閉ざされた記憶
さて、
「何から話そうか、知りたいことから順に答えるわ」
ヴィル・ヘムの女ことリュミエンヌは傍らの黒衣の女のリュミエンヌに言った。
私の知る限り、教えられる限りの事なら何でも教えてあげられる。何でも聞いて。あなたには私も伝えたいことがあるし…。
もちろんよ、聞きたいこと知りたいことは山のようにあるわよ。
あなた自身の事、それにノワールについてもね。それに…
このヴィル・ヘムについては訪ねることはいくらでも…。
きりがない位、疑問だらけ。きっと彼女にも答えられない(知りえない)秘法や秘術の類もあるに違いない。それが、今の二人を…
いや、私自身を形作っている存在の本質を語ってくれるに違いない。私が”何者”なのか、を。”この”リュミエンヌが誰なのかを?
不安におびえる私、知りたくない事実の予感。そして真実への期待、それは希望かもしれない。でも絶望もしたくない。
揺れ動くこころは何を求めている、恐れに泣きわめきたい少女の自分と魔道を極め、世界を巡り心理を欲する探索者、その象徴としての「魔女」が彼女の中でせめぎあっている。その葛藤が出口を求め、傍らのリュミエンヌの手をまさぐり握りしめていた。
その指は震えていたかもしれない。
隣にいるのはわたし、それは”不条理”の極み。でも似たようなことは今までも経験している。そっくりの姿に擬態する妖魔、或いは”幻影”の自分にも…
だが今恐れているのは自身が”そう”であるかも知れないかもしれないという事。その証拠にヴィル・ヘムの女の胸には傷がある。かつて魔人に穿たれた醜い傷が。それが「真実の証」。わたしにはない…。
そんなリュミエンヌの気持ちを知っての事か、手に絡む指をもう一人のリュミエンヌは強い力で握り返す。その確かな実感が、そのぬくもりが今は頼りに感じる。
わかっているわ…たとえ言葉を交わさなくても、その気持ちが彼女の体温を通して伝わってくる。
そんな彼女たちの前を「従者」ノワールの精悍な背中が見える。
肩で切りそろえた漆黒の髪を持つ聡明で且つ引き締まった体躯の異国の青年の姿を映しとった彼はヴィル・ヘムの女に仕えている。従者であり、親友でありそして戦友でもあった。
実体を持たぬ霊体であり、いにしえの伝承による「血の契約」を結ぶ”契約者”に仕える精霊。”それ”が黒衣のリュミエンヌが知るノワールだった。幼い頃に血の契約を結び、彼女の従者として仕えてきた。
たとえ今の姿がかりそめであったとしても、それはかつて幼心をときめかした初恋のヒト。今すぐでも駆け寄り抱き着きたい衝動に襲われる。それは理屈ではない女ごころ、それは魔導士であっても関係ない。全然関係ない。リュミエンヌは彼の姿に愛おしさから涙が出そうになる。でもそれは出来ないわ。分かっている。
それにヴィル・ヘムの女はそれを許さないだろう、決して。リュミエンヌはあの時の彼女の視線を忘れてはいない。あの視線を。
”あなたには渡さない”はっきりと彼女の瞳の嫉妬は物語っていた。
当のノワール自身、さりげないがはっきりとした態度でそれを示している。彼女への敬意と愛情は変わらぬが、忠誠は誓えない。主従の証は彼女にはない。
血の契約は結べないと。それは絶対だった、違えることは許されない。ヒト同士の約束事など比較にはならない厳正さでそれは履行されるのだ。それは天地の理(ことわり)の一部だったから。
三人の歩む行き着く先にヴィル・ヘムの女の居室があった。
ノワールが大扉を開くと、二人のリュミエンヌを導き招くと先に室内に入り二人を促した。
広々とした室内はまさに邸宅の趣だったが、今までリュミエンヌが見てきたような部屋に見られた古典調な宮廷仕様の豪奢な作りとは無縁のあっさりとした造りで以前見た貿易商の異国趣味のある今風の部屋に似ていた。
きっと彼女の趣味が反映されているのだろう。部屋のいたるところに見たこともない世界の彫刻や置物、家具など珍しい調度品が並ぶそれはエキゾチックな中にもくつろげる雰囲気があった。
此処は今までとはまるで違うムードが部屋中に漂っている。これが彼女の好みなのだろう。
いい趣味と彼女は思いかけたが見覚えがあると感じた時点でそれも当然と思いなおす。これは私の趣味も反映されている。先ほどまでの不安もそれに少しは紛らわせられる気がした。実際その部屋には異国のものらしい、かぐわしい香(か)がほのかに匂ってくる。
「ノワール、さっそくだけどお願い」
ヴィル・ヘムの女が指図すると彼は部屋の一角に据えられた一台の香炉らしい金属器を載せた台座に近づき、香炉の中に香木の切片を継ぎ足す。それを満足げに見つめる彼女には若いながらも主の風格と余裕が感じられ、それが今の彼女の立場を表していた。
まもなく部屋の中の香りが強くなった。上品な趣の中にも心にそこはかとない華やぎをもたらすと同時に、また鎮める効果をもたらすような複雑な香りを部屋の中に醸し出してゆく。
ほんのりと人を酔わせるらしい香りにはリュミエンヌも魅了される思いがしたが、それを口には出さない。なぜだかそうした。
ヴィル・ヘムの女は繋いだリュミエンヌの手を解くと好きなところでくつろいで頂戴と言い、それを受けてリュミエンヌは来客用と思しき長椅子の傍を通り抜け、隣にあった板張りの床に置かれた大層大きなクッションの上に彼女は胡坐をかくようにしてぺたんと座り込んだ。
早速もぞもぞと尻をずらして居心地の良さを確かめる。満足するポジションを見つけたらしい、ニコッと笑いかける。ヴィル・ヘムの女も笑みを返す。
子供じみていて奔放な様は無作法とも言えたがあえてそうする。好き嫌いでそうすることが今はふさわしいと思ったからだった。礼儀に疎いわけではない。リュミエンヌはヴィル・ヘムの女との間のわだかまりを取り除きたかった。その意思を彼女に伝えたかったのだ。
リュミエンヌは自分が今は客人ではない、そんなありきたりの関係じゃないし、状況じゃないはずよと、こういうところからも彼女は自己主張するそんな性格だった。
そんなリュミエンヌに異論はなかったのだろうが、ヴィル・ヘムの女自身は相対する位置に置かれた長椅子に腰かけ、またノワールは座らずにその傍らに立ったままの姿勢を保ち、彼女の言葉を待つ執事のようにかしこまっていた。
ヴィル・ヘムの女(リュミエンヌ)はくつろぐ、そんな無邪気にふるまうリュミエンヌを興味深げに見詰めている。そこに今の自分との差異を見出そうとしているかのようだった。
じゃあ、いいかしらと断りを入れ、自らリュミエンヌに語りだす。リュミエンヌもあえて話を差し挟まないつもり。
あなたは目覚めた後、ペネロペの世話を受け、ロゴスからあの世界の英知と知識を結集した「図書館」に招かれたこと、そしてそこで起きたことを覚えているわね。
そこから始まるの?と、リュミエンヌ。
そう、そこから始めたいわ。とヴィル・ヘムの女。
あれは…、あれこそがすべての始まり、私も体験したわ。
あなたも?そう、ここを訪れた人間はみんな経験することよ。
でも誰もが体験できることではないわ。理解できるかどうかも分からない。だから…相手を選ぶ。
彼女の言うことは理解できる、確かにそうだとリュミエンヌ。
「あの膨大な知識は魔道の核心に触れるし、それゆえ危険でもあった。でも、あの時はその閲覧を誰もとがめだてはしなかったわ」
そんなリュミエンヌの思いをくみ取ったかのように…
「それはその人間がヴィル・ヘムに選ばれた証。それは貴重な経験でありまた試練でもあるの。また誰もが超えられる訳ではないわ…」
瞼を伏し、ちょっと間を開けて彼女は続けようとする。
あなたはその貴重な一人…と言いかけて、
「そこではにあなたもそうだった」
と、リュミエンヌは言葉を差し挟み、それに彼女は嘆息で答え、すぐには返さないヴィル・ヘムの女。何かを言いよどむ。
あなたが”それ”を克服できて幸いだった…本当に。
何のこと?彼女は尋ね返す。先ほどからひどく辛そうに語るヴィル・ヘムの女にハッとする表情が見える。申し訳ないわと額に手をやる。何かが彼女を責めさいなむかのような…
謝罪される意味が分からないと、リュミエンヌ。
あなたは覚えていないはずだから…と言いかけて、突然ヴィル・ヘムの女は立ち上がる。血の気が失せた蒼白な顔で
「ごめんなさい!もう私は言えない、言えないの!」
叫ぶようにして席を立ち、駆け出すようにその場を離れようとする。傍らのノワールがもういい!と彼女を追おうとするが…
待って!とリュミエンヌが声をかける間もなく、彼女の姿は不意に滲み、周囲の空気に溶け込むように姿が消える。
「リュミエンヌ!」
ノワールが彼女に近づいて口早に言う。
「話はここまでだ、今日のところは。許してくれ」
そして、今はそうしてくれないか、と。リュミエンヌは頷く。
もっとも唐突な成り行きに合点はいかないが…それでも、 彼女を頼むわ、お願いとノワールに告げた。
ノワールもまたリュミエンヌに頷いたまま、その姿を消す。
彼女の取り乱し方が尋常じゃない。何があった?
一人取り残されたリュミエンヌはやや呆然とする。そしてすぐにそれを思いついた。
だったら私には何が起こったの?
リュミエンヌは慄然とする。思い出せない何かがあった。
私は何日も読みふけった蔵書を前に気を失う様に眠り込んだ。そこまでははっきり覚えている。その後は…その後は?
朝が来た。気分はぼんやりしていたがあれは?薬を盛られた?だから…
リュミエンヌは部屋を出る、扉を使って部屋を出た。
「ロゴス!ペネロペ!どこかで聞いているんでしょ。見ての通りよ、分かってるなら姿を現しなさい!」
天井の高い廊下にリュミエンヌの声がこだまする。
「ロゴス!」
激昂する自分の叫び声にリュミエンヌ自身が戸惑っている。そこへ…見知った声が背中越しに聞こえた。
「あなたって本当に不躾な娘(こ)」
振り返るリュミエンヌはそこにペネロペの姿を見出す。
「まだ躾(しつけ)が必要なのかしら」
呆れかえるような辛辣な口調で言い放つ。
「ペネロペ!」
ペネロペから発するその気配から、リュミエンヌは反射的に魔道呪式を発動する。呪式防壁だ。続けて呪式攻撃の体制をとる。
ペネロペの不遜な態度はリュミエンヌの怒りを刺激した。
「来なさい、そして教えてあげるわ」
本当の躾というものを…ね。
怒気を含んだとどめの一言をペネロペは言った。
「このあばずれめ」
途轍(とてつ)もない憤怒の感情がリュミエンヌの中に沸き起こる。
何かが間違っている。でもそれが何かがわからない。 危険だ、それしか思いつかない。危険だ。
リュミエンヌはペネロペと戦うことを選んだ。
だがそれは、何のため?
そして、それは誰のため?
リュミエンヌはその答えがわからない。
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