#2:四縄四縛
最初は、何とかなると思っていた。
ひたすら男から嬲られるのを耐えて、仕事を頑張ればお金が溜まる。
そうすればすぐにでも、グランエルに発てると思っていた。
だがそれは幻想だった。
考えてみれば、そもそも、売春なんていうのは斡旋する男が肉体を売る女を搾取するためのシステムなわけで。
女に貯えができれば売春を辞められてしまうかもしれないので、金が溜まりづらいようにいろいろ取り計らうのは当然のことだった。
第一に、ピンハネが酷い。
俺についた値段は一時間が五百ゴールド。一晩が八百ゴールドだった。だが、その金が丸々俺の懐に入るはずもない。
マスターが利益と経費を含めて九割を持っていき、俺の手元に残るのは一割だけだ。これでは、あの浮浪者の女性の稼ぎと大して変わらない。
加えて、俺には借金があった。
酒場で働くために必要だった衣服の代金と、鞭打ちの刑で負った傷の治療費がいくばくか。衣服は粗末な麻の服と革のサンダルだったから、実際は大した額じゃない。ただ、医療費が少し重かった。やはりこういう世界では、医療は高額になる。謎の緑色をした薬を塗りたくられただけでも、相当高価な治療だったのだ。
さらに厄介なのはこの治療費、少しずつ払っていっても、時折また追加で増えることがあった。
なぜかというに、俺はことあるごとに客から暴行されたからだ。
売春の時点で性的暴行ではあるのだが、そうじゃなくて、もっと
おそらくあの鞭打ちで、散々泣きを入れたからだろう。それを見ていた客の嗜虐心を煽ってしまったのだ。
そして客の話をするならば、二人、クソほどに面倒な客を常連に持ってしまったのも悪かった。
一人は言わずもがな、俺を最初に犯したあのエルフの若い男だ。やつは時々やって来ては、俺を一晩買っていく。一時間だったことはない。そういう意味では太い客と言えなくもないが、それ以外が最悪だ。やつは俺がプレイを拒むごとに、暴力を振るった。それが分かっているからすぐにどんなプレイも拒否しなくなったが、そうなると今度はそれが面白くないらしく、どんどん過激な要求をしていって、わずかにでも俺がたじろぐと殴った。
もう一人は、あいつだ。
俺に三十回の鞭をくれた、あの兵士隊長の中年男。
あいつはもっと手酷かった。
元々サディストなところに、俺を嬲ることに随分とハマったらしい。何回も来ては、俺を買っていく。一晩のときもあれば一時間のときもあった。どちらにせよ暴行されることに変わりない。
殴られ、蹴られるたびに傷を作った。傷だらけの体では次の客を取れないので、必然医者を頼らざるをえなくなり、そうやって治療費がかさむ。
そこにまかないでは足りない分の飲食費、衣服などの日用品、そして数日ごとになぜか取られる衛生費と重なっていくと、手元にほとんど金は残らなかった。
ただ、それでも俺はまだマシな部類だった。
治療費には利子がないからな。
娼婦の大半は、何らかの借金のかたに売られていた。すると上記の諸々の経費に上乗せして、さらに借金を返済しなければならない。しかもたいていは利子すら満足に払えない。まあこの世界のことだから、利子の限度に関する法律とか無さそうだもんな。利子は間違いなく法外だろう。利子すら満足に支払えず、ひたすらに借金が膨らんでいく。
そうやって、永遠に搾取する仕組みが出来上がっている。
こんなところにいては、一生を食いつぶされて終わるのは分かり切っている。散々、ブラック企業で働いたからこの辺の機微を察知するのは容易い。
とはいえ、すぐに辞めますと言って辞められるほど甘いところではない。
ただ、俺には不意にチャンスが訪れた。
諸々のタイミングが重なって、客から殴られずに済む日が少し続き、その間に治療費を完済することができたのだ。
この機会を逃せば、次はない。
俺は何としても、この隙にレムナスを出なければならなかった。
治療費を完済した翌日、俺は寝る間を惜しんで昼のレムナスを歩いた。
目的は当然、馬車だ。
貸馬車の業者がどこにあるかは既に聞いていたから、そこを目指した。
「うわ…………」
馬屋はすぐに見つかった。しかし、そこには想像していなかった光景が広がっている。
馬が、いる。
いや馬屋なんだから馬はいるんだが、その、この馬は……。
六本足だ!
「き、気持ち悪いな…………」
見慣れた馬に余計な足が二本つくだけで、何か見てはいけない生物を見てしまったような気分になる。そんなのが何頭も並んでいるから、気分が悪くなってきた。
この世界の馬はこうなのか…………。酒場に雇われて以来、ほとんど外に出なかったから全然知らなかった。
馬屋の中に入ると、一組の団体が何やら交渉事をしていた。
その団体は四人組で、全員が首から仕事人の許可証をかけている。俺が知るところの冒険者グループ、みたいなやつか。こっちじゃ仕事人グループとでも言うのかな。それにしても全員エルフだ。この一か月で、エルフは見るのも嫌になった。
「こっからグランエルまで……」
「高いですねえ」
「もっと安くならねえの?」
その会話を尻目に、帳簿をめくっている中年男性に話しかけた。
「あの…………」
「なんだ?」
ものすごく怪訝な目で見られた。まあ、客には見えないだろうからな。
「ここからグランエルまで、馬車でいくらかかりますか?」
「お前、馬車雇おうってのか?」
「その、金額だけ聞きたくて……」
「無理だな」
男は帳簿を仕舞った。
「いいか小娘。馬車を雇うってのはガキの小遣いじゃできないんだ。馬と、幌馬車と、御者を借りなきゃならねえ。それだけでいくらかかると思っているんだ? それにここからグランエルまで一週間、まさか飲まず食わずってわけにはいかねえだろ。水も食料も積まなきゃならねえが、当然それも自腹だ」
しまった……そうか。馬車の値段ばかり気にしていたが、一週間の旅行に必要なだけの物資を積まなければならないのか。それは全部こっち持ち。おそらく御者の食料諸々もだろう。
全然足りない、どころの騒ぎじゃない。たぶん一生働いても払える額じゃない。
「どうしてもグランエルに行きたいってんなら、相乗りさせてもらえばどうだ?」
ちらりと、あのグループの方を見る。
確かに、目的地は同じだが。
正直、気のりはしない。
だってエルフだし、仕事人のグループだ。何をされるか分かったものじゃない。
「失礼しました」
俺は馬屋を後にする。最初から馬は無理だと思っていた。ダメもとで聞いただけだ。
俺がグランエルへ行くなら、現実的な方法は徒歩だろう。地図を見る限り、レムナスとグランエルの間にはいくつも村がある。その村を経由しながら移動すれば、徒歩でも行けるはずだ。
まあ、馬車で一週間の旅程が歩きだとどれほどになるかまるで想像がつかないんだが。
しかし、現実は厳しく。
徒歩のプランもたちまち否定されてしまった。
「無理だねえ」
旅行雑貨を扱う店の店主である中年女性は、俺の身なりを見てそう言った。
「まずそのサンダル。それじゃ半日どころか二時間歩いたらぶっ壊れるよ」
「…………」
このサンダル、安物だとは思っていたがそこまで……?
「それにその服。旅の途中で暑くなったり寒くなったりしたらどう調節する気だい? 普通、旅人は何枚か着込んで、その上にマントを羽織るんだよ」
「はあ…………」
この世界の旅行者の普通など知らん。こちとら飛行機で地球の裏側まで寝ている間に行ける世界の住人だぞ。
「一人でテント建てられるの? 食事は? 火起こしできる? 旅に必要な荷物背負って移動できる筋力あるの?」
ぐ………………。
言われてみると確かに、関門が多い。一応これでも元ボーイスカウトだから野外活動には一家言あるんだが……。しかしドラゴヘイムと地球では野営の勝手もまるで違うだろうことは想像に難くない。
そして極めつけは……。
「そもそもあんたみたいな小娘が一人で歩き旅なんてしてみな。半日で野盗に捕まって身ぐるみはがされるよ」
それはそうだな!
というわけで、徒歩の案も却下された。
するとにっちもさっちも行かなくなってしまう。
もうひとつ、案があって、それはグランエルではなくリバブバルへ船で行くという方法なのだが……。まさか船が馬車より安いはずもない。
完全に、詰んだ。
「はあ……………………」
仕方なく、すごすごと戻って部屋で大人しく寝た。
ままならないものだ。
……………………あれ?
なんで俺、グランエルに行こうとしていたんだっけ? なんかその辺の大事なことを、忘れているような気がするんだけど。
あ、いや、思い出した。何言ってるんだ。
グランエルに行って、仕事人の許可証を貰うんだった。そうしてまともな職に就いて……あれ?
職に就いて、俺は、何をしようとしていたんだっけ?
いやまあ、でも、まともな職は大事だ。
体を売らずに済むならそれに越したことはないのだから。
しかし、そうは言っても、グランエルに行く方法がない。
ため息をついている間に、日が沈んで仕事の時間になってしまう。
落胆した寝不足の体を引きずりながら、店に降りていった。
そうしていつも通り、仕事をしていた。
「いらっしゃいませ」
すると、どういう因縁なのか、珍しい客がやってくる。
「腹減った、飯だ、飯!」
ぞろぞろと入ってきたのは四人。あのとき、馬屋にいたエルフの仕事人グループだ。
「おーい、嬢ちゃん、注文取ってくれ」
「あ、はい」
他の地域はどうか分からないが、レムナスの港町ではエルフは珍しくない。マスターが言うにはなんでも数年前、彼らエルフの住む緑銀の森が死んだという。それでけっこうな数のエルフがレムナスに流れてきたとか。
死んだ、というのがどういうニュアンスを含んでいるのかは判然としなかったが、住めない土地になったのは確からしい。
ともかく、そういうことでエルフ自体は珍しくないレムナスだが、それでも余所者に送る奇異の目線は田舎のそれと同じだ。この辺は日本もドラゴヘイムも変わらない。酒場の客は見慣れない仕事人グループに好奇心の目を向けた。
「なあ、あんちゃんたち」
客の一人が面白がって声をかける。
「お前ら仕事人だろ? どうした? 他の町でくいっぱぐれたのか?」
「違うよ」
四人組の一人、おそらくリーダー格だろう黒のロン毛が特徴的なエルフが答える。
「俺たちは仕事人グループ
「どういうこっちゃ?」
「人探ししてるんだ。だがその人はこの町にいないだろうってのがだいたい分かっててな」
リーダーは一枚の紙を取り出す。くるっと丸まった羊皮紙で、それを伸ばすと、人相書きのようなものが見えた。
「エルフェルト自治区って知ってるだろ? 俺たちは元々そこで仕事してたんだ。それがある日、エルフェルトに住む偉いエルフのおっさんに頼まれて、人探しで遠出と相成ったわけだ」
人相書きが酒場中の人間に示される。
「そのおっさんの妹で名前はカナタ! 誰か知っている者はいないか?」
誰も何も答えなかった。
「だよなあ」
別に気落ちするふうでもなく、リーダーは紙を仕舞う。
「おっさんもこの辺の地域にはいないだろうって言ってたし。いったい今どこで何をしているんだか」
感傷的なことを言いながら座ったリーダーは、そのまま料理にかぶりつく。
それだけ。
ここまでなら、それだけの話だった。
「おーい、そこのおチビ」
「…………はい?」
その四人組が、俺を呼びつけた。
仕方なく席に近づく。
「ご注文ですか?」
「いや、ちょっと話し相手になってくれ」
言って、リーダーは椅子を出した。
「……………………」
まあ、話し相手くらいならいいか。とはいえ、これは物色に近いから、ここからみそめられれば二階コースまっしぐらだが。
せめて殴ってこない客だといいんだが。
「俺たちはさっきも言ったように、人を探してるんだ」
てっきり仕事人らしく武勇伝でも語るのかと思いきや、話はさっきの続きだった。大人しく椅子に腰かける。
「それで南の方からこっちに来てな。でもさっきも言ったように、この辺の土地に尋ね人がいないのは最初から知ってたから、すぐに発つつもりだ」
「はあ………………」
「俺たちはグランエルに向かう。ちょうど、おチビが行きたがってた町にな」
「…………!」
こいつら……。俺が馬屋でしていた会話を聞いていたのか?
「大変でしょうねえ。ここでの仕事は」
仲間の一人が相槌を打つ。
「見たとこお嬢さんはまだ十三かそこらでしょう。それなのに酒場で男の相手とは……」
「でもよでもよ」
もうひとりも食いつく。
「おめーすっごい可愛いよな。きっと人気の娼婦なんだぜ?」
「…………………………」
無言で隣の男が頷く。こいつ寝てるのか?
「まあまあ」
リーダーが横道に逸れる会話を止める。この四人はこういうやり取りを毎日のようにしているのだろう。
「それで話って言うのは、俺たちの馬車に相乗りしないかってことなんだ」
「え………………」
その話が、そっちから出るのか?
「お前の逃亡を手伝ってやろうって言ってるんだよ」
言って、リーダーは俺の剥き出しになった腕を撫でた。
そこには、癒えたものの跡になった鞭打ちの傷が残っている。俺の体は全身がこんな感じだ。そこに客からの殴打による青あざが加わる。
「酷い傷だな。ここのマスターにでもやられたのか?」
勘違いだが、別に俺はマスターを擁護する義理もない。
「そりゃ逃げ出したくもなるよな。グランエルはいいところだって聞いてるぜ? 領主は人徳溢れる人物らしくてな、人々は裕福とはいかなくても幸せな暮らしをしてる土地だって」
「………………」
などと、俺の心をゆさぶるようなことを言ってくる。
「子ども一人じゃ辿りつけない場所だ。馬車なら、簡単に連れていける」
「でも…………」
声が震える。
「俺、金が…………」
「大丈夫だって」
リーダーは俺の手を握り、ぐっと体を引き寄せた。
耳元で、囁かれる。
「ちょっと俺らを楽しませてくれればいいんだ」
「……………………っ!」
寒気を覚えて、ばっと体を離した。
四人のエルフは、俺に温和な笑みを向けている。レムナスの人間が俺に向けるような下卑た、品定めするような目とは違う。
でも。
本質は同じだ。
ただ取り繕うのが上手いだけで、こいつらは同じだ。
「ほら、ここからグランエルまで一週間かかるだろ?」
何事もなかったかのように、リーダーは話を続ける。
「その間暇で仕方ねえんだ。この辺りはいくつか土地が死んでるが、そこさえ避ければ魔物もほとんど出ないからな」
「……………………」
「考えておいてくれ。つってもそんな時間はないけどな。俺たち、朝には出るから」
そう言って彼らは酒を飲み、また笑った。
どういう運命が働くのか。
この日、俺は酒場に来て初めて客を相手にしなくていい夜を迎えた。
きっと、あの四人を相手にしていたために、他の客はお手つきがついたと思い込んだのだろう。
静かな、月明かりに照らされた部屋で、俺は眠れずに、ずっと同じことを考えていた。
本当に、あの四人についていくのが正解かどうか。
「……………………」
金は、ない。だから、これがグランエルに行くための唯一のチャンスだ。
しかし、その代償は一週間の、奉仕。
既に一か月、娼婦として働いている以上、一週間くらい大したことがないように思える。だが、案外娼婦という仕事は守られているのだ。マスターという男がいるから、客は俺に無茶をできない。まあ殴ったりはするんだが、顔は殴らないとか、そういうルールが決まっていて、その中では守られている。
だが、連中の乗る馬車の中は無法地帯だろう。何をされても、誰も守ってくれない。
そういうリスクを飲めるかどうかという話だ、これは。
別の道がないか、考えてしまう。
結局これだ。俺は選択肢を突きつけられると、どうしても別の方法を考えてしまう。示された選択がもっとも合理的だと分かっていても、承服し難くて。
例えば、店から金を盗んだらどうだろう。
金がないのなら盗めばいい。最近は俺の仕事ぶりにマスターも油断して、特に昼は寝坊をするようになった。その隙に売り上げを盗んで、その金でどこかへ高飛びするのは…………。
「…………………………っ!」
そんなことを、この一か月で考えなかったわけじゃない。だが、考えると全身がズキズキと痛んだ。
鞭打ちの苦しみが、思い出される。
無銭飲食、しかも初犯であれだ。店の金を盗んだら何をされるか分からない。そう思うと怖気づいて、金を盗もうとは思えなかった。
そうなると、道は限られる。
考えること自体が、不毛だ。
東の空が白みはじめたころ、意を決して、俺は店を出た。
マスターに別れは告げなかった。その必要を感じない。
馬屋に急ぐと、ちょうど
「おお、来たか」
リーダーが俺を見つけて答える。
「てっきり来ないかと思ったぞ」
「………………お願いします」
頭を、下げた。
「俺をグランエルまで連れていってください。なんでも、しますから」
「………………そうか」
ぽんと、肩に手を置かれる。
「よろしくな」
「………………はい」
このときの選択を俺が後悔するまでに、時間はかからなかった。
とどのつまり俺は三十年、ぬくぬくと現代日本で生きてきた中年男性で。
この世界で身寄りのない少女として生きることの厳しさを、まだ本当に知ったわけじゃなかった。
地獄に底がないことを、まだ…………。
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