第10話 迫る危機の予兆
翌日、今日も村の学校で教師役をするというヒルデとともに、ロードもガトの家に向かった。けれど学者の家は扉を閉ざしたまま、人の動く気配すらない。
「…先生?」
扉を叩くと、くぐもった声で返事がある。二人は顔を見合わせた。このパターンは、…いつもの。
「先生」
書斎をのぞくと、老学者は昨日の服のまま、頭を抱えて机に向かっていた。どうやら徹夜していたらしい。足元には何か殴り書きしては消してくしゃくしゃに丸めた紙がちらばっている。
「ガト先生…」
「なんだ、煩いぞ。くそっ、このわしともあろうものが、こんな…」
手元には、ロードが昨日託したあの石板。そして机の端には、とうに油の切れたランプがある。
「まさか、一晩中やってたんですか」
ロードは呆れてしまった。「そんなに急がなくても…」
「興味だ。これは純然たる興味なのだ。この先が…ええい、意味がわかりそうで判らんわい。」
「そんなに難しい文章なんですか」
と、ヒルデ。
「ラティーノ語は修辞が難しいのだが、こいつはとびっきりじゃわい。どんな意味にも取れる。が、クセさえ判ればなんとかなるぞ。」
「どんな内容なんです」
「詩じゃよ」
老人は顔を上げ、朝の光に照らされたカーテンの向こうのどこか遠くに視線をやった。
「世界の終焉を予感した、死を迎えようとする男の嘆きの詩だ。自分たちがどのようにして死んでゆくのかを伝えたい、…と書かれている。おそらくエベリアで見つかったものの一部だろう」
「でも、その石板、ノルデンの図書館から借りてきたものですよ」
言いかけたロードは、振り返ったガトの勢いに気圧されて、思わずのけぞりそうになった。
「今、なんと言った」
「え、いや…それ、ノルデンの王都の図書館で…」
「早く言えそれを! ええい、また最初からやり直しじゃないか。ノルデンだと? ということは、北方訛りが混じっとるんだな?! つまり、この単語の意味は…そうか、ふむ。分かってきたぞ」
「……。」
ロードとヒルデは顔を見合わせるしかなかった。このぶんだと、今日も授業はぜんぶヒルデが受け持つしかなさそうだ。
「昨日は読み書きだったからいいんですが…今日は地理の授業なんです。どうしましょう」
「地理? ああ、あれか」
自分が子供の頃に受けた授業を思い出すに、教室の前に貼っておる大きな"世界地図"を前に主要な国や地域を紹介していく話だ。将来旅に出るとは思っていなかったが、少なくとも、読み書きの授業よりはマジメに受けていた。
「だったら、おれも補佐で見てるよ。判らなかったら話を振ってくれればいい」
「えっ、ロードさんがわたしの授業を見てるってことですか?! ちょっと恥ずかしいなあ」
二階の教室の扉を開くと、幼い日の記憶とともに懐かしい風景が広がる。
最後にこの学校に通ったのは、十年以上前だ、
覚えているよりずっとちいさな机と椅子が十ばかり並び、表面の磨り減った大きな石の筆記板が前の壁に吊るされている。そこに、チョークでひっかいて文字を書くのだ。部屋の隅には掃除の道具やバケツ、地図、子供用の本を置く棚、授業で使う模型などが棚からはみ出すようにして収納されている。
ロードは、一番後ろの端の席に腰を下ろした。
「そこに立ってると、確かに先生っぽく見えるな」
「やめてくださいよ、もう…」
ヒルデは出席簿で顔を隠す。
「で、なんで突然、先生なんてやろうとしたんだ?」
「シルヴェスタでだけじゃなく、この村でも仕事が欲しかったから…。そうじゃないと、いつまでもよそ者のままでしょう? ロードさんがいない時にガト先生に手伝いに呼ばれて、その時、これなら自分でもやれそうだなって思ったんです」
確かに、村では誰もが一つは自分の特技を生かした仕事を持っている。
ロードの場合は、船乗り見習いをした経験や、ちょっとした魔法が使えたことから、遠出しなければならない用事や面倒ごとを引き受けるのが役目になっていた。
「ずっとここに住むつもりなのか?」
「…今はまだ、分からない…ですけど。わたしは、ここが好きですよ」
それ以上は何も聞けなくなって、ロードは口を閉ざした。
何を聞いても、きっと的外れになる。いまのヒルデの眼差しは、かつて冒険がしたいと言ったときのものとも、彼女の長兄に家には戻らないと叫んだ時のものとも違っていた。
ほどなくして、外から賑やかな子供たちの声が響いて来た。階段を駆け上がってくるぱたぱたという小さな音。開かれたままの入り口から、近所の子供たちがなだれ込んでくる。
「おはよーございまーす! あ、今日もヒルデせんせいだ」
「あ、ナイフなげのお兄ちゃんがいるよ!」
「ほんとだー! 今日、ナイフなげもおしえてくれるの?」
「授業が終わって、時間があったらな」
ポルテの町の子供たちだ。皆でいっしょに登校してきたらしい。
それから少し遅れて、近くの村の子供たち。途中で合流して、何人かが一緒にぱらぱらと入って来る。フィブレ村には、今は小学校に通う年齢の子供はいない。
「はい、それじゃ今日は、地理をやりますよ。みんな、この世界地図を見てね」
子供たちを前にしたヒルデの声は柔らかく、不思議と聞き心地が良かった。おしゃべりしながらも、子供たちは彼女の説明する周辺の国々ついての話に耳を傾けているようだった。
「ここがアステリア、みんなの住んでいる国ね。海沿いにずーっと広がってるでしょう」
ひとりの子供が手を挙げる。
「せんせい、海はどこまでアステリアなの? おふねで沖に出るともっと先まで行けるよね」
「えーっとね…」
「陸から十クレームまでだ」
ロードが助け舟を出す。
「航海法で決まってる。それ以上沖合いは国に属さないから、どこの国の船でも通行自由。あと、国じに属さない海で難破した場合は、どこの国で難破したことにもならない」
「…さすがは元船乗りさんね」
言いながら、ヒルデはほっとした表情でロードの方に目配せしてみせた。
「今日は海の専門家も来てるから、陸だけじゃなく海のことも何でも聞けるわよ」
「ええ? 専門家って…。うーん、船のことならだいたいわかるけど、魚とかは分からないぞ。魚は食べるのが専門だし」
どっと笑い声が響く。確かに向いてるのかもしれないな、とロードは思った。子供たちも、ヒルデも楽しそうだ。
「みんな方角は知ってますよね。太陽の昇るほうが東、沈むほうが西。こっちの、アステリアの西の方は大きな国はなくて――」
授業は、お昼過ぎにはおしまいになる。
それからは自由時間だが、たいていの子供たちはここでお昼を食べて帰ることになる。お弁当を持ってきている子たちはそれを食べるし、そうでない子たちのためには、村のオリーブ絞り工場のおかみさんが、自分ではお茶くらいしか入れられないガトのために食事を運んでくるがてら、パンやちょっとした付け合せをもってきてくれる。
ヒルデの話している姿から視線を逸らしたロードは、ふと、窓の外に奇妙な黒いものが立ち上っていることに気が付いた。
(何だ…?)
煙が細長く、空に向かって延びているように見える。――やがてそれは、天に大きく広がるように流れる黒煙と化す。
気づいた子供たちもざわつきはじめる。
「なに、あれ」
「火事だ!」
窓を大きく開いて、身を乗り出し指を指す。その頃にはもう、風に乗って焦げ臭い臭いが鼻につき始めていた。
「ロードさん、あの方角、もしかして…」
「ああ。あっちはエベリアだ」
この距離からでは火までは見えないが、この煙の感じからして、かなり広範囲に燃えているだろうことは判る。
胸騒ぎがした。
<王立>の調査はもう、終わっているのだろうか。まだあの場所に白ローブの魔法使いたちはいるのか?
「ヒルデ、チビたちを頼む。様子を見てくる!」
「は、はい」
階段を駆け下りると、彼は玄関の脇のガトの部屋の扉を開く。ガトは、外で起きていることなど全く気づいた様子もなく、まだ石板の解読に没頭していた。
「ガト先生、ちょっとエベリアに行って来ます。家から離れないでくださいよ」
「離れろと言われても離れるもんかね」
「そうだと思いました。――それじゃ」
ガトの家を飛び出し、村からエベリアに向かう道を走り出す。
だが、いくらも行かないうちに、道を逆の方向から疾走してくる馬車と出くわした。
「止まって止まって」
窓から顔を出した女性が怒鳴っている。馬車はロードの立っている場所から少し行きすぎたところで止まった。
「ロードくん! 村に戻ってたんだ」
鼻の先に煤をつけたまま顔を突き出しているのは、シャロットだ。
「シャロットさん、一体何が」
「わかんないのよそれが、町中のあっちこっちで火の手が。そっちの村は大丈夫なの?」
「ええ、…」
答えながらロードは、違和感を覚えた。
エベリアで火災が起きたことは判ったが、なぜ、フィブレ村まで心配されているのだろう。
ロードが戻ったときには子供たちは帰宅するよう促され、全員が帰路に着いたあとで、教室はからっぽになっていた。ガトは相変わらず石板の解読に没頭していたから、かわりにロードと、学校に残っていたヒルデとがシャロットの対応をした。
教室の子供用の机を囲んで、三人は、ヒルデのいれてくれたお茶を手に顔を突き合わせていた。
「で、一体何があったんですか? 火災の原因は?」
一息ついたところで、改めて尋ねる。
「ほかの人たちは」
「部下たちは消火に当たらせてるわ。私は本部への連絡と…それと、ここのことが気になって。解読をお願いしてた石板なんかは、問題ないわよね?」
「ええ、…だと、思いますけど」
ロードはちらりと窓の外に目をやった。家に入りきらない大きな石片などは家の壁にたてかけてあったり、裏口のあたりに積み上げたりしたままになっているが、その状況を「問題ない」と言っていいのなら、だが。
「どうしてそんなに心配なんですか?」
「最初に火が出たのが発掘現場だったからよ。それに、どう考えてもこれは人為的な放火だし」
「…人為的な?」
「部下が言うには、人の言葉でしゃべる鴉がいたらしいわよ。」
ロードの表情が僅かに動いたのを見て、シャロットが身を乗り出す。
「知ってるの?」
「西の方でも噂は、聞きましたから…どこの勢力にも属さずに戦場をうろついている魔法使いだ、とか」
それが精一杯、言える内容だ。正体はまだはっきりしないのだし、不確実な情報は、確実に状況を混乱させる。
「ふうーん、西のほうかあー。私は別のことを考えてんだけど」
「別?」
「ノルデンの魔法使いかも…って」
ヒルデのほうを伺いながら、申し訳無さそうに言う。
「そんなわけ、ありません!」
「でもねえ。最近、<王室付き>の主席、リドワンが、何やら得体の知れない魔法使いと付き合ってるらしいーって噂があるのよ。その魔法使いが”鴉”って呼ばれてるんだって」
「そっちの鴉は別人ですよ」
慌てて、ロードは言う。
「鴉に変身する魔法使いなんて、世の中に何人もいますよ」
「あら、知り合い?」
「いや知り合いっていう…か…。」
しまった、はっきり言い過ぎたか。だが、シャロットの意味深な視線は、もう誤魔化すには遅すぎる。
「…友達ですよ、ノルデンのほうの"鴉"は。でも、あの…」
「わかった、信じる。」
「え?」
「ロードくんの友達なら、そっちの鴉は悪い子じゃないでしょ。それじゃー"西の鴉"とでも呼びましょうか? 放火魔のほうは。」
お茶を飲み干して、シャロットは片目を閉じて笑ってみせた。
「何かワケありなんでしょ? いつか紹介してね」
「…すみません」
「さあてと。これからどうしようかしらねえ。エベリアは町まるごと焼かれてしばらく復興で手一杯になりそうだし、その"西の鴉"はどうやら、私たちのやってることがお気に召さないようだし?」
「単に<王立>にちょっかい出したかっただけかもしれませんよ」
と、ヒルデ。
「西の方でも、魔法使いのいる村をわざわざ焼いたり、戦場で魔法使いだけ狙って攻撃したりしてたらしいんです」
「やだー、何それ。戦闘狂? 力試ししたい系? どこの悪ガキよぉ。確かに声は若かったらしいけどー」
「狙いも正体も、分からないんですよ…」
ロードもお茶を飲み干して、空になった手の中のカップの底をじっと見つめる。
「それに、アステリアにまで入り込んでくるとは思っていなかった。てっきり、西の方でだけ暴れてるんだとばかり」
「ノルデンには、まだ出ていないはずですよね」
「多分。そんな噂も聞かないし。けど、このぶんだとそのうち出没しそうだな」
けれど、もし北の方に出没するとしたら、目的は、西の方でのものとは異なっているはずだ。
アステリアやノルデンでは国内で戦火を煽ることは難しいし、目立った動きをすれば組織だった抵抗に逢う可能性が高い。それに、西のほうに比べて魔法使いの数が多い分、適当に言いくるめた人を引き込むことも困難だ。
だとしたら、わざわざアステリアにやってきた目的は、やはりエベリアでの調査の"妨害"なのか。
(霍乱、或いは証拠隠滅)
"鴉"にとって、知られたくない情報がある――千年前の証拠品の中に。
それは逆に、大きな手がかりでもあった。
ガトの研究の状況を確認したあと、シャロットは、念のため自分もしばらく村に留まりたいと言った。
「ここまで燃やされちゃかなわないし、あと、エベリアにもポルテにも近いしねー。本部からの応援と合流しやすいから」
「一階の物置を使っていいか、ガト先生に聞いてみますね。片付ければ、泊まるのに使えそうですし」
「じゃあ、うちで余ってる毛布持って来るよ。」
「助かるわー。」
エベリアのほうに見えている煙は、まだ空に広がり続けているが、最初の頃に比べると少しは勢いが衰えたようにも見える。
村人たちが何人か足を止め、そちらの様子を伺っている。ロードはその脇を通りすぎ、丘の家へと向かった。
オリーブの果樹の間を抜け、家の前にたどり着いた時だった。
「…?」
目の端がぴりぴりする感じを覚えて、ロードは顔を上げた。そして、屋根の端に停まっていた真っ黒な塊と目が合う。
「!」
腰のナイフに手をやるより早く、それは、オリーブの梢の上を越えて飛び立っていく。
姿かたちはこの辺りの地方でもよく見かける、ただの黒い鴉のようだった。だが、胸の辺りにゆっくりと明滅する赤い輝きは、それがただの鴉などではないことを、はっきりと示している。
(あいつ…どうして、ここが)
青い空に黒い点となって消えていく鴉の後姿を目で追いながら、ロードは唇を噛んだ。
自分が狙いだったのか、それとも、村にある残りの石板や資料も抹消するつもりだったのか。どちらにせよ、"鴉"に居場所を知られてしまったことになる。
――嫌な予感がした。
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