#2:このたびはクソ兄貴がとんだご迷惑を
姉、と呼ばれていた長髪の少女の土下座は、もはや芸術の域に達する美しさだった。
この日のために練習を積んだと言われても容易に信じただろう。
真っ白な床に金髪が流れる。背筋に歪んだところはなく、灰色のコートにはしわひとつ残していない。
「本当に、この度は、わたしたちの仕出かしたことのために大変なご迷惑をおかけして、非常に申し訳ないと…………」
「いやいやいやいや」
なんじゃらほい?
何が起きていて、俺はどうしてこの少女に土下座されているんだ?
事態が飲み込めない。いやまあ、この部屋に来たときから、何なら兄が変な穴に消えたあたりから事態なんて何ひとつ飲み込めていないんだけども。
「怖い。なんかよく分かんないけど事情が理解できないうちに平謝りされるってこんなに恐怖を掻き立てられるのか……。いやそうじゃなくて、ともかく事情がさっぱり分からないので、ひとまず落ち着いてほしいんだけど……」
「本当に! 本当に申し訳ありません! この責任は! 命を賭してでも必ず取りますのでどうか!」
「恐ろしいわ! 簡単に命を賭してなんて言うなよ! 少年漫画の主人公か!」
とにかく土下座をさせたままではまずそうだと判断して、彼女を起こすことにした。少女の右肩を掴んで体を起こそうとしたが、その細い体でどうしたらこんな膂力が出るのかと疑問に思うほどの強い力で床に張り付き、少女はまるで土下座を止めない。
「ちょっとお姉ちゃん」
妹らしい短髪の少女が左肩を掴む。
「ツグジローのときも同じことしてドン引かれたでしょ。学習してよ」
「う、うううぅ……」
ついにすすり泣きが始まった。だが、俺が意識を奪われたのは少女の泣きではなく、妹の方が口に出した名前だ。
ツグジロー。
羽柴継次郎。
それは俺の二番目の兄の名前だ。すなわち、この長髪の少女とともに穴へ消え、そしてなぜか少女が今持っているコートの持ち主だ。
するとやはり、俺が見た光景は夢でも幻でもない。この長髪の少女と継次郎は関係がある。まあ、まだ俺が夢の中という可能性が消えたわけじゃないが……。
「すびばぜん……落ち着きます」
「はい深呼吸して、深呼吸」
少女二人のやり取りを傍目に見ながら、考える。
仮に継次郎が目の前の少女たちと何らかの関係があったとしよう。
すると継次郎は、少女たちに関わる何らかの理由であの穴に消えたということになる。
そして俺は、その何らかにさらに関係する何らかによって、この空間に導かれたと想像できる。
問題なのはその何らかなわけだが……。
嫌な…………。
「嫌な予感が、するな」
「え、なに?」
「なんでも」
嫌な予感がした。
大抵の場合、兄が絡むと俺にいいことが起きたことがない。大学院進学の件を持ち出すまでもない。人類史において、弟は兄のしわ寄せを食うと相場が決まっている。
じゃあ具体例を出せと言われると、すぐにぱっとは思いつかないのだが……。裏返せば具体例が思い出せないくらい日常的にしわ寄せは繰り返されて、俺の中には鬱屈とした感情だけが澱のようにたまっていた。
「落ち着いた?」
「う、うん」
と、そうこうしている間に、姉の方が落ち着きを取り戻したようだ。
「すみません、取り乱しました」
「…………いや」
ぺたりと、二人の少女は床に腰を下ろす。俺だけが立ちっぱなしというのも収まりが悪いので、俺も床に座ることにした。
「状況が随分込み入っているらしいな」
「……はい」
「順番に、最初から説明してもらおうか」
「はい」
こくりと、姉の方が頷く。
「まずは自己紹介させていただいます。わたしはエナス。そしてこちらが」
エナスと名乗った姉は妹を手で指し示す。
「妹のアイナーです」
「よろしく」
礼儀正しい姉と違って、妹のアイナーは随分軽い性格をしているな。まあ、そこはどうでもいいが。
俯き加減になりながら、エナスは言葉を続けた。
「リサブローさん。わたしたちはあなたに謝らなければなりません。なぜならこれから、あなたは私たちが招いた問題のせいで大変なことに巻き込まれるからです」
「………………」
そしてその問題に、継次郎が関わっていると。ここまでは予感通りだな。
「と、いうと?」
とはいえくちばしを挟むと話がややこしくなりそうだ。ここは素直に何も分からない体で話を聞いておくのが吉か。
「それは……。口で説明するより、見ていただいた方が早いかと。アイナー」
「はいはーい」
アイナーが右手をかざし、俺の左側に向ける。するとそこにぽっかりと暗い穴が生まれていく。ちょうど、継次郎が潜り抜けた穴に似ているが、あの穴よりはどこか安定しているように見えた。
「これ覗いてみて」
「え? ああ……」
アイナーに言われるがまま、穴を覗く。すると穴の先には、映像が映っていた。…………映像?
別世界が、映像として広がっていた。広々とした草原。風に揺れる青い草と花々。青空が広がって気持ちよさそうだ。映像はそんな草原を行く一人の男を映していた。だが映像というより、穴から直接別の世界を覗き見ているような印象が強い。とはいえ、俺の見ているものは映像としか、ひとまず表現できないのだが。
それにしても……草原を歩く男、どこかで見覚えがあるような……。
映像は徐々にその男をアップで映していく。上の方から男の背後を見下ろす構図のため、人相は分からない。だが後ろ姿だけを見るとどうにも愚鈍そうな印象を受ける。猫背だし、足の踏み出し方が旅慣れていない感じを強く抱かせた。そんな男が着ているものは、ファンタジー世界で見るような革製の鎧で、それがどうにもコスプレ感を強くして、男の頓馬さを強調していた。
だが、こんな革鎧をまさか本当にコスプレで着ているわけではあるまい。俺が覗いているのは、そういう防具が一般的な、まさしくファンタジー世界なのかもしれない。そう思ってみると、草原の景色もどことなく、地球のそれとは違って見えた。
「な…………」
だが、驚いたのかここからだ。
映像がぐるりと回り込んで、男を正面から捉える。ようやく男の人相が分かると、そこに映し出されていたのは……。
「はつ、たろう……」
羽柴初太郎。
名前から分かる通り、俺の、そして継次郎の兄である。
「はい、ハツタローさんです」
エナスが相槌を打つ。
この男に見覚えがあるはずだ。立ち姿、歩き姿はなるほど初太郎のものだった。小太りの丸顔に黒い眼鏡をかけ、脂ぎって不潔な髪は風に流れるままにしている。そんな兄が革鎧を身に着け、また腰には剣を帯びて草原を行く光景はいかにもシュールだ。
悪趣味とも言う。
「本当に初太郎なんだよな?」
「はい」
エナスが頷く。その声色は真剣そのものだ。
俺を担いでいる、という可能性は考えなくて良さそうだ。
「落ち着いて聞いてほしいのですが」
畳みかけるように、エナスが言う。
「ハツタローさんは、あなたの世界で言うところの、いわゆる『異世界転生』を果たしました」
「…………へえ」
「あの、異世界転生と言いますのは」
「いや、そこは分かってる」
なにせ書いた小説が新人賞の最終選考に残るくらいだ。フィクショナルな業界には常人以上に詳しいという自負はある。異世界転生ものもあまり趣味ではないが、アニメで一通りおさえるくらいには知っている。
つまり、なんだ……。
「初太郎は三年前に死んだ。そして、どこぞのラノベかウェブ小説みたく異世界に転生して好き勝手やってるってことか?」
「へえ」
アイナーが呟く。
「こっちじゃハツタローが死んだのって三年前なんだ」
……ん? どういうことだ。
「はい、リサブローさんのおっしゃる通りです」
だが、俺の疑問はエナスの言葉で遮られ、話が先に進む。
「要するに、初太郎の馬鹿は異世界転生したと。まさかお定まりのチート能力なんてものを得て大暴れ、なんて言うんじゃないだろうな?」
「残念ながら、そう言うつもりでした」
頭を抱える。何がどうなっている。
「お姉ちゃん」
アイナーがエナスを小突く。
「あたしたちの仕事についても話した方がいいんじゃない?」
「分かってる」
こほん、とひとつ咳払いしてエナスは場を整える。
「わたしとアイナーは元々、魂の量のバランスを取る仕事をしていました」
「バランス?」
「はい。地球にある魂が増えすぎれば別の世界に移し、別の世界で魂が多くなれば地球に移す、というように」
つまり死者を転生させ、適宜それぞれの世界で人口が増えすぎないよう調整している、というわけか。それにしては地球の人口が七十億を突破して久しいのだが……。まあこの辺りは理屈が違うのだろう。彼女たちが管理しているのはあくまで魂というよく分からんもので、それは地球の、生きている人口の総数とはまた別の概念なのだろう。
「通常、魂を別の世界に移すときは初期化をして、変な記憶を引き継がせたりしないようにするんです。ですがここにいるアイナーが、やらかしまして」
「やらかした?」
「うん」
アイナーは頷く。
「私、ハツタローの魂をドラゴヘイムってところへ転生させるとき、記憶をそのままにしたんだよね。その上に余計な能力をもうこれでもかと引っ付けちゃって」
「その余計な能力っていうのが、チート能力と」
「そう」
やらかしとしては最大級だが、どうにもアイナーの言葉は軽い。
「不要な能力を追加した魂はその分、重たくなります」
エナスが説明を続ける。
「パソコンのデータのようなものとお考え下さい。世界の魂の容量は決まっているので、重たい魂をやり取りすればそれだけで不具合が生じます。しかも、本来その世界に存在しない知識を持った人間が、その知識を持ち込んで伝播させれば……」
「その知識でドラゴヘイムの秩序が滅茶苦茶に、と」
エナスが頷く。
なるほど。これで俺の見た変な映像の正体は分かった。
「だが、疑問がある」
「なんでしょうか」
「初太郎の件は了解した。しかし、エナスとか言ったよな、お前は継次郎と一緒にどこかへ行かなかったか? というか継次郎と知り合いだろう? そのコートは継次郎のものだし、そもそも俺はお前が継次郎と一緒にいたのを見ている」
「……見られていましたか」
ご説明します、とエナスはもったいぶって言う。
「先ほどもお話しした通り、ハツタローさんがドラゴヘイムに記憶と能力を持ち込んだのは大きな問題でした。そこで私たちは、その問題の解決をツグジローさんに依頼したんです」
「ふむ」
「リサブローさんが見たのは、私がツグジローさんを伴ってドラゴヘイムに旅立つ、まさにその瞬間の姿です」
「じゃあ、今継次郎は旅の途中か?」
そこでエナスは首を横に振った。
「ドラゴヘイムと地球だと、時間の流れが違うんだよ」
俺の疑問にはアイナーが答える。
「違うって言うより、めちゃめちゃなんだけどね。地球の一秒がドラゴヘイムの一時間に相当することもあるし、地球の百年がドラゴヘイムの三日なんてこともある」
そんなものだろうか。まあここは、そんなものと納得するしかないか。
「リサブローにも分かりやすく時系列順に話すとね。まずハツタローがドラゴヘイムに旅立ったでしょ? これが地球だと三年前。そしてツグジローがハツタローを追いかけたのが地球だとついさっき。でもドラゴヘイムだと、精々一か月も空いてないんだよ」
一週間くらいかな? とアイナーは呟く。
つまり、初太郎の視点だとドラゴヘイムに旅立って、すぐに継次郎が追いかけてきたように見えるのか。地球では実際には三年も時間の開きがあるが。
「ツグジローさんの仕事は、ハツタローさんを殺すことでした」
エナスがその先を説明する。
「しかし、その仕事は完全には成功しませんでした。ハツタローさんには不死の能力がありましたから。ツグジローさんにも、仕事を完遂するために不死の能力が与えられましたが、それ以外は普通の人間でしたし……。ただ、最終的にハツタローさんを封印することには成功しました」
封印?
「じゃあなんだ? 俺がさっき見た映像は過去の初太郎なのか?」
「ううん。ここからがややこしいんだけど」
アイナーが俺の言葉を否定する。
「まず、ハツタローが封印されてから今この瞬間まで、ドラゴヘイムでは三年の時間が進んでる」
「……なに?」
継次郎がドラゴヘイムに旅立ったのはついさっきだぞ? いや、だから地球とドラゴヘイムの時間はめちゃめちゃなのか。
「これも見た方が早いかな」
ぱっと。
今度はアイナーが左手をかざす。すると俺の右側に穴が開く。さっきと同じ要領だ。そこからは、別世界にいる継次郎の姿を見ることができた。
継次郎は、魔法使いのような紫色のローブを身にまとっている。だがまあ、それはそれでコスプレチックだが初太郎の革鎧ほどではない。ただ、髪は以前よりぼさぼさに伸びて、不精髭も多くなっている。そして何より、俺が知る継次郎より幾分か老けていた。なるほど、三年が経過しているというのは本当らしい。
そんな継次郎は初太郎とは対照的に、執務室のような場所で書類に目を通している。なんて表現するといかにも事務仕事中の会社員っぽく見えるが、やつの見ている書類は羊皮紙らしい巻紙だし、使っている筆記具も羽ペンという気合の入れようだ。
「……しかしこう見比べると、初太郎は老けてないな」
「そりゃあ、ハツタローは不老の能力があるし」
まあそうか。近年のチート無双物なら不老不死なんて標準搭載だよな。
「ツグジローさんはハツタローさんを殺せなかったために、地球に戻ることはできませんでした。ただ、ハツタローさんが行ったことの尻拭いをすると言って、ドラゴヘイムに残るという決断をしてくださいました」
そういうことね。
「しかし」
ごくり、と。
エナスがつばを飲み込む。
「三年が経過した今、何者かによってハツタローさんの封印が解かれました。ですので今、彼は自由の身です」
そしてまさに自由を謳歌している姿を、俺は見たのか。
「それで?」
話はむしろ、ここからだろう。
「初太郎がバカやってドラゴヘイムで暴れている。継次郎がそれを止めに行って、中途半端に終わらせたせいでそのバカが終わらない。そこまでは理解した。それで、俺が巻き込まれるって話だったよな」
「そうです」
エナスが頷く。
「リサブローさん。折り入ってお願いがあります」
「……………………」
「ドラゴヘイムに行ってください。そしてツグジローさんと協力して、ハツタローさんの暴走を止めてください」
「断る」
即答だった。
これは即答だ。
「え、あの」
まさか即答されるとは思っていなかったのだろう。エナスはあからさまにうろたえた。
「その、お願いします。どうか……。ハツタローさんの暴走を止められるのはあなたしかいないんです」
「知るか」
本当に知ったこっちゃない。
「それはお前たちの問題だろう。俺がどうこうする義理もない」
「それはそうだけど……」
アイナーが反発しようとするのを遮る。
「俺は俺の人生で忙しいだ。お前たちには分からないかもしれないが、俺の人生は今になってようやく動き出したんだ。小説の新人賞で最終選考に残った。こんな大事な時期にドラゴヘイムに行く? そんな暇あるか。しかもドラゴヘイムと地球だと時間の流れが違うと来てる。それはつまり、一度ドラゴヘイムに行ったら二度と元の時代の地球には戻れないってことじゃないのか?」
「う…………」
アイナーが押し黙る。十中八九、このことを説明してしまうと俺が依頼を引き受けないだろうから、あえて明言は避けていたんだろう。地球とドラゴヘイムで時間の流れが違うと聞いた時点で、露見する程度の誤魔化しだが。
「第一、あんな兄二人の尻拭いなんて俺はまっぴら御免だ。死んでも断る!」
「なら」
背後から、唐突に声が上がる。
その声に背中を撫でられたとき、ぞくっとした。
なにか、おぞましい気配が近づいてくる気がして。
「死んでみるか?」
「な………………」
どんっ、と。
首筋に衝撃が走って。
視界がぐるんと反転する。
何が起きたのか理解が追いつかない。
だが、視界の端に、驚くべきものを目にする。
それは。
首から上がない俺自身の体で。
つまり。
俺は。
首を切り落とされ……。
しん――――――。
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