それは甦る
「私は魔導士であることをやめたわ」
ヴィル・ヘムの女はリュミエンヌに囁いた。それはとてもとても優しい声で。
「では今のあなたは何と呼べばいいのかしら?」
お互いの息を感じるほどの距離で二人のリュミエンヌの顔は向かい合う。一人はもう一人の背後から腰に両腕を絡ませ、その柔らかな曲線を描く顎を相手の肩に載せてその身体を密着させていくヴィル・ヘムの女。
それを拒むことなく受け入れるリュミエンヌは触れ合わんばかりの距離の彼女を黙って見つめている。恐れも軽蔑もない瞳の奥にヴィル・ヘムの女の笑わない瞳で笑み崩れる顔が映る。
そうね…と、リュミエンヌの肩口で頭を少しだけ傾がせてみせるヴィル・ヘムの女は彼女の鎖骨の上に顎を載せて言った。
ヴィル・ヘムの女、いや…と、言いなおす。
「ヴィル・ヘムの”魔女”と呼んでもいいのよ」
クスリと笑い声を漏らし、もう分っているんじゃないの?きっと皆はそう呼ぶわ、そして恐れるの、忌むべきは「伝説の魔女」として、ね。
きっといつの日か誰かが訪れるのよ、そして私を殺そうとするの。災いを絶つとか称してね。そして彼女は言い添える。
「とってもハンサムさんでカッコいい男の子」
リュミエンヌの耳元で囁くと、また彼女はおどけて笑う。その腕をリュミエンヌから振りほどくと舞うような仕草で彼女の正面に回り込むが、背中を見せた格好でその顔は見せない。
「ひどい話ね」
二人は同時に言った。それぞれに意味の違いはあったが言わんとすることに違いはない。
それでいいの?リュミエンヌが口を開く。それじゃいけない?とヴィル・ヘムの女。
「そう思うんだったら手を貸してよ、お願い」
何でもない素振りのされげないセリフで素っ気なく。
本気で言ってる?リュミエンヌは口を尖らせ呆れ気味に問い直す。芝居がかってもって回ったやり取りが少し気に障るらしい。
ヴィル・ヘムの女は振り向いた。振り向いた彼女の口元にはうっすらと笑みが残っていたが、その瞳は涙で潤んでいる。
怖いのよ、怖いの、全部。怖がってもいい?嫌いにならない?
そんな今のあなたは嫌いじゃないわ。とリュミエンヌ。
今一つ真意がわからない。けど可哀そう。でも…こういうのが「魔女」っていうのかしら。彼女の言い分がなんとなくわかる気がする。自分にもこういうところがあるのかしら。注意しなくちゃ。
「もう言っちゃうわ、全部吐いちゃう」
だから早く言ってよ、待ちくたびれちゃうわとそそのかす。
その時、ホッとしたのか堰を切ったようにヴィル・ヘムの女は語りだす。今までため込んできた思いを吐き出すように熱を帯びた言い回しで…。
あのヴィル・ヘムっていうサイコロみたいなのはね。古代王朝の残した遺物で当時の最高の知識と技術を投入して建造されたものなの。ああ、言いたいことはわかるけど黙ってて。
でも驚いたことには、それは当時のものとしては今でも現役で、稼働中のものでは、知られる内では最大級の規模と言っても過言じゃないわ。
もっとすごいのが、これ全体が一つの魔道力の発動体で、それは”生きて”いる呪式を循環させて無限とも言えるその力は半永久的な効果を持つ発動体として、”現在”もなお機能しているの。
そう、これは歴史的大発見よ、その価値はもう途方もないわね。
大国が三つか四つ、領地と国民まとめて買えるほどの値打ちものと言えるかしら、もちろん金で試算できるようなもんじゃない。文字通りの「人類の遺産」よ。だから王侯貴族の国庫を空にするぐらいの”はした銭”で買えるような代物じゃないの。もう言っちゃうわ、すごいでしょ。
だからどうだっていうのね、分かってる。その調査に訪れたっていうのはあなたも知ってる通り。そこであなたはこのヴィル・ヘムの内部へと取り込まれたのよ。ノワールは当然救出しようとしたけど歯が立たなくてね。例のあの二人よ、ロゴスとペネロペにやられちゃって侵入は強行出来なかったそうよ。
でもノワールは頑張ったのよ。後で責めないでね。努力は評価してあげて。
でもこの事が分かったのはずっと後になってから。
「それがあの”図書館”だったわけね」
リュミエンヌが差し挟む。頭にひらめくものがあった。
感がいい事、その通りよ。あの図書館は、いや、あの図書館こそはあの発動体全体を制御して支配するためのものでヴィル・ヘムを動かす力の源なのよ。つまりあれ自体が呪式で駆動する無限機関なわけ。見た目の価値もすごいけど、本質は別にあったのよ。
一気にたくし込む勢いでしゃべり続けて息が切れたのか、大きく息を吐いたヴィル・ヘムの女はおしゃべりをやめた。
「巧妙だわ、誰もが見ていても、あの膨大な書架の列にそんな意味があるなんて誰も気づかないでしょうね。まさに発想の転換だわ。そのからくりに気が付いたのはいつだったの?」
リュミエンヌは自身が体験した真相を知り思わずため息をつく。何てこと、あきれてものも言えない。
私が読んだ本は全体の一割にも満たない量だったけど、もし全部読んだうえでそれらを完全に理解したら…。それは途方もない知識の宝庫であると同時に、強大な力をも手にすることじゃない。
今の世ならヴィル・ヘムの力を用いて世界そのものを征服できちゃうんじゃないの。唐突にそのことに思い至る彼女はヴィル・ヘムの女にそれを問いただそうと思った。それは聞くまでもなく分かりきったことかもしれないが是非とも確かめておきたい案件だ。
「どうしたの?」
考え込むリュミエンヌは傍らに立つヴィル・ヘムの女の様子に異変が生じていることに気が付いた。前にもそんなことがあった…けど?
ヴィル・ヘムの女は傍目からも分かるほど体を震わせ、その息遣いも激しい。蒼白な顔はびっしょりと玉のような汗を浮かべリュミエンヌの見ている前でがっくりと膝をついたが、両腕を使って半身を支え、かろうじて地面に突っ伏すことだけは免れた。
リュミエンヌは慌てて駆け寄り彼女を抱き支え、抱き起そうとした。
「しっかり!どうしたの?大丈夫?しっかりして…!」
そんなリュミエンヌの声はヴィル・ヘムの女には届かないらしい。激しい息遣いで、だから、だから!と必死に言葉を選び、意思を伝えようとする。
「もういいから、落ち着いて。しゃべらないで!」
脈を取ろうと彼女の手を取るリュミエンヌの腕を力任せに振り払う。すごい力だ。弾き飛ばされそうになる。
そんなリュミエンヌを彼女は肩越しに振り返る。目に涙を浮かべ苦悶に歪む。ヴィル・ヘムの女は頭を振り払い何かにあらがうような仕草で叫ぶ。
「あの本は、あの本は生きているの!それ自体が呪式そのものでできていて、読み手の精神にそのコピーを転写してそれは増殖し、結びつき…」
ヴィル・ヘムの女は引き絞るような金切り声を上げた!
「心を侵食するそれは…。心そのものを書き換えてしまう!」
あれは呪式の向こうの異界のゲートを心の中に作り上げ、そのヒトを召喚の具にして自らの一部にしようとするのよ!
「でも、それを何とかできないの?出来るんでしょ!」
そ、それはできる…。でも私は、わたしは…。ガッとヒトならぬならぬ声を上げ、ヴィル・ヘムの女はがっくりとうなだれて地面にうずくまる。と、同時に獣のような耳を覆いたくなるような咆哮が彼女の口から洩れてくる。
「リュミエンヌ!」
思わず叫ぶ。ピタリと声が止む。同時に身体の震えが収まると彼女の周囲の空気が暗くなる。いつの間にか二人の周囲に闇が広がっていた。そこは幽冥な薄暮の世界。一転する空気に緊張する。
思わずリュミエンヌは彼女を前に身構えた。何が起こる?
「お前は賢明だ、そうだろう?」
ヴィル・ヘムの女から思わぬ言葉が聞こえてくる。
自分をわきまえる節度がある。違ったかな?あざけるような言葉遣いに違和感を感じる。あの声は?
教えてやろう、この女に代わってな…。
「知りたいんだろ?」
その声に低く耳障りなノイズが載る。リュミエンヌは背筋に寒気を覚える。これはどこかで聞いたような声だが何処でだったろう。
ヴィル・ヘムの女はゆっくりと起き上がり、リュミエンヌに向き直るとジャケットの前を開くと両手で上着の襟もとに手をかけ、一思いに左右に引き裂いた!
そこには醜く盛り上がった肉の塊が胸の中央近くに、渦巻くような模様を描いている。それはリュミエンヌも知っている、あの記憶。忘れることなどありえないその記憶。思わず吐き気を催すその感覚。
だが、そんなリュミエンヌの思いを吹き飛ばす衝撃が彼女を襲う。赤みを帯びた盛り上がる肉の塊は急速に成長し、その中からは血しぶきをあげて一つの手が飛び出して来た。
同時にヴィル・ヘムの女、いやリュミエンヌの口からも鮮血が吐き出され、胸元を朱に染める。
だが、リュミエンヌは糸を引く血をよだれのようにたらしながら笑っていた。その目はもはや人ではない。邪悪なそれは見開いた瞳からは黄色い燐光を放ち、瞳孔の形ももはや人外の種族のそれに近い。
それを見るリュミエンヌは嘔吐する。焼けるような胃液がその不快な感触と共に生臭い酸っぱい液体を口元から吐き出した。
彼女はそれを袖で拭いつつ思い出した。恐怖と苦痛の記憶が脳裏にフラッシュバックのようによみがえる。あいつだ!あいつが来たんだ…。頭がふらつく、めまいを覚える。しっかりしろ!
ヴィル・ヘムの女の胸元から飛び出した手のひらには一つの瞼があった。それは開くと邪な目玉が覗く。女の口からは笑い声。ねっとりと絡みつくようにそれは低く嘲笑する。
「久しぶりだなあ、リュミエンヌ。俺が答えてやるよ」
この女はなあ、呪式の解釈を…(クスリと笑う)
誤った。
そうだろう、思い出せよ。おぞましくも甘美なそれをさ…。
「リュミエンヌ」
その声は彼女の声ではなかった。低い男の声。洞穴から響き声。
かつてリュミエンヌの胸板を穿ち、心臓を握りしめたその魔人はもう一人のリュミエンヌの胸から邪悪な目を覗かせる。邪な笑い声が震えるリュミエンヌの耳朶を打つ。
それは彼女自身の声で。
もうひとりのわたし、それは一人の魔女として…。
一つの魔人を宿してる。
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