その脅威に魔女はおののく
ヴィル・ヘムという名の構造物は巨大な立方体、その内部は無限の回廊と数え切れぬ部屋があり、一人の少女が住んでいる。
その名はリュミエンヌ。16歳は魔導士の娘。ヴィル・ヘムの女と呼ばれることになる、それはすなわち魔女。
そのヴィル・ヘムの一室で目覚める少女がいた。
真理を求め尋ね歩く”探索者”は魔導士の娘。黒衣の少女もまた”リュミエンヌ”と呼ばれる16歳の少女。彼女もまた魔女のひとり。
その「魔法少女」のリュミエンヌは背中を貫く凶暴な力の洗礼に成す術もなくその身をさらしている。
それは実体を伴わないが明確な力はリュミエンヌの肉体に爪を立て、その心臓を鷲づかみにする。
「ぐはっ!」
少女らしからぬ呻き声をあげるリュミエンヌ。その力は彼女の肉体のみならず心をも握りつぶそうとする。
そして彼女は見た。自身の胸元から生えている心臓を握りしめるその腕を。
実体ではないが、幻でもない。彼女にとってはそれは紛れもない真実だった。
信じられない光景にリュミエンヌは絶句する。
その恐怖は理屈ではない。言葉では言い表せない過去をリュミエンヌの震える心は追体験する。
背骨をやられた。胸から下の感覚がなくなっている。彼女の脚は宙を浮き、力なくぶら下がる。むやみに腕は振り回しても、あてもなく宙を掻くばかり。どこにも手が届かない。誰か、誰か。
リュミエンヌのその様は糸つり人形のように見え、現実感を欠いている。夢のよう、夢じゃない。死んじゃうのは夢じゃない!
絶叫しようにも締め付けられる肺には空気がほとんど残っていない。誰にも声が届かない。彼女の喉からはひゅうひゅうと息が微かに漏れるばかり。意識がもうろうとするが、やっと腰のベルトに手をやりスパイク付きのワイヤーを使うことに気が付いた。
呪術による呪式制御が可能なそれは自在にその軌跡をコントロールできる。これを使えば何とかできる…かもしれない。
あえぐ息遣いが限界が近い事を示している。その自覚が彼女を焦らせる。早く早く、必死になってリュミエンヌは意識を集中させようとする。簡単な呪式だが意識が飛べば意味はない。急げ!
リュミエンヌがそのワイヤーを収めたホルダーに手をやろうとした瞬間、その伸ばした腕を握りしめる者がいた。恐ろしいほどの力が万力のように彼女の腕を締め付ける。振りほどこうとするがその腕は微動だにしない、動かせない!
手が、届かない…だれ?誰だ!
もう、なりふり構わない、髪を振り乱すようにしてリュミエンヌは必死で首を回し、背後にいる”それ”を見ようと振り返る。
その彼女の眼には見慣れた一人の男の姿がかろうじて視界の端に見えた。ロゴスだ。リュミエンヌは愕然とする。そんなこと…。
ロゴスはサーバント(使用人)だ。このヴィル・ヘムの管理人、おそらくは筆頭の執事…多分。それがどうして…。
ペネロペ。ペネロペかっ!当たり前ともいえるその事実に気付くにも若干の時を要した。どうかしている。彼が自分に制裁を課そうとしているのならそれは当然だわ。だって…
私が結果的にとはいえ、ペネロペを手にかけた。それはついさっきの事よ。
どうかしているぞ、リュミエンヌ!うかつな自分に彼女は自問する。思い込みが過ぎた、何を期待してた?
ロゴスがヒトじゃないから?ペネロペがヒトじゃないから?
彼女は歯ぎしりせんばかりに後悔する。
力なく脚をぶらつかせるリュミエンヌの背後から漸くに声がする。男の声音は落ち着いていて柔らかな口調にも変わりない。
「いかがですかな、リュミエンヌ”お嬢様”」
あくまでも慇懃な物言いに、あからさまな皮肉が込められていてロゴスからは露骨な悪意が感じられる。
「先ほどはペネロペが無礼をいたし、大変申し訳ございませんでした、私といたしましても恐縮至極。お嬢様には心よりお詫び申し上げます」
嘘つけ!そのバカ丁寧ないいまわし。心からですって?呪式で作られたサーバントのあなたに言われたら…”心にもない”事を!
「ご冗談がうまい、洒落が効いていて結構」
聞こえてる?リュミエンヌは動転する。どうして?
それは我があるじから直接お聞きになられたらいかがでしょう?
はぁ!?もう言い返せない。彼女は咳き込んだ、苦しい。
それに頓着することなくロゴスは言葉を続ける。
「私がこのヴィル・ヘムの管理を仰せつかりまして、数千年の時を此処に過ごしてまいりました」
ロゴスが”その”手を少しだけ緩めたのかもしれない、少しだけ身体が楽になる。息がつけた。それでも、身動きもままならないのは依然として変わりはないが、正直少し助かったし、彼の言葉に耳を傾ける余裕も生じた。こんな時でさえ気配りに怠りなしのロゴスであった。
その間にはいろいろございましたが、当地を預かりし身といたしましては誠意をもって代々の主にはお仕えしてまいった自負もございます。
ですが、と言葉を継いだ。
すべからく皆様に安らぎと安寧を提供する私共といたしましても、お嬢様の昨今のお振舞には少々目に余るものを感じざるを得ず、
「かくなる次第となったわけで…」
ご理解をいただきたく存ずる次第でございます。
お見事。感服するわそのプロ根性。あきれ果てるような言い回しにもリュミエンヌはまたしても皮肉を差し込む。恐る恐るだが。
その意味ではリュミエンヌもロゴスに劣らずいい根性をしている。さすがペネロペに”魔女”と言われるだけのことはある。
とは言え…。まだ続くの?そしてロゴスの言葉は続いた。
ここからは私個人の意見なのですが…。と、言葉を切り。
「貴方こそ何を以て此処にいる」
ロゴスの口調が変わった。厳格な響きを帯び、声のトーンが下がる。言い抜けは許さないという意思が言葉の端々から感じられる。はっきり言えばもう甘やかしたりはしないという事。
「あなたはここの調和をなんと心得る。古代より受け継ぎしこのヴィル・ヘムの歴史と知識、その知恵と英知の数々を軽んじておられるのではないか」
ロゴスは次第に詰問口調になってゆく。
あなたは主に招かれた一介の客人にしか過ぎず、何れはここを辞さねばならない。それゆえ目こぼしを重ねてきた私の我慢にも限度があるのです。
お分かりか?”リュミエンヌ”。
名指しで非難するロゴスの言い回しからはかすかな怒気をさえ感じるリュミエンヌ。それは申し訳ないとは思っているわ、ごめんなさい…。ここは正直に謝るほかはない、それで何とか収めたいが…。
まずいわ…本気で怒らせちゃったみたい。
心の中でさえそっと呟いたつもりだったリュミエンヌだったが…。そのセリフがいけなかった。
「”まずい”ですと?まずい?その言い草とは…何を考えればそんなセリフが出るというのか…そんなあなたは誰か、誰だという!」
とうとう、その”軽はずみ”な少女の”言葉”がロゴスの逆鱗に触れたらしい。彼女はロゴスの秘められた思いなど知る由もなかった。
「されどお前如き小娘に何がわかる、何が分かったというのか!答えて見ろ!」
リュミエンヌは不覚にも本能的に男の怒声におびえ身をすくめ、そして震えあがった。彼女の中の少女が悲鳴を上げる。目の前のリアルな脅威にはひとたまりもない、それが自分に向けられたものであるならばなおの事。こうなれば彼女の知性も役には立たない。
ロゴスの激昂は恐るべき行動を伴い、リュミエンヌの身体に炸裂した。
不意にリュミエンヌの身体がグイと持ち上がり、彼女は目の前の大きな木製の扉に身体ごと叩きつけられた。
リュミエンヌの背中を始点に、まるでハンマーのように振りかぶるロゴスは否応もなくそのままの姿勢でリュミエンヌの上半身を正面から否応もなく扉にぶつける。
「ぎゃっ!」
リュミエンヌは短い悲鳴を上げる、顔面を強打して鼻っ柱を思い切りぶつけた。ああっ、と呻き声をあげる彼女にはロゴスは一瞥もくれず、振り仰ぐ彼女の鼻孔からは真っ赤な鮮血が噴出する。
手で思わず顔を覆い庇おうとするが、顎を伝わる彼女の鼻血でリュミエンヌの顔面はたちまち真っ赤になっていく。
唇も切ったらしい。だが委細構わぬロゴスの腕は非情にもリュミエンヌを扉に叩き続ける。身構えようにも華奢な彼女の腕では到底防ぎきれるものではなかった。何度も顔面が激突し、そんな彼女の悲鳴も声にはならない程、扉からはドスンドスンとすごい音がする。
五度目からはリュミエンヌの声が聞こえない、失神したようだ。腕もだらんと垂れたままブラブラと揺れるばかり。前髪に隠れてうつむく彼女の表情はうかがえないが、滴り落ちる血の量が半端ではない。床に小さな血だまりが出来ている。叩きつけた額の傷が裂けているのだ。
六度目になったとき、扉が開きリュミエンヌはかろうじて激突を免れた。振り下ろす腕の先には血まみれになったリュミエンヌが無残にも失神し、力なくぶら下がっている。顔面の出血がひどくてその表情もはっきりとはうかがえない。
開かれた扉の奥ではヴィル・ヘムの女が驚愕の表情でその惨状に立ち尽くし、次いで彼女の絶叫が室内に響き渡る。
「いやぁぁぁ!リュミエンヌ、何てこと何てこと!」
ひどい、ひど過ぎる。ヴィル・ヘムの女は絶句し、力なくうなだれるリュミエンヌに駆け寄った。傍らのノワールはあえてそれを引き留めようとする。先ほどからようやく落ち着きを取り戻したばかりの、彼女の身を案じての事だった。
先程までのペネロペとの激闘もその音を伝えないように呪式で遮蔽して彼女には聞かせないようにしていたが、入り口の扉そのものにリュミエンヌをぶつけられてはごまかしようもない。リュミエンヌの悲鳴が漏れ聞こえてきた段階で、状況を察した彼女に開錠を余儀なくされそれに従うより他がなかった。
しかしそれにしても…これはひどい。思わず顔をそむけたくなるようなリュミエンヌの有様に、これもヒトではないノワールだったが、ロゴスの真意を疑った。疑わざるを得ない蛮行だった。
ヴィル・ヘムの女はそれでもノワールの引き留める手を振りほどき、よろよろとした寄る辺ない足取りでリュミエンヌの傍らにたどり着く。
「大丈夫?大丈夫よねぇ、お願い、答えて…リュミエンヌ」
取りすがるようにリュミエンヌを抱きしめるヴィル・ヘムの女。
それを黙って見下ろすロゴスに表情はない。キッとした表情で見上げるヴィル・ヘムの女はこみ上げる激情を必死に抑えながらロゴスに言った。
「ロゴス、放しなさい」
だがそれも続かない、うわずる声のトーンは高まりながら、彼女を開放するの。今すぐ、今すぐよ!と、叫ぶようにロゴスに意思を伝える。それを聞くノワールが彼女に駆け寄る。彼女を守るためだ。それほどその場の空気はひっ迫していた。
あなたの主人は誰?分かっているなら従いなさい。従えないというのなら…彼女は低い声で念を押す。
「私が出てゆきます」
ハッキリとした口調で噛みしめるような言葉遣いで宣告する。
一歩も引かない彼女の決意が見て取れる一言だった。
ロゴスは分かりましたと言った。
「あなたが主人だ。私もそれに従おう。それがこのヴィル・ヘムのルールだ。誰もが従わなくてはならない」
ロゴスはリュミエンヌの背中から腕を抜く、彼女はその場に崩れ落ち鬱向けに倒れこんだ。もちろん傷などはない。そう見えただけで実相は別のところにあったのは言うまでもない。
そうでしたな。彼女に念を押すようにロゴスは答えを返す。
諦めが感じられる口調にはどこか安堵する調子も含まれていた。
だが、とロゴスは続ける。
「あなたの”創造物”は失礼ながら出来が悪い。非常に悪い。何度でも言わせてもらうが…」
意を含んでロゴスは言った。
「いつまで”これ”を繰り返すつもりです」
何度やっても変わらない。それだけは言っておきたい。
そしてロゴスはそれだけ伝えると部屋から去った。
今度はきちんと、呪式を用いず手を使って扉を開ける。そしてきちんと閉めて出て行ったのはやはり警告を含んでいたのだろうか。それとも同情か…。
ロワールに支えられ、うずくまったまま時折手足を痙攣させるリュミエンヌを介抱するべく抱き起したヴィル・ヘムの女はごめんなさいと泣き崩れ、意識のないリュミエンヌの血まみれの顔を愛おし気に撫でる。
二人の女は同じ名を持つ。
それはリュミエンヌ。
この世にあって二人しかいない一人の少女
それを人は「魔女」という。
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