無明
美玖と真知が出かけてから二時間が経ち、みづほが留守番を暇に感じ始めたところで二人は帰ってきた。そこに一人の来訪者、長髪の青年を連れて。彼の被ったフードに描かれている髑髏を見て、彼こそが《髑髏の貌》——伝染の裏を知る人物だと悟る。みづほはそっと息を呑んだ。
「そんなに警戒しなくても平気よ」
その言葉は、少しばかり受け付け難い。青年をカウンターに座らせると美玖と真知は定位置に戻り、みづほにもそうしたように選択肢を突き付けた。
「覗かれるか、自供するか。どちらがキミの好みかな?」
わずかに眉根を釣り上げたものの、反抗するだけ真知の前では無駄だと諦めているのか、青年は敵愾心を静めさせた。発声に留まらず、五体さえも今は自由だ。それなのに彼が逃げ出そうとしないのは、《思考螺旋》の前では自分の怪異が全くの無力であることを自覚しているからだ。また、それには、《怪異殺し》が眼を光らせていることも拍車をかけていた。
怪異を喰われたところで平気だと驕ることはできない。どこからがダメで、どこまでが大丈夫なのか線引きすることは難しいけれど、少なくとも彼は、怪異とかなり深いところまで混ざり合っている。怪異化の憂き目、怪異譚への変遷の途上に立たされている。だから、やはり、機嫌を損ねることのないように努めるほかにない。喰われてしまえば、血肉か、魂か、あるいは両方が怪異とともに失われたとしてもおかしくないのだ。
「
名乗り上げ、無粋なことは言うなと釘を刺さんばかりに、青年は手で制した。
「もちろん本名ではない。俺が勝手に作り上げた呼び名だが、何しろ、俺には親から与えられた名前というものがない。その分野に関するアイデンティティを俺は喪失している」
何よりも、この怪異のために。
独言を皮切りとして無明に変化が訪れた。彼の輪郭は歪み、
「俺の怪異譚は《千変万化》だ。自我が芽生えたときからこの怪異は俺とともにあり、その頃には、庇護者であるはずの俺は一人だった。笑えると思わないか? 実の親から捨てられ、捨て子を保護するはずの施設にも拒絶され、俺は欄干の下で膝を抱えていたのだ。不思議と怨嗟の念は生じなかった。むしろ、俺は納得していた。こんな子供に触れてみたいと望む人間などおらず、逆にそのような人間が存在するのであれば、それは慈愛を通り越して偏執的な愛情、悍ましいまでの平等主義——怪異よりも異端であろうと」
無明が手のひらを返す。掌紋の流れに沿うように彼の肌は粟立ち、膨れ上がり、弾け、皮膚の裂け目から烏の
悲鳴にも似た、引き
「そう、その反応だ。今でこそ制御できるが、かつては怪異に翻弄されるままだった。母親の胎から出てきた俺がどのような人間だったのか、人間の姿をしていたのかさえも分からない。猿か、鳥か、犬か。あるいは畜生にも至れないバケモノか。受容されなくて当たり前だ」
「不幸自慢を聞きたいわけではない。あなたが《伝染》にどのように関与しているのか、私達が知りたいのはただそれだけ」
「怪異について語るなら、不幸は付き物だろう? それに、これが別に無関係ってわけでもない。境遇のために俺は一人で生きることを余儀なくされたが、あいにくと、俺の怪異はそれに向いていなかった。鼠のように、まさしく汚く生き延びた。やがて変幻を操れるようになった。《千変万化》へと昇華した怪異をもとに、俺はある種のビジネスを始めた」
そして、無明はみづほを指さす。
「今回の件であれば、キミは一千万だった」
「……私が?」
「怪異というのは、怪異を患った人間というのはな、好事家に高く売れるんだよ」
「怪異売買の
「あぁ。固有の姿を持たない俺は報復の憂き目にも無縁で、まさに適任だった」
目を細めた無明の腹の内に、ひとつだけ反故が潜んでいることに真知は気付く。報復を恐れて外見を弄っているのであれば、彼はなぜ《髑髏の貌》を纏うことを選んだのか。共通項を失くして別人に成りすまそうとする人間が共通項の所持を看過することは、杜撰なまでに目的から逸脱している。真知は無明の裏を探ろうとして、探るまでもないと《思考螺旋》を静めた。
要はアイデンティティを求めたのだ。
親から授けられるべきだった名前を知らず、己の
寂しいことだと達観する。そして、それが自分にも遠くない出来事であることに、真知は隠れるようにため息を吐いた。少なくとも、無明の人生は真知にとって無関係ではないのだから。
「仲介人であることと、キミが《伝染》の裏に見え隠れすることがどう繋がるんだ?」
「情報提供者がいた。この街で怪異が溢れ返ると――。俺は
「その人物の名前は?」
「
無明は告げる。誘蛾灯の管理者の名前を。
「奴は、神を信仰する男だ」
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