ヴィル・ヘムを統べるもの

 魔導士リュミエンヌは巨大な正四面体の構造物の内部に捕らわれていた。


 従者の精霊ノワールともはぐれ、連絡不通のまま一週間余りが過ぎようとしている。


 と、言いたいが正確な日付は外界から完全に遮断された現状では推測の域を出ないし、本当のところはいつなのか。今日は何日目だろう。


 だが不安はなかった。リュミエンヌの傍らにはロゴスとペネロペという宮廷装束の侍従のいでたちをした男女が献身的に彼女の世話を焼いている。もちろん彼らは人間ではないが手厚いリュミエンヌへの奉仕は申し分もなくそれは見事なものだった。


 そして今日。本当は昼か夜かもわからない柔らかな光に包まれた大回廊の中を、リュミエンヌは件の二人とともにこの謎の構造物の主(あるじ)との対面を果たすため、何処とも知れぬ目的地へと歩んでいる。


 これがこの事象のクライマックスへの始まりであることは間違いない。そして彼女もその準備はできている。壮麗にして空前の規模の大図書館に案内され、その膨大な歴史的著述、特に魔道関連に特化した知識をむさぼるように吸収し、そして我が物にする貴重な機会を得たことで事態は急展開する。


 ヒトには説明しがたい奥義の数々を複雑な過程を経て、その危険を顧みぬ果敢な挑戦の末に、以前より優れていた魔導士である彼女は”本当の魔女”として真に”覚醒”するのだった。


 リュミエンヌは回廊の中央を歩みつつ不意に呪式を唱える態勢をとる。いや、口頭で呪文は唱えない。頭の中で詠唱するだけだ。


 と、同時に前方にいるロゴスとペネロペに声をかける。


「今ここに貴方たちへのお礼代わりに、研鑽の成果を披露するわよ。ありがとう!ロゴスそれにペネロペ!」


 わざと芝居がかった調子のリュミエンヌの声は華やかで自信に満ちている。艶のある声。


 誰も聞いたこともない新しい声。目覚めた心が奏でる声。


 ギョッとして振り返る二人にかまわず、リュミエンヌは宣言通りにいきなり呪式を展開した。ペネロペのお待ちを!の声を待つまでもない。ロゴスはそれを泰然と受け止める、あらかじめ覚悟はしていたからだ。


 これで”何度目”だったか?しかしロゴスは言葉には出さずにいると、リュミエンヌの周囲の空間が呪式に沿って超高速で再配置されていくのを感じることができた。


 二度目?いえ三度目よ!ペネロペが発する言葉はロゴスの耳には届かないが気にはしない。分かっているよ、ペネロペ。ありがとう。ペネロペの心遣いに感謝する。


 魔道呪式の「心で奏でる」という本当の意味を彼女は完全に理解している。リュミエンヌは言葉も発さず、古代より伝承されてきた”聖なる印”すら結ばない。そして心が欲するがままに呪術は発動した!


 次の瞬間、目の前は暗転し、そしてまばゆい閃光とともにリュミエンヌとお付きの二人は空間転移する。スムースで歪みのないクリアな波動にシンクロし、今いる構造体の中を自在に移動してゆく。


 彼女の深層意識は重なり合う因果律を推測して感応する霊的直感が素早く正答を導き出す。行くべき道筋はもうわかっている。理屈ではなく信じるだけの簡単な道理。


「不条理の理」(ことわり)は言葉では伝わらないし、また伝えられない”真理”を反映する”それ”は魔導士の原理。


 構造体に並行的な階層状に交錯するという正しい”道”をリュミエンヌの心は最短で通り抜けた。ほとんど完ぺきに近い事は目の前の光景を見て確信した。素晴らしい、と。ロゴスは感嘆する。”成功”だ。


 一方ペネロペは冷ややかな表情で事実だけ受け止める。そうするべきだと思った。この後のことを考えるともう…それは。唇をかむ。ヒトとの境界を意識するならそれは自明のことだった。


 奇妙な和音が、それも不協和音が調べを奏でる。不可解な響きが構造体にノイズのように浸透する。カナリアの調べはどこで啼く。


 リュミエンヌら三人は神殿のような石柱が林立する円形ホールにいた。天井までは遠く仄暗いがどこからか陽の光が差し込んでくるようだ。その光に照らしだされる”それ”はあたかも劇場のようにも見えるし、透徹で且つ濃密な世界には命の底にいるという劇的な感覚がある。


 其処には命の気配がする。いやその部屋は実際”生きて”いた、脈動する見えない波紋が広がるように室内を満たしてゆく。それはリュミエンヌの心音と共鳴したように彼女には感じられた。それは雨音に似た、無音だが聞こえない音楽であるかのように、耳朶を打つ心地よさがあった。


 それはリュミエンヌにとって遠く懐かしさを覚える追憶の響き。なぜだろう?


 それは命のぬくもりに似た感覚で、その身を委ねたい誘惑が…。


 リュミエンヌは両腕を差し上げその脈動する波紋にわが身を委ねてみる。瞳を閉じる。それを感じたいからだと心、その欲求。


「ようこそ、ヴィル・ヘムへ」


 唐突な声の響きに反響する室内は一変する。部屋の一角から光が差し込んで、瞳を見開くリュミエンヌには一対の人影が見える。


 そのシルエットは一つは男、もう一つは女。女の影に寄り添うような男の動き、リュミエンヌには恐怖より驚き、驚きよりも好奇心が勝って自ら話しかける。あなたは誰か?


 即座に女らしき影は答える。私はこのヴィル・ヘムを継承し、統べるもの。女の声に聞き覚えがあった。それは誰だったろう?


 天井から差し込む光に女は照らされてその姿は次第にあらわになっていく。上背があるが華奢な作りのボディラインは繊細な意匠のデザインでシンプルなドレスを纏っている。黒を基調に目にも鮮やかな深紅の染め分けが印象的で、ペネロペの身に着けたそれを何故か連想させた。おそらくは同じ世代のものなのだろうか。リュミエンヌはより一層その美貌に目を凝らす。


 緩やかなウエーブを描く肩まで伸ばす髪は漆黒で美しい。だが、リュミエンヌはその顔を見て驚愕する。唇に紅をさし、あでやかな化粧を施す顔は若々しいが微かに愁いを帯びたように見える。だが、その顔は…きっとそうだ。だけど、それは…それは…。


 女は自ら名乗りを上げる。毅然とした風情でその声は凛としている。


「私の名は”リュミエンヌ”、ヴィル・ヘムを統べるもの」


 そして、貴女が知りたいのはこれでしょうとドレスの胸元に両手を添え、グイっと生地を左右に広げる。露わになった白い肌の胸元には似つかわしくない大きな傷跡があった。肉が渦巻き醜く盛り上がったこぶし大の傷跡。


 間違いない、リュミエンヌは言葉を失った。あれは私だ。


 おそらくは”本物”の…。では、私は…呆然とする彼女はつぶやいた。


 私は、”誰”なんだ…?


 傍らの背後に立つ物言わぬペネロペはそっと目を伏せた。

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