#6:夜は更け、世界は回る

「ほら、こっちや」

「…………ああ」

 夜もどっぷりと更けたころ。あとはもう寝るだけというタイミングになって、唐突にドグは俺を部屋から引っ張り出した。

 一応厳格な神学校の寮暮らしだ。消灯時間は決まっている。こんな時間に部屋を出てうろついていると、メロウ先生にまた拳骨を食らいかねない。だがドグは何やら企んでいるふうだったし、俺としてもそこまで付き合いが悪いわけじゃない。

 なによりちょっとワクワクした。こういう、悪いことを誰かと一緒にするなんて経験は今までなかったから。

 思えば、日本での三十年は寂しかったな。友達なんて、誰もいなかった。

「ここは…………」

「いい眺めやろ」

 俺たちが辿り着いたのは、教会の尖塔、そのひとつだ。そこからは、夜に眠るグランエルの町が一望できる。

 ………………グランエル。

 異世界人で、転生者で、元娼婦で、元奴隷のエセ見習い神官だった俺を、それでも受け入れると言ってくれた町。

 俺に羽柴理三郎でもリザグオーでもなく、シスター・リザという名前を与えてくれた町。

 今日からここが、俺の世界になる。

「で、この景色を見せるためにわざわざつれてきたのか?」

 景色はまあ、いいものではあるけれど……。とはいえこちとら元地球人。百万ドルの夜景なんて写真で飽きるほど見てきた人間だ。いくら登ってもそんなに高くないし、町は寝静まって夜の明かりなんてほとんどないこの景色を見せられても、いまいち感動しづらいのだが。

「あほ言え。景色なんて見ても一ゴールドの得にもならんやろ」

「じゃあなんでいい景色だろって言ったんだよ……」

「ノリや」

「ノリか」

 ドグは月明かりが照らす薄暗がりのなかで何かをごそごそと探っていた。よく見ると尖塔の隅に、木箱が置かれている。そこを彼女は探っていたのだ。

「リザはん、今日領主様のとこ行ったやろ? シスター・メロウから聞いたで。正式に入学が認められたってな」

「……それはそうだが」

「だったらここは、祝杯やろ!」

 じゃーんとドグが取り出したのは二つのカップと、それから……。

葡萄酒ワイン?」

「リバブバルの家を出るときに、親父の秘蔵をこっそりとな」

 とんでもねえことするなこいつ。

「酒は二十歳になってからだろ。俺たち十三だぞ?」

「…………年齢がなんか関係あるんか?」

 この世界、飲酒の年齢制限ないのか。

「いや、こっちの話だ」

「ええから。こういう日は飲むに限るで」

 栓が抜かれる。アルコールの匂いに混じって、葡萄の深い香りが漂ってくる。

 赤い液体をカップになみなみと注ぐ。

「ほな。今日という日に!」

「……今日という日に」

 そういう、乾杯の挨拶なのか。

 ともかく、カップに注がれた葡萄酒に口をつける。

「……いいな、これ」

「せやろ? ウチの親父、酒の趣味だけは悪くないねん」

「そうだな」

 いいのは、酒の味だけじゃない。

 そういえば三十年生きてきて、こういうふうに誰かと酒を飲んだことはなかったな。

 その気になれば、日本でもできたことかもしれない。でも、どうしてか今、ここでその初めてを迎えている。不思議なものだ。

「シスター・ドグ」

「…………なんや?」

「俺は、この世界にいきなり落とされた存在だ。何も知らないまま世界を歩かされて、最初に見せられたのは地獄だった。一度は死んだとも思った。でも、今、生きて、お前に会えたことは幸運で、ようやくこの世界で生きていけるって思えるようになった」

「ジブン、酔ってるか?」

「まだ酔うほど飲んじゃいない」

「自己陶酔やろ」

「うるせえ」

 ぐいっと、酒をあおる。

「とにかく、だから……なんだ。これからよろしくな」

「ああ。任せとき。よろしくな、シスター・リザ」

 そして夜は更けていく。

 きっと今日が、ドラゴヘイムで、最初の夜更けだ。

 次の朝を、怯えずに待てる、安穏とした優しい夜が、迫ってくる。



  ――◇◇◇――



 一方、そのころ。

 異世界に徒手空拳、どころか馴染んだ体すら失って転生した羽柴理三郎、否、シスター・リザがグランエルでの夜更けを迎えるころ。

 彼、あるいは彼女がはじめて降り立った地、港町レムナスからはるか北に位置する海浜都市リバブバル。その片隅にある屋敷にて。

 ひとりの男が、月明かりに照らされた廊下を歩いていた。

「まったく、女王陛下にも困ったものだ。いや、もう女王ではないのだったな……」

 男はぼそりと呟く。

「私の仕事は監視であって、あの方の小間使いではないというのに」

 扉の前にやって来た男は、身なりを手早く整え、ノックする。

「ナミリア様。私です。マックールです」

「お入りください」

 部屋の中から、女性の物静かな声が聞こえた。

 男が部屋に入る。小さい執務室のような場所だった。そこでは一人の女性が、物書きをしている。女性の服は簡素ながら仕立てに上等なところがあり、彼女が並々ならぬ地位の人間であることを示していた。

 ちらりと、男は部屋の片隅を見る。そこのソファに、一人の少女が横たわり、かすかに寝息を立てていた。

 少女は質量の多い緩やかな、亜麻色の髪をたゆたえさせている。頭には人間のものとは明らかに違う、三角に尖った耳がある。服の裾からは、大きな尾が飛び出していた。

 亜人。狐の獣性をその体に宿した者だと、男は聞いていた。

(しかし…………王族の末裔が亜人とは……。この方の采配はどうにも妙だ)

 男は溜息をつき、少女が起きないよう声を潜めながら話す。

「実は、ご報告したいことが……」

「なんでしょう」

「つい二か月ほど前、リバブバル領レムナスの町にて、見慣れぬ流れ者の少女が無銭飲食の罪を犯したとかで」

「はい?」

 男の報告はいまいち要領を得ない。その情報の何が重要なのか。話し方も自信なさげなので、どうにも重要性が見えない。ただ、ナミリアと呼ばれた女性は口を挟むことなく、最後まで話を聞いた。

「それだけなら何のことはありません。よくある話です。ただ、ですな。その者の名前がドラゴヘイムの人間らしくないと。当人は伐龍国の出身だと名乗っていましたが、兵士隊長に詰問された折、すぐに前言を翻したとかで、どうも伐龍国の出身とも思われないと、町の総代が話しておりました」

「……………………」

「その者は自分のことを、リザグオーと名乗ったそうなのです」

「……………………! それは……!」

 女性の顔に、驚きが浮かぶ。それを見て、男もようやく自分の報告に少し自信を持ったらしい。

「やはりでしたな。私もその名前を聞いたことがありましたので、妙だと思いまして。確か、継次郎ツグィロウ様が王都を訪れた折、お話になったことの中にその名前が」

「ええ、ええ」

 女性が頷く。

「ツグィロウ様には兄と弟がひとりずついるというお話でした。兄を初太郎ハッタロー。そして弟は理三郎リザグオーと呼んでいました」

「しかり。伝説の通りなら、いずれリザグオー様も三人目の勇者として召喚されるのではと思っていましたが、これは……」

「ただ、妙ですね。リザグオー様は弟君なのでしょう。レムナスに現れたのは少女だということですが……」

「それがどうも気になりますな。聞くところ見目のいい、年のころ十三くらいの少女だとかで」

「…………………………」

 しばし女性は考え込む。

「確か伝説では、三人目の勇者は転生するとのことでしたね。あるいはそのせいで?」

「かもしれません」

「それで、その少女はどうなりましたか?」

「無論、調べてあります」

 男はぐっと身を乗り出す。

「少女は一か月ほどレムナスに逗留した後、姿を消しております。調査をしたところ、カルラの町を訪れた貴族がリザグオーと呼ばれる少女が奴隷として売られているのを見たとか」

「それは……」

 女性の顔が悲痛に歪む。

「その後、奴隷となった少女はクタ村へ向かったそうです。ただ、そこからが分かりません。クタ村はハッタロー一派の襲撃を受け焼かれまして……」

「では、彼女も……?」

「ところが、数日後、今度はグランエルで人相のよく似た、リザと名乗る少女が神学校に入学したと知らせが入りまして。あるいはそのリザがリザグオー様かもしれぬと」

「そうですか。奴隷の身を脱し、グランエルに身を置いたのですね。それならば問題はないでしょう」

 女性は息を吐く。

「いかがいたしましょう。そのリザを問いつめてみましょうか?」

「いえ。今は成り行きに任せましょう。グランエルはライオット殿の治める地。悪いようにはならないでしょう。もし彼女が本当に伝説の、第三勇者であるのなら、いずれその頭角を現すはず。接触は、その後でも十分に叶いましょう」

 女性は窓の外を見る。月が煌々と輝き、夜の闇を照らす。

「不逞の勇者ハッタロー様。不死の賢者ツグィロウ様。………………では、あなたはこのドラゴヘイムで何者になろうというのですか、リザグオー様」

 夜の闇は、ことさら深く。

 そして時は、流れる。

 リザグオー、いや、シスター・リザが。

 不浄の聖女と呼ばれるその日まで。



第二部完

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