#4:処女
鞭打ちは、まる一日をかけて行われた。
元の世界にいるとき、聞いたことがある。鞭打ちは常人が想像するよりも過酷な刑罰で、たいていの人間は十回に満たない回数で音を上げ、また痛みでショック死すると。
一応、俺は三十回を耐えた。だからその話が嘘だ、と言うつもりはない。
実際、何度か死んだような気がした。
俺がショック死しないように、なのか。鞭打ちは時間を置いて、一回、一回と噛みしめるように行われた。
最初の三回で、俺は気を失った。
失神すると、兵士たちがどこからか水を汲んできて俺にかける。俺が意識を取り戻すと、またしばらく時間をおいて、鞭を打った。
俺にかけられた水は真水ではなく、海で汲んだらしい塩水だった。かけられるたび、鞭で打たれた傷がじくじくと痛んで、その痛みで目を覚ました。
そしてまた、鞭を打たれた痛みで気を失う。
ひたすら、その繰り返しだった。
鞭は背中だけではなく、全身に打たれた。
五回打たれたとき、もうやめてくれと叫んだ。
八回打たれたとき、胃液を嘔吐した。
十一回打たれたとき、失禁した。
十五回打たれたとき、殺してくれと懇願して。
そこから先は、回数を数えるのをやめた。
ひたすら、痛みに耐えた。
海から昇った日が天高く上がり、そして西の山に沈み始めたころ、俺は解放された。
「………………………………………………………………………………」
もう、自分が何をしていて、何を考えていたのかも分からなくなっていた。
解放されても自分の足で立つことができず、その場に倒れてしまう。
それを見た兵士はまた笑い、俺にボロ布を被せると吊るし台を片付けてどこかへ去ってしまう。
いつの間にかまばらになっていた観衆たちも、三々五々散っていく。
脱いだ服はどこかにいってしまった。鞭で打たれる最中、仕立てがいいから高く売れるとか、そんなことを誰かが言っていたような気がする。
だが、そんなのは、もう。
どうでもいい。
「………………………………………………………………………………」
痛みで意識がぼやける。
俺は、何を、して…………………………。
だが、人間、いつまでもぼうっとしているわけにもいかないらしい。
日がどっぷりと沈んだ頃になって、ようやく、俺は体を起こすことができた。
血まみれの裸体をボロ布で覆って、ゆっくりと、足に力を込めた。
痛みはまったく治まらない。
飢えと渇きはいよいよ酷くなっている。
このままだと、明日の朝日を見るより先に、野垂れ死ぬ。
それが分かっていたから、行動するしかなかった。
そして俺が取れる選択は、もう残されていなかった。
体を引きずりながら、
漁の準備でせわしない港を抜け。
辿り着いたのは。
昨日の酒場だった。
「……………………ん?」
目的の人間は、おあつらえ向きに、酒場の外で掃き掃除をしていた。
「よう、お前か。見てたぜ。随分手酷くやられたなあ」
「………………………………」
俺はただ、ぼんやりとマスターの顔を見た。
「あの兵士隊長はサディストで有名だからな。面倒なのに目をつけられて大変だっただろ」
「………………………………ぁ」
「……なんだ?」
一度、声を発しようとして口を閉じた。
分かっている。
もう、これしか道がないのは分かっている。
だが、まだ決心がつかない。
別の道があるんじゃないかと考えてしまう。
「…………………………」
「…………………………」
しばらく。
俺とマスターは互いに黙り合い、じっと互いの顔を見た。
「……………………働きます」
俺は、言った。
「ここで、働きます」
「ああ?」
マスターは、俺の顎を掴んでぐいっと持ち上げた。
「働きます? おいおい、なあ、違うだろ?」
やつは、嗜虐心に溢れる顔でにやついた。
「俺は分かってるぜ? お前が物を知らねえただのガキじゃねえってこと。こういうとき、どう頼むかくらいなら知ってるだろ?」
「…………………………働かせて、ください」
声を、絞り出した。
「ここで、働かせてください。なんでもします。………………お願いします」
「ふうん。いいぜ?」
男は顎から手を離し。
俺の頭をポンポンと撫でた。
「素直なやつは嫌いじゃない」
しかし働くと言っても、まさか傷だらけの状態で何かができるわけでもなかった。
「一晩だけ休ませてやる」
そう言ってマスターは、俺を裏口から入れた。表からでは隠れていて見えなかった階段を上ると、二階はいくつかの小部屋が用意されている。娼館、と言っていたが、そんな上等なものじゃない。通された部屋は狭苦しく、ベッドが置かれているだけだ。ただのヤリ部屋だ。
やがて医者が呼ばれ、傷の治療を受けた。いかにもなファンタジー世界だから回復魔法のひとつでもかけてくれるのかと思いきや、医者は傷口を真水で綺麗にすると、よく分からないドロドロした緑色の薬を全身に塗りたくり、包帯でぐるぐる巻きにしただけだ。それでも薬は染みたがしばらくすると痛みが和らいできた。
ベッドへ横になり、毛布を被る。思いのほか、上等なベッドだった。ふかふかして、体を沈ませると意識が朦朧としてくる。温かい寝床に寝られるのは、いつ以来だ。いや、ドラゴヘイムに来てまだ二日しか経っていない。それなのに、もう何年もこの世界をさまよっていたような気がする。
隣の部屋では男女の嬌声が聞こえてくるが、そんなものはどうでもよくなっていた。目を閉じると、ようやく俺は、体を休ませることができた。
泥のように眠った。夢に何か、元の世界のことを見るのではないかと思ったけれど、何も見なかった。
目を覚ますと、太陽は天高く昇っていた。起きると枕元に食事が用意されていた。冷たくなったスープと、カビの生えかけたパンだ。スープの匂いを嗅ぐと途端に空腹を思い出して、食事にありついた。
「うぐっ………………」
だが、スープを一口飲むと、あまりの味に吐き出しそうになった。ぐっと堪える。白湯みたいに味が薄い。そのくせ酷く不味い。娼婦として搾取するつもりの俺にはこの程度の飯でいいと思ってこんなものを用意したのか、あるいはこれがこの世界の標準的な食事なのかは分からなかった。ただ、俺があのとき口にした串焼きがよっぽど高級品だったのは理解した。そりゃあ、鞭打ちを三十も受けるというものだ。
いっそのこと吐き捨てたかった。だが、他に食べる物もない。空腹は限界だった。パンをかじると、固くて歯が折れそうだった。その上なんか酸っぱい。腐っているんじゃないだろうか。しかし文句も言えず、ただ俺はパンとスープに食らいついた。
腹が減っていれば何でも美味いなんて、あれは嘘だ。どんなに飢えていようと、不味いものは不味い。ただ食べなければ死ぬから、仕方なく食べるのだ。
満腹には程遠い量。それでも食べれば、少しは落ち着いた。そしてまた、急激に眠気が襲ってきた。マスターも呼んでこないので、ベッドに潜り、もうひと眠りすることにした。
夢を見た。
俺は元の世界にいた。いつもの部屋で、引きこもりながら小説を書いていた。その小説が新人賞の最終選考に残ったという連絡が来て、やがて、ついに大賞を受賞したという連絡がやってくる。
俺は鼻高々だった。
無論、小説家になっただけで何かが劇的に変わるわけじゃない。小説家になっても、それだけで暮らしていけるほど稼げるわけじゃない。だが、鬱病になってまともな職につくこともできなくなった俺の、唯一の収入源だ。
もう二度と、無職ともプー太郎とも言わせない。ニートともだ。
これで、両親も少しは安心させられる。死んだ初太郎にあざけられなくて済む。継次郎にごく潰しと貶されることもない。
少しずつだが、変わる。
前進できる。
そう。
そのはずだった。
目を覚ますと、そこはドラゴヘイム、レムナスの港町で。
俺の現実は、あくまでも無感情に、俺に厳しさを突きつけてくる。
窓ごしに沈む夕日を見ながら、とめどなく涙が溢れた。
どうして。
どうしてこうなったんだ。
俺の人生はあのとき、好転の兆しを見せたんだ。
兆し。好転すると決まっていたわけじゃない。だが、兆しだけで俺には十分だった。
三十年待って、初めて掴んだチャンスだったんだ。
なのに、俺は……。
なんでこんなところに…………。
涙を拭っていると、部屋の扉が開いて、マスターが入ってくる。水の入った桶と手ぬぐいを持っていた。
「そろそろ客が来るぞ。包帯外して、薬を洗い流せ」
「………………はい」
言われるがまま、包帯を外し、水を含んだ手ぬぐいで緑の薬を拭った。傷口に薬がすり付いて血止めになっている。かさぶたみたいなものだから、これは無理にこすらない方がよさそうだと思ってそのままにした。
手ぬぐいをもう一度水に浸して絞ると、桶の水は緑色に染まった。その水と桶をマスターは回収し、部屋を後にした。
包帯をくるくると適当に巻いて部屋の隅に放り投げる。ベッドに腰掛けて、毛布で体を包んだ。
そして。
客が来るのを待つ。
やがて、階段を上る足音が聞こえると。
俺の心臓はぎくしゃくと跳ねまわるように、酷く暴れた。
「…………………………っ!」
そこでようやく俺は……。
気づいた。
自分が実は、全然覚悟なんてしていないことに。
「…………ふー、ふー……」
呼吸が荒くなる。
そうだ。
何をやっているんだ俺は。
痛みが和らぎ、まがりなりにも腹が満たされたことで、ようやく少しまともな思考ができるようになってきた。
なんてことをしているんだ。
俺は、今から、体を売ろうとして…………。
それって、つまり…………。
男と、せい――――――。
「い、いや……」
嫌だ。
それはすごく、嫌だ。
嫌悪感が体中を駆け巡る。
恐ろしさに体が震え、歯の根が合わなくなる。
だって、性行為だぞ?
元の世界にいたとき、俺が男の姿のときでさえやったことがないのに。
こんな少女の姿で。
男に犯されろと言うのか?
扉が開かれる。
「ひっ………………」
喉の奥から声が出た。ベッドに座った体を引き寄せて、毛布で覆った身体をさらに小さくした。
まず入ってきたのは、マスターだった。手に大きな桶と手ぬぐい持っている。その桶は湯気を立てていて、どうやら湯を入れてあるらしかった。
どうやら客を案内して来たようだった。
そして、俺の客となる相手は…………。
「よいしょっと」
入ってきたのは、若いエルフの男だった。
この男は…………。
俺を捕まえた兵士たちのうちにいた、一番若い男だ。
「よう、リザグオーだったっけ? よろしくな」
「……………………」
よりによって、こいつか。
「じゃあ、後は勝手にな」
「おう」
マスターは桶を置いて、部屋を後にする。
後に残されたのは、俺とエルフの男だけ。
「ふうぅ。しかしまだ夜は寒いな」
エルフの男は何の気なしに、というふうで世間話を始める。男はあのとき見た鎧姿ではなく、革の服を着ていた。
「あとひと月もすれば昼でも蒸すくらい暑くなるんだが」
「………………」
答えなかった。
だが、この男の言い分を聞くならば、今は春先ということか? あるいはよく分からない世界のことなので、サンドボックスゲームみたいに季節が地域でがらっと変わるということもあるだろうけど。
「しっかし見れば見るほどきれいな顔してんな。本当に流れ者か?」
俺の返事を期待していないのか、エルフは一人で喋り続ける。
「見た目もそうだが、着てるものも上等だったし、身なりも小奇麗だったよな。そのくせ無銭飲食するくらいに困窮してるし。わけわかんねえ」
妙なところで勘の鋭い男だ。だが、さすがに俺が異世界転生して二日目の人間だとは思わない。エルフはまあいいやとぼやいた。
「なあ、その毛布の下、裸なんだろ? 見せてくれよ」
「……………………」
抵抗すれば、何をされるか分からない。あのクズな兵士隊長の部下だ。こいつもサディストだという可能性はある。
仕方なく立ち上がり、毛布を脱いだ。男は俺の体をじろじろと見る。
「ちょっと肉付きが悪いが、いい体してるな」
近づいてきて、肩に手を置く。触れられると、思わずびくりと体が震えて、距離を離しそうになる。
「それにしても傷だらけだ」
俺の腕についた傷を、そっと撫でる。
ズキリと痛む。
「ぞくぞくする」
「……………………っ」
一歩、後ろに下がる。すぐ後ろはベッドで、俺は躓いてベッドの上に尻もちをつく。
「なんだよ。逃げるこたあねえだろ」
男はそれ以上は何もしなかった。ため息をついて、服を脱ぎ始めた。
身を固くしたが、男はすぐにことへは至ろうとしない。手ぬぐいを桶に突っ込んで、絞るとそれで体を拭き始めた。
「リザグオーはもう体拭いたのか?」
「……………………」
頷く。
「そうか。せっかく金払ってこんなところ来てんのに不潔なのは勘弁だからな。流しの売春婦ならもっと安いんだが、俺はあんな小汚ねえ女を抱ける男の気がしれん。エルフが特別綺麗好きってわけでもないと思うんだがな」
流しの売春婦…………。俺が昨日見た、あの浮浪者の女性のことなのだろうか。
「おう、背中拭いてくれ」
「……」
言われるがまま立ち上がり、手ぬぐいを受け取った。俺が体を拭いたものに比べ、手ぬぐい自体もいくぶんか上等そうなものだった。何より湯を使っているから温かい。
男が身をかがめる。右手を男の右肩において、左手で握った手ぬぐいで、男の背中を拭っていく。
「手が冷たいな」
「………………」
「だがヒンヤリしてて気持ちいい」
「………………」
「なあ」
そこで男は、要求してくる。
「抱き着いてくれ」
「……ぇ?」
「こう、がばっと後ろから抱き着いてくれよ」
「……………………」
俺は今、裸だ。
つまり裸の体を、この男の裸の背中に密着させろということか?
嫌悪感で、吐きそうになる
「い、いや…………」
思わず、拒絶が口を突いて出た。
「そうか…………」
男が立ち上がって、俺の方を見る。
そして。
俺の腹を思いっきり蹴り飛ばした。
「がっ…………あ!」
突然のことに、まったく反応できなかった。
壁まで吹き飛んで、背中をしたたかに打った。
「なあ、俺は客だぞ? 金払ってんだ。一晩お前を買うって決まってるんだよ。別に俺のイチモツを咥えろとか、ハードな要求はしてないだろ? それくらい言うこと聞けよ」
「げほっ…………うう」
それは、そうなのだが……。
その要求がハードかどうかは、俺が決めることでお前が決めることじゃない。
そんなことも分からないのか。
思わず睨みつけそうになった。だが、睨めば次に何をされるか分からない。鞭を打たれた傷がズキリと痛んで、すんでのところで目を閉じた。
「ほら、立て」
言われるがまま立つ。
男は腕を広げていた。
「来い」
俺は。
男に正面から抱き着いた。兵士と言うからもっと鍛えているのかと思ったが、体に触れてみると少し生ひょろい気がした。思い返せば、俺の肩に触れた手も、剣を振る者特有の皮の厚さや、豆などもなく綺麗だった。兵士になって日が浅いのか、それとも練兵が不足しているのか。
俺たちは抱き合う。
「ごめんなさいは?」
「……………………」
ぐっと、俺を抱きしめる腕に力が籠る。
「………………ごめんなさい」
何を。
何を謝っているのか分からない。
ただ、何か、心の大事な部分がパラパラと崩れていくような気がした。
ポンポンと、男に頭を撫でられる。
「俺も蹴って悪かった。ちょっと興奮してるんだ」
興奮?
男は俺の体を導いて、ベッドに寝かせた。男は覆い被さって、俺の唇に自分の唇を重ねた。
カサカサの硬い唇だ。妙にねばついている。
やがて俺の唇を無理に割って、舌が入ってくる。
「ぐっ…………」
思わず両手を男の胸板に突いて、体を押しのけようとした。だが、男の体は少女になった俺の細い腕には重たく、まるでびくともしない。
しばらく、粘着質なキスが続いた。ヒルみたいにのたうち回る男の舌を、自分の舌で受け止め続けるのは苦痛だった。
ようやく満足したのか、男が唇を離す。唾液が糸を引いた。気色悪くなって、俺は手で口を拭った。
またぞろ男の気を悪くさせるかもしれないと思ったが、我慢できなかった。
その様子を見ていた男は、気を悪くするどころか、むしろにやついた。
「大人のキスは初めてだったか?」
悪戯っぽく笑う。
「正直半信半疑だったが、マスターの言うことは間違ってなかったみたいだな」
下腹部が撫でられる。
寒気が体中を駆け回った。
「お前、処女なんだろ」
「は………………」
そうか。
それが、目的か。
「俺がお前の初めて貰ってやる。安心しろ、気持ちよくさせてやるからよ」
顔をそむけて、窓の外を見た。
月は未だ、空半ば。
夜はまだ、終わらない。
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