第3話

 天気の良い昼過ぎ、アルバイトが休みの今日はお母さんに出掛ける旨を伝えて家を出る。すると、隣の家から子供の賑やかな声と笛の音が聞こえた。たぶん、リコーダーの練習をしているんだろう。その家の前を通過するとき、母親の叱りつける声も聞こえ、笛の音が止んだ。母親の前で子供がおとなしくなる姿が頭に浮かぶ。歩きながら、自分がお母さんに怒られた記憶が蘇った。

 まだ園児だったとき、お母さんに連れられてスーパーに買い物に行ってお菓子を眺めていたときのことだ。欲しいお菓子があったけれど、お願いしてもダメだと言われると思ってお母さんの目を盗んでポケットに入れてしまった。その後、何事もなくレジを通過し、スーパーを出た。

 それでも結局、家で罪悪感を覚えて食べようかどうしようかコソコソ迷っているところで見つかり、白状して怒られた。それからお母さんは万引きしたお菓子を仏壇の前に置いて、祈っていた。当時は怒られたことにショックで気にしていなかったけれど、今にして考えれば私に代わって仏様に謝罪していたのかもしれない。

 そんなことを思い出していたら、いつの間にか地元の図書館に到着していた。

「人が多いな……」

 私は混雑をかき分け、検索機で必要な本があるか調べる。該当したハーブティーの事典は他の図書館にもあったが、ここの図書館のものを選んで一般の書棚へ向かい、料理や裁縫などの家庭本が並ぶ棚で足を止める。

「……あった」

 ハーブティーの事典を見つけてペラペラとめくり、一通り確認する。カウンターで事典を借り、図書館を出る。

「あれ……?」

 しばらくして、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。……拓人さんだ。

 声を掛けようかとも思ったけれど、拓人さんはそのまま近くの建物に入っていった。

「ここって、病院?」

 何でこんなところに……。体調不良?

 しかし、実際に見た拓人さんの姿からは具合が悪いようには見えなかった。気になっていると

「あ、茉莉奈ちゃん」

 病院の入り口から宏人さんが出てきた。

「どうしたの、こんなところで」

「あ、その……図書館の帰りなんですけど、拓人さんが病院に入っていくのが見えて」

「あぁ、そっか。ちょうど入れ違いだったんだな」

「どうして、宏人さんもここに?」

「拓人と同じ目的だよ。今、父さんが入院しているんだ。その見舞い」

 私は予想外の言葉に驚いた。

「宏人さんのお父さん、ご病気なんですか?」

「うん。それで、僕が『ブルーアワー』を引き継いだんだ。母さんは父さんの面倒を見ていて店を手伝う余裕はないから、拓人と悠人が休みの合間に手伝ってくれている」

「そうだったんですか……。お店を切り盛りするのも大変なのに……」

「いや、僕はそうでもないよ。むしろ、拓人や悠人の方が大変だ。学業と両立してくれているんだから。拓人なんか進みたい道があるのに家のことを考えて就職を視野に入れているようだし」

「えっと……悠人さんは短大生って聞きましたけど、拓人さんは?」

「拓人は大学院に通っているよ。今、修士課程で」

「えっ、そうなんですか!?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「初耳です。……だから、アルバイトの募集をしていたんですね」

「そう。元々、母さんの知り合いの方がパートとして働いてくれていたんだけど、お家の都合で辞めたんだ。それでね」

「拓人さんの進みたい道って何ですか?」

「あいつは研究者志望なんだ。だから大学院に入ったし、博士課程も取るつもりだった。家が大変なのは確かだけど、僕としてはそれで夢を諦めて欲しくない」

 自分がお店にとって重要なポジションにいることに気付いた。宏人さんが心配するように、私も拓人さんや悠人さんが学業や別のことに打ち込めるよう、なるべく早く仕事を覚えて一人前になろう。

「この後、予定ある? 僕、もう家に戻るんだけど、よければお茶していく?」

「えっ、いいんですか?」

 宏人さんは穏やかな笑顔で頷いた。


 閉店中の店内で、宏人さんがハーブティーを淹れてくれた。一口飲むと甘く、フルーティーな香りがした。

「これはオレンジですか?」

「そう。オレンジピールだよ。ハーブティーの中でも飲みやすい方だと思う。それじゃ、せっかくだからこれ味見してみて」

 カウンター上に置かれたのは、小皿に乗った緑色のカップケーキだ。

「抹茶ですか?」

「そう。この間の日本茶教室で生徒さん方に作ったんだけど、余ったんだ」

 やった~! と思いながら、カップケーキを口に運ぶ。ふんわりした生地でホワイトチョコレートの層とよく合う。

「おいしい!」

「本当? 良かった」

「あれ、茉莉奈さん?」

 バックヤードへの扉からひょこっと顔を出したのは悠人くんだった。

「何で茉莉奈さんが?」

「病院出たところで会ったんだ。せっかくだからね」

「あぁ、そうか。……ていうか、なんか美味しそうなもの食べている!」

「宏人さんが作った抹茶のカップケーキです」

「悠人の分はないよ」

「えぇ! 何で?」

「前にあげたことあるだろう。講義は終わったの?」

「うん。早く終わったから本屋に寄って来た」

 悠人くんが提げていた本屋の袋を見ながら訊いた。

「何か買ったの?」

 悠人くんは笑顔で言った。

「ちょうど今日が発売日だったんだ。写真集!」

「何の?」

「猫だよ。かわいいでしょう?」

 悠人くんが袋から取り出した写真集の表紙は、気持ちよさそうに仰向けに寝転がった猫だった。

「悠人は猫が好きで写真集を集めているんだよ」

「癒されるからね。部屋にはカレンダーもあるし。近々、開催する猫の写真展にも行くつもりなんだ。将来は猫カフェを開くよ~」

 猫に囲まれている悠人くんか……。似合うかも。

「茉莉奈さんが飲んでいるのってハーブティー?」

「うん。宏人さんがオレンジピールを淹れてくれて」

「茉莉奈さんはそれの効果、知っている?」

「あ、ううん。私が知っているのはミントとかローズヒップとか、ラベンダーとか……よく知られているものくらいで」

「俺もまだわかっていないこと、あるんだよなぁ」

「茉莉奈ちゃん、図書館でハーブティーの本を借りたんでしょう?」

 宏人さんに言われて思い出し、バッグからハーブティーの事典を取り出した。

「オレンジピールは……消化促進と整腸、鎮静作用があるんですね」

「そう。眠れない夜に飲むとぐっすり寝られるよ」

「へぇ。ぼく、知らなかった」

「悠人が知らないのはまずいなぁ。代表的なハーブティーなのに」

 宏人さんは困ったように笑った。


 カップケーキを美味しくいただいて家に帰ろうと店を出ると、夕飯の買い出しだという悠人くんがあとから追ってきた。

「茉莉奈さんは、犬と猫どっち派?」

「えっ、う~ん……どっちも好きだけど」

「猫の方がかわいいよ! 猫カフェ行ってみて。癒されるから」

 悠人くんは力強く私に言った。思わず笑ってしまった。

「悠人くんは猫カフェを営むのが夢なんだよね」

「そう。猫ももちろんだけど、カフェだからメニューにもこだわりたいんだ。紅茶アドバイザーの資格がそこで役に立つし、説明も出来るからね。お茶やコーヒーに関しても、今、店の手伝いをしていることが将来に活きてくると思う」

 すごいな。そこまで考えているんだ。

「でも、両親についてもそうなんだけど、ヒロ兄やタク兄が気がかりなんだよね」

「え?」

「タク兄は今の家の状況を考えて就職を選ぶみたいだし、すぐってわけにはいかないけど、ぼくは猫カフェをそのうち開業する。そうなると、ヒロ兄は一人で店を背負っていくことになるからさ。父さんの様子は気になるけど、とりあえず母さんがそばにいてくれているから店が営業できるようにはなっているんだけどね。茉莉奈さんのようなアルバイトを雇う考えもあるけど、そんなに増やせないと思うんだよな」

 自分の夢を見据えている悠人くんも、宏人さんと同じように家族が心配なんだな。

 もし自分のお母さんが病気にでもなったら、私は……どうするかな。

「ぼくはさ、猫カフェ開きたいってずっと考えていたんだけど、タク兄が研究者の道とは別の道を選ぶのはいいのかなって時々感じるんだ。タク兄だけやりたいことを仕事に選べないなんてさ。家のこと考えてくれてありがたいし、好きなことを仕事に出来ない人なんてたくさんいるだろうけど、兄弟の間でそれがあるのはやっぱり気になる」

「拓人さんに、諦めないで目指してほしいって話してみるのは?」

「話したことあるよ。ヒロ兄も俺と同意見だったけど、好きなことは他にもあるから心配するなって言われた」

「気遣ってくれているんだ」

「うん。まぁ、僕の予想だとカフェのチェーン店とかコーヒーの卸売りに関わる仕事を狙っているんじゃないかと思うけどね。せっかく資格を持っているんだし」

 あぁ、そうか。拓人さんにはコーヒーがあるんだ。

「あっ! ここ、うちの行きつけのスーパーなんだ」

 喋っているうちに、いつの間にかスーパーに到着していた。全国展開している大型スーパーだ。

「それじゃ、また明日! 茉莉奈さん、気をつけて帰って」

「うん、またね」

 悠人くんはスーパーのまばらな人混みの中に入っていく。私はすぐ近くの川越駅へ歩を進めた。

 電車に乗って帰宅すると、お母さんがタンスの引き出しを開けていた。何やらゴソゴソやっている。

「ただいま。何しているの?」

「おかえり。親戚から電話があって、茉莉奈が成人式に着ていた振袖を貸してくれないかって。まだ一回しか着てないし、かまわないでしょ?」

「うん、いいけど」

 着物を包むたとう紙には、枝垂れ桜柄の淡い緑色をした振袖が入っていた。広げられた振袖は綺麗なままだった。

「特に問題なさそうね」

「成人式以来、着る機会なかったから。でも、何で振袖買ってくれたの?」

「何でって、欲しいって言ったんじゃない」

 お母さんの言葉に、ちょっと驚いた。それなら、万引きしてしまったあのお菓子も最初に訊いてみればよかったのかもしれない。

「まぁ、そうなんだけど。レンタルっていう手もあったのに」

「茉莉奈が誰かの結婚式に及ばれでもしたら、着られるんじゃないかと思ったのよ。それに予算内の振袖だったし」

 そう言って、お母さんは振袖をたとう紙でくるんだ。私はそれを見ながら顔も知らない、入院している白石家のお父さんを考えた。


 元気だけど片親のいない家庭と、病気でも両親が健在している家庭はどちらが恵まれているんだろうか。



-続-

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