驚異の遺産

 ロゴスとペネロペ、二人の召使いに導かれリュミエンヌは客人としての扱いを受け、大廊下の突き当りにあった黒い扉の前に立った。


 ここまでの道のりは近いようで遠かった。比喩ではあったが事実でもあったとリュミエンヌは思った。実際のところ距離感がひどくあいまいに感じられる。


 自らの脚を用いていたにもかかわらずその道のりはハッキリしない。まっすぐな道筋であったが、幾つものわき道を通り過ぎる度毎に、いくつもの角を巡っていたようにも感じられる。不思議な感覚に幻惑されるまま歩み続ける。


 三人の靴音だけが回廊内に響く中、リュミエンヌは考えた。


 ここがあの巨大な立方体の内部であるなら、自身で感じられるその距離感は全くあてにならないな、と。廊下のようでもそう思わされているだけで実体はない。そして全く先程の場所から一歩も動いていない可能性も考慮しなければとすら思っていた。


 この二人から離れて勝手に動き回ろうと、背を見せて彼らから逃げ去ろうとしてもおそらく不可能だろうと思う。


 なぜなら、ここからは背中越しに大回廊の反対側が遠くおぼろに見えているが、そんなものはそもそも”実在しない”だろうという意味でだ。


 下手をすれば迷うどころか、礼儀知らずの不埒者としてこの不確実な空間そのものに飲み込まれて彼女そのものが消滅しかねないかもしれない。


 やはり自分はいまだ囚われ人でしかないということは当然、彼女の念頭にはあった事は言うまでもない。もはや一人ではトイレにすらたどり着けない、ペネロペに頼み、幼児のように連れて行ってもらうしかないとリュミエンヌは密かに苦笑する。


 これこそは完璧なセキュリティだろう。現在知る限りのどのような王家の宮殿や宝物蔵でも、これほどの規模と詳細さでカモフラージュ出来るところなど、呪術的記憶術による膨大な彼女の記憶と知識にはなかった。


 目の前の黒い扉は漆黒の黒曜石にも似た作りで光沢を帯び、一切の装飾を施さない何も映し出さない鏡のようだ。ノブも鍵穴もない。開けることも閉じることもかなわない「開かずの間」。


 だからもう進めないぞ。とリュミエンヌはきつめの目線で主張する。


 扉の前に立ったロゴスは私共に続いてくださいと振り返りながら言って、そののまま真っすぐ扉へとためらうことなくどんどん歩みを進める。ええっ、やっぱり行っちゃうの、とリュミエンヌ。


 するとロゴスはそのまま扉の中にその身体がめり込んでいった。それは水面に飛び込むような黒い波紋を扉の表面に描きながら一瞬でその姿を消した。思わず目を見張るリュミエンヌの前でペネロペが手を差し伸べる。一緒にどうぞという意味だ。


 ペネロペの瞳にはかすかにからかう様な色を帯びていて、怖いですか?と無言のままに…いたずらっぽく。リュミエンヌは当然のように、あからさまな虚勢を張って彼女に従うことにした。もちろんもはやこの段階においては否やはもはや考えられない。それは滑稽(腰抜け)というものだ。また彼女の「魔導士」としての沽券が許さない。そんな駆け出しの素人じゃあるまいにという訳だ。バカみたい。


 黙ったままペネロペの手を握って彼女についてゆく。ペネロペはリュミエンヌの前で黒い波紋の中に消えてゆく。そのすぐ後に彼女が続いた。リュミエンヌの手の先端がペネロペにに続き漆黒の沼に飲み込まれようとしている。ちょっと不安になる。


 だが、 ここで開いた手の方で鼻をつまんでみたらどうだろうかという思いが脳裏をかすめた。かなづちの水練のような素振りで、頬をぷっと膨らませてね、息を詰めるんだ。内心でそれを思い浮かべて心の中でクスリと笑ってみる。これが彼女のやり方だ。

 大丈夫だ。落ち着いている、心配するな。言い聞かせる。そしてそれは一瞬のことだった。目の前が暗黒になる、全く視界が効かないから握っているペネロペの手の感触だけが頼りだった。それはいちいち考える暇もなかった。目の前が一気に開ける。もちろん体のどこも濡れてはいない、当然なのだが何故かホッとする。


 視野の開けたリュミエンヌの瞳には先行した二人の姿とその向こうに広大なホールが見て取れた。天井は数階建ての高さがあって円形の室内は見渡す限りの書架が並び、壁面はすべて埋め尽くされている。ホールの中央には魔導士が使う”書見台”が並んでいる。そして各層ごとには張り出しの回廊がぐるりと取り巻き、途方もない規模の「図書館」であると同時に、それはまさにいにしえの秘術を記す大神殿の趣すらあった。リュミエンヌの前に古代よりの壮麗な知識の宝庫がそこにあったのだった。

 リュミエンヌは声が出ない、圧倒される。いやもちろん圧倒的だ。辺りを見回すリュミエンヌは思わず声が出る。


「ああ、嗚呼、ああっ!何てこと…」


 ロゴスが簡単に説明する。ここはざっと一万年規模のありとあらゆる魔道関連の著述のみならず、神聖呪術とその体系と実践。更には冶金学や薬学、医療技術や金属精錬やその加工技術など、ヒトの知恵と知識の歩みが天文学的情報として記録されているのだ、と。


 リュミエンヌはそれを半ばうわの空で聞き流し、言葉にならない感嘆の叫びをあげながら回廊を走り回り、背表紙を見て興奮した。書架から取り出すとその内容にさらにヒートアップする。


「みて!これって『アルケン師の魔道指南』の初版本よ!それにこれったら!その存在が数百年間にわたって予見されているだけで、実物は誰も見たことはない『デルビュイェと弟子達の呪式対話集』じゃないの!ちゃんとあったんだ、この本は!」


 感極まって天を仰ぎ、鼻息荒くもその場で”わななく”リュミエンヌ。失礼な物言いだが雌を前にした種馬のようだと図らずもロゴスは思った。


 二人のことなどそっちのけで夢中になって、手当たり次第に読み飛ばすリュミエンヌにペネロペが声をかける。こちらにいらっしゃい!ここの書見台をお使いなさいな、と。


 ピクッと肩を吊り上げリュミエンヌが反応するや否やすごい勢いで駆け下りて来ると書見台の前に立ち、早く使い方を教えてとロゴスを呼びつける。さっそくロゴスは実際使って見せ、ペネロペは使用上の注意点を手際よく教えていった。


 魔導士用というだけあって、呪式を用いて読みたい本を石板上の検索機で検索し指定をかけるとその内容が中空に浮かび上がり、超高速で速読できるだけでなく、あまねく網羅した内容も瞬時に頭に刻み込めるリュミエンヌはものすごい勢いで画面を切り替えその内容を理解していく。


 実年齢16歳の彼女がベテラン顔負けの知識と呪法の使い手でいられるのはこういう訳だった。こんなことができるリュミエンヌに人々は驚嘆し、そして恐れた。正直こんな扱いにくい弟子は初めてだと師匠たちは閉口する。言うまでもなく優秀だけに何を教え、また教えざるべきか。一つ間違えばその結果は深刻な事態を生む。そんな「魔女」の誕生を人々は受け入れるわけにはいかなかった。


 ノワールはそんな彼女の”安全弁”になることを期待されてもいた。建前はリュミエンヌを支援する”従者”であったが、実際はもっと複雑な役割をも担っている。彼女を助ける一方で監視する。彼女の得た知識がもしも危険と判断するならばリュミエンヌを”封印”するための役目も命じられていた。ヒトでは無理だ。それゆえのノワールだった。


 精霊としてのノワールには邪霊を鎮めるトーテムでもあり、それを失うことはリュミエンヌの世界に対する潜在的脅威が増すことでもあった。彼女はそれを教えられていない、誰からも。


 だがそれは賢明な判断でもあった。今まではそう思われていた。でもこれからもそうだろうか、誰しも未来の答えは見いだせない。


 夢中で没頭するリュミエンヌにロゴスもペネロペを口出しをしようとはしない、何をするにも邪魔をするなと命じられていたからだ。


 もちろん彼らの主(あるじ)にだ。何時間かかろうとも構わないと指示されている。それが幾晩かかろうともだった。彼らに出来ることはお茶を入れ軽い食事をリュミエンヌに提供し、仮の寝床を用意することだった。彼女はむさぼりながら読み、お茶をガブガブと飲み干しまた読む、そして疲れると寝床に仮眠した。


 トイレに立つ以外はリュミエンヌはすべてをささげた。一週間それを繰り返し、それでも全体の8%未満に過ぎなかったが彼女は数万冊の百科事典に相当する内容を読破した。そしてその内容の98%以上を記憶しその内容を保持し続けている。彼女は即座にそれを実用上で使えるということだ。それは体系的であり本質は濫読でもあった。


 七日目の朝(と思われる)に彼女は仮眠の寝床に立ち上がろうとしてそのまま床に昏倒した。力尽きたのだった。片時も離れず見守り続けたロゴスとペネロペはリュミエンヌを介抱する。


 頑張ったわね。ああ、人間にはまったく驚かされる。こんな貧弱で不完全極まりないのにな。また臭ってるわこの娘(こ)。風呂を用意して、眠っている間に洗うから手伝って。


 そんな二人のセリフをリュミエンヌは子守歌代わりに聞いていた。子猫のようにその長身をくねらせてごろりと寝返りを打つ。もう何も気にしない。疲れたから寝る。彼女は幸せだった。今日一日は久しぶりにゆっくりと寝られるだろう。


 彼女の寝顔を満足げに見詰めているのはロゴスとペネロペの二人だけではなかった。リュミエンヌはまだそれを知らない。

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