悪夢の再来
「黙っていちゃあ分からないわよ、リュミエンヌ」
何か言ってよ、寂しいじゃない。
ヴィル・ヘムの女は素に返ったようにリュミエンヌに語りかけた。あふれ出した血で真っ赤な口元には似つかわしくもない口調だった。
リュミエンヌは声も出せず、その場に立ち尽くしていた。目の前の女は魔女だった、胸の中央からはおぞましくも邪悪な魔人の腕が生えている。その腕の先端には開かれた手のひらを彼女に向けている。
その手の中には一つの邪眼がじっとリュミエンヌをのぞき込んでいた。魅入られるように彼女はそれから目が離せない。いや、全身が凍り付いたように動かせなかった。それでもリュミエンヌは空回りしそうなくらい脳髄をフル回転させて事態の把握に努めようとした。
なぜあれがここにいる、ヴィル・ヘムの女に宿ってそれは何をするつもり。だが私と彼女を結びづけているのは奴だ。そして…
ヴィル・ヘムの女はリュミエンヌの思惟を遮るかのように、あなたは誰かというならば教えてあげると言うと、
「あなたは私が作ったのよ、でも、もう分っているんじゃないかしら?」
私がヴィル・ヘムの力で私そのものを複写して、空間転写したのがあなた、なのよ。鏡の向こうのあなたが私、そう思っていただいて構わないわ。忠実な複製だから認識する世界も同じくして、あなたにもその違いを意識することはできないはずよ。
彼女は言葉をつづけた。では、どうしてそんなことをしたってと言うと…ヴィル・ヘムの女の口調が突然変わる。
「それはねえ、あたしのせいさ」
その言葉遣いから意識が魔人のそれに代わったことをリュミエンヌは悟った。いや最初から魔人が彼女を真似て言っていたかもしれない。そうやって魔は人の心をたぶらかし、そそのかす。幻惑されるな、これは奴のペースだ。巻き込まれるな集中しろ。
魔人は言葉を継いで、この女が図書館の呪式に自分の精神が侵されたことを自覚してお前を作ったのさ。自分の魂を宿す正確な呪式であるお前に事後を委ねようとな。
その時に俺もこの女の魂を凌辱する機会に恵まれてな。いや大した女だよ、この俺も舌を巻いた。何にかって?決まってるだろ。
クックと笑う卑俗な笑みにゾッとするリュミエンヌ。こいつの笑い声を何とかしたい、黙れこの野郎。くたばれ。
だが、リュミエンヌに疑問が芽生える。自分の記憶に間違いなければ、彼女同様に自分もそれを体験しているはずだ。そのはず。
だったら意味ないじゃない、同じ問いを二度解いたって…。
「覚えていないの?リュミエンヌ」
それはリュミエンヌの心に直接響いてきた。
まるで心の中を覗かれたような言葉にギョッとする。いつの間に…
あなたにも起こったのは本当の事。でも、私がロゴスに命じて用意させた薬で”それ”を忘れさせて、心に”忘却の障壁”を作ってあげたのよ。魂に耐性を付けてあの試練を乗り越えさせるために…。あんな思いは忘れてほしい。私のせめてものの償いだと思って。
それは本当のヴィル・ヘムの女の真意だと思う。思いたい。
そんなことがあったのか?あの夜の間に…でも、思い出したくはないし教えられてもうれしくはない、絶対。ホント有難迷惑だけどヴィル・ヘムの女には感謝しなくちゃならないのかしら?
「もう勝手なあなたのしりぬぐいはごめんだわ!」
リュミエンヌはヴィル・ヘムの女が自身を魔女だと言っていた本当の意味を今初めて悟ったような気がした。
本当にほんとうにひどい女だ。そんなことをする権利がどこにあるというのよ。一言の断りもなく。それじゃ私の生きる権利はどこにあるのよ?
被創造物としてのリュミエンヌが私だという真実は、実はそれ程気にかけていないのは自分自身、意外だった。むしろ真相がはっきりしたことで気持ちはすっきりしている。
向き合う相手が何者か。リュミエンヌの気持ちは定まった。
誰がなんと名付けようが私はリュミエンヌそれで充分よ。
わたしはこの世にただ一人の女。それがリュミエンヌ。
リュミエンヌの中で何かが弾けた。
彼女の構成因子は意識の変革と覚醒を経て、さらなるステージへと拡張する。膨大な知識とその認識は全く異なる解釈で呪式の構文は書き換えられた。
その結果、時間の概念を伴わないそれは一瞬で彼女の世界を一新した。
因果を検索し結果にたどり着く事で、意識下では過程を要さずに結論を選択できる。超高速なリュミエンヌの認識力は光よりも早く蓄えた知識を意識上へと押し上げる。それは知るよりも早く分かる。
その圧倒的な感覚は爆発的な行動にリュミエンヌを駆り立てた。
リュミエンヌは即座にヴィル・ヘムの女に足早に歩み寄る。迷いのない足取りで間合いを詰めると、魔人の突き出した腕に素早く手を差し伸べて、その向かい合う手のひらに合わせるように固く握りしめる!
驚愕の表情を浮かべてヴィル・ヘムの女は悲鳴を上げる。女の悲鳴は瞬く間に獣の咆哮に変わる。
「何のつもりだ、クソ女め!」
リュミエンヌには荒々しい男の怒声が今は心地よい。その圧倒的な呪力の高まりが彼女を高揚させるが、彼女は一言も発しない。
ヴィル・ヘムの女はリュミエンヌの手を振りほどこうと手を伸ばすが、彼女は委細構わず手元に腕を引っ張り込むのでやみくもに宙を掻くばかりだ。
汚い罵り言葉で喚く相手を無視するように呪式を発動するリュミエンヌ。だが攻撃呪式ではない、それではヴィル・ヘムの女をも貫いてしまう。
だからリュミエンヌは解体の呪式を彼女の身体に注ぎ込む。浸透する呪式の網は魔人の腕を包み込み、魔人の因果律を解体してゆく。どんな精緻な手術でも成しえない方法でその忌むべきつながりを断ち切った。
リュミエンヌは一息にヴィル・ヘムの女の胸から魔人の腕を一息に引き抜くとそれはあっけないほどの手際で完了する。
一滴の血も出さずに魔人の腕はリュミエンヌの手に握られたままチリと化した。
抜く手も見せぬ早業で複雑な高難易度の解体呪式を行使してしまうリュミエンヌ。
力で圧倒する戦いで魔人を制した彼女は、灰と化し崩れ落ちる魔人の、手についた目玉の潰れた残滓を両手で叩き落としながらその感触に辟易する。気持ち悪い。うえ~
一方でヴィル・ヘムの女は膝をつきそのまま仰向けに地面に倒れ込んでしまう。声を上げる暇もないほどの彼女は見開いた瞳を中空に向けたまま失神し、手足が引きつれたように小刻みな痙攣をおこしていた。
ひきつけを起こしたような彼女をリュミエンヌは助け起こす。
介抱しながらもリュミエンヌは先程の戦いに思いを馳せる。いや戦いと言えるほども余裕を与えない圧倒的な力は、魔人に反撃はおろか抵抗すらも許さないものであった事に、いつかは”自分自身”が恐ろしくなるだろうと思った。
もう、そう感じているのだろう自分とは何だろうと、戸惑うリュミエンヌだった。他人事のような自分は誰なんだろう。
リュミエンヌとは誰のことを指しているのだろうか。
ヴィル・ヘムの女もリュミエンヌと言う名だった。
先程に確信していた事ですら、もはや揺らぐのはなぜ。
そんな少女の名はリュミエンヌだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます