第三部:不浄の聖女
第一話:三人の現在地
#1:三年後
シスターの朝は早い。
「むにゃ…………もう食えへんて……へへ」
前言撤回。そうとも限らないらしい。
同室のシスター・ドグを起さないよう気をつけながら目を覚ます。ようやく東の空が白みはじめるころ。麻の質素な半袖シャツとズボンを身に着け、サンダルを履き、マントを羽織って外に出る。
寮はまだ、寝静まっていた。涼やかな静けさが廊下を埋めている。あれから年月が経ち、二人しかいなかった神学校の生徒もまあまあ増えた。少なくとも、メロウ先生が朝食の当番を引き受けなくてもいいくらいには。それでもまだ、往時の人数にはまるで届かないと嘆いていたが。
寮を出ると、春の風が暖かかった。
目指すのは教会の裏手にある馬小屋だ。三棟あるうち、かつて打ち捨てられていた左の一棟。ずいぶん苦労して、実は大工仕事が得意だったドグにも手伝ってもらって直したその馬小屋が、目的地だ。
馬小屋に入る前、近くの井戸で水を桶に汲み、持っていく。閂を外し、馬小屋を開く。
六頭の馬をつないでおける広さの小屋は、しかし、一頭だけしかつなげないように改造されている。小屋の奥の右隅に、藁で作った寝床があり、そこには大きく黒いものが、眠りについている。
バイコーンのツヴァイ。彼はあっという間に大きくなり、今では十分大人と言える状態だ。短く突起のようにちょこんと生えていただけの角は長く伸び、銀色の輝きを放っている。
小屋には他にも、薬の調合台やツヴァイの食料保存スペースなどが備えられている。薬草を育てるためのプランターなんかも置かれている。バイコーン用の研究室のための改造だったが、あれよあれよという間に拡張していろいろなことができるようになっている。いかんせん、スペースが広いからな。
小屋に入り、扉を閉める。
「さて」
いつもの日課を始めるか。
マントを脱ぎ、軽くストレッチをする。それから、筋トレの開始だ。腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。梁に掴まっての懸垂。最初は十回で音を上げていたものも、時間をかけて徐々に回数を増やしていった。じゃあ今では筋肉バキバキ! かと言えばそうでもないのが悲しい。女性の体では筋肉よりどうしても脂肪の方がつきやすいし、現代日本と違って食事の栄養価がどうしても低いこの世界だからなあ……。それでも、以前より筋力はずいぶん増えて、運動機能も向上した。
小屋の片隅に放ってあった木剣を手にし、素振り。それから型の稽古を一通り行い、眼前に仮想の敵をイメージしての練習。
いつでも、殺せるように。この訓練は欠かせない。
そこまで終わったころになって、ツヴァイがのっそりと起き上がる。
「起きたか」
答えるように、彼は鼻を鳴らした。
置いてあった手ぬぐいを水に浸し、汗をかいた体を拭く。それからツヴァイも拭いてやって、ブラッシングもしてやる。気持ちいいのかまた眠りそうになるツヴァイを起こすために、食糧保管棚からネズミの肉を一塊取り上げて、鼻先に近づけてやる。ツヴァイはそれを嗅ぐと、ぱくっと口に入れた。
「まったく……肉食の馬なんて聞いたことないぞ」
ツヴァイを育てていて驚いたことのひとつだ。ツヴァイは普通の馬同様に干し草などを基本的に食べるが、どうも好きなのは肉のようだ。しかも死肉、腐肉の類をよく好む。最初は本当に食べさせていいものか戦々恐々だったが、しばらく食べさせているとツヴァイの元気もいいし毛並みもよくなったのでそれからは干し草と合わせて餌に混ぜている。
「レントゲンでも撮れれば研究も進むんだが、無理な相談か……」
この世界だとできることが限られる。三年経っても彼の生態は分からないことが多い。
「…………ん?」
足音が小屋の外から聞こえてきた。急いでマントを羽織り、体を隠した。
「やっぱここか。おはようさん」
「なんだ、ドグか」
入ってきたのはドグだった。だったら隠す必要もなかったな。
「毎日早起きやな。今日は安息日で何の当番もあらへんのに」
「ツヴァイの世話は誰にも頼めないからな。こればっかりは自分でするしかない」
「ま、せやな」
ドグは小屋に入ってくる。
「しっかし毎日毎日筋トレに剣の稽古も込みやろ? ようやるでほんま。神官が剣術覚えてどないするんや?」
「そのうち役に立つさ。こんな時代だからな」
「そんなもんかな。ま、ええ。飯にしよ。
「別にいいけど…………」
ツヴァイを撫でて別れを告げてから、小屋を出る。閂をかけて空を見ると、太陽が少しずつ昇ってきていた。教会の裏手にいても、少しずつ、町が起き始めているのが空気で分かった。
「なんで食堂でも酒場でもなくミルクホールなんだか」
「ええやん、なんでも」
「……………………」
まあ、こいつがミルクホールにご執心の理由は知っているんだが。
「シスター・リザ」
寮に戻ろうと歩いていると、メロウ先生がやってきた。
「よかった。ここにいましたか」
「……なにか?」
「今朝、呪いに侵された人が教会に運び込まれまして」
………………またか。
やはり、最近多いな。もともと、ニルス村近郊が死の土地になってから徐々に増えてはいたが、ここ最近のペースはちょっと、異様ではある。
「何人です?」
「三人です」
「分かりました。では準備をして向かいましょう。…………ドグ、そういうわけだから先に行っててくれ」
「あいよ。お仕事頑張りや、聖女様」
「うるせえ」
一度、駆け足で小屋に戻る。調合台の引き出しに入れてあった薬を三包、手にして中身を確認してから手早く寮に戻った。
寮に戻ると、すぐに着替えた。黒い神官服に革製のブーツ。白いファーがついたフード付きの黒マント。ずっと着ているいつもの格好だが、服に一切のバージョンアップがないわけじゃない。神官服にはいくつかポケットを取り付けてもらったし、マントには教会の紋章を白抜きで入れてある。
腰に処刑人の剣『罪洗い』を帯びて準備は完了する。
最後に部屋の姿見で装いを整える。特に一通り運動をした後なので、髪が乱れていないか確認した。
背中を覆うほど長かった髪は、つい最近思い切ってバッサリと切った。今では肩を撫でる程度の長さしかない。これから先のことを考えての断髪だったが……まさかその髪がそこそこの値段で売れるとは思わなかったぞ。
なんでも人間の髪、しかも長いのはいい素材になるとかで……。
「よし、いいな」
準備を終え、薬をポケットに収めたら部屋を出る。
こうして、三年間繰り返してきたいつもの日常が始まる。
わたしの、変わらない日常が。
わたしが教会に向かうと、そこには既に人だかりができていた。……まあ、呪われた人が心配なのは分かるけど、いても仕方ないし、なんなら触れると呪いが移る危険があるのだからあまり人がいてもなあ。
「おお、神官様!」
教会に集っていた人のひとりが声をかけてくる。
「お待たせして申し訳ありません。それで、呪われた方は?」
「こちらです。さあ」
連れていかれると、そこには三人が寝ている。三人とも仕事人ふうの格好をしているな……。
「彼らは仕事人ですか?」
「はい。なんでも死の土地に踏み込んだようで……」
「それはそれは…………」
あちゃあ……。そういう経緯か。たまにいるんだよな。肝試しというか度胸試しで死の土地に踏み込んでしまう人が。死の土地が呪いを放つ理由についてはよく分かっていないから、グランエルではニルス村近郊への接近を禁じているのだが、流れてきた仕事人はどうしても、ねえ。元が臆病なゴブリンしか住まないゴブリン平野だったというのも、事態を軽く見られる原因かもしれない。
でも、裏返せば今回は原因がはっきりしている。最近の、原因不明の呪いとは違うから、その点では一安心か。
「それでは解呪します。みなさんは下がっていてくださいね」
仕事人たちの傍に跪く。手に触れて、彼らの呪いを引き受けていく。
「……………………」
体の黒ずんだところがわずかにピリピリとする。しかし、それだけだ。
「おお」
人だかりの中から感嘆の声が漏れる。
「あれが、噂に聞く聖女様のお力……」
すげえやりづらい。
それはともかく、俺の呪いに対する耐性はこの三年間で強化されていた。こうして、呪われた人が来るたびに自分で呪いを引き受け続けた結果だ。メロウ先生は最初こそいろいろ小言を言ったが、最後には折れた。神学校の見習い神官も増えたが、解呪の奇跡を記した石碑のあるニルス村に近づけない以上、解呪の担い手は増えないからな。奇跡の回数を節約して大勢を解呪できるこの手段を、認めざるをえなかったわけだ。
「根源の龍よ」
三人の呪いを引き受けた後は、解呪するだけだ。
「我が祈りを聞き届け、我が身を呪いから解き放ちたまえ。『キュア』」
体がすっと軽くなる。
「……助かりました」
仕事人の一人が立ち上がる。
「ゴブリン平野に近づいたそうですね?」
「……ええ」
「あそこは死の土地です。武勇を誇るのが仕事人の務めだとは承知していますが、呪いの瘴気に満ち、危険な魔物が多く住む土地に挑むのは賢明とは言えません」
「今回で十分に懲りました。もう二度と近づきません」
「ええ。それがいいでしょう」
ポケットから薬を取り出して渡す。
「呪いは解きましたが、まだ体が重いでしょう。気分を軽くするお薬を渡しておきますね。今日はそれを飲んで、安静にしてください」
「ありがとうございます」
仕事は終わったな。立ち上がる。
「しかし…………神官様!」
仕事人が声をかける。
「噂によると、あなた様は死の土地を歩き、調査すらなさるとお聞きします」
「…………ええ」
なるほど、それで自分たちも入って大丈夫だと思ってしまったのか。そこはわたしが反省するべきところだな。
「わたしは大丈夫なんですよ。いろいろ準備もありますし」
「黒い災いの獣を操るというのも本当ですか?」
「ツヴァイのことですね。ええ、彼はわたしのよき相棒です。彼がいるから、わたしは死の土地を駆けることができるのです。ですからみなさんは入ってはいけませんよ」
「…………………………」
きちんと釘を刺してから、その場を後にする。
「……あれが、グランエルに名高き噂の」
「ああ。呪いをその身に引き受け、断罪の剣を帯び、そして災いの獣を駆って死の土地を歩む不浄の聖女様だ」
いや、まったく……。
「………………………………はあ」
その痛い呼び名、受け入れなきゃ駄目?
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