暴行の果て
ベッドの上にリュミエンヌは横たわる。
其処はこの部屋の主、ヴィル・ヘムの女の寝所だった。
ヴィル・ヘムの女の名もリュミエンヌと呼ばれ、ベッドに寝かされている少女とは寸分違わぬ瓜二つの姿かたちをしている。
しかし、双子ではない。双子よりも深い絆で彼女たちは結び付いている。だが、今の二人は大きくその立場を違えると共にその容姿にも大きな変化が訪れていた。
それは痛ましく重苦しい空気が辺りを包む。時折ベッドのリュミエンヌの口からは呻き声が漏れる。ふき出した鼻血のせいで呼吸が妨げられているのだろう。息苦しそうにあえぐのだが、しかし咳き込む姿には力なく意識はまだ戻らない。
リュミエンヌという名のヴィル・ヘムの女は目に涙を浮かべ、ベッドのリュミエンヌをかいがいしく介抱する。
ヴィル・ヘムの女の”従者”として長身でたくましい体躯を持つ青年のノワールは床に昏倒した彼女を抱き上げ、そのまま寝所へと運び込み、ヴィル・ヘムの女の指示通り彼女の使うベッドに移し、二人で彼女の上着を手早く脱がせてゆく。
リュミエンヌが身に着けていたハーフコートのジャケットも、その下の上着も彼女の血で黒いシミが出来ていた。上着の胸元はぐっしょり濡れて血の臭いが鼻を衝く。
不意に咳き込んだ彼女の口から小さな赤黒い塊が飛び出した。
「血だ」
そのノワールの言葉には答えず、彼女はその血の塊を片付ける。
ヴィル・ヘムの女は上着の襟を緩めてリュミエンヌの胸元をあらわにする。負傷したのは顔面だけではなかった。
激しい打撲で胸一面に青黒いあざが、腫れ上がる皮膚の表面にでき始めている。
骨は折れていないか彼女は確かめるため指先が触れる度にリュミエンヌは小さく呻き体を震わせる。しかし苦痛に歪むその顔は胸元の比ではなかった。
幸いにして裂けた額の傷の出血は止まっていたが、深い傷跡は彼女の額に醜い後を残すかもしれない。
ノワールでさえ顔をそむけたくなるほどリュミエンヌの顔面の損傷の度合いはひどかった。彼女の顔のいたるところに扉に強打した赤黒いあざが出来ていたが、今では顔全体がどす黒く腫れあがり始めている。両目は瞼の腫れのせいで糸を引いたように細くなっていて、これでは目覚めてもしばらくは瞼は満足には空けられまいとノワールは思った。
そして、パンパンに腫れ上がる唇から覗く彼女の歯は前歯が何本か折れたり欠けたりしていて、ヴィル・ヘムの女はそれらを指を使って口をこじ開け、取り除かねばならなかった。リュミエンヌが”それ”を飲み込んで喉を詰まらせないためだ。
嫌がるリュミエンヌをなだめすかしながら傍らのノワールに用意させたお湯を洗面器に満たし、彼女の頭を片手で支え、晴れた顔を温かな湯で濡らしたタオルで丁寧に拭いてゆく。
ヴィル・ヘムの女によって顔面の固まった血のりが拭われてゆく間にようやくリュミエンヌの意識が戻った。
かすれる声で唇が震えた。
「気が付いた、気づいたのね」
ヴィル・ヘムの女は傷は痛むけど大丈夫よ、もう安心してと、話しかける。
「もうロゴスはいないわ、ここには私とノワールの二人だけ」
心配しなくてもいいのよ。安心して…。
リュミエンヌは彼女の言葉が理解できるや否や、開かない目じりから涙を浮かべ、すすり泣き始めた。目が、目が見えない…
それは痛みからだろうか、あるいは恐怖からだったかもしれない。喘ぎ声でしきりに彼女を呼び求めていた。
ヴィル・ヘムの女は怯えるリュミエンヌに顔を寄せ、見えないのは腫れているせいよ、目は大丈夫と慰める。とにかく話しかけ彼女を安心させることを心掛けた。可哀そうに…。
リュミエンヌの手が彼女を求め、触れる腕にしがみつくようにして握りしめる姿は、情け容赦のない暴力にさらされ、怯え震える16歳の少女そのものだった。
肉体的苦痛はヒトの本能に訴えかける。
魔導士は相手が誰であれ、何であるにせよ直截的な暴力の行使にさらされることは少ない。攻撃をするにせよ、”される”にせよだ。
近接戦闘などは剣士や騎士の仕事であり、普通は歩兵を盾に前面に立ったりはしない。彼らを盾にして時間を稼ぎ、呪式による遠隔攻撃で矢面に立つことはない。魔導士の戦闘とはそういう仕事だった。
単独で行動することも少なくはないリュミエンヌのような”探索者”でさえそのように心がける。そのための呪式防壁であり彼女にとっては従者のノワールが盾であり鉾でもあった。
でも今はそのノワールはいない。ノワールは彼女を守ってはくれない。ノワールはもう一人のリュミエンヌ、すなわちヴィル・ヘムの女を守護することが”血の契約”によりその務めだった。
彼女自身は決して非力ではなかったが、生まれてからこの方ノワールと組んで挑む仕事においてノワールの支援なしの戦闘などありえなかったし、ノワールもまたよくそれに応えた。そんな関係が今はない。ここでは独りぼっちですべてに対処しなくてはならない。リュミエンヌはそれに耐え切れなかったのだ。
どんなに強力な攻撃呪式を知り、鉄壁の呪式防壁でそれを用いることが出来ても、それすらも「ひとりの少女」の生身を守ることはできないのだ。魔道の奥義ですらヒトひとりすら救えない。すすり泣くリュミエンヌを見詰めるヴィル・ヘムの女は改めてそのことを思い知らされたのだった。
「ノワールそれを頂戴」
ベッドの傍らには人の腰ほどもある高さの金属製の壺のような容器が置いてあり、それからは一本の長い管が伸びていてその先端にはキセルの吸い口がついている。
それは「水たばこ」であり、内部の炭を用いた煙草の煙を容器の水を介してその香りを楽しむものだ。
ここではタバコではなく薬草を用いてその薬効成分を煙として吸引し精神を鎮静させたり、体調を整え強壮効果のある薬効を体内に取り込んでヴィル・ヘムの女は日常的に常用している。
もう彼女には手放せないといっても過言ではない。
その薬草の中にはタバコ以上に中毒性があり強い精神作用を伴うものもあり、用いるハーブ(香草)の中には麻薬同然の効果を持つものもあった。そのため知識のないものが使用するには危険な成分をすらも含んでもいた。
それらは薬学上、十分考え抜かれたものではあるが絶対”安全”ではない。
この部屋の中を満たす香炉の煙にもリラックス効果と鎮静効果のある成分が含まれていて、かつてリュミエンヌが部屋に入った直後にそれを感じ、得も言われぬ”幸福感”を感じたのだが、その知識に疎い彼女には問いただすだけの根拠を見出しえなかったのだ。
そんなものに頼らねばならないほどヴィル・ヘムの女(リュミエンヌ)は心の奥深いところを病んでいる。深刻な中毒症状は出ていないがハーブの薬効なしに日々を過ごすことはもはやかなわない事には変わりはなかった。いつかは必要とはしないかもしれないがそれがいつか彼女にも分からない。
ノワールからキセルの吸い口を渡されたヴィル・ヘムの女はリュミエンヌの口元にそれを添え、これを吸ってみてと言った。痛みが和らぐし気分も落ち着くわと、いたわる様に彼女の後頭部を支え起こし加減に傾け、彼女に優しく促した。
リュミエンヌは唇にあたる冷たい金属の感触を感じ、同時に吸い込んだ煙に少しむせた。
「落ち着いて、ゆっくり少しづつでいいのよ」
促されるままにリュミエンヌは煙を吸い込み、そしてゆっくりと呼吸に伴いその白い煙をはき出してゆく。上品な香草のふくよかな芳香に薬草らしい薬めいた独特の香りが混じる。
この匂いは嫌いじゃないとリュミエンヌはぼんやりと頭の隅で考えた。
そして何度か吸引を繰り返すうちに、ヴィル・ヘムの女の言うとおり顔や胸の耐え難い痛みが次第に和らいできた。そうなると気分も落ちついてきて、しきりに続いていたすすり泣きもいつの間にか止んでいた。
同時に腫れて熱を持つ皮膚を冷ますためノワールが薬草を漬け込んで成分を浸透させた湿布をリュミエンヌの患部に張り付けてゆく。
その冷たい感触がリュミエンヌには心地よい。もう怯えも震えも感じない、ここが何処かも気にならない。今がいつかも気にしない。ただこの安らぎに身も心も浸していたい。今はこのままでいい…。
そのリュミエンヌの呼吸は次第に平静になり、ヴィル・ヘムの女が吸い口をリュミエンヌの唇からそっと離すと、その息遣いはいつしか寝息に代わっていた。安らかな呼吸に二人は安堵した。
彼女の眠りを妨げないようにこのまましばらく様子を見ることにし、ヴィル・ヘムの女は用があれば呼ぶからとノワールに言うと彼を寝所から下がらせた。
灯りを落として周囲は仄暗くなった、二人きりになった部屋の中、眠り続けるリュミエンヌを穏やかな眼差しでベッドの縁に腰かけたヴィル・ヘムの女は思う。
これでよかったのだとは思わない。けど、こうするしかなかったの。
彼女はよく耐えたわ。ありがたいと思う。感謝してもし足りないくらいよ。
顔中に湿布を貼り、青黒く顔を腫れあがらせたリュミエンヌは痛々しい。が、ここまで来て私自身が手を引くわけにはいかないもの。
責任はすべて私にある。今はそう思えるわ。覚悟を決めるとはこういう事なのだろう。
私もようやく決心がついたようなの。だから心も穏やかよ。
だからわたしも”私の決意”をここに示さなくては…。此処までに至るまでのなんと長かった事だろう、犠牲はここまでで…おしまい。
ヴィル・ヘムの女は立ち上がり、身に着けた衣装を脱ぎ捨てる。すべてを脱ぎ終えると裸になった彼女はあおむけに横たわるリュミエンヌに覆いかぶさるように彼女をまたぐような姿勢を取った。目を伏して呼吸を整える。そして静かに瞳を開くと言った。
「リュミエンヌ、愛しているよ」
もう一人のリュミエンヌは語り掛ける。その彼女は今だ眠っている。
ヴィル・ヘムの女とその周囲には淡い紫の燐光が発し始めた。
私はあなたに与えるの。私とこの世界を統べる力のすべてを。
だから…。受け取ってほしい。
あなたに力を…
二人のリュミエンヌはその時一つになった。
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