06:化け物


 そっと廊下に顔を出すと、人の姿は見当たらない。一穂のような何かはどこか別の場所に行ってくれたようだ。できる限り足音を立てないように、春人は慎重に階段を下りていく。

 二人がいるとすれば、元々捜索をしていて合流地点もある一階の可能性が高い。もちろん、無事でいてくれればの話ではあるのだが。


 ゲームパッドを使って操作をしていた時も、現実のようにリアルな世界観だと感じていた。しかし、自分の足でこの場を歩くこととなった今、そのリアルさはさらに増している。

 春人の動きに合わせて軋む木材の音はもちろんだが、操作をしていた時には感じられなかった埃っぽさや、空気の冷たさまで鮮明に伝わってくる。ここが商業施設の中であればあり得た体験かもしれないが、残念ながら春人は自宅の部屋にいたはずだ。


 足音や声は聞こえないので、勝行と惠美が廊下を歩いている様子はない。それ以外の「何か」も同様だ。


(普通に考えれば、二人は合流地点にいるはず……)


 ボイスチャットで確認をした時、あとひと部屋で捜索は終わりだと言っていた。春人が図書室で隠れていた時間を考えれば、その部屋の捜索が済んでいても不思議ではない。

 合流地点の真逆に位置する階段から下りてきたこともあって、教室までは廊下を突っ切る必要がある。それほど距離があるわけではないとはいえ、できればあまり足音は立てたくない。


 あの化け物に明かりが見えているのかはわからなかったが、念のために懐中電灯は使わずに移動することにした。ただでさえ廊下は暗い。先が見えず不安な部分もあるが、アレに見つかるよりはましだろう。

 できる限り壁伝いに、少しずつ歩みを進めていく。同じ廊下でも場所によって老朽化の進行度合いが異なるのか、時折派手に軋む床の音に冷や汗が滲んだ。

 移動していくにつれて、前方も背後も暗闇に包まれて、先が見えない恐怖が強まっていく。


 あの化け物がかくれんぼをしているというのであれば、暗闇はかえって好都合なのかもしれない。

 恐怖心を拭いきることはできなかったが、前向きな考えを持たなければ、足が竦んで動けなくなってしまいそうだった。


「……?」


 トイレを横切ろうとした時、春人は何かに気づいてふと立ち止まる。

 足元に、点々と続く赤い何かが見えたのだ。月明かりに照らされたそれははっきりとは視認できないが、血痕のように見える。その痕跡は、女子トイレの中へと続いていた。


 中にあの怪物がいるかもしれない。そう思ったが、耳をそばだててみても声も足音も聞こえてくる様子はない。

 それならば、勝行と惠美のどちらかが怪我をして、トイレに逃げ込んでいる可能性もあるのではないだろうか?


 逡巡した春人だったが、後者の可能性に賭けてそっとドアを開けてみることにした。

 隙間程度に開いたドアから、中の様子を窺い見る。そこに人の姿は見当たらなかったので、今度は慎重に中へと身体を滑り込ませた。


「…………」


 声をかけてみようかと思ったが、万が一にもあの怪物がいたらそれは悪手だろう。一穂を探していた時と同じように、春人は個室のドアを一つずつ開けていくことにした。

 血痕は二つ目の個室の前で途絶えていたが、中を覗いても和式の便器があるのみで、誰の姿も見つけることはできない。他の個室も同様で、すでに逃げ出した後のようにも思えた。


(もし……洋司と同じだったら、身体が残ってたりするよな)


 想像したくはないが、死体の一部らしきものも見当たらないところを見ると、少なくともここで二人のどちらかが被害に遭っているとは考えにくい。トイレを後にして、春人は再び合流地点へと向かおうとした。


「ぐ……っ!」


 突然、背後から何かに羽交い絞めにされて、春人は呻き声を漏らす。混乱する頭でも逃げ出さなければならないということだけはわかり、必死にもがきながら腕を振り回していると、肘が背後の何かを直撃したらしく拘束が緩む。


「痛ってェ!」


 抜け出して廊下へ飛び出そうとした春人だが、覚えのある声にドアに掛けていた手を止める。振り返った先にいたのは、苦悶の表情を浮かべて脇腹を押さえる勝行の姿だった。


「ま、勝行……! お前、無事だったのか」


 怪物ではなかったことに、安堵から一気に身体の力が抜けていく。一方の勝行は、全力の一撃による痛みがすぐには引いてくれないらしく、恨みがましげな視線を春人に向けている。


「無事だったのかじゃねえよ。クソ、思いっきり肘鉄食らわせやがって」


「お前が急に襲い掛かってきたからだろ、つーかどこに潜んでたんだお前」


 個室は間違いなくすべて確認したし、当然人一人が隠れられるような隙間も見当たらない。そんな状態で現れた友人に、驚くなという方が無理な話だ。


「掃除用具入れに隠れてた。化け物かと思ったんだよ」


 言われて、トイレの一番奥には便器のある個室とは別に狭い用具入れがあったことを思い出す。埃だけでなく虫なども潜んでいることが想像に容易いそこに、人が隠れているとは考えていなかった。

 ふと、勝行の言葉でひとつの可能性に思い至る。


「化け物……って、お前も見たのか?」


 勝行は、確かに「化け物」と言った。普通に一階を捜索していただけであったなら、そんな単語は出てこないはずだ。そもそも、掃除用具入れに隠れていたことの説明もつかない。


「見た、っつーか、正確には人影だったんだけどよ。昨日お前が見たって話思い出して、咄嗟に隠れた。明らかに雰囲気ヤバそうだったし、個室に隠れなかったのは正解だったわ」


 血痕が垂れていたのは、恐らく化け物が勝行のことを探して回っていた跡だったのだろう。つまりこの血痕は、洋司を襲ったあの化け物が口から垂れ流しているものなのかもしれない。

 勝行は服や髪についた埃を手で払いながら、思い出したように口を開く。


「そういや、洋司はどうした?」


 その言葉に、春人は同じくもう一人の友人の姿も見当たらないことに気がつく。二人は一緒に行動していたはずだが、なぜ惠美はこの場にいないのだろうか。


「そっちこそ、惠美は? ボイチャした時は一緒にいたんだよな?」


「ああ、全部探しきったから合流地点に戻ろうとしたんだよ。けど途中で西村の声が聞こえた気がするって、一人で階段上がって行っちまって」


「……ってことは、惠美は二階にいるのか?」


 二階から来た春人とは、少なくともすれ違うことはなかった。同じ地点からスタートしているので、彼女が通ったとすればさっき春人が下りてきた方の階段を使ったはずだ。

 図書室に隠れていた時にそこを通り過ぎたのかもしれない。けれど、それならばあの化け物に遭遇した可能性もあるのではないだろうか?


 ましてや惠美は、一穂の声を聞いたというのだから、あの化け物の後を追いかけてしまったのかもしれない。

 最悪の可能性を想像して、春人は身震いする。


「洋司は……化け物にやられちまった」


「やられた、って……どういう意味だよ?」


 眉を顰める勝行に、春人は一度口を閉ざす。ゲームの世界で本当に死んだと言われて、信じる人間が果たして存在するのだろうか。春人自身もまだ、彼の死が現実世界のそれと繋がっているとは信じがたいほどなのだ。


 実際に現実の世界に戻ってみなければ、彼がどうなっているかはわからない。それでも、この世界で起こっている出来事は、バーチャルの世界の出来事として片づけるにはあまりにも生々しすぎた。


「……勝行、脇腹まだ痛いか?」


「あ? そりゃ痛いに決まって……」


 先ほど思い切り肘を食らった箇所を、勝行は無意識に擦る。そこで、春人の言わんとしていることに気がついたように、表情がみるみるうちに青ざめていく。


 ゲームの世界でダメージを食らうことはある。体力ゲージが減ることだってある。しかし、どんな必殺技を食らったって、痛みを感じることは絶対にない。

 自分自身で部屋のどこかに身体の一部をぶつけたのなら話は別だろうが、勝行に一撃を食らわせたのは春人だ。離れた場所にいる相手からの攻撃で、痛みを感じるはずはない。


「早く恵美を探さないと」


 現状を理解した勝行が反対することはなく、二人は惠美を探すためにトイレを出た。


 二階に向かったという情報だけを頼りに、再びあの階段を上っていく。トイレの掃除用具入れから拝借したモップを手に、先陣を切ってくれる勝行の背中が頼もしい。

 まずは図書室だ。現実とは思えない光景を目撃したあの場所に、春人はできれば戻りたくはなかった。しかし、惠美がいるかもしれない可能性を思うと、そこを避けるわけにもいかない。


 そっとドアを開くと、中は静まり返っているようだった。

 周囲に気を配りながら室内に入り込んだところで、春人は我が目を疑う。そこにあったはずの、洋司の死体が消えてなくなっているのだ。


「なんで……確かに、ここで洋司がやられたはずなのに……」


「いないってことは、まだ生きてたんじゃねえのか?」


 あの光景を見間違えるはずがないし、死体があったはずの場所には血だまりだけが残っている。ここに死体があったのは確かなのだが、消えているのだ。


「いや、絶対死んでた……それだけは間違いない」


 頭を丸ごと食われたのだ。生きている可能性があるとすれば、それこそゲームの世界の中の話だろう。

 その死に様について口に出すことを躊躇していた春人だったが、その様子だけで勝行は察してくれたらしい。それ以上を追及することはせず、図書室の奥へと足を進める。


 春人たちが隠れていた棚の裏や、机の下などもしっかりと探してみるが、人がいたような形跡はない。そもそも死体が無かったとしても、あんな血だまりがあれば惠美だって逃げ出していただろう。

 春人とすれ違っていないことを考えても、別の部屋にいる可能性の方が高い。


「嫌ああああッ!」


 そう考えた時、廊下から悲鳴が聞こえてきた。惠美の声だ。

 二人は急いで図書室を出て、廊下の先を懐中電灯で照らす。廊下の向こうからこちらへ走ってくるのは、間違いなく探していた彼女の姿だ。そして、その後ろからもう一人誰かが走ってきているのが見える。


 距離が近づくにつれて、彼女は追われているのだと気がついた。惠美を追いかけていたのは、人に見えたがそうではない。春人は思わず一歩後ずさってしまう。

 彼女の後ろにいるのは、頭が無く胴体から下だけで動く化け物だった。その首から胸元にかけては縦に裂けており、扉のように肋骨ごと開閉している動きを見せている。その中には、鋭い牙が数えきれないほど生えていた。


「たす、……助けてっ……!」


 二人の姿を見つけた恵美が、泣きそうな声で助けを求めてくる。

 よく見れば、走り方に違和感がある。どうやら片脚に怪我をしているようだった。普通に走れば逃げ切れそうな速度だが、怪我を負った状態では今にも化け物に追いつかれそうだ。


「しゃがめ!」


 そう叫んだのは勝行だ。惠美は半ば転ぶようにして、その場に崩れ落ちる。

 その後ろから胸元の大きな口を開けて襲い掛かろうとする化け物に、勝行は手にしていたモップを槍のように投げつけた。それは見事に化け物の口の中へと命中し、突然の衝撃を受け流しきれなかったのか後方へと倒れ込む。


 その一連の流れを見ていた春人は、慌てて走り出して惠美の二の腕を掴む。座り込む彼女を立ち上がらせると、その身体を支えながら階段を駆け下りて一階へと移動した。

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