#3:ゴブリン平野を駆けろ
日の出が近づく。
緊張した面持ちのメアリと御者は、野営を撤収して素早く片づける。
きっと俺も同じような顔をしているのだろう。そう思いながら、俺は宝剣を鞘から抜く。長さのせいで抜刀するだけで一苦労のこいつだが、刀身は朝日を受けて輝いている。重く、振り回すのも難儀するが、これなら十分な武器になるだろう。やはり持ってきて正解だった。
「…………よし、作戦を確認しましょう」
メアリの呼び掛けで、三人は集まる。
「ここからゴブリン平野に入ったら、まずは普通に馬車を走らせます」
御者が頷く。
「馬の体力をできるだけ残さなければなりませんし、平野の状況もまだ分かりませんからね。運がよければ、案外何事もなく平野を突っ切れるでしょう」
だが、メアリの口ぶりは、その可能性だけはないと告げている。
「私は幌の上に乗って左右を警戒。御者さんは前、リザは後ろをそれぞれ警戒します。そして誰かがゴブリンまたはその他の魔物を目視したら、合図を。そしたら私が馬車の中に戻り、御者さんは馬を全速力で走らせてください」
そこからは、体力勝負。
「正面にゴブリンが立って道を塞いできたら、馬で轢くか、私の弓で射殺しますわ。ただ、矢は十二本しかありません」
一射一殺でも、十二体だけしか殺すことはできない。
「もし囲まれた場合、素早く馬車を放棄。馬車に火を放ち、その隙に逃げます」
そのために、馬には本来馬車を引くときには装備させない鞍などを装備させている。荷物も既に整理した。食料はどのみちもう残りがないから全部胃袋に収めた。医薬品や日用品のうち、大切なものだけを背嚢に詰めた。俺もさすがに。背嚢を軽くしておいた。
「そしてとても大切なことですが」
メアリが俺を見る。
「リザ。あなたの治癒の奇跡は、馬にしか使ってはいけません。分かったわね?」
「ああ。昨日決めたからな」
俺の奇跡は、一度しか使えない。そして使えるのも、治癒の奇跡のみ。このパーティで貴重な、即効性の高い回復手段。当然、誰を回復させるかはすでに決めてある。そしてそれは俺でもメアリでも、御者でもなく、馬のべこ太だ。
ゴブリン平野を抜けるのに、馬の機動力は必要不可欠だ。馬車は失ってもどうでもいいが、馬は失えない。馬の死は、そのまま俺たち三人の死と同義となる。
ゆえに、馬しか回復できない。しかもその一回は、タイミングを見計らう必要がある。
「それじゃあ、行きましょう」
「……………………」
それぞれが、配置に着く。馬がいななき、そして馬車は進みだした。
この作戦が、ベターなはず。
そう思っていても、不安は残る。
最善は、尽くしても尽くしても足りない。そんなのは、分かり切っている。
レムナスでもそうだった。あのときはそれが正しい道と信じたから食べ物を盗んだ。機会を逃せば次がないと思ったから、馬車に相乗りした。それぞれの判断は最善だった。ただ、最善であることがそのまま最高の結果につながるわけではないということを、知らなかったんだ。
クタ村でもそうだ。三人で村を走り抜け、逃げ出すのが最善だった。それでも、ラーさんとリーさんは死んだ。
心が、震える。
最善を尽くしても足りないのに、今俺は、最善を尽くせているのか?
メアリたちには、話していない。
俺の使えるものが、もうひとつ。あの黒雷があることは、話していない。
話して、俺が見習い神官ではないとバレるリスクがあった。あの雷の魔法が、この世界ではどういう認識で見られるか想像できない。だから軽々に使えると話せない。
いや、そんなのは言い訳だ。
本当は、怖かった。
あの雷を切り札にされるのが怖かった。
だって、あの雷を、俺はまだ撃ち慣れていない。また使って、前回みたいに体中から力が抜けて、倒れたら……。そうしたら、二人に置いていかれるかもしれない。倒れたのをいいことに、囮にされるかもしれない。
そう思うと、怖くて…………。
メアリは、いい人だ。それは間違いない。でも、どんな善人でも、命の危機を前にして、豹変しないとは限らない。
それがただただ、恐ろしい。
俺は、メアリが善人だと信じたい。善人のままでいてほしいと思う。だから。
黒雷のことは、伏せた。
どのみち、一発だけの大技だ。使えたところで、大きく戦況をひっくり返せるものじゃない。たぶん、大丈夫だ。隠していても、問題はないはず。
「ゴブリン平原に入る!」
御者の声がした。意識を景色に集中させる。
今は、できることをしよう。
きっと、大丈夫だと信じて。
枯草の大地に馬車が入る。幸い、土地の死は大地に大きな亀裂を作るとか、隆起させるとか、そういう分かりやすく劇的な変化をもたらすわけではないらしい。馬車の走行には問題がない。
俺は開かれた幌の口から、馬車の背後を警戒する。正直、俺の仕事が一番楽だ。仮に後ろからゴブリンが迫って来ても、馬車の速度に勝てるとは思えない。
意識を途切れさせないよう気をつけながら見ていたが、それでも何も起こらない。そんなことが一時間くらい続いた。
案外、このまま行けるかもしれない。
でも、そう思ったときほど、危険なのだ。
「…………ん?」
ズダズダと、馬が蹄で大地を蹴る音に混じって、何かが聞こえた。
ついでガサガサ草原が揺れて、道に何かが飛び出してくる。
「え、ええっ?」
飛び出してきたのは、ゴブリンだ。
濃い緑色の、矮小な体躯の生物。背丈は小学生低学年ほどもないだろう。とがった鼻と耳をしていて、顔は皺くちゃだ。泥だらけの裸で、足の指は三本しかない。
あれがゴブリン。あらかじめ聞いていた通りの見た目だ。
問題は。
「ぐるるっ!」
何かに、乗ってる。
ゴブリンは黒い塊に乗っていて、そのために弾丸のような速さでこちらに迫ってきている。よく見るとそれは、黒く小さい猪だと分かる。
猪!? 猪に乗っているのか? なぜ?
迫ってくるのは、猪に乗ったゴブリン三匹!
「…………っ! 御者さん! メアリ! 敵だ!」
考えるのは後回しにして、声を上げる。
御者が馬に鞭を入れた。いななきが轟き、ぐんっと、馬車は速度を増す。
メアリはひらりと馬車の中に舞い戻ってきた。なかなかの身体能力だ。
「リザ、どこ?」
「後ろ! ゴブリンが、何かに乗ってる!」
「ええ?」
メアリも後ろを振り返り、確認した。
「ゴブリンライダー、ですって……?」
「ライダー……?」
「ゴブリンの騎兵ですわ。でも、そんな……。ゴブリンは知能が低い生物。
つまり、普通じゃないことが起きている。
「ゴブリン平野の連中に、その特異個体っていうのがいたんじゃ……?」
「ありえませんわ。ゴブリン平野のゴブリンたちは数こそ多いですけれど、知能も低く臆病な個体なんですの。だからグランエル近郊にこれだけの巣がありながら、別段掃討もされなかった。その必要がなかったから」
ふむ。ゴブリンなんてさっさと焼き払えと思うんだが……。まあ、ゴブリンを殺すのだって人員がいるだろうし、そうなれば金もかかる。特別、危険性がない限りは放置するのも手か。それに魔物だなんだと言ってもその地域に根付く生物。下手に狩り殺せば生態系も崩壊しかねない。
「ゴブリン平野のゴブリンは徒歩の旅人すら襲わないほどの臆病者……。仮に知能の高い個体が現れても、攻撃性が増すとは考えにくい。そう思われていましたわ。だからこそ、死んだ土地を突っ切るなんて無茶も提案できた。さすがに、襲われないなんて牧歌的な考えはしてませんでしたが……。それでもまさか、ライダーなんて……」
「どうする?」
「殺しますわ」
弓を構え、矢をつがえる。
「ゴブリンには、いい思い出がありませんの」
「いやそんな個人的りゆ――――」
バシュン、と。
矢が放たれた。
一射一殺。
矢はゴブリン、ではなく猪に向かって放たれた。脳天を貫かれ、猪が倒れる。その勢いでゴブリンは放り出され、地面にべちゃっと落ちた。
考えたな。ゴブリンは頭や体を動かして矢を躱す可能性がある。だが猪なら、前に走ること以外に脳がないから飛んでくる矢を躱せない。そして猪さえ殺せば、ゴブリンたちは馬車に追いつけない。
「二匹目」
メアリが呟く。
ぞくっとするほど冷たい声をしていた。
第二射が放たれる。今度もあやまたず、猪の眉間を射抜く。ごろごろと猪が転がり、ゴブリンも転ぶ。
「三匹目」
三本目の矢も、きちんと命中する。
「……すごい」
弓矢なんて使ったことがないから分からないが、この命中率はきっとすごいんだろう。
こちらに向かって文字通りの猪突猛進をする猪が相手とはいえ、こっちは馬車に乗っている。不安定な状態で、綺麗に三匹とも、眉間を射抜いた。
「メアリさん! 正面にも!」
「………………っ!」
落ち着く暇がない。
馬車の前方に移動して正面を見る。そこには十匹からなるゴブリンの群れがいて、道にまるで検問を張っているように立ち塞がっている。地面に置かれている木のツルで作られたようなものは…………罠か?
「狩り用の罠がありますわ。きっと人間の使う罠を盗んだか、真似たのでしょう」
「ど、どうしようかね?」
「罠に引っかかると馬が足をケガしますわ。横に逸れましょう」
「揺れるよ! 掴まっていて!」
馬車が道を外れ、草原地帯に突入する。さっきまでのなだらかな道と違い、でこぼこが多い。
「うわあっ!」
音を立てて、荷物が跳ね上がる。
「振り落とされないで!」
幌を張る骨組みに捕まって、なんとかやり過ごす。
「ぬ、抜け――――」
いや。
これこそが、罠だった。
「ぐぎゃっ!」
突如。
馬がうめき声をあげて体を飛び上がらせた。
「なっ!」
衝撃が、馬車全体に広がる。急に速度が緩む。馬車がふわりと浮き上がる。
「お、横転する…………!」
メアリが叫んだ。彼女は俺を抱きかかえると、馬車から飛び出した。
視界がぐるぐる回る。
幌の白から、空の青に切り替わる。
やがて、重力が体を捉える。
草の匂い。
衝撃。
地面に投げ出される。
「う、ぐうっ…………」
「リザ、無事?」
「な、なんとか……」
もしこれが三十代中年男性の体だったら、今のアクロバットで全身がバキバキだった。この体の身体能力と柔軟さに助けられて、怪我はしていない。
はじめてこの肉体に感謝したかもしれない。
「なにが…………」
そうだ、馬だ。
「べこ太!」
御者の叫び声が聞こえる。そちらも気になるが、こっちもやばい。
検問を張っていたゴブリン十匹が、こっちに押し寄せてきている。
やばいやばい!
武器がない。俺の剣は馬車の中だ。メアリの弓も、俺を庇ったときに馬車の中に放り出したんだろう。
「リザ、作戦通り馬の治療を!」
「でも…………」
「いいからっ!」
メアリが駆け出す。右手で腰のナイフを引き抜きながら、先行する一匹をサッカーボールみたいに蹴り抜いた。
ゴブリンが転がる。二匹目が飛び掛かる。そいつの胴体をナイフで突き刺した。
どす黒い血が辺りに散らばる。三匹目が低い姿勢でメアリに挑みかかる。それを足払いし、倒れたところにさらにナイフを突き立てる。
案外、なんとかなるのか…………。メアリの動きは無駄がない。アーチャーだから正面戦闘は苦手だと思っていたが、これなら……。
いや…………。
駄目だ。
よく見ると、メアリはさっきから右手しか使っていない。片手武器のナイフだからそういう動きなのだと思っていたが、左手がぶらりと下がったままだ。
「……………………っ!」
きっと、俺を庇ったときに左手を痛めたのだ。あれじゃあどのみち、弓が手元にあっても使えない。
「くそっ!」
だが、ここで俺が加わってどうにかなる問題じゃない。ここは作戦通り、馬の治療を優先させるしかない。
馬の傍に駆け寄る。
「御者さん!」
「べこ太…………足がっ!」
見ると、馬の足にあの罠が絡まっていた。木のツルでできた罠。トラバサミのように足を挟み、食い込んで傷つけている。いやらしいことに、鋭い棘のついたツルを使っている。そういえば昨日、密林地帯を抜けたとき、こんな植物を見たぞ。ってことは連中、わざわざ縄張りの平野を抜けて罠の材料を調達していたのか!?
土地が死に、魔物が活性化するとはこういうことなのか。ゴブリンの性質そのものが変わっているようだ。
油断したわけじゃない。舐めていたわけじゃない。ただ、あまりにも想像を超えていた。
最善は、尽くしても足りない。
「くっ…………」
すぐに治癒の奇跡を使いたいところだったが、まずは罠を外さなければ。だが、ツルで作られた罠は固く、こじ開けられない。
「なにか、刃物が……」
思い出す。剣だ。俺は横転した馬車にもぐりこんで、剣を探す。すぐに見つかった。柄を握り、引っ張る。鞘が馬車の中に残り、刀身だけぬるっと出てきたが今はそれでいい。
「これで……」
だが、うまくいかない。剣が長すぎて、上手にツルを切れない。それになんだか、剣に手ごたえを感じない。切れない。
少しやり方を変える。切るのではなく、切っ先を罠の結び目に突っ込んで、こじ開けるように緩めた。今度は上手くいった。罠が外れる。
「根源の龍よ、我が祈り――ああっ! まだろっこしい! 『ヒール』!」
焦って雑な詠唱をしてしまう。だが、『ヒール』と唱えただけで馬が光に包まれ、傷が癒えていく。まああの根源の龍の性格だもんな、詠唱をきちんとしろとは言わんだろう。
「神官さん!」
「…………っ!」
御者が叫ぶ。振り返ると、ゴブリンが一匹、今まさに棍棒をこっちに振り下ろそうとしているところだった。反射的に剣を構えてガードする。何とか防御が間に合う。剣と棍棒がかち合う。びりびりと、衝撃が腕に伝わった。
見ると、さらに後ろから三匹が迫っている。
「上等だこらあ!」
叫んで気合を入れる。神官が殺生してもいいのかとか、今は考えている余裕もない。
「人間ぶっ殺す前に、まずお前らで試し斬りしてやる!」
剣を上に振り上げる。重い。持ち上げただけで体がふらつきそうだ。だが、この重さなら…………。
振り下ろす。重さが勢いに加わって、ゴブリンの頭部に刀身を直撃させた。
「ぐげっ!」
叫び声が上がる。剣は、ゴブリンの頭部をかち割った。頭蓋が砕けて、目や鼻から大量に出血して、ゴブリンが倒れる。辺りに血だまりができる。
「………………?」
殺せた。
でも、殺せたが…………。
これは……。
「うわああっ!」
今度は横薙ぎに剣を振り払う。一匹は怖気づいたのか逃げ出し、もう一匹も足を止めた。最後の一匹がこちらに迫ってきている。その一匹のどてっぱらを、刀身がぶち抜く。
しかし……。
ゴブリンはバットで打たれたボールみたいに吹っ飛びこそするが、胴体が真っ二つになったりはしない。
ひょっとして。
「この剣、全然斬れない!」
宝剣とは言っていたが、とんだなまくらだ! これじゃあ本当にただのお飾りだぞ!
ツタを切れなかったときにもしやとは思っていたが……。こんな立派ななりをしておいて、まさかの模造刀の類だった。あるいはマジでなまくらか。いずれにせよ、ただ重たいだけの棒だ、これじゃあ。
こんなことなら、あの屋敷からナイフの一本でも持ってくるべきだった! というか絶対にそっちの方がよかった。なんでこんなクソ重い剣を旅の道連れにしたんだ!
「このっ!」
吹き飛び、倒れたゴブリンに走り寄る。ゴブリンが立ち上がるより早く、剣を振り下ろす。やはり斬れない。ただゴブリンを殴り殺しているだけだ。
「このっ! 死ねっ! こいつっ!」
数度、殴打を繰り返す。ゴブリンは全身から血を噴き出して沈黙した。
「はあっ………………はあっ………………」
呼吸が、荒くなる。
胸が苦しい。
ゴブリンといえど、生き物の命を奪うのは、こんなにも疲れるのか。
「く、そ…………」
今まで、殺生とは無縁で生きてきた。それは敬虔な信仰心からそうなったのではなく、むしろ真逆の自堕落な感性がそうさせただけだ。現代日本で、多くの人間がそうであるように、俺もまた生き物の生き死にには関わらなかった。動物の死肉を食らい、命を長らえていたにも関わらず、それでも殺生とは無縁だったのだ。
でも、この世界ではそうもいかない。
魔物が出る。魔物が襲ってくる。それを返り討ちにしなければ、この世界では生きられない。
それだけじゃない。
俺は誓ったんだ。復讐すると。俺に地獄を見せたすべてのやつ、すべての人間を殺すと。
ならば、慣れなければ。
命を奪うことに。
「…………………………」
「ぎ、ぎいぃ…………」
最後のゴブリンは、腰を抜かして草の上に尻もちをついていた。
俺の形相が、そんなに恐ろしかったか。
だとしても。
死んでもらう。
剣を振り下ろし、ゴブリンの腹に突き立てた。さすがになまくらといっても、切っ先は鋭利だ。哀れなゴブリンの腹を突き破り、どろどろと血と内臓を噴き出させて、殺した。
「…………はあっ!」
剣を抜き、引きずりながらとぼとぼと馬車に戻る。御者さんは、馬を立たせようとしていた。
メアリは?
見ると、彼女もこっちに戻ってきている。革鎧にはあちこち、血が付いていた。
「メアリ! 血が…………」
「大丈夫ですわ。全部、返り血ですから」
しかし、やはり左腕が痛むのか庇っていた。ナイフは持っていない。ちらりと後ろを見ると、ゴブリンの腹に刺さったままになっている。血まみれになって、使い物にならなくなったか。
「なんとか、しのぎ切りましたわね。でも、うだうだしていると次が来ますわ」
「早く、馬車を立て直さないと…………」
「それは、難しいかもしれません。私は、腕を痛めましたし……。時間をかければ馬車を立て直せますが、そんな時間はありませんわ。立て直したとして、車輪が無事かも分かりませんし」
なら、ここで馬車は放棄か……。
「でも悪いことばかりでもありませんわ」
努めて明るい声を出しながらメアリが言う。
「見て。あそこに丘になっている所があるでしょう? あそこを超えた先がニルス村ですわ。もう平野も、半分近くは抜けています」
「そうか…………」
丘を見る。あそこを抜けた先に、村が…………。
「………………え?」
丘の向こうから、のっそりと、黒い影が浮かび上がった。
その影は、みるみる大きくなりながら、こっちに迫ってくる。
それは、巨人だった。
「は………………」
巨体の、ゴブリン…………?
「オーガ…………そんな!」
メアリが悲痛な声を上げる。
「ゴブリンの突然変異種……。でも、巣穴を掘って暮らす穴ゴブリンは突然変異でも巨体化はしないはずなのに…………!」
メアリが言うなら、そうなんだろう。確かに、突然変異と言っても、それは生物の進化と環境適応の枠組みの中だ。モグラのように巣穴を掘る穴ゴブリンが巨体化しても邪魔くさいだけ。普通なら、そんな方向に進化しない。
だが現状は、目の前に巨大なオーガがいる…………!
しかもオーガだけじゃない。オーガの周りには何匹ものゴブリンが群れている。その数は三十匹を優に超えている。
どうすれば…………。十匹程度でも、こんなに苦戦したのに……。
メアリはもう戦えない。疲弊しているし、武器もない。俺も同じようなものだ。仕事人ではない御者さんはもっと無理だ。
「…………馬車を放棄します」
やがて、メアリが意を決したように言う。
「馬の治療は終わったのでしょう? だったら、御者さんとリザは馬に乗って逃げなさい」
「で、でも…………。メアリは?」
「私は、ここで囮になります」
それ、は…………。
「駄目だ、メアリ……」
「これしか方法はありません。いずれにせよ馬に乗れるのは二人が限界。それに、平野を抜けるという今回の作戦を提案したのは私です。発起人の私が真っ先に逃げるわけにはいきませんわ」
一歩。
メアリは前に出た。
「いいから、早く行きなさい!」
「…………………………っ!」
そうするのが、合理的だ。
確かに、メアリの言うとおりだ。馬には二人しか乗れない。最初からそれは分かっていた。そして馬に乗るなら、組み合わせとしては俺と御者、あるいは俺とメアリになる。この中では一番小柄な俺が、
それが分かっていたから、馬車を放棄し馬で逃げるという手段に対し何も言わなかった。一人が徒歩の逃走になって、十中八九囮になってしまうことには気づいていた。でも、その貧乏くじを俺が引くことは絶対にないと分かっていたから…………!
今、この場で囮になるのはメアリが最適だ。彼女は左腕をケガしている。それでは馬を操れない。だから馬に乗って逃げるのは、俺と御者だ。
「……………………」
早く、逃げないと。
逃げないといけない。
俺は、こんなところで死ぬわけにはいかない。復讐を果たさなければならない。ラーさんとリーさんがつないでくれた命を、無駄にできない。
それに。
復讐をしようというのなら、手段は選んではいけない。たとえ何者を踏みにじっても、前に…………。
「さあ、早く……!」
「………………駄目だ」
「リザ、でも……」
「駄目だって言ってるだろ!」
思わず、叫んだ。
違う。
駄目なんだ!
それじゃあ、駄目なんだ!
「同じなんだよそれじゃあ! そんなことして、好き勝手にこのドラゴヘイムで暴れて! それじゃあ、初太郎や継次郎と同じなんだよ! それじゃあ、俺の復讐に正当性は生まれない!」
「なにを………………」
「切り札を使う。下がっていろ」
前に出る。
オーガたちの軍団が迫っている。
剣を構え、切っ先をオーガに向ける。
「我が内に轟く憎悪のままに命じる」
胸元の刻印に、力を感じる。
「黒き雷光よ、我が敵のことごとくを焼き払え」
たとえこれを使った後に倒れても。
その結果、囮に使われて見捨てられても。
今は。
「今は俺の復讐に、正しさを与えろ!」
刀身に、雷がほとばしる。
「『ダークネスブライト』!!」
稲妻が、轟いた。
「ぐ、があ?」
オーガは一瞬、とぼけた顔をする。
その間に。
オーガを黒い稲妻が貫く。
雷はそのまま、弧を描くように空へ向かって上昇し。
青空に弾けた。
「ぎゃ、ああっ!」
さすがに、人間よりは頑丈らしい。
すぐさま灰になることはなかった。だが、雷に焼かれたオーガは黒い炎を上げてのたうち回った。
周りのゴブリンたちは何が起こったのか、しばらく分からないように呆然とする。だが、すぐに自分たちの大将が意味の分からない力で殺されたと気づいたようだ。背を向けて、三々五々、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そんな中、オーガはついに力尽き、倒れた。炎はすぐに鎮火し、後には黒焦げの死体だけが残った。
「こ、れで………………」
体中から、力が抜ける。
ここで、倒れるわけには…………。
「くっ………………」
目の前が真っ暗になる。
草の匂いが近い。
俺は、意識を――――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます