙袋を受け取る。

「助かるよ。拓人には僕から連絡しておく」

 帰り支度を済ませ、急いで向かった。


 病院に入り、エレベーターを探して奥へ向かう。誰も乗っていないそれに乗り込んで四階のボタンを押す。到着してエレベーターから降りるとナースステーションのそばにある長椅子に拓人さんが座っていた。文庫本を読んでいるようだったけど、私に気付いて立ち上がる。

「ありがとう。世話をかけた」

「いえ、大丈夫です。これ、頼まれたものです」

 拓人さんは紙袋の中の上着を確認すると

「ちょっと待ってろ」

 そのまま紙袋を持ち、エレベーターから一番手前の病室へ入っていった。私はその病室の近くへ行き、表札の名前を見る。そこには『白石正樹』の文字。

 扉の向こうから少し話し声が聞こえる。それでも小さくて、何を話しているのかはわからなかったが、勝手に聞いてしまっているようでいたたまれなくなった。病室を離れようと背を向けたとき、扉が開く音がした。

「悪い、待たせた。荷物はわたせたからもう大丈夫」

「はい」

 私と拓人さんはエレベーターに乗って一階へ下り、病院を出た。飲み物を買うからと、拓人さんはお金をすぐそばの自動販売機に入れた。飲み物が落ちてきた音が二回したかと思うと、拓人さんは私に缶のカフェオレを差し出してきた。

「お礼。ハーブティーじゃないけどな」

「え、でも……」

「遠慮しなくていい。お金も無駄になるし」

「……ありがとうございます」

 カフェオレを受け取る。拓人さんの右手を見ると、案の定コーヒーが握られていた。カフェオレを一口飲む。……うん、おいしい。

「さっき、何を読んでいたんですか?」

「ん? ……あぁ、これか」

 拓人さんは鞄から文庫本を取り出した。川越駅近くの書店のカバーが掛けられている。

「志賀直哉ってわかるか?」

「……名前だけは。小説家ですよね」

 拓人さんは頷いた。

「代表作は『暗夜行路』や『小僧の神様』などだな。俺は志賀直哉を大学院で研究している。時間あるときに読み返せるように持っているんだ」

 拓人さんが研究者志望だという宏人さんの言葉を思い出した。

 私自身、志賀直哉の小説を読んだことはない。だから、どんな内容なのかわからないけれど、拓人さんは彼の作品を研究していきたいと思っていたのかな。

「今日、上着持っていくように悠人に頼まれたのか?」

 私は首を横に振った。

「私が行こうかと自分で提案したんです」

「それに悠人が乗ったんだな」

「あ、えっと……」

「今日持っていかないと親父がかわいそうだとか言ったんだろ? そうでなきゃ、兄貴はお願いしないだろうし」

「……そんな感じです」

 さすが兄弟だなぁ。よくわかっている。

「兄貴はよく周囲に気を遣う。家族の俺達にもそうだからな」

「そうですね。何となくわかる気がします」

「もっと自分のことも考えた方がいいと思うんだけどな。兄貴は日本茶が好きではあるけど、店を継いだ分、他のことに打ち込める機会やフリーの時間がないんだ。親父が入院している今はしょうがないけど、親父が退院したらどうにかしてやらないと」

 拓人さんの言葉を聞いて、思わず頬が緩んでしまった。

「……何だよ?」

「あ、すみません。宏人さんも同じように拓人さんと悠人くんのこと、心配していたので」

 拓人さんはため息をついた。

「でも、いいですね。兄弟いるのって。うらやましいです」

「そんなもんでもないよ」

 拓人さんは私から視線を外して呟いた。

「高瀬さんは兄弟いないの?」

「はい。一人っ子です」

「仕事はやってみてどう?」

「覚えるのが大変ですね。でも、好きなものの仕事なので早く覚えられるよう頑張ります」

「就職は?」

「……私、どこもダメだったんです。大学卒業するまでにしたかったんですけど、上手くいかなくて。うちは母一人の片親だから、家にお金入れることも考えていたんですけどね」

「そうか。大変だな。一人っ子なら、なおさら」

「昔は、父親がいたらどれだけ違っていただろうって思いました」

「……やりたい仕事や希望の業界はあるの?」

「いえ、今のところは……。アルバイトの経験から、販売の職種も探してはいたんですけど」

「それなら、この仕事も将来に活かせると良いな」

「はい」

 今はこの仕事を頑張るしかないよね。

「……そうだ! 訊こうと思っていたんだけど、今度の日曜日は予定入れてる?」

「いえ、特には」

「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないか? 休日手当出すから」

「えっ、どういうことですか?」

「手伝ってほしいことがある」



 -続-

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