怪異と人間の天敵

「もう一口くらい食べたかったなぁ。みづほ、絶対食べきっちゃうし!」

 ふてくされながら前を行く美玖に苦笑を浮かべ、また作ってあげるから、と宥める。時折垣間見える子供らしさは、その外見も後押ししてどこか心を和らげてくれる。

 二人はオフィス街を歩いていた。終業時刻を迎えていることもあって人通りは多い。両手を小刻みに振りながら、時々真知の方を振り向きつつ美玖は歩く。その仕草は慌ただしい。

 彼女は行き交う人波を気にする。

 その小さな体では視点も低く、雑踏を進むのは困難なことだった。

 一方で、真知が人を気にすることはない。

 ただまっすぐ歩いていて、それでいて誰かとぶつかることはない。すり抜けるのだ、空気のように。真知は視認されず、触れられることもない。よしんばぶつかる相手がいたとすれば、その人が怪異に憑かれていることになる。それだけ、彼がこの世界に干渉することはない。

 一人で歩いているように見える美玖がずっとしゃべっている様子は奇異に映る。けれど、それも彼女の外見によって感受性豊かな、あるいは妄想癖のある子供と片付けられるだけだ。

 真知はこの世に存在しない。それは厳然たる事実として――。

 だが、彼が苦に思っている様子はない。彼にとっては美玖が自分を見てくれていることが何よりも重要なのであり、それ以外の人間に認識されることは取り立てて求めていない。

 オフィス街を抜け、居酒屋が立ち並ぶ通りに入ったところで美玖は歩調を速めた。およそ五十メートル先に、頻りに左右を窺っている人物がいた。二メートルを超えようかという巨体に、脂肪を過剰なまでに蓄えた姿は遠目でも目立つ。男は灰色のスウェットと紺色のパーカーを着ており、頭に被せたフードには『髑髏』が描かれていた。

 真知が男を認識したことを確かめ、美玖は後ろ手に左を指さした。真知は何も言うことなく彼女から離れ、雑踏に姿を消す。その直後、イヤホンから声が流れてきた。

『すぐに接触するか?』

「人が多すぎる。しばらく泳がせましょう」

『了解。バックアップはいつも通りに』

 男の歩調はひどくゆったりとしていた。気を抜けば追い越してしまうほどの歩調に合わせている時点で怪しまれても仕方ないが、美玖の伸長では人混みに紛れ、男から認識されることはまずあり得ない。その意味でも、真知を離した判断は正しかった。

 傍から見れば店を吟味している様子の男がどこかに入ることはなく、しばらくして不意に裏通りへと入った。見失わないように小走りで追いかけ、男の入った道を覗き込んだ美玖が捉えたのは、全力で疾走する男の姿だった。目立たないように努めるのはそこまでだった。舌打ちとともにアスファルトを蹴り付ける。

「気付かれてた!」

 状況を端的に報告すると追走に意識を専念させる。自分の現在地はGPSによって真知に伝わっている。彼は自身の判断で動いてくれることだろう。

 裏通りに人影はない。男と美玖の二人だけだ。左右をビルに挟まれ、街灯はおろか、月明かりも射し込まないような道だった。男の背中を睨み、美玖は足を動かす。彼女の俊足をもってしても追いつくことはできない。太り散らかした巨体でどうしてそれだけの速度が出せるのか、男は美玖にも劣らない膂力で疾走する。

 間違いなく、彼は怪異に関与している。

 その道はほとんど通行人がいないためか、レストランで出たゴミや使わない椅子など、雑多な物が置かれていた。美玖ならまだしも男には障害物でしかないが、それを厭う様子はない。まるでブルドーザーだ。あらゆるものに正面から突っ込んでいき、吹き飛ばして、撒き散らす。舞い上げられたゴミは背後の美玖にめがけて落ちていく。追走だけならまだしもゴミを避ける必要に迫られ、美玖の運足は徐々に乱れていく。

 男との距離が開く。左に曲がった。遅れて美玖は続き、飛び込んだ先は袋小路であり、そこに男の姿はなかった。惰性で袋小路の奥へと進み、ビルの壁に手をついて止まる。上に飛んだのかと疑い、空を仰いだけれど何も認められない。左右を見渡す。隣接したビルとビルの間にはわずかに隙間があるが、とても人が通れたものではない。美玖でさえ半身を捻じ込むことがやっとで、ましてやあの巨体だ。美玖は苛立たし気に髪を掻き上げた。

 見失ったと報告しようとして、ふと、彼女はそれを認めた。一匹の痩せた犬が、ビルの隙間を駆けていた。ビルを挟んで隣の通りへと辿り着いた犬は立ち止まり、美玖を振り返り、真っ黒な双眸を向けた。そして、次の瞬間、後ろ足二本を用いて人間のように立ち上がった。

 目を瞠る光景はさらに続く。犬の躰は膨れ上がり、姿は変貌して人間へと移り変わった。

 長髪の青年は口角を上げてにんまりと笑い、美玖に手を振ると背を向けた。

 遠ざかっていく青年を眺めながら、慌てた様子は見せず、美玖はビルの外壁に手をついた。

「あぁ、もう。本当に怪異ってめんどくさいんだから」

 美玖の手を起点として青白い閃光が放たれる。閃光はビルの外壁をまっすぐに伝い、その形状を作り変えた。壁は内側へとへこみ、彼女の前に道を開いた。

 走り出す。その間にも左手は壁に触れており、彼女が駆ける速度を大きく上回り、閃光が青年の背中に伸びていく。壁伝いに閃光が青年を追い越して、大地に堕ちるとぐるりと円を描いた。アスファルトがせり上がり、天を貫く壁となる。

「うっそー!」

 進路を塞がれたことで、頓狂な声を上げながら青年は立ち止まる。右側にはまだ道が残されていたが、そこには見計らったように青年を待ち伏せる人物がいた。

「参ったね、こりゃ」

 作られたばかりの壁を背に美玖を振り返り、左からは真知に銃口を向けられ、青年は緩慢な挙動で腕を振り上げた。そのときには、彼の腕はヒトの形を留めておらず、一匹の大蛇へと化していた。不意を突かれたことで真知の反応は遅れ、気付いたように銃口が火を噴いたときには大蛇に絡め捕られていた。引き寄せられる。美玖にも劣らない膂力の持ち主に抗えるはずもなく、真知は青年の足元に放り投げられる。大蛇はヒトの腕に戻り、背後から真知の首を絞めた。

「悪いけど、キミは人質だ」

 真知の耳元でぼそりと告げ、青年は拳銃を奪い取った。銃口を真知のこめかみに押し付け、見せつけるようにして美玖と対峙する。

「動くな!」

 美玖は立ち止まった。急停止に抗えず、金髪が前へ流れる。

「壁から手を離して、跪いて」

 煽るように拳銃を揺らして青年は命じる。美玖は素直に従った。

「……逃げたということは、後ろめたいことに心当たりでもあるのかしら」

「おいおい、質問できるような立場じゃないってこと、コイツの耳でも飛ばさないと分かんないかなあ。だいたい、アンタ《怪異殺し》だろ? 俺らにとって天敵みたいなもんだ。何もしていなかったとしても、生存本能で逃げるだろ。食べられるのは御免だからな」

「節操なく喰い散らかすことはしないわよ」

「だといいなぁ。ただ、俺には容赦なさそうだけど」

 青年はゆったりと横にずれて、美玖から距離を取る。

「怪異殺しとやり合うなんてまっぴらごめんだが、コイツは対怪異最弱なんだろう?」

「そう、だね。《思考螺旋》は怪異に関与できない。対怪異としては……最弱だ」

「説明どうも。それにしても、どうして怪異殺しがこんなに弱っちい奴とつるんでいるのか理解に苦しむなあ。俺にとったら好都合だけどね」

 慎重に歩を運びながら青年は美玖の様子を窺い、疑問で首を傾げた。どうしてか、美玖に慌てている様子も、真知のことを心配している様子も見られなかった。

 怪異譚の世界において、自分よりも格下の存在と連れ立つ理由はさほど多くない。親愛や友情といった華々しい関係を謳えるほどに怪異譚は明るくなく、いつでも切り捨てられる都合のよい駒としてか、怪異によって縛られているかが常である。

 そのどちらであるかは、現状ではさして問題ではない。

 都合のよい人質が腕の中にいること、それだけが青年にとって重要だった――はずなのに、真知への執着が美玖に見られないことは大きな誤算だった。まさか人質ごと喰われるなんてないよな、と危惧を募らせたとき、美玖が静かに立ち上がった。

「舐めないで」

 その唇が開かれ、青年は美玖の言葉を聞いた。

「私が対怪異最強だというなら、真知は対人間最強よ」

 銃口が押し付けられた。真知に向けてか。違う。銃を握る手は青年のまま。それは青年の意思に従うはずなのに反旗を翻す。青年の左手は自分のこめかみに銃口を押し付け、右手は真知を解放した。悠然と立ち上がり、青年を振り返り、真知は思考の渦を見下ろした。

「悪いね。《等価交換》が怪異の天敵であるならば、《思考螺旋》は人間の天敵だ」

 思考の源泉とは何か。

 記憶と知識、感情。人間が生涯の中で経験して、獲得して、還元した出来事が思考を形成する。ひいては生涯を認識するための、五感に代表される感覚器官を介した外界の認知も関与する。《思考螺旋》とはそこに介入する怪異だ。正常であれば穏やかに流れていた思考は掻き乱され、せき止められ、螺旋の渦を描く。《思考螺旋》は意識そのものに介入して、調律を狂わせ、占拠する。

 思考の支配と意識の掌握——人間の傀儡化。

 それこそが《思考螺旋》の本質であり、和宮真知という怪異の特性であり、彼を人間の天敵たらしめる所以だった。

 唇を戦慄かせ、言葉を発しようとした。だが、発声さえも青年の管轄外となっている。

「さて、どこから話を始めようか」

 真知の瞳が妖艶に揺らめく。悍ましいほどの畏怖に襲われ、青年は内心で毒づいた。

(クソッたれ、聞いていた話と違う。何が無害な怪異だ、怪異殺しの腰巾着だ)

 怪異の天敵と人間の天敵の手中に落ちて、怪異と人間の綯い交ぜである青年は後悔する。

(こんなことなら、こいつらが関与してると知った時点で手を引けばよかった!)

 その『思考』さえも遅すぎると自覚して、青年はせめて二人の気分を害することだけは避けようと心に決める。冗談ではなく殺されかねない。生殺与奪の権は握られてしまった。

「まずは、僕らの店に招待するよ」

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