リュミエンヌvsペネロペ(後編)

 リュミエンヌは思う、今のところは互角だと言っていい。ただし、と注釈をつける。


 今のところはであって、事態はよくないと思う。


 額に片手を添え印を結ぶリュミエンヌの脳裏にはペネロペの姿は呪式がベルト状の螺旋を渦巻く思念の総体として見え、脈打ちのたうつそれは、肉眼においてのヒト型でもなければ妙齢の貴婦人でも、また翼をもつ荘厳な天使でもない無機質な記号であり、螺旋の渦の中に時折放つ小さな閃光が走る様はペネロペの思惟を連想させた。


 この時リュミエンヌは瞳を閉じ、周囲を目では見ていない。耳を通して物音からは気配を感じ取ってはいるが、それは予備的な感覚のものであって探る対象は人間ではないペネロペという名の記号を纏う呪術的な素体の一種だ。


 本質においては男でも女でもなく、正確には生きてもいない(死にもしない)ペネロペは、あたかもそのように見えるだけの存在でありながら、それは恐ろしく生々しいヒトの温もりと息遣いを感じさせる魅惑的な生身の女とでしか、普通の人間には感じ取れないだろう。


 その美貌の彼女から甘い言葉でほほ笑みながら耳元で囁かれたりすればなおの事、言わずもがなだ。(でも性格悪いけど。とはリュミエンヌ)


 確かに触れたきめ細かい絹地のような素肌の感触と甘く匂い立つその身体の重みは幻覚がもたらす錯覚などではないから、男たちにはスケベ心からも、なおの事そう感じられることだろうが、生憎リュミエンヌは女であってしかも腕の立つ魔導士だ。


 そのリュミエンヌに捉えられたペネロペは意識にはこう見えた(感じた)


 ペネロペが立っていると思しきその場から呪式の帯が床を這い、壁や天井を伝って周囲に浸みこむようにその先端が消えてゆく。


 えっ、これって。ヤバい!最後のセリフは思わず声に出た。


 目を開き、その瞳に映るペネロペは手にした黄金の装飾を施された槍を片手で軽々と舞うような優雅な仕草で振り回し、空中にいくつもの円で軌跡を描いた。


「さあ!今度も避けて見せてリュミエンヌ。ただし…」


 ペネロペは息を継いだ。彼女の口元には酷薄な笑みが広がってゆく。


「避けて褒めてあげられるかどうかはあなた次第よ!」


 私を喜ばせて!リュミエンヌ。ペネロペは再び攻撃に出る。


 今度も石造りの巨大なくさびを用いたものだったが、数が違った。それは全方位からであり、床、壁。そして天井から浮き出す石材が形をくさびに変え、リュミエンヌを取り巻くように襲い掛かった。


 それは十基以上の数で至る所から彼女を包囲し凶暴な速度と勢いで突っ込んでいく。


 ヴィル・ヘム内部の大回廊の高い天井にそれらの岩石が衝突して起こす轟音が響き渡った。それはリュミエンヌの呪式防壁との衝突で生じ、砕けた岩同士が叩きつけられた際にもそれらはさらなる大音響で回廊一杯に鳴り響いた。そして砕け散る岩埃がリュミエンヌの姿をたちまちに覆い隠してゆく。


 リュミエンヌの呪式防壁はこの様な単純な物理打撃には広く対応できない。彼女の防壁は本来は呪式同士で対抗するためのものであって必ずしもそれは万能ではない。

 岩そのものではなく、岩を運ぶ力に作用し、その力の方向性を攪乱し、その力同士を相殺させる事で衝突を防いでいたが、四方からの物理攻撃では対応できるパターンには自ずと限りがあった。


 それは七層にも及び五十六式の呪式変化に対応するリュミエンヌの呪式防壁であったが、ペネロペは砲弾をたたきこむような直截さで力任せに呪式を飽和させ防壁を押し破ったのだった。


 周囲を押し囲まれ天井からの落下する岩の下敷きになったのは決定的だった。


 逃げ場のない複数からの攻撃には耐えられまい、まして岩の塊という原始的なやり口に”お嬢様”のお上品な防壁など取るに足りぬ。


 所詮は小娘、本気になるまでもなかったわ。ペネロペは粉塵の立つ回廊で手にした槍を一振りし背中を向ける。純白の羽が彼女の背中で羽ばたいた。でも…確かめるまでもないけれど。と、ペネロペは背中越しに振り返る。


 そこには石ころの一片もなく、壁も天井も傷跡一つなく床には埃一つ落ちていなかった。ペネロペはヴィル・ヘムの構造体を操作して完全に修復し一瞬で元通りにする。それは彼女にとっては造作もない事だった。すぐに彼女はちらりと見ただけで済ませた。


 そしてペネロペは子供相手にちょっとムキになってしまったわと反省する。それはリュミエンヌの死を悼んだわけではない。いささか乱暴で粗野な洗練さに欠ける手際の悪さを恥じたのだ。かわいそうと考えぬこともなかったが因果応報なリュミエンヌに同情はしないつもりだ。


 身の程知らずな不躾な振る舞いにその報いを与えただけ。そう思いその場から立ち去ろうとするペネロペは突如としてヒトであるならば、さしずめ悪寒のような感覚に襲われる。


 しまった!あの娘は一体…?確かに押し潰れた死体のはずがその床には一滴の血もこぼれてはいなかった。もちろん押し潰れ、ひしゃげたリュミエンヌの死体もだ。修復の際に一緒に消し去ったつもりだったが、そうではなかったとしたら?自分がそう思い込んだだけだったらとしたら?


 それはうかつではなかったか?ペネロペのその予感は的中する。床の上に一枚の石壁が不意に立ち起こる。ペネロペが先程やったように。回廊に垂直に立つそれは行く手を塞ぐように立ちはだかる。


 そして、その石壁の中から切っ先の鋭いスパイク付きのワイヤーがペネロペに向かって発射されたのだ。その繰り出されるワイヤーに引っ張り出されるように一つの影が石壁の中から踊り出す。


 リュミエンヌだ。以前に一度だけやったヴィル・ヘム内での空間転移を応用し、敷き詰められた化粧石板の中に潜り込むと一瞬早くペネロペの包囲攻撃をやり過ごしたのだった。


 もちろん岩の中に直接、居たわけではない。床石の化粧石板を入り口のゲートにしてヴィル・ヘム内部の閉じられた移送空間に入り、呪式で操作した移送空間を再構成して回廊に石壁を立ち上げ、其処を出口用のゲートにして飛び出したという訳だった。


 それは間一髪のタイミングだったがうまくいった。ヴィル・ヘム内でその奥義に目覚める以前のリュミエンヌでは例え予め教えられていたとしても、間髪置かず咄嗟には到底出来なかっただろう。それは理屈をこねまわす暇はなかったという事。魔導士としての直感がすべてだった。


 私ってひょっとして天才じゃない?へへっ。


 心に勢いをつけるのだ。行け!


 ワイヤーを撃ち出したのはその勢いを借りて飛び出た後、一気にペネロペとの距離を詰めるためだった。スピードは命。


 間合いが開いていてはペネロペの強力なアウトレンジ(遠隔)攻撃の機会を与えてしまう。そのリュミエンヌの判断は正しかった。


 文字通り飛ぶように宙をかけてゆくリュミエンヌの背後でペネロペの”貴婦人の脚”が猛烈な勢いで繰り出されていく。


 レースの黒タイツにヒールを履いた、リュミエンヌの背丈ほどもある巨大な女の足が回廊の両側の空間から代わる代わる繰り出され、飛び過ぎる彼女を蹴り落そうとする。いや、あの勢いではリュミエンヌは反対側の壁に叩きつけられ、そのままペシャンコに潰されていただろう。


 息もつけない凄まじい勢いでそれを確かめる暇はないし、振り返る術もない。リュミエンヌは声も出せない。


 リュミエンヌは20メートル以上の距離を一気に飛び越え、勢いよく床に転がり落ちた。スッゴク痛いけど痛がっている暇はない。


 ケガをしていなければ上等、立ち上がる暇を惜しんで「雷撃柱」の呪式を発動させた。ペネロペの周囲に六芒星形の呪式ポイントに放電するエネルギー柱を立ててペネロペを取り囲み、周囲からの集中放電で一気に焼き尽くすつもりだった。


 リュミエンヌの知る攻撃呪式でもかなり上位に入るものだ。最強を選ばなかったのはより強力なのはそれ相応に手間がかかるから。迅速な判断で即決する。


 いや、正確には発動させようとはした…。


 リュミエンヌの目の前にペネロペがいた。彼女は立ったまま呪式も唱えず、槍を片手に真っすぐリュミエンヌの方を向いたまま動かない。それはまるで彫像のよう。


 はあ?何だ。意表を突いた展開にリュミエンヌは戸惑う。が、すぐに彼女はその理由を理解した。


 リュミエンヌの放ったワイヤーの先端に取り付けたスパイクが、ペネロペの額に突き刺さっていたからだった。スパイクは根元近くまで額にめり込んでいる。人間なら即死して絶命というところだろう。血は全く出ていないのはヒトではないから。では、出ていたら自分はどうしていただろう。そんなことを不意に思う。


 ペネロペは微かな驚きを浮かべた表情を浮かべ、見開いた眼が宙をさまよう様なうつろな視線であらぬ方を見詰めている。額からワイヤーを垂らしたままの姿からは呪術的な力は全く感じられない、そう彼女は”死んで”いた。


 リュミエンヌはゆっくりと立ち上がり、硬直したまま立ち尽くすペネロペに近づいてゆく。


 ペネロペは運が悪かった、というより他はない。おそらく、とリュミエンヌは思う。もしリュミエンヌが狙っていたなら彼女は決して当たったりしなかっただろう。容易に”かわし”もしたはずだ。


 リュミエンヌはワイヤーを放つとき、先端のスパイクの目標などは定めていなかった。無照準で最速、とにかく遠くへと飛ばしたいだけだった。当てはあっても計算も何もない。


 その”無作為”が一方のリュミエンヌには”偶然”として幸いした。予測など立てようもないスパイクをかわすなど、さすがのペネロペといえど避けるすべはなかったのだ。


 美しいが生気のない、まるで蝋人形のようなペネロペの額に突き立つスパイクを抜き取るべくリュミエンヌが彼女の額に手を添えると向き合うペネロペと目が合った。日頃の彼女には似つかわしくもないガラスのように澄んだ瞳にゾッとする。彼女は目の前の自分をほめてくれるだろうか?そんな馬鹿な思いに、とイラついた。


 でも、褒めてほしいと心の片隅でそうも考える自分って身勝手なんだけど、誰かに分かってほしい、そんな浅ましさに嫌悪感を感じる。殺した相手に褒められたい?そんなセリフがよく言えたもんよ。「人でなし」そんな言葉が頭に浮かぶ。


 そんな自分に目を背けたい、そう思った瞬間、足元で大きな音がする。ビックリして悲鳴を上げそうになる。目を逸らすと音のした床にはペネロペが握っていた槍が転がっているのが見えた、握りしめている手首を付けたまま。そこから砕けたのだ。声は出さなかったがいっそ悲鳴を上げたい思いだ。なりゆきでも人は死ぬ。そんな考えが浮かんでくる。ヒトではないが彼女にとってペネロペは人だった。なんだかやりきれない。こんなことは何度も経験してきたのに今度もそう。


 一度死にかけてからその思いが一層深くなる。急ぐ必要はないのよ…。語り掛けるようにペネロペの肩に優しく片手を添えた。


 ペネロペの全身に急速に無数のひびが入る。ねじれるように彼女の身体は崩れ落ち、一瞬で真っ白な灰のように粉々に散った。あっという間だ。不意に涙があふれそうになる、そのはかなさに…。


 乾いた灰の中からスパイクを取り上げる。ワイヤーを手繰ってベルトにしまううちに気分が落ち着いた。彼女は死んではいない。


 この体を捨てただけだ、その本体は…このヴィル・ヘムに還ったのだろう。ロマンチシズムで言ってるわけじゃない、冷静に本気だ。無論、魔導士としてはそう考えるのが妥当だろう。悲しみは捨てる。また会えるだろう、そう遠くないときに。すぐかも?


 そう思うと、おセンチになっている気分じゃない。まだ何もわかっちゃいないし、尋ねてもいないしね。戻ろう…。


 人気のない大回廊から部屋の中に戻ろうとして扉を開けようとしたとき、リュミエンヌの背中を突き抜けるような衝撃が貫いた。それは胸板を爆発して突き抜けていく感覚。心臓は?心臓は…。


 気が遠くなる、どうする?どうなる。その力はまだリュミエンヌの中に留まっている。両脚が宙を浮く、恐ろしい力。


 心臓が、心臓が…握りつぶされる…。


 朦朧とする意識で、誰か、誰か。助けて…私が…死んじゃう。

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