第330話 最後の夜。

 めぐみは、自転車を一生懸命漕いでいると、周りの景色が一変している事に驚いた――


「君子さん、何だか……雰囲気が変わりましたね」


「そりゃそうだよ、戦時下なんだから。ほら、あの空き地が軍の資材置き場になっているだろ?」


「あぁ。本当だ……」


「めぐみさん、急いでおくれ、いよいよ、学徒出陣が迫っている……正ちゃんが兵士として出征しちまったら、お終いだよっ!」


「はっ、はいっ!」


 めぐみは、植え込みに自転車を隠すと君子の後に続いた――


「君子さん、忍び込んで何をするつもりですか?」


「君子に言いたい事が有るんだよ」


「えっ! ちょっと、それはマズいんじゃないかなぁ……いやっ、マズいですよ絶対っ! あっ! 君子さんっ!」


 当時の君子は、風呂上りに夕涼みをするのが日課だったので、君子は待ち伏せをしていた――


「おい、君子っ!」


「わっ! 誰っ! 人を呼びますよ」


「良く見なっ! 私はあんただよ」


 当時の君子は、まるで姿見に映る自分自身を眺めている様な状態に驚きを隠せなかった――


「何て事かしら……まるで、もう一人の私が居るみたい」


「その通りだよ」


「その通りって、どうして、もう一人の私が私の目の前に居るのかしら? あなたは私なの?」


「そうだよ。私は未来から来たんだ」


「あなたは未来の私なの? 未来の私が、何の御用かしら?」


「時間が無いから、簡潔に言うけどね。正ちゃんは戦争に言ったら、帰ってこないよ」


「まぁっ、何て、酷い事を言うのっ!」


「事実なんだから、仕方が無いんだ」


「仕方が無いだなんて、私は、信じませんっ!」


 君子は当時の自分がそんな事を受け入れられない事は分っていた――


「君子、正ちゃんは戦死するんだ。だから、最後の夜に……分かるね?」


「分かりませんっ! 最後だなんて……いい加減な事を言わないでっ!」


 ‶ パァ――――――ンっ ″


「痛いっ! 親にも殴られた事が無いのに……」


「だから殴ってやったんだよっ!」 


 十七歳になったばかりの君子は泣き出してしまった――


「うぐっ‥‥‥‥‥」


「君子。正ちゃんには、戦死すると土手で話したんだ。正ちゃんは覚悟をしているんだよ? お前も女なら、覚悟をしなっ!」


「えっ……?」


「信じたくなけっりゃ、信じなくたって良いっ! でも、今から言う事を確り心に受け止めるんだ。いいかい、正ちゃんは出征する日に、自分の拵えたお菓子を振舞う『別れのお茶会』をするんだ。だからね、その前の晩に、正ちゃんはひとりで茶室を掃除して設えをするんだ。君子……それが、ふたりっきりになれる最後だよ。分かるね?」


「…………」


 君子は無言で頷いた――


「よしっ! それじゃ私は帰るよ。君子、頑張るんだよ。負けるんじゃないよ……」



 君子は目頭を押さえると、めぐみと共に屋敷を後にした。そして、再び自転車に跨り令和へと向かった――



「あのぉ……君子さん」


「めぐみさん、これで良いんだよ。これで良いんだ……ありがとね」


「はぁ……」


「人は不思議と恋には臆病になる物さ……だけど、最後となりゃぁ、別なんだよ。明日が有るとか、また、今度ってさぁ……本当は、今しか無いんだよねぇ……」


「君子さん……思いっ切り、泣いて下さい」


「大丈夫。君子は大丈夫さ……」


「はい」



 めぐみと君子が去った後、当時の君子は正次郎に渡しそびれた恋文を読み返していた。そして、あの日、自分の知らぬ間に縁談が決まっていたのは未来の君子の計らいだと確信した。そして、手に持った恋文をギュッと捻じって竈にくべた――


「そう言う事かぁ……」


 それから数週間後、未来から来た君子の言う通り、両親から「正次郎は明日、出征する」と聞かされた時、君子は、もう泣かなかった――


 ―― そして、最後の夜


「正ちゃん」


「あっ、君ちゃん……どうしたの? 寝付けないの?」


「うぅん。『別れのお茶会』の準備をするんでしょう? 私、手伝います」


「どうして、それを知っているの?」


「未来から来た私が……」


「あぁ。君ちゃんも会ったんだね……」


「うん」


 君子が小さく頷くと、互いに、これが最後の夜になる事を噛み締めた――


「分かった。それじゃぁ、炉を閉じて風炉に切り替えるから、花入を籠花入にして」


「はい」


「それが出来たら兜と花菖蒲を飾って」


「はい」


「よし、これで準備は出来たよ」


「花菖蒲が綺麗だこと」


「二番、三番と咲かせておくれ。それが僕の願いなんだよ」


「別れが端午の節句だなんて……皮肉ね」


「そんな事、言わないでおくれ」


「だって、正ちゃんが可哀想だもの……」


「君ちゃん、僕は田舎から此処へ来て、旦那様や女将さん、温かい家族に囲まれて毎日、ご飯が食べれて、その上、大好きな美味しい御菓子を毎日、一生懸命作る事が出来たんだ。後悔なんて何も無い。本当に楽しかったよ」


「でも……」


「君ちゃん、僕は、君ちゃんと出会えた事が一番、嬉しかったよ……」


「正ちゃん……」


「君ちゃん……」



 月の輝く夜。ふたりっきりの茶室で君子は女になり、正次郎を男にした――





「君子さん、充電が完了しましたので、これで一気に帰れそうですよ」


「あぁ。そりゃあ良かった。こんな焼け野原に何時までも居たくないよ。はぁ……もう終戦だねぇ」


「あぁっ、そうなんですね。あぁ、皆、泣いていますね……」


「言っておくけどね、負けて悔しくてメソメソ泣いているんじゃないんだ。天皇陛下に降伏させた事が悔しくて泣いているんだよ」


「そうなんですか?」


「あたぼーよっ! 玄関先に米兵が来たら刺し違えてやるつもりでいたんだっ!」


「あうっ……おや? 君子さん、その手に持っているのは何ですか?」


「あっ! いけない、私とした事が……君子を殴った精神注入棒を持って来ちまったよ」


「あらららら」



 めぐみは、一生懸命自転車を漕いで君子を自宅に送り届けた。こうして、めぐみと君子の時間旅行は終わった――











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