第28話⁂鬼イチ!⁂
相川楼はA氏の先々代が経営していた遊郭なのだが、めっぽう金に汚かった男でその当時鬼イチと呼ばれこの界隈で恐れられていた。
江戸時代、遊郭を仕切る楼主は非人道的金儲けをする『忘八』と人々から蔑まされていた。
それは至極当然の事ではあるのだが、その位にしないとやっていけないという事も有り、楼主は別名「忘八(ぼうはち)」とも言われ、「仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠」の8つの「徳」を忘れた冷血漢と呼ばれる事も多かった。
遊郭という大きなビジネス。雇う人がいて、雇われる人がいる。買う人がいて、買われる人がいる。
遊郭の頂点、楼主(ろうしゅ)
遊郭は2階建て以上が殆どで、2階がある建物を「楼」と呼んだことから、その主人は「楼主」と言われていた。
楼主とは経営者で、人員の調整や、経営方針等を決める。
楼主の手腕、采配が重要、その手腕で遊郭が流行る事もあれば、店を閉めざるを得ない状況になることもある。
有名な楼主の中には、お店を開いたとき、女郎のごはんを節約し、おかずは常に安いカボチャばかり食べさせていたらしい。
しかし、節約ばかりで女郎に対しあまりな扱いでは店が上手く行かないので、年末などのイベント時には着物を全員にプレゼントしたりと、働き手の意欲も削がないように気を配っていた。
また商売柄、性病など特に、梅毒等に罹る女郎も多くいた。
まだ特効薬のペニシリンも開発されていない時代の事なので、梅毒に侵された女郎は梅毒等が見つかったりすると隔離して治るまで病と戦った。
家族の借金のカタとして遊郭に売られてしまった身の上だから、長引くと店側は迷惑の何物でもない。
それでも梅毒になり、稼げない遊女はまだ特効薬のペニシリンも開発されていない時代の事なので、無駄飯喰らいの厄介者と蔑まされていた。
物置のような所に閉じ込められ、何ヶ月にも及ぶ闘病生活を続けていたが、梅毒で、2~3カ月、遊女によっては半年近くも寝付いてしまうこともあった。
梅毒の症状「(遊女の)全身が痺れたり、痛んだりして腫れ上がり、苦しむ」
また髪の毛も多く抜け落ちた。
酷い話だが、梅毒を発症して長患いの場合は、ろくに食事も与えずに鳥屋に放置して、若い衆が死んだのを見計らって寺に運び無縁仏として処理された。
可哀想な事に、この相川楼では、年間の遊女の逃亡や闘病で他界した女郎が、他の遊郭の3倍以上を占めていた。
また逃亡した時には遊郭には施設警察のような組織が有り、徹底的に追い詰め、捕まったら最後、丸裸で逆さに吊るし水に漬け込み息が出来なくする。
この場合はまだ店に置いて働かせる場合。
死んでも構わないと思う場合は、逆さ吊りにして竹木でぶっ叩き、本当に死ぬ事も多々あった。
他所の遊郭では例え逃亡しても厳しい説教で終わる事も有ったのだが、この相川楼では、そのような手ぬるい事は一切なく「こんな事を放置していれば他の遊女が真似をしかねない!」
楼主鬼イチの一言で逃亡した時には死が待っていた。
このような状態だったので相川楼はこの界隈でも有名な、冷徹無比な遊郭として名前が通っていた。
その為この先代楼主は本名が相川一なのだが、鬼イチと恨まれ恐れられていた。
「何を言われようと、こちとら!お客様の為には、鬼になる事も致し方のない事、折角借金のカタに売られて来た娘が梅毒になれば客に移し、長患いが待っている。『全く迷惑な!』安心・清潔・満足・サ―ビスをモット―としている横浜でも評判の遊郭だ。フン!死んでも致し方ない!」
全く反省の色が見えない鬼イチ。
社員には冷血極まりないのだが、それでも……サ―ビスは行き届いているため評判は抜群だったのだ。
そのしわ寄せが従業員達に重くのしかかり、もっとも酷い形として表れていた。
だから、貧しい村から売られて来た娘達は、余りにも冷徹過ぎるこの相川楼を恨んでいる者や、死んで行った人間は数知れず。
その恨みたるや想像を絶する、計り知れないものが有る。
そんな先代鬼イチの恨みが様々な事件に発展して………?
◇◇◇◇◇◇◇◇
それでもここまで急成長出来た背景には、初代楼主の並々ならぬ功績の賜物有っての事なのだ。
この相川楼も、最初は河岸見世と呼ばれる低級で格安の妓楼を経営していたのだが、思ったように売り上げが伸びなかったので、町中の器量の良い浮浪児を「上手い物をたらふく食わせてやる」と言って騙して連れて来て育て上げ遊女として働かせて金をため、大見世を持って楼主に上り詰めた。
遊郭というものは、元をただせば初代が遊女を酷使することで基礎を築いたといえよう。
遊女の一生、それは借金(カネ)で始まって借金(カネ)で死(お)わると言っても過言ではない。
江戸時代は戦国時代もひと段落した一見平安の世の中だが、そのしわ寄せは思わぬ形で市民に覆いかぶさる。
江戸市中においても、親が病気や怪我で働けなくなったり、浪人に成り下がった武家や、没落した商人、年貢の取り立てで苦しむ貧しい農漁村などでは泣く泣く娘を売るしかなかった。
特に遊女の多くは10~12歳位に貧しい農漁村から売られてきた娘たちである。
不安定な生活を余儀無くされていた江戸時代の人々を反映するような事例である。
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