継承者は夢を見る
結局リュミエンヌはその日のうちに目覚めることはなかった。昏々と眠り続けるうちに夜が更けてゆき、そのまま朝が訪れた。
そうやって二晩が過ぎて三日目の朝が訪れた時、リュミエンヌはようやく寝床の中で目が覚めた。
ゆっくりと目覚めの光の中でリュミエンヌは気がついた。彼女のまぶたが開く前に彼女の見ていた”夢”がそっと陽光の中に溶けてゆく。
その夢がどんなものだったのか。いや、そもそも夢を見ていたことすら彼女は思い出せることはなかった。
だからリュミエンヌは説明不可解な疑問を感じながらようやくに瞼を開く。枕の中に埋もれるような彼女の頭は鳥の巣のようにもしゃもしゃに寝乱れている。相当に寝癖が悪かったらしい。身体の上の布団をベッドの傍に跳ね飛ばしシーツの上に新体操まがいのアクロバティックな態勢で寝転がっている。
それだけならそれを見た人はまだ”笑えた”かもしれない。
これはひどい寝相だと。
だが彼女が昨夜にベッドの上で見せた姿態の異常さを見たならばその場で一目散に誰かを呼びに行ったかもしれない。いやそれ以前に眠っている彼女に声をかける事さえ憚られるほどその夜のリュミエンヌの様子は常軌を逸していた。
悲鳴とも嬌声ともつかぬ大声をあげながらリュミエンヌはベッドの上で激しく上下に跳ね飛ぶさまは、中華鍋に放り込まれて背中を激しくしならせるエビまがいの(このリュミエンヌの世界にも似たようなものはある)”おぞましさ”で、その「悪魔付き」の如き禍々しさは、傍にいるならばその人の心胆を心底から寒からしめる代物だった。(事によるとそうだったかもしれない)
それが眠りについた最初の夜。一週間の間、完全な不眠ではないが仮眠程度に殆ど眠らず膨大な量の記録資料に目を通し、起きている間はほぼ無休の状態(食事はかろうじてとった)で心身ともに酷使し続けたせいであったが、そのせいだけではない。
問題はその”内容”だった。膨大な記録資料とは「魔導書」関連のものが大半を占め、そもそもそれらの閲覧には細心の注意をもって準備が図られ、心身ともに万全のコンディションで臨むのが普通のやり方だ。なぜなら文書の解釈を誤れば魔力が誤動作し本人や周囲の人に悪影響を与えることがあったりするからだ。
いやこの言い方は丁重且つ上品すぎる言い方であるかもしれない。呪文が高度になればなるほど文字通り爆発的な効果で発動され、死傷者が出る場合も少なくはない。いわゆる”呪い”とよばれる”それ”も含まれたりもする。まさに命がけなのだ。
そのため高度な魔導書にはそれを防ぐための”警告文”がその冒頭や各章毎にしつこい位に繰り返し記されていることが多い。閲覧時にいわゆる”封印”を解く手続きが延々と続いたりするのはそれだけに危険の程が知れるというものだ。詳細な段階を踏むことで起こりがちなミスを減らせという先人たちの思いやりや”苛立ち”の成果だった。
それほど慎重な配慮が必要な魔導書の閲覧に際し、リュミエンヌはその複雑な手順の大部分をスルーした。決して無視したわけではないが、いささか軽んじたというそしりは免れないだろう。爆発的な猛スピードで強引なくらいに頭にその内容をねじ込んだのだ。それはあきらかに性急すぎる行為だった。
そうした過誤は最小限にとどめたつもりだったが数万巻の量に達する以上、その累積するミスも同様にバカにならない量になっていた。それは彼女の想定を超えた量だった。
しかも殆どが最高位の魔導士ですらめったに目にすることのない貴重な蔵書であり、最高度の慎重さが求められる門外不出の貴書、珍書の類ばかりだったのにも関わらず、まるで地雷原のうえをスキップしながら駆けてゆくような無邪気と無謀さでリュミエンヌは事に挑んだのだ。
もはや嬉しかったから、では済まされない。意識を失い昏倒するように眠りこけるという最悪のパターンで睡眠に落ちたリュミエンヌの脳内とその精神世界はやがて睡眠が深まるにつれ濁流のような思考の奔流に襲われた。
読み損ねた不整合な呪式が引き起こす呪術的な混乱が大津波のようにリュミエンヌの精神を翻弄した。無意識の中でも彼女は必死になって矛盾の束を修正し、整合性を正し、必要なら呪式同士を組み換え、時にバイパスするという、常人(たとえ魔導士であっても)では成しえない離れ業を殆ど無意識ながら処理してゆく。
何千何万。いや何十万項目にも及ぶ膨大な呪式、それも歴史上一万年以上のタイムスパンが生じた複雑多岐なその呪式の数々は系統も違えば原理すらも異なるものがあった。それがリュミエンヌの心をまるでレイプ同然に痛めつけてゆく。心が呪いに凌辱されてゆくのだ。行間に潜む悪魔が何度もリュミエンヌを犯し、彼女の心を闇の彼方へと奪い去ろうとした。抗うリュミエンヌも必死だが、心の闇に抵抗もままならぬ。何度もあきらめかけた。
現実世界でのリュミエンヌのベッドの上の狂態はそうしたわけだったのだ。もしその途中で目覚めたら…彼女は確実に発狂していただろう。ショックで心臓マヒを起こしていたかもしれない。
事実、最初の夜には彼女は何度もベッドの上で失禁した。そのたびにペネロペが小康状態の翌日の昼間のうちにシーツを取り換え身体を拭いて、再び彼女をベッドに寝かしつけた。
最後の夜の明け方近くにようやく彼女は落ち着きを取り戻し、静かな寝息を立てるまでに回復した。びっしょりと寝汗をかいたリュミエンヌにロゴスは調合した薬品の入った小瓶の中身を鼻先に嗅がせる。それは強い麻薬の一種だった。途端に口元に笑みを浮かべ弛緩した彼女の肉体はようやくに安寧に至った。薬の成分で眠っている間のことはこれでほとんど覚えてはいないだろうとロゴス。ホッとした言葉遣いに安堵がうかがえる。
ペネロペはリュミエンヌの全身の噴き出た汗を丹念にぬぐいながら強張った四肢をほぐし、香油でリュミエンヌの裸身を優しくマッサージしながら言った。
「魔導士って因果な商売ね」
そこには慇懃な宮廷使いのよそよそしさは影を潜め、わざと崩した言い回しに彼女の”人らしさ”がうかがえる。
ああ、だが”あの方”も経験されてのことだ。免れることはできないのだよとロゴスは静かな寝息を立て時折、寝返りを打つリュミエンヌを見詰めながら嘆息して見せる。
だがこれで安心だ、彼女が目覚めたら頼むよとペネロペに言う。
もちろんですわと返す彼女にはリュミエンヌの未来を憂う気遣いが垣間見える。こんなことが必要なんて…。
彼らは知っていたのだ。ここに至る過程のすべてを。そしてこれが想定内だったことも。こうなるように仕向けたといってもいいだろう。彼らはリュミエンヌを知っている。それはずっと以前から。
昼を過ぎようとしていたころ、ぼんやりと寝ぼけ眼でベッドから起き上がる。頭を掻き宙をかくようにふらふらと歩きだす。雲の上を歩いているように頼りない。今、いつだっけ?ここどこ?
まだ麻薬が幾らか頭に残っているらしい。トロンとしたまなざしでとりとめのない事を脈絡もなく考える。
なんだかおなかすいた。いつの間に着替えたんだろう。
リュミエンヌはゆったりとした上等の寝間着を纏ってる。明け方にペネロペが着せた。
ねえ、誰かいないの?瞼をこすりながらぼそぼそと呟く。まるで子供のように。
「私はここにおりますよ、お嬢様」
ペネロペが微笑みを浮かべて立っている。背中越しに聞こえたリュミエンヌはゆっくりと振り返る。誰だっけ?ああ、”ぺねろぺ”だぁ。リュミエンヌは少女というより幼児のような無邪気さでほほ笑んだ。あどけない笑顔。
お飲み物をお持ちしましたよ。と、手にした盆の上には水の入った透明なグラスと水差しが載っている。ガラス製のコップはまだ高級品で王侯貴族の持ち物だ。まして水差しなら言わずもがな。リッチな世界の上品な朝。
何の警戒心もなく素足をペタペタさせながらリュミエンヌはペネロペに近づくと、手に取ったグラスの水を喉を鳴らして一気に飲み干し、ニコッと笑う。おいしい。ペネロペも微笑み返す。
リュミエンヌはペネロペに促され、手を取られながら部屋の一角に用意されたバスタブの前に連れてこられた。入れってこと?
彼女はバスタブの前にしゃがみ込んで湯の張った浴槽をのぞき込む、いい匂い…。それに温かそう。ウットリするリュミエンヌ。
ペネロペは飽かずにのぞき込んでいたリュミエンヌに入浴を促した。されるがままに従うリュミエンヌは寝間着を脱ぎ捨てると、バスタブに身体を浸し、手足を伸ばしてすっかりくつろいでいる。ああ、気持ちいい…。
ペネロペはリュミエンヌの肩まで伸び
た髪を洗い汗を落とす。スポンジ状のあかすりで彼女の身体を丹念に磨き上げる。
くすぐったいけど悪くない。いくばくか時間がたつうちに徐々にリュミエンヌの身体から薬が抜けてゆく。はっきりと覚めてゆく意識。
リュミエンヌは改めて周りを見回した。ここは…
最初に目覚めた部屋じゃない。似ているけど細部が違う。
それにこれは…完全に彼女は目を覚ました。
湯船から立ち上がる、もう結構よ、ありがとう。
「何だかわからないけど、すっきりしたわ。あがるから服を用意して」
てきぱきとペネロペに指図する。何かが変わった。ペネロペは思った。リュミエンヌ自身もそれは感じていた。虚勢ではない自信のようなものが体に満ち溢れている。この満たされているという感覚。
悪くない。身体をバスタオルでペネロペに拭かれながらリュミエンヌは考える。いや考える前にすることがある。
ペネロペに背中越しに伝える。
「おなかがすいたわ、何か食べ物を頂戴」
出来るわよね?とリュミエンヌ。
冷静な口調で堂々と食事をねだる。
もうお支度はできておりますとペネロペ。悠然と答える。
二人の間には何か通じるものがあった。そういう事なのだろうか。
言葉にはできない何かが。
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