精神領域

 ヴィル・ヘムの女はベッドに横たわるリュミエンヌの上に覆いかぶさるようにしゃがみ込む。


 両腕を突き出してその手のひらをむき出しになったリュミエンヌの胸に当てた。彼女の青黒いあざだらけの痛々しい胸板がゆっくりと規則正しく上下している。痛みは散らせているようだ。


 全裸になっているヴィル・ヘムの女は目を伏せて意識を集中させると、低く通る声で呪式を詠唱する。それは祈りの言葉のように厳かで敬虔な響きを聞くものに訴えかける秘儀の言葉だった。


 女の手のひらが熱くなりその指の隙間からはリュミエンヌの皮膚から放出される生命波動の脈動が視覚を通しても伝わってくる。


 揺らめく波のような光のきらめき、それはさざ波のように揺れ動き繊細な波紋を描き出し、まるでリュミエンヌ自体が水面に映る写し絵のように無数の波紋でその輪郭が震えていた。


 ヴィル・ヘムの女はそっとその手をリュミエンヌの中へ差し込んでいくと、しなやかなその手は何の抵抗もなくリュミエンヌの中へと吸い込まれていく。


 正確にはリュミエンヌの肉体そのものが今や呪式に構成変換されて”言葉”の形に「記号化」しているのだ。


 今や黄金色の淡い燐光を放つ周囲の空気は呼吸するためのものではなくなっていた。二人の命の波動に共振し、共鳴する”相”を形作る場と化し、複数の螺旋を描く呪式が作り出す波紋の相が寝所の部屋一杯に広がる様は、まるで金色の陽の光が差し込む浅い水底にいるかのような光景を描いている。


 その中でヴィル・ヘムの女はその腕をゆっくりとリュミエンヌの中へと沈み込ませていき、そのままの姿勢でダイビングするかのように彼女の身体に溶け込んでいった。


 部屋の中からヴィル・ヘムの女が姿を消した後も、空間としての”相”は彼女の帰還に備えて、依然としてリュミエンヌを通して維持され続けている。


 あなたはどこにいるのかしら?今日か明日、昨日の何処かかも知れないわね。だが彼女の言葉は一種の比喩であり、「探す」という概念はこの場合適切ではない。あえて言うなら彼女が見つけた”それ”がすなわちリュミエンヌなのだ。


 いないものを探すのではなく、在るものを知る。魔導士に必須にして必定の概念だ。真実は探さなくても、いつも目の前にある。


 ヴィル・ヘムの女自身も今はリュミエンヌと共鳴する呪式の記号として共振することで世界を共有し、二人の間を遮る”境界”を注意深く慎重に取り除いていった。


 それは、やり過ぎればリュミエンヌそのものを壊してしまい、足りないと、とりとめのない無意味な断片になって自身がリュミエンヌの中に偏在するだけの存在と化す「記号」になってしまう。それは高位の魔導士ですら、危険かつ高度な技術を要求されるものだった。


 ヴィル・ヘムの女がダイブするリュミエンヌの「世界」は物質・非物質なだけでなく、意識と無意識が自在に交錯し、論理は物理的に破綻した言わば”不条理”の世界そのものだった。


 そこには明確に定量化した時間の概念すらも存在しないので、意識上の「現実」を定義すらできないという、それは常人にはそもそも認識することもできないし、その証明自体も事実上不可能な空白の”不可知領域”だった。


 まれに臨死体験を経験した人が語る”それ”は、そうした不可知領域を生きている(生き返った)ヒトの意識によって認識変換された上での”あの世”の「物語」に過ぎない。


 それでもリュミエンヌの”手がかり”を見出したヴィル・ヘムの女は

 そこへ向けて「意識」を固着させる。分かりやすく言えばそこを一つの世界の現実として彼女自身が受け入れるのだ。


 現実が構成された「世界」で彼女は目覚めた。にわかに五感の感覚がよみがえる。空間に奥行きと限界があり時の流れを認識できる、上下が存在するそこにはリュミエンヌがいる。


 そこはヴィル・ヘムの女にとってもなじみのある光景が広がっていた。


 目の前には山間の高地が広がっていて、遠くに目をやれば、夏でも山頂に雪を抱く山脈の連なりがうかがえる。


 そう、ここは夏の季節だ。高地なので夏でも涼しく風が心地よい。


 冬場には雪に閉ざされ、耕作地もそのほとんどが肥沃な土地ではないので収穫が少なく畑仕事にも向かないが、他国との交易が盛んなので家族が食う分には困らない街道の宿場町。


 そこはリュミエンヌの故郷だった。


 ここに彼女は住んでいる。そしてここはヴィル・ヘムの女にとっても故郷だった。女の名はリュミエンヌ。


 私は彼女に会わなければならない。


 彼女の名もリュミエンヌ。私と生を同じくする対の存在。


 だから彼女の居場所も見当はついてる。ここからすぐだ、小さな街道を少し下ったそこに町が見える。すると不意にくしゃみが出た。


「へっくしょい!」


 夏とはいえ肌寒さを感じ、土の冷たさが足の裏を通して伝わってくる。


 気が付けば自分は下着一枚身に着けない裸の格好で街道わきの土くれの上に突っ立ていた。思わず辺りを見回す、誰もいないのね。でも、よくないっ!


 腕を抱えて立っている素っ裸の自分に当惑し、そして準備をしてこなかった自分のうかつさに赤面する。どうしようか?


 でもそれはすぐに解決した。いいことを思いついた…。ヴィル・ヘムの女がリュミエンヌの姿を頭に思い浮かべる。それだけで済んだ。


 彼女はそのまま”リュミエンヌ”になっていた。


 身に着けた衣装も彼女のもの。装備一式もしっかりベルトに装着済みでブーツを履いたその姿は黒い旅装束の探索者。


 見た目は申し分ない。ヴィル・ヘムでリュミエンヌに与えた仕立て下ろしの新品だ。もちろんこの状況でそれに意味がない事も重々承知しているが今は気分の問題も大事にしたい。


 まるで昔の自分に戻ったよう。思わずポーズと取ってみたりしてその着心地を確かめる。う~んステキ。久しぶりに気分が華やいできた。


 分かってるわ、もちろん分かってる。ちょっと、はしゃいでみただけよ…。こんな私だってまだ16なのよ。いいじゃない…。


 そうだ今からは町のヒトに聞きこむときはリュミエンヌと名乗ろう、実際そうだし、問題ないわ。たぶんね。


 ヴィル・ヘムの女は町へと足を向けた。気が付くと薬に頼らなくても大丈夫な自分に気が付く。憂鬱に落ち込んだり、ふさぎ込まないのも久しぶりの感覚だ。爽快な気分。おそらくリュミエンヌの世界にいる影響かも知れない。今は彼女の一部なのだ。そのせいだろう。


 彼女はリュミエンヌとして自分の実家に戻ってみる事にする。


 現実ではないが、ここでは紛れもない現実でもあった。


 信ずればいい。ここでは許されるから。


 この町の何処かにいる、リュミエンヌはここにいる。

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