第11話 知られざる使命

 ロードが再び”風の塔”を訪れたのは、それから数日後のことだった。

 だが、迎えに来たのはユルヴィで、当のレヴィは塔の自室で、ベッドの枕にぐったりと頭を乗せている。

 「どうしたんだ、その有様」

 「頭痛がするっていうんですよ」

ベッドの側ではリスティが、雪を入れた桶で冷やしたタオルを魔法で絞り上げている。ひんやりするタオルは、そのままふわりと宙を飛んで、レヴィの額にくっつく。リスティも、初歩的な魔法ならば扱えるのだ。

 「風邪かな~、だから冬は嫌いなんだよホント。」

 「きっと疲れてるのよ、無理するから…」

 「無理?」

ロードは、ユルヴィの方を見やる。

 「あれからハル様と協力して例の"鴉"の追い込みをしてたんです。ロードの村の近くにも出たんでしょう?」

 「ああ。エベリアが炎上した」

結局、エベリアはほぼ全焼になってしまった。

 居合わせた<王立>の魔法使いたちのお陰で死者は出なかったものの、怪我人はたくさん出たし、家もすぐには建てなおせない。街道沿いの要所が使えなくなったのも痛い損害だ。

 「それで、攻勢に出たんです。二人がかりで捕獲を試みたそうなんですが、ほぼ互角で結局取り逃がしたとか」

 「全然知らなかった…」

口を開いてから、はたと気づく。

 「…って、二人がかりで互角?」

 「足を引っ張ったのは、ぼくだ」

頭にタオルを載せたまま、レヴィは珍しく弱気な言葉を呟いた。

 「どうもあいつとは相性が悪い。魔法を打ち返されるならまだしも、しょっちゅう発動を妨害されるってのは対処のしようが無い」

 「例の、精神感応の魔法?」

 「そう。逃がさないよう空間を固めるのがぼく、攻撃手段を封じるのがハルって分担だった。で、あいつは当然の如く、ぼくのほうばかり狙ってきた。お陰でうまく囲い込みが出来なくて、結局、逃げられて見失った。ふがいないったら」

 「ハルとじゃあ年季の差がな…」

年齢の割りには魔法が使える――とはいえ、レヴィはまだ、魔法を覚えてから十年と少ししか経っていない。百年以上の経験があるハルとでは、比べ物にならないだろう。

 「それにしても、あの"鴉"、そんなに強かったのか」

 「強いっていうか使い方が巧いっていうか。よっぽどの天才か、中身は実はとんでもないジジイなのかもな。使える魔法は何系統もあった。おそらく今の魔法体系でいう、ほぼ全種類いけるんだろう」

 「そんなにか…」

 「ま、収穫はあったよ」

ベッドの上で向きを変え、タオルを片手で押さえながら彼は天井の方を見上げた。

 「あいつが最も力を発揮するのは日が暮れてから。太陽の光は苦手らしい」

 「<影>だからか」

 「だろうな。日中は、光を遮るほうに注意と魔力を消費してるせいか、そこまで厄介じゃない。今回逃げられたのも日没の後だ。日中なら、<暈>をひっぺがすだけで勝てる――情けないことに、今回はそれも出来なかったんだが。」

 「前に戦ったあの、アガートとかハルガートとかいう連中は、もっと簡単だっただろ? そもそも<影>が魔法を使ってくるって――おかしくないか。」

 「うーん…」

タオルごしに、レヴィはしばし天井を見上げながら考え込んでいる。

 「<影>にしては妙だ、ってのは確かにハルも言ってたけどな。使ってる魔法が人間のと変わらない、とか。あとは、<影>にしては妙に人間のルールや常識に従ってる、とか」

接触すればするほど、謎が広がっていく。

 「そもそもあいつ、一体どこから湧いてきたんだろう」

<影>というのは、世界の外側からやってくる存在だ。

 この世界に入り込むには、ほころびや裂け目から潜り込むしかないが、ここ最近は監視が行き届いているおかげで、それらは生じてすぐに修復されている。大きな裂け目も発生してはいないはずだ。

 「テセラが呼び出した連中を討ち漏らしたか、エベリアやほかの場所に大量に発生してた<影憑き>と同じで、世界の修復の時に紛れ込んだくらいしか思いつかない。だけど、そうだとしたら、"海の賢者"の眼をずっと誤魔化して逃げおおせてたことになる。到底信じられないな」

 「おれもだ。けど、実際にあいつはここにいる。隠れてしばらく様子見をしてたんだとしたら、この世界の状況に詳しいのも納得がいくんじゃないか?」

 「…まあな」

レヴィは小さく溜息をついた。

 「あーあ、捕獲失敗はともかく、見失っちまったのは痛いな」

 「もう一度、探してるんだろ?」

 「ハルがな。再補足にそう時間はかからないはずだけど、見つけたところで拘束すら出来ないんじゃ、次はどうすればいいか」

 「二人で間に合わないんなら、次は三人で取り囲むしかないな」

ロードは、ちょっと肩をすくめた。

 「"三賢者"でダメなら、誰にも無理だ。諦めるしかない」

 「気が重いよ、まったく」

溜息をついてから、レヴィは、全員に部屋を出て行くように言った。少し眠りたいという。


 部屋を出てから、リスティが心配そうに言った。

 「強がってますけど、あの子…ずいぶん疲れてるみたいで」

 「判ってます。普通の魔法使いよりは扱える魔力が大きいといったって、生身の人間だ。限界はある」

 「”賢者”二人を相手にして逃げ切れるなんて一体、どんな相手なんでしょうね? その"鴉"って」

ロードは、村に現われた時のことを思い出していた。


 エベリアの町を焼いた、その直後。

 ほんの一瞬だけの接触だったが、ハルとレヴィが追跡を開始したのは、あれからそう時間の経たないうちだったに違いない。

 (もしかしたら、ハルが…村に現われたことに気づいて捕獲を急いだのか…?)

そう考えれば、有り得る話に思えた。


 ハルがちょくちょく村の様子やロードの生活を視ているらしいことは、以前から話の端々に出ていた。だとしたら、準備も整わないうちに手を出して見失うはめになったのは、自分のせいでもある。

 普段は冷静なくせに、何かの弾みで感情が高ぶったときに決定的に判断を誤るのは、ハルの悪い癖だ。

 「さすがに、向こうも無傷じゃあないはずだ。少なくとも、それほど余裕はないと思う。」

ロードは、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 「――そうだユルヴィ、あれから、そっちの調査は? 何か進んだのか?」

 「大してたことは…あ、そうだ。ひとつ面白いことが判ったんです。来てください」

リスティとは別れ、ロードは、ユルヴィとともに塔の階段を降りていった。


 塔の内部は真っ直ぐには繋がっておらず、階段は無秩序に、あちこちにくっつけられている。まるで迷路のようになっている内部の構造を全て覚えるのは一苦労だ。 


 彼が向かったのは、塔の下層のほうにある書架だった。

 塔の中心を貫く柱に作られた書架には、古いものから新しいものまで、書籍や巻物、骨董品のようなものがびっしりと詰まっている。ユルヴィが整理しようとしてはいるものの、まだ完全な目録すら出来上がっていない。そのうえ、今は調査のためにあっちこっちから本を引っ張り出している。おかげで廊下は足の踏み場もない状態になっていた。

 「えーと、あ、これです」

床に積み上げられた本の山の中から、ユルヴィは、一冊の薄いノートのようなものを取り出した。ずいぶん色あせているが、形はきれいに保たれている。

 「二代前の”風の賢者”、アレグリオのノートです。」

ぱらりと開くと、中には見慣れない言葉がびっしりと書き込まれていた。五本の並行な線の上につぶれた円や線が踊る。

 「何だこれ。全然読めない」

 「楽譜ですよ、見たこと無いんですか」

 「楽譜? って音楽を演奏するときに使う、あれか?」

 「ええそうです。驚きました。それ、”生命の歌”の楽譜なんですよ」

きょとんとしているロードの顔をみて、ユルヴィは困ったように頬をかいた。

 「…えーっと、ですから。歌う呪文である”生命の歌”は、もともと歌詞ではなく、朗誦するものだったってことですよ。今あるメロディをつけたのは、その、アレグリオって人だってこと」

 「ああー、そういう…え? ってことは、あれって歌わなくても別に発動するのか?」

 「多分そうでしょうね。音痴の人でも”森の賢者”にはなれそうです」

意外だった。あの独特のリズムは、最初からずっとあったものだと思っていた。

 「アレグリオのメモによると、生命の”詩”というのが元々の名前のようです。長い呪文で、かつ一言一句間違わずに正確に唱えなくてはならないという部分のハードルが高かったため、覚えやすいようにと曲をつけたということらしいですね。覚えるのがたいへんな長い呪文は曲をつけてしまえばいい、という発想は、すごいものだと思います」

 「二代前、ってことはランドルフさんの先代か。それでも五百年以上前なんだよな…。」

ロードは、茶色いノートに視線を落とした。

 「この人は、千年前に起きたことは何も知らなかったんだろうか」

 「判りません。残っているのは楽譜ばかりです。ちなみに、この棚のあたりはほとんど、アレグリオ師の代のものですね」

なるほど。

 棚には、さび付いたメトロノームや壊れたカスタネットのようなもの、書きかけの楽譜のようなものなど、音楽に関係しそうなものがいくつか見て取れる。

 「それで、ロードのほうは? 何か判りましたか」

 「あー、まあ色々。例の石板の解読内容が合ってるとすれば、千年前に起きたことのおおよその話は判った」

 「石板…って、図書館から持ち出したあれですよね。」

 「そう。ガト先生に解読してもらったんだ。これから返しにいくつもりなんだけど、いちおう解読結果の写しはここにもある」

言いながら、上着のポケットに突っ込んできた紙の束をユルヴィに手渡す。


 解読には結局、丸二日かかった。それでも凄まじく早いほうだろう。

 出来上がってきたのは謎めいた、死に瀕した者の悲痛な叫びだった。

 「…詩ですね? 『今、私は死にゆかんとしている。残り少ない時間をかけて伝えたい。この悲劇がどのようにして起きたのか。私たちはどうして死ぬのか。もしも世界がそのまま滅びるとしても、最後の一人になるとしても、生きた証を残さんと願う』」

 「かなり簡単に意味がわかるように要約して、それらしい。厳密に訳すると、もっと面倒くさい文章なんだそうだ」

 「『我ら生き残りは”白い丘”に集う。丘に灯れる最後の希望のともし灯、消え落ちるとき、人の世は終わりを告げるだろう』。…なるほど、この石板があの地下室にあった理由が判りましたよ。アルテミシアが生きてたのと同時代の資料なんですね、これは」

 「だな。戦況はかなり絶望的だったってことだ」

いくら<影>が光に弱いとはいえ、魔法を習得して間もない素人しかいない集団で、しかも相手が大軍となれば、それも無理は無い。

 「ずいぶん切羽詰まってますね…『裏切り者が闇を呼び込んだ。すべての生命を滅ぼさんとするために、生命の守り手たちを殺して。残れる光はか弱く、竜の咆哮も深淵には届くまい』」

 「で、その中にあるんだよな。『世界の三人の守り手は全て潰えた。世界は闇に飲まれるだろう』って」

ユルヴィは驚いた様子で、紙から顔を上げた。

 「”三賢者”が全滅した、ってことですか? そんなことが…」

 「有り得るのかって言われると、無くはないと思う。ただ、全滅した場合、がどのくらい保つのか…。」

ロードは頭上の、塔の先端の方にある、創世の呪文の輝きを見上げた。


 風の塔の最上階には、風の賢者の守っている呪文が隠されている。彼の眼には、塔の下層にいてもはっきりと、その青白い輝きが視えている。


 「呪文の管理者が全員不在になった瞬間があったんだとしたら、その後の世界には相当な異変が起きていたはずで、修復も困難だったはずだ。この塔が、建てられてからしばらく使われてなかったっていうのもそのせいかもな。そして――エベリアの記録からすると、"風の賢者"以外の次の代は、なかなか見つからなかったんだと思う。 多分、最後まで後継者が見つからなかったのは"海の賢者"なんだろうな。もともと、資格を満たすのが難しい。

 その混乱の間に、"賢者"の存在は忘れ去られ、昔々の"お伽噺"に変わったんだ。」

 「なるほど…そういう…」

紙の上の文字を見つめたまま、ユルヴィは考え込んでいる。

 「ですが、そうだとしたら、千年前の人たちは、"賢者"の力なしに"闇の軍勢"に勝利したってことになりませんか。どうやって撃退したんだろう? "賢者"が不在で、魔法使いもほとんどいなかった時代。救国の魔女と呼ばれる以上、アルテミシアは何か有効な手段を持っていたはずなんですが…うーん…」

ユルヴィは両手で頭を抱えた。

 「また、ここに引っ掛かる…」

 「とりあえず、この石板返しにいくのに付き合ってくれないか? 用も済んだし、早く返したい」

 「そうですね。行きましょうか」

頷いて、ユルヴィは紙の束を目立つように書架の端にピンで留めた。


 言おうかどうか迷ったが、結局ロードは、自分が抱いている推測は胸の奥にとどめておくことを選んだ。

 今はまだ、確証がない。それに、ユルヴィには先入観を持たずに資料を探して欲しかった。




 リスティにコートを借りて、二人は再び、真冬のレイゲンスブルグへと降り立った。前回来た時とは別の路地のようだ。

 「今回は、塔へ戻り先がちょっと離れているんです。そこの角を曲がったところにある、赤い屋根の店の隣の…」

 「覚え切れそうにないな。」

どうせ戻る時は一緒だろうし、道案内はユルヴィに任せておけばいいはずだ。何しろこの町は、彼が学生の頃に何年も住んでいた場所なのだから。


 町中には、以前より兵士の姿が多い。逆に、魔法使いはあまり見かけない気がした。

 白い息を吐きながら二人は王城を通り過ぎ、国立図書館へと向かう。相変わらず、人の気配は全くない。が、中に入ろうとしたとき、ロードは、表通りのほうを小走りに通り過ぎていく、四人ほどの兵士を見た。

 「…?」

図書館の裏のほうから出てきたような気がしたが、そんなところに駐屯所でもあるのだろうか。

 「追加で調べたいことは?」

 「今のところは特には。塔の資料のほうもまだ、確認していないものが沢山あるので…」

地下室に入り、棚の元の場所に石板を置こうとしたとき、ロードは、そこに前回はなかった、折りたたんだ紙切れが置かれていることに気がついた。

 「ん、何だこれ」

開いてみると、手書きの文字で「一時借り出し中」と書かれている。

 「これ、リドワンさんの字じゃないんでしょうか」

覗き込んだユルヴィが言う。

 「誰かが石板が無くなってることに気がついた時のために、置いてくれたんじゃ…」

 「なるほど。ずいぶん気遣ってくれたんだな」

ロードは、視線を二階のほうにやった。奥の方に強い魔石の輝きが動き回っている。

 「今日も居そうだな。お礼くらいは言っとくか」

ユルヴィを後ろに連れ、ロードは二階へと続く狭い階段に足をかけた。


 端の磨り減った石段の先には、下の階と同じように壁際にびっしりと書架が並び、表紙のかどが取れたような古い本、木の表紙をもつ珍しいものや巻物のようなものなど、様々な文献が所狭しと並べられている。

 タイトルだけを見ても、何の本なのか全く分からない。…というより、まずタイトルの意味からして分からないものがほとんどだ。


 歩調をゆるめて柱を回ったとき、ロードは、閲覧台の前にいる黒いローブの老魔法使いとばったり出くわした。目的の人物だ。

 「…何だ、お前たちか」

その様子からして、今日はロードたちがやって来たことに気づいていなかったらしい。調べものに没頭していたからだろうか。

 「借りたものは返しておきましたよ」

 「それならば良い」

無愛想に言って、男は手元に本に視線を戻す。相変わらず、貴族然としたこの男は、自分から庶民に話しかけることはしない。ロードは苦笑した。

 「…それと、このメモ書きのお礼を」

ポケットから折りたたんだ紙切れを取り出して指先で振ってみせる。リドワンは、一瞥だけして視線を手元の分厚い本に戻す。

 「管理不行き届きを責められたくなかっただけだ。貴様らの入場を許可したのは、このわしなのだから。ふん、そのお陰で厄介な疑いをかけられる羽目になったが」

 「厄介な疑い?」

 「数日前、西のアステリアとの国境の騎士団の一つが鴉の姿をとる魔法使いと交戦して壊滅した。早馬で、先ほど知らせが来たのだ」

思わず、言葉を失う。――さっきの兵士、それに、町に増えている兵士。

 「将軍は、アステリアの攻撃かといきりたっている。別の騎士団を調査のために動かすようだ。内通者の存在を疑っているようだな」

 「アステリアではありませんよ。そんなこと…」

思わず声を荒げたユルヴィに、リドワンは、口元に指をやってみせる。

 「…判っている。その謎の魔法使いとは、お前たちの追っているもう一羽のほうの"鴉"だろう?」

 「あ、…」

 「問題は、脳筋連中に二羽の"鴉"の区別がつかん、ということだ」

深呼吸してから、リドワンは深い溜息をついた。

 「わしも、よそ者に機密情報を漏らした疑いをかけられている。お陰で、しばらくは監視つきになりそうだ」

 「…すいません」

 「謝られる筋合いなどない」

リドワンは小さく首を振り、無表情に手元の本を閉じた。そのとき、ロードの隣で、ユルヴィがわずかに反応した。

 「それは――魔法全書では?」

 「いかにも」

 「有名な本なのか」

何気なく聞いた言葉に、ユルヴィが目を剥いた。

 「伝説の名著ですよ! ”はじまりの魔法使い”とも呼ばれる大天才、リューナス・ウィンドミルの著書です。魔法を扱う者に知らない者はいな…、あ、いえ。少なくともノルデンの魔法学校を出た者は皆知っています。我が国最初の魔法学の本です。体系立てて魔法の技術を説明した…」

 「現在ある全ての魔法学の租でもある」

老人の指が、黒い布張りの表紙を撫でる。

 「ユルヴィ・ド・シャール。お前の卒業論文のテーマは、千年前、アルテミシアの使った魔法とは何か――だったな。」

 「えっ…、覚えてるんですか?!」

 「無論だ。卒業生の論文は全て眼を通している。結局結論は出せずじまい、推論にしても弱く、辛うじて及第点といった内容だったな。だが、観点としては良いとわしは思っていた」

ユルヴィの顔がみるみる真っ赤になっていく。恥ずかしいのか、嬉しいのか。

 論文など書いたこともなく、上司を持ったこともないロードには、こういうときに抱く感情は良く分からない。

 「わしも気になってはいた。千年前の時点では、魔法体系はまだ未熟だった。現在ほどの種類もない。その中で使えた魔法とは何か――」

片手で表紙を叩く。

 「結論から言えば、この中に、そんなものはなかった。」

 「無い? でも…」

 「魔法全書の中には無い、ということだ。それ以外の魔法であれば」

振り返って、リドワンは、ロードをじっと見た。

 「たとえば、お前のその青い眼が映し出す世界のような」

 「……。」

ロードは、目をしばたかせた。


 意味を理解するのに、十数秒ほどかかった。だが、理解してしまうと納得した。すべてが腑に落ちた、と言うべきか。


 名前の分からなかった、二十一人目の”風の賢者”。

 不可解な二年だけの在職期間。

 三賢者すべてが不在の時代に、長くは持たないと知りながらただ一人で創世の呪文の維持を試みた「彼女」というのが、――”魔女アルテミシア”のことなのだ。


 「”賢者”の力なら、確かに対抗出来なくもないな」

 「えっ?」

ユルヴィは、まだ混乱している。代わりに、ロードは言葉を続けた。

 「彼女の正体に、いつから気づいてたんだ?」

 「"風の賢者"は千年前まで実在した。それは確かだ。辛うじて…ではあるが、ノルデンにはその時代の記録がある。」

老魔法使いは、ローブの端を翻してゆっくりと窓の方に近づいていく。

 「千年前の悲劇を語り継ぐこと。いずれ来るかもしれない再来に備え、その日のために"鴉"の齎した知恵の灯を守り育て、武器を研ぐこと。――この国の魔法機関はそのために作られたのだ。我々<王室付き>の存在する本来の意義だ。これを知っているのは国王陛下と、代々の<主席魔法使い>のみ。」

 「え?! そんな…」

納得いかないというように、ユルヴィが声を荒げる。

 「学校でも伝承に軽く触れるだけで…それなのに…。それに、<王室付き>は、歴史上何度も戦争に参加している。今やノルデンの魔法使いといえば、恐れられる人殺しです!」

 「口を慎め、ユルヴィ・ド・シャール。理想や形だけで組織が千年も存続などできるものか。伝承の継承も研究の続行も、国の安泰あらばこそ。本来は災いを打ち払うための剣であろうとも、自らに降りかかる火粉を払うのに使うを禁じるいわれは無い」

 「…ま、世界を維持するための力を、ちょっと買い物に行くのに使ったりしてる、こっちに文句言える資格も無いな。それに、言ってることは正しいと思うよ」

 「ロードさんまで…」

 「もっとも、魔法を扱える国が一つだけしかないうちはいいとして、同じ発想の国が二つ以上あったらどうなるかってところは、問題だろうな」

じろり、とリドワンの視線がロードのほうを睨む。そんなことは重々承知だ、とその眼は物語っている。


 アステリアとノルデン。二つの国が戦えば、魔法使い同士での戦いになる。

 熟練の魔法使いが戦ったとき、周囲にどんな影響が出るかは、今まで散々経験してきたことだ。


 僅かな沈黙。

 そして、憮然とした声。


 「――無論、それを回避しようとするのも、わしの役目だ。だがこの国は少々、軍人どもの権力が強くなりすぎた。わしを腰抜け呼ばわりして、戦火を起こしたがっている馬鹿どもいる。」

 「マルティスとかいう将軍?」

 「ふん、そやつもそのうちの一人だな」

ロードは、以前レヴィやフィオと城塞都市フューレンに潜入したときの、アステリアに進軍するか否かで揉め、リドワンは反対していたという話を思い出した。

 もしあそこで介入していなければ、ノルデンとアステリアは開戦し、魔法使いを前線に投入しての総力戦になっていた。それは、ロードが存在しなかった「もう一つの」世界での歴史が証明している。

 リドワンは、リドワンなりの倫理と立場をもって、アステリアとの衝突は回避しようとしてきたのかもしれない。

 「数年前、大量の<影憑き>が発生し、実際に世界が闇に包まれた。今は"鴉"と呼ばれる魔法使いが不吉な羽ばたきを響かせている。千年前の災厄が再び訪れるなら、今こそ<王室付き>はその役目を果たさねばならん。――その可能性は、あるのか?」

 「……。」

ユルヴィが、うろたえた様子でロードのほうを見る。彼は眼を閉じ、しばらく考えた。それから、答える。

 「――今はまだ分からない。でも、何とかなる」

 「なぜそう言い切れる」

 「何とかできなかったら、全てが終わってしまう。何とかしてみせる」

 「……。」

一瞬の間。ぽかんとした顔。だがすぐに真顔に戻ると、リドワンは、誤魔化すように小さく咳払いして顔を背けた。

 「変わった男だ、本当に。…そろそろ行け。将軍の手下が町を見張っている。ここにもしばらく来るな。あらぬ疑いをかけられるのは、ご免だからな」

 「わかりましたよ」

この誇り高い男の癖は、何となく分かってきていた。

 突き放すような冷たい口調は、本心からというよりは、それによって威厳を保つことが殆ど習性のようになってしまっているからなのだ。

 「そうだ。ユルヴィ・ド・シャール!」

 「あっ、はい」

名を呼ばれ、階段のほうに歩き出そうとしていたユルヴィが、あわてて振り返る。

 「その無知蒙昧な男に、せめて魔法学の基礎くらいは叩き込んでおけ。魔法体系の歴史も、魔法全書も知らんとは、嘆かわしいにも程がある。まったく。世界云々の前に魔法使いとして信用ならん」

 「はあ…」

青年は、肩をすくめ、妹と同じプラチナ・ブロンドの髪を手でかきまわす。

 一度に多くの情報に触れすぎたせいか、いまひとつ良く分かっていない様子で混乱した表情だ。


 階段を降りたところで、二人は、入り口で何か話し合っている制服姿の軍人を見つけた。じろりとこちらを睨みつけたものの、何もいわない。出て行くものは拒まず、といった雰囲気だ。

 けれど外に出ると、図書館の入り口には、そこを塞ぐようにして兵士たちが配備されようとしていた。

 「リドワンのいうとおり、しばらくここには来ないほうが良さそうだな。っていうか、次は入れてもらえなさそうだ」

ぽつりと、ロードが呟いた。

 「…そうですね」

振り返ると、二階の窓の辺りに黒いローブを纏った人影がちらりと見えた気がした。


 心配する必要など無い。あれは、この国で、魔法使いの最高位にまで登りつめた人物だ。

 ――それに、ノルデン国内の問題なら、ロードやユルヴィに何とか出来る問題ではない。政治も、魔法使いと軍人との軋轢も、二人にとっては蚊帳の外の話なのだから。




 塔に戻ると、ちょうどレヴィが起き出してきたところだった。髪をくしゃくしゃにしたまま、ユルヴィの残していった書き物を眺めながら台所でお茶を飲んでいる。

 「ただいま。少しは調子よくなったのか?」

 「お帰り。まぁ、なんとかな。そっちは?」

 「収穫はあったよ。名前の判らなかった二十一人目の"風の賢者"の正体が分かった。魔女アルテミシアだ」

 「――えぇっ?!」

後ろで、ユルヴィがびっくりするような素っ頓狂な声を上げた。ロードとレヴィは、思わず肩をすくめる。

 「…なんだよ、変な声出すな」

 「いや、だって…えええ?! いつ、判ったんですか? そんなこと言ってなったじゃないですか!」

 「…気づいてなかったのか…。」

ユルヴィは、打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせている。戻って来るまでに時間がかかりそうだ。苦笑しながら、ロードは話を続けた。

 「これまでに分かったことをまとめると、<影>が大量発生して最初に犠牲になったのは"海の賢者"。それによってエベリアの祭壇が放棄され、住民の生き残りの一部がノルデンに逃れる。その時はまだ、他の二人の”賢者”は存命だ。"森の賢者"が仇をとってくれるはずだ、という書置きもある」

 「なるほど。一人欠けただけなら、まだ何とかなる――はずだったのが、二人目もやられて一気に追い込まれたと」

 「最後に残ったのは、"風の賢者"ルーアン。万が一、自分も負けたときのことを考えて、この塔を作っておいた。そして戻ってこなかった。…ここで"賢者"全員が不在になる事態が発生する。そのあと、どのくらい間があったのかは分からないが、アルテミシアが"風の賢者"の座について、一人で二年間頑張って事態を収束させ、そしておそらく、一人で創世の呪文を維持してきたことで無理がたたってこの世を去った。

 これが"救国の魔女"の正体と、表向きの伝説では語られなかった内容だ。」

 「…記録が混乱してるのは、そもそも"記録できるヤツが残ってなかった"ってことなんだな」

お茶の湯気を眺めながら、まだ少し眠たそうな顔でレヴィが呟いた。

 「ふうん…観光地の売り物みたいになってるあの魔女が、ぼくの大先輩とはねえ…。こりゃあ、次にロスワイルに行った時は墓参りでもしてこなくちゃな」

 「……。」

ユルヴィはまだ、放心したままだ。

 「ま、千年前がわりと危機的な状況だったっつうのは判った。残る問題は、<影>の大量発生がどうして、何処から起きたのかと、そもそも”海の賢者”が最初に死んだ理由。あとは、あの"鴉"が、どうして千年前にこだわるのか、だろうな」

 「前の二つはともかく、最後のはもう、答えが出てる気がするけどな」

 「っつーと?」

ロードは腕を組んだ。

 「あいつは<影>なんだろ。だったら、千年前の惨事を再現したいんじゃないか? …つまり、今度こそ世界を滅ぼしたい、とか。」

 「……。」

レヴィが真顔になる。「冗談にしちゃ笑えないな」

 「冗談なら良かったんだけどな。有り得ないと思うか?」

 「…いや。」

黒髪の魔法使いは、完全に眠気の吹っ飛んだ顔で片手をあごにやった。

 「けど、そうだとすると、真っ先にぼくらを狙ってきそうなもんじゃないか? どうしてぼくらを攻撃してこない? 何も情報のない状態であいつとタイマンしてたら、今頃は、千年前と同じように、誰か一人くらい消えててもおかしくない」

 「縁起でも無いこと言うなよ。そんなことになったら、――」

言いかけて、ロードははたと気がついた。

 「ん? どした、ロード」

 「いや…、あいつだったら、どうやって"賢者"を探すんだろうと思って」

 「は?」

 「レヴィ、こないだハルと一緒にあいつと戦ったんだろ。前から知ってた素振りはあったのか?」

しばしの間。

 「無いな、…そういや。会話らしい会話をした覚えもない…そうか、もしかしてあいつ、今代の"賢者"が誰なのか、分かってなかったのか?」

 「多分。少なくとも"風の賢者"と"海の賢者"は、昔とは住んでる場所が違うだろ」

 「あー…、成程。最初にぼくと出くわした時、まともに戦いもしなかったのは、実はあれで多少は動揺してたってことか…?」

レヴィの表情に、なんとも言えない笑みが広がっていく。

 「てことは、前回でようやく、二人目までバレたんだな。となると、いま顔が割れてないのはフィオだけか。不幸中の幸い、だが」

 「ハルは、そう簡単に見つかる場所にはいないからまだいい。問題はお前だ。気をつけろよ、レヴィ」

 「心配すんな。あのテセラの追撃からも逃げ切ったんだぜ。逃げるのは馴れてる」

残りのお茶をぐいと飲みほして、レヴィは大きく伸びをした。

 「あー、くそ。こんな面倒なことはさっさと片付けてアステリアに茶でもしにいきたいなあ。こっちのお茶はあんまり美味しくないんだ」

 「そうだ。それで思い出したけど、しばらくレイゲンスブルグには行かないほうがいいと思う」

 「え? また何で」

ロードは、さっき王都で見たものと、リドワンから告げられた内容を伝えた。

 聞いているうちに、レヴィの表情が再び変わっていく。

 「…というわけだ」

 「はあ、面倒くさいなもう。よりにもよって、ぼくとあいつを混同しただって? 騎士団を襲うとか、あいつほんと何がしたいんだよ」

 「来るべき世界の終末に、抵抗してきそうな連中はなるべく潰しておくってことじゃないのか」

 「茶化すなよ。けど実際、それくらいじゃないと説明つかねえな」

席を立つと、塔の主は台所の奥の扉に近づいて、手のひらをあてた。光が全体に広がっていき、端まで到達すると、今度は逆の方向に収束する。

 「よし、出来た。」

 「繋ぎ先を変えたのか? 今度は、一体どこ――」

尋ねるより早く、レヴィの開いた扉の向こうに広がった風景と、流れ込んできた馴染みの潮風に、ロードは答えを知った。

 

 港町ポルテの港の風景が、その向こうに広がっていた。


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