第6話「風の王」

 私達は、ガーレの異常さを侮っていた。

 全員頭おかしい、混沌カオス、国王が変態。

 キャメルで聞いたこれらの評価は驚くことに、

 どれも的確なものだった。


 せいぜい昔のシルヴェストリスみたいに内紛続きだとか、

 政権や貴族が色々な意味で腐っているくらいだと思っていた。

 だが決して、そんなありきたりな「異常」ではない。


 ガーレの民は一人残らず、国王の「エンリル」にガチ恋してる。

 そしてその愛の形は本当に、恐ろしいほどに様々である。

 しかも王宮や国王はそれを厭うどころか、

 エンリルを一番愛しているのはエンリル自身だと皆口を揃えて言う。

 つまり、彼女はナルシシスト。


 猟奇的な交わりをしていた彼女に王宮までの道を聞くと、

 「お、訪れて早々エンリル様に謁見ですか!?

 素晴らしい心がけですねぇ!王宮なら道なりに行けば着きますよ!」

 とぬいぐるみの生首を笑顔で抱きしめながら教えてくれた。




 ガーレ。アヴェスの南西にひっそりと佇む王国。

 国籍を取得する条件は、エンリルへの愛のみ。

 逆にどんなに異性や同性に好かれる要素のあるやつでも、

 エンリルに興味が無ければ余所者止まりである。

 発展度合いはシャトレスやキャメルとそう大差無いのだが、

 どこを見てもエンリルが目に入るほどに、

 皆が皆各々の方法でイチャイチャしている。


 告白している人、一緒に食事をしている人、手を繋いで歩いている人、

 ディープキスをしている人、身体を触りまくっている人、性交している人、

 胸を吸っている人、暴言を吐いては泣きついている人、

 殴っている人、蹴っている人、髪や羽を毟っている人。他にも色々。

 老若男女問わず、子供ですらエンリルに他国だったら速攻捕まるような

 様々な欲望をぶつけていて、それが彼らにとっては何の変哲もない日常。


「ぼ、僕と付き合ってください!」「ねぇ、美味しい?」「次どこ行こっか?」

「ぢゅうぅ~……ん……」「この、肉付きっ……」「エンリル様と一つに……!」

「ママッ、エンリルママッ!!もっとおっぱいちょうだい!!!」

「こ、これは、あなたの為を想って言ってるの!

 ……えっいや、いやよ!謝る!謝るから嫌いにならないでぇ!」

「んだその態度はよぉ!?」「リル様いっぱい飛んだ~!」

「(ぶちっぶちちっ…………)」


 こりゃあカスアリウスでも迂闊に手を出す気にはならない。

 何というか、根本的に世界が違う。

 悪人カスアリウスが既知の脅威なら、狂人ガーレは未知の脅威。

 何をされるか、何を以て狼藉となるのか全く予測できない。


「ねぇ、お姉ちゃん。あそこに二人で座ってる夫婦がいるけど」


 おぉ、本当にいた。アカリは観察力がすごいなぁ。


 私達は公園のようなところまで歩き、

 夫婦が座っているベンチに向かった。


「すみません」

「おや、ごきげんよう。見ない顔だけど、新しくやってきた方?」

「そんな感じです。二人はここで何してるんですか?」

「うちの娘を見守っているだけですよ」

「娘……?」


 こんな国にも普通の家族がいるのか。

 あんな奴らが街中に犇めいているんじゃ、

 娘が変態に育つ未来しか見えないんだが。


「あそこで元気に遊んでいるでしょう?」

「……あれ?」


 遠目でもすぐ分かる。

 小さい身体、黄色い髪と翼に、青く輝く衣装……

 どうみてもエンリルだ。


「まさか、国王のご両親なんですか?」

「……あぁいえ、うちのエンリルは本物のエンリル様じゃありませんよ。

 自律行動特化の魔導具をコアに搭載した特注品です。

 設計や魔石食刻エッチングの費用で二億テールくらいになって。

 夫婦で用意した予算だと少し足りなかったので、エンリル様への愛を

 十万文字ほど綴る事で埋め合わせてもらったんです。

 エンリル様が直々に動作プログラムを監修してくださって、

 まさにエンリル様が娘になってくれたようなもの……

 はぁ、可愛い……」

「そ、そうなんだ……」


 重い告白ですら大金に値する価値になるのか。

 てか、専用の魔導具使ってるとはいえ、人形が二億って……


 私もまだまだこの国には適応しきれていないようだ。

 しないほうが良いんだろうけど。

 とにかく、王宮以外で見かけるエンリルはまず本人じゃないと

 改めて覚えておこう。


「ん……んぁ……」


「あ、ほら、お嬢さん方、見てください!」

「ちょ、えぇ?」


 遊具で遊んでいたエンリルはどっから取り出したのか分からない手鏡を見ながら、

 淡く染まった顔になって、その鏡面に何度もキスを繰り返していた。


 キスに満足すると、スカートを持ち上げて、

 誰に見られてるかも分からないのに恥ずかしげもなくパンツをずりさげ、

 足の間に深く突っ込んだ手を一心不乱に動かし始めた。

 使っていない方の手で鏡を見ながら。


 この距離でも水気のある音がはっきり聞こえる。人形なのに。

 腕や指の動作も声の出方もパフォーマンスじゃなくて、

 完全に一人で快楽を貪っている時のそれ。

 自分でしている時の動きをこんなに生々しく再現して、

 それが記録された物を誰かに渡すなんて、よくできるな。

 私だってアカリ以外には見せたくないのに。


 最終的にエンリルは全身を何度か大きく跳ねさせて、

 痙攣しながら満足そうに地面に寝転んだ。


「今日もあの子は元気だなぁ」

「えぇ、とても愛らしいわね、あなた……」


 娘のあんな行動見て最初に言う台詞がそれかよ。

 てか、娘のこんな有様を堂々と見てなんて言うのも酷いな。

 やっぱり、普通の夫婦がいると思った私達が馬鹿だった。


 別世界すぎて少し怖くなってきたから、

 早く本物のエンリルがどんな奴か確かめて、

 強くて味方になりそうなら説得して、無理だったらガーレを離れて

 カスアリウスをどうにかする方法を考え直そう。

 アカリがいれば野宿でも一定水準の睡眠は取れるし、

 危険があれば私が追い払うから最悪宿は要らない。


 というわけで、別れの挨拶をして夫婦の元を去って、

 各自のエンリルと乱れに乱れている民衆を尻目に、

 早足で王宮へと向かった。


 ガーレの中央にある王宮。

 明るくて滑らかな石でできた外観は、シャトレスのと案外雰囲気が似ている。

 屋根の上に女児と鳥の像があるけど……あれはエンリルと、ペット?


 ……いや、あの一メートル半程度のサイズと丸めの体型は大鸚哥エルダーパラキートだよね。

 温厚だけど人には懐かないし、とてもペットには向いてない。

 フェレスで食べるために飼ってた奴がいたけど、

 数日で逃げて戻ってこなかったって言うし。

 私でもアカリを愛するのに忙しくて何か飼う暇なんて無いのに、

 自分大好きなエンリルはそんな面倒なもの飼ってるの?

 

 中に入ると、大きな礼拝堂や歌劇場のように

 多くの席がずらりと並んでいて、それなりに人で埋まっている。

 人々が見つめているのは、王宮の寝室そのものにセットされた大きな空間。

 壇上だったり舞台上だったりに相当するものが丸々人の生活空間になっている。


 そして、豪華なベッドの上には……本物のエンリルがいた。

 今までのぬいぐるみや人形とは違い、上腕に鮮やかなピンクの腕輪をつけている。

 あれがオリジナルの印かな。


 まるで雲の上にいるかのようにベッドに寛いでいる本物は、

 自分と同じ姿の人形を大事そうに抱えて……

 というか、身体をぴったり重ねてとてつもなく濃密に愛し合っている。

 その様子を、民衆たちは真剣に鑑賞していた。


 もっと近くで見ようと進んでいくと、

 アカリがなにかに気づいて服を引っ張ってきた。


「アカリ、どうしたの?」

「……エンリルは、精霊術師。多分、主精霊ロードは中位。

 それに、肉体と精神に私達や天使みたいな空の魔力が混じってる」

「マジで?しかも純半ネフィリムなの?」


 わぁ、来て早々大当たりって感じか。

 これは多少無理してでも引き入れなきゃならんくなった。

 だったら、あの大鸚哥はエンリルの親って訳か。


 ……お互いに、初めて出会う、同種。

 嬉しくない……訳ではないけど、色々と複雑な気分。


 エンリルのほうも交わりを止めてこちらを見てきたけど、

 すぐに人形のほうに意識を戻した。


「エンリル様ぁ!!!」


 一人の男が寝室に上がって、深く土下座した。


「ここにくれば好みの人形を作っていただけると聞いたのですが!」

「……」


 民衆はざわめく。


「あいつって、昨日来たばかりの奴だよな」

「たしか、エンリル様のぬいぐるみを貰っても、

 頭を撫でるだけでキスすらしなかった奴よ」

「なにそれ、だらしないわねぇ」


 エンリルは、人形とのスキンシップを続けながら話を聞き始めた。


「……言って」

「えっと、そうですね……

 まず、百六十くらいの身長に、五十くらいの体重……

 それから、胸はEくらいのをお願いできますでしょうか?」


 それって、どう考えても大人ババアの特徴じゃん。

 皆が愛しているエンリルとはかけ離れている。


 そんな注文を聞いた瞬間、この場の空気が一気に凍りついた。

 エンリルも民衆も、その男をかなり冷たい目つきで見ている。


「どうか、しましたか?」

「……お前。リルのこと好き?」

「そ、それは勿論ですとも!

 綺麗な黄金と緑の髪に翼、そしてその可憐なお顔……

 全部素晴らしいです!」

「じゃあ、今から一日、交尾して?」

「!?」


 なんか一気に話が飛んだんだけど。

 もしかして容姿や性格とかへの甘言じゃなくて、

 本能的にエンリルを直接愛して欲しいのか?

 これはまた面白い嗜好思考を持っているようで。


「え、や、えっと……あ、あまり公共の場でそういうことは」


 エンリルはワンピースドレスをたくし上げて、

 ぽっこりと出たお腹とパンツを堂々と晒し上げた。

 客席の一部からは感嘆の声が出た。


「リルは今まで、頑張ったガーレの奴といっぱいしてきた。

 みんな、リルの奥まで全部が好き。みんな、リルが好きだから、した。

 なのにお前は、できないの?」

「い、いやだってそんな身体じゃきついでしょう……

 だからこそ育った後を所望してるんじゃないすか、ははは……

 (こんなちんちくりんに発情なんかできるかボケ)」

「……そんなの、リルじゃない。死んで」

「えっ!?」


 おぉ、これだけのやり取りで死刑宣告。

 まぁ幼い身体の完全無欠な素晴らしさが分からない奴は仕方ないか。


 エンリルは人形を抱きしめた状態に戻り、何か鋭い一撃を放った。

 その攻撃で、男の片腕が千切れ、その先にある床から客席前まで大きく抉れた。

 今の殺意は完全に仕留めるようなものだったはず……

 あ、アカリが手を掲げてる……止めたんだ?


 見えないなりに考えれば、多分繊月みたいな空気を使った刃かも。


「う、うああああぁっ!?

 い、いでぇ!何しやがる、このクソガキッ!!」

「(……外した。あの黒い猫に、もっと強い権能ちからで、止められた)

 リルは、リルの全部好き。ガーレの民も、リルの全部、好き。

 今まで何百年も、リルは、リル。

 リルはずっとこれなの。だから育った後なんか無い。

 リルを嫌う奴は死ね」

「な、何なんだよこのイカれ国王!?

 おいお前ら、目の前で殺される奴を黙って見てるだけかよ!?

 誰でもいいから早く助けてくれ!」


 男の助けには、誰も耳を傾けない。

 それどころか……


「ほら見なさい、やっぱり普通の女にしか興味の無いクソ野郎じゃないの!」

「こんなに愛らしいエンリル様の御身体に惹かれない奴は、死んで当然だろう」

「助けてって……エンリル様に殺していただけるのに何が不満だっていうのよ」

「エンリル様の風魔法は今日も凛冽で、美しい……私にも浴びせてほしい」


「は……はあぁあぁ!?」


 男は、かなり混乱している。

 うん、正義の何もかもがエンリルに集まって、

 そんな珍奇レアな正義を侵してしまったがために全方向から刃を向けられて。

 これは「一般人大人好き」にはかなり酷かもね。


 私の主義からしてもこの男は敵だから、助けたくはないんだけど……

 でも、アカリは止めようとしたんだよねぇ。


「アカリ、あいつ助けたいの?」

「……人形目当てってだけで出来心で入国した可能性もある。

 あいつの本命がガーレやエンリルを冷やかすためだったとは決まっていない」

「そっか、じゃあやるだけやってみよう」


 というわけで、私達は勇んでエンリルの寝室に上がった。

 客席からは戸惑いの声と、私達への興味らしい声も聞こえる。


 私がエンリルに話しかけると同時に、アカリは男の腕を治す。


「ねぇねぇエンリルさん?」『精霊定義ディファイン、機械、治癒』

「……何、白い、猫。

 (精霊が、新しく、生まれてる……?何それ……)」

「こちらの冴えない野郎だけど、

 命で償うレベルではないんじゃないかなぁって」


 エンリルは人形に顔をうずめながら、

 ぶつぶつと話していく。


「大した愛も無いのに、ガーレまできて、こんな酷い事。

 こんな奴、世界にいる価値、全然無い」

「あーそっすねぇ、私もその気持ちはよーぉく分かるんすけどもぉ」

「(魂の情報からして、これ、強い本心……

 この猫、リルと、ちょっと似てる、魂……)

 じゃあ、どうして、止めるの?」

「……アカリ、お願い!」「……」


 あぁ、この「もうちょっと話せないの?

 本当にお姉ちゃんは頭の足りない雌猫だなぁ。

 これは後でお仕置きとしてお尻百回蹴らなきゃね」

 とでも言いたげな呆れ顔……!不甲斐ないお姉ちゃんでごめんねぇ……♡


「(どうせあたしの罵倒を捏造して勝手に悶えてるんだろうなぁ)

 こいつがガーレやエンリルを馬鹿にするために来たとは限らないでしょ」

「リルと交尾できないの、馬鹿にするのと、一緒」

「えぇ……とりあえず一回落ち着いて。

 百歩譲っても処刑するなら相応の理由がないと」

「リルを愛さないのは、ちゃんとした理由」


 感情的には大いに共感できるんだけども。

 シャトレスまで来てアカリを馬鹿にするような奴が居たら私も……うん。


「じゃあ、殺害を続けてたらガーレもエンリルも滅びる。

 これなら流石に止めるでしょ?」

「なんで?」

「無闇に殺せば、世界を破滅させようとする存在に力を与えるから。

 もう気づいていると思うけど、私達はあんたと同じような神の子だし、

 これについて疑うのはあまりおすすめしないよ」


 そういえば何百年もって言ってたよね。

 その時点で普通の人間ではないし、大鸚哥も長くて百年弱くらいだから、

 エンリルは間違いなく特別な存在。


「王宮に飾ってあった大鸚哥の像は、お母さんで、

 お父さんについてはエンリルも知らないでしょ?」

「……うん」

「あんたはこの地上を守るために授かった特別な命。

 だから、無念を抱いたまま殺される人を増やしてはいけない」

「……じゃあ、今から一ヶ月、交尾するなら、そうする。

 お前達、リルの事好き?」

「え?」

「普通だったら、百年必要だけど。

 お前達、リルに似て可愛いから、特別価格」


 なんでこうすぐ物理的な繋がりにいくんだろうか。

 私とアカリみたいに、愛ってのはそれだけじゃないだろうに。


 アカリが、神妙にこちらを見てくる。

 うん。何も心配しなくて大丈夫だからね。

 私はアカリを裏切ったりなんかしない。


「私はアカリ一筋って決まってるもんね!

 純半だけあって凡人よりはまだ可愛いけど、

 お前と結ばれるのはありえないから!」

「……あー……」


 あれ、アカリが心底がっかりしてる……?

 嘘でしょ、まさか、私じゃアカリに相応しくない?

 純半同種だからってエンリルと結ばれろって言いたいの?

 わ、私の初めて(六回目)はアカリに捧げるんだって決めてるのに……

 そんなぁ……


 放心してると、アカリがお下げを引っ張って耳打ちしてきた。


「ここは適当にはいって言っておいて後からはぐらかせばいいでしょ」

「あ、そういう感じなんだ、良かったぁ」

「(何が?)」


 じゃあ、改めて。


「あ、わ、分かりました!誠心誠意エンリルさんと、その、

 それなりのお付き合いを続けますので、どうかぁ……」

「……ふざけないで。

 さっきの言葉のほうが、ずっとずっと心籠もってた。

 お前のアカリへの愛は、本物。自分で証明してる」

「え、そ、それはどおもぉ」「喜んでる場合か」

「……リルを愛せないやつは、いらない」


 また、あの致命的な風が――


「お姉ちゃん!」


 視界が割れて、赤が滲む。

 それで、視界が砕けて、地面に落ちたり、空を飛んだり。

 三尺の柄にかけようとした右手も、もう無い。


 これ、文字通り八つ裂きにされたか。

 参ったな。防御も回避もさせない飽和斬撃なんて。


 じゃあ、後はお願いね、アカリ。




[ガーレの王宮、アカリ視点]


 精霊術は、願いを現実にする力。世界を操る力。

 結果や影響を人類の尺度で考慮しないなら、本当に何でもできる。

 まさに、神様というものに最も近い魔法。


 あたしが精霊術師になる時、願いを集中して形作る事と、

 願いの元となる精神を固く制御する事を何度も何度も教えられた。


 誰かを確実に不幸にする危険な願いも、

 術師が抱いて、精霊が許容すれば叶ってしまう。


 精霊というのは人間の精神が苦しんだり、解ける瞬間を避ける傾向にある。

 だから、本来はこんな自分勝手にも程がある動機での殺人なんて、できやしない。

 どういう訳か、ガーレにいる精霊までみんなエンリル大好きみたいで。

 こんな環境のおかげでエンリルは気ままな排除を続けられたんだろう。


 そして主精霊の権威は、得意分野の数と造詣の深さによって決まる。

 同じ中位精霊だとしても得意分野に「風」が無い主精霊だったら、

 こんな精霊環境のせいで闘いにすらならなかった。

 上位の主精霊でも楽に完封できる訳ではない。


 自分は世界を無条件に思い通りにできて当然と思っている、

 何の躊躇もない精霊術師エンリルを相手にするには、

 素面のあたしでは一抹の不安が残る。


 エンリルには最初だけ従って少しずつ懐柔していく作戦だったけど、

 こちらでも精霊術師としては間違いにならない。

 大切な家族がバラバラにされた怒りは、願いの糧となる。


 おかしいよね。

 家族を、お姉ちゃんを守るために手に入れた力なのに、

 一回犠牲にしなきゃ全力で守れないなんて。


 ごめん。お姉ちゃん。


『精霊定義、機械、生体復元』


 瞬時に直したいから、一から創るだけじゃなく、

 天然の精霊に物質操作の権能を提供して機械精霊にする。


 バラバラになった直後に血飛沫が纏まり肉片が組み上がったお姉ちゃんを

 尻目に、エンリルが再び聞いてきた。


「……お前、リルの事、好き?」


 あたしは、とても強く言い放った。


「大っ嫌いっ!!!」

「そっか」


 また、夥しい斬撃が目の前に生まれる。


『支援、防壁バリア繊維型強化ファイバー


 精霊の力でいくら加工しようが、元は空気。

 金属や宝石みたいに傷つける力が強い訳じゃない。


「……」


 伝わってくるのは嵐のような衝撃のみで、

 高密度の結晶状に束ねた魔力を芯にした防壁は十全に働いてくれた。

 だけど、背後から声がする。


「あ、あぁ!エンリル様の魔法が直にぃ!」

「エンリル様の尊い風がこんなにもぉ!」


 後ろを見ると、観客達が攻撃を食らっていた。

 あたしが防いだ斬撃の余波や流れ弾があっちまで届いたんだ。


 ……一番恐ろしいのは、誰一人不快になっている者がいない事。

 四肢が舞い上がり、そこらじゅうが血まみれになっているのに。

 それにより、精霊も一切乱れない。

 これも全部、愛故だっていうの?


 とにかく、あたしの前で虐殺は許さない。


再指定リセット、生体復元』


 観客席全体を機械精霊の範囲に決め直して、

 怪我をした全員を瞬時に元通りにした。

 お姉ちゃんのために多めに定義しておいて良かった。


 でもさっきから天然精霊が渋々従っているって主精霊から報告される。

 これじゃあ主精霊に無駄な消耗をさせるから、どうにかしたいな。

 完全なアウェーであっても戦えているのは、流石って感じだけど。


「勝手な事、しないで」

「そっちこそ平然と人を壊すのやめて」

「別に、嫌がってないし」

「そういう問題じゃない!」

「んー」


 エンリルが抱きしめていた人形をゆっくりと放して、ベッドに寝そべる。

 直後、建物の隅から新しい人形を風で引っ張ってきて抱きしめた。

 人形に予備あるんだ……


 放した方は、ゆっくり、動いて……自立した?

 自動人形?


 違う、主精霊のが確定した……

 次元を下げてこっちに顕現させて、人形に憑依させたんだ! 

 まさか、それが使えるなんて――


「うるさいから外でにやってもらお」


 ニンリル?専用人形パートナーの名前?それとも主精霊の名前?

 いやそんなのはどうでもいい。


 風精霊による超加速でぶつかってきた人形と一緒に、

 王宮の壁をぶち抜いて外へと飛ばされた。


 咄嗟にあたしの周りの空気を集めて衝撃を和らげた。

 少し意識を飛ばしそうになったけど、常人なら失神していた。

 お姉ちゃんよりももっと耐久高そうに見えない後衛だけど、

 これでも純半だから同じくらいの頑丈さはある。


 でも、見ただけでハーピアの威力には到底及ばないと分かってしまう。

 食らってもいない攻撃を上に評価するなんて奇妙だけど、

 分析した情報からはそう推測せざるを得ない。

 エンリルはエンリルで害虫を叩くように排除しようとするけど、

 あっちは人を如何に素早く仕留めるかを追求した攻撃だった。


 ……なんか、冷たいものが斜め上から次々にぶつかってくる。


 あ、外、雨降ってる。


『水、雨、拡張水弾ホローポイント


 落ちる雨粒とその環境の流れに乗っている精霊を指定して、

 物質の発生に使うエネルギーを全部圧縮と加速に使う。


 弾頭を凹ませつつ圧縮解除の閾値を緩めにして、

 貫通させずに体内に拡散させ、

 より強い運動エネルギーを効率良く殺傷力にする。


 人形だから、頭や胸を貫いても無力化は多分できない。

 なら、全体を徹底的に破壊しなきゃ。


「……!!!」


 風を切る音と共に、水弾は次々とニンリルに食い込んでいく。


 数多の弾痕から裂け目が全身に伸びていき、身体の末端が取れかかる。

 衝撃による仰け反りもあって、なんとかニンリルの体を離すことができた。

 うん。生成の分の魔力を速度に回せた分はあるね。


 精霊によれば、物質を作るにはとてつもなく大きな力が必要で、

 魔力の持つエネルギーをそのまま換算した場合、

 本来ならば水弾や岩弾の一発さえ作れないとのこと。

 でも、この世界は魔力での物質や現象の発生に強大な補正がかかり、

 そのお陰で人類は実用レベルの物質生成を行える。

 何故こんな法則があるのかは、誰も分からないけど。


 物の重さというのも、そのとてつもない力を内包した故に生じているんだとか。

 周りの水でも土でも、それらを全て力にできたとしたら

 一瞬にして国は疎か、四獣大陸全てを簡単に壊せるらしい。


 そして、物質操作に特化した機械精霊はそんな操作が可能で、

 上位精霊術師は機械精霊を好きなだけ創る事ができる。


 ……流石にあたしはやらないし、

 世界を壊さなきゃいけないなんていう状況にも遭遇したくはない。


「治して」


 これじゃぁダメか。

 立ち上がりながら身体を全部元通りにしちゃった。

 裂け目があった部分から湯気が噴き出る。

 精霊定義も使えないのにどうやって修理を?


 一瞬、裂け目から赤白い光が見えたような。

 空気を固めて超高温にして、ひび割れを溶かして直した?

 膠とかみたいに、熱可塑性の素材でできてるのかな。


レピーダ


 掌を擦り合わせて、ニンリルはまた願いをこめた。

 また斬撃か。


「支援、防壁バリア繊維型強化ファイバー


 こっちも再び防御する。

 精霊の活性からして威力が二周りくらい上がってそうだから、

 保険としてある程度受け流せるように周りに半球状に展開した。


 壁を作り終えたと同時に、衝撃が響き始める。

 斬撃が壁にぶつけられる度に、

 竜が地団駄でも踏んでいるかのように地面が大きく揺れ、

 壁が痺れる。


 ニンリルとあたしの壁までにある地面には何本も大きな抉れができていく。

 お姉ちゃんの「繊月」をずっと大きくしたような規模。


 あれ、後ろになんか落ちて……

 見た目からして、渡り鳥?しかも、切断されてる。

 今は雨だし、空は雨雲で埋まっている。

 じゃあ雲の上を飛ぶ鳥にまで届くってこと?

 あ、遠くに見える城壁が縦に完全に割れてる。


「うわぁ、同族殺し」

「同じじゃない」


 だとしても、大鸚哥は穀食なんだから鳥を襲わないでしょ。


「(固すぎ)」


 斬撃が効かない事を確かめると、

 ニンリルは願いを変えながら手を掲げた。


 空中の広範囲から精霊を集め、槍状に風を纏めていく。

 嵐を鋭く窄めたような突きかな。


ランフォス


 風の槍の切っ先が、防壁に突き刺さった。

 螺旋を描きながら必死に突き破ろうとしているけど、

 どれだけ束ねても空気なんだから依然として破れはしない。


 流石に威力はあるようで、防壁で槍から影になっている範囲を除き、

 周りの地面が抉られ、防壁全体が少し押されている。


 どっちかというと、周りの被害のほうが酷い。

 槍の余波による突風で、家が基礎ごと浮き上がっている。

 防壁が無ければあたしも彼方まで飛ばされてそう。


「ッ……」


 ニンリルが手を振り下ろすと、槍の風力が更に強まった。

 同時に、その余波も勢いが増して、あろうことか周りの建造物が

 全てスライスされるように破壊される。

 待って、中に人が居るでしょ?

 

 また、世界も生命も弄んで。

 いい加減にしてよ。


 あぁ、やっぱり。

 壊された家屋の所々に赤色が見える。


『精霊定義、機械、構造復元』


 生き物だけじゃなく、全ての構造物が対象となるよう、

 より包括的な願いを伝える。


「これでも……足りない?」


 まずい。ニンリルが風精霊を使いすぎているのと破壊力が大き過ぎるのとで、

 定義を続けても修復が破壊に僅かに負けてる。

 というか、直したそばからまた乱暴にスライスされる。


 なんとか、防壁の担当を少し割いて……


「隙、あり」


 防壁が貫かれ、中に風が溢れてきた。

 じゃあ仕方ない……


『魔砲』


 こちらから発動者を指定しなかった場合、

 デフォルトで主精霊が選ばれる。


 防壁を解除し、主精霊に強く魔力を放出するよう願う。

 数多の強力な精霊達に指示できるだけあって、

 魔法の技量及び魔力量は一級魔術師など容易く超える。


 あたしの主精霊が、風の槍に向けて巨大な砲撃を放つ。

 ただ超高密度の魔力を現界の熱や光等に変換するだけの、単純なもの。

 太陽のように眩しい光に辺り一面が照らされ、

 砲撃が飛んでいった先、雲とぶつかった辺りが少しだけ明るくなった。


 風の槍は完全にかき消され、多大な魔力の余波に精霊達は怯む。

 エンリルも驚いているのか、少しの間棒立ちでこちらを見てくる。


「(一番偉い精霊が、魔法使った。

 じゃあ、ニンリルも……

 でも今だと、繋がり、切れる……)」


 主精霊から自身の魔力残量は九割程度だと言われた。


『精霊定義、機械、構造復元』


 今度こそ、関係ないガーレの人達を救えたかな。


 にしても、このエンリルとニンリル。

 今まで会ってきた魔法師や魔物とは全然違う。当然だけど。

 形式の是非はともかく、あたしの防御を崩し得る攻撃を描けて、

 知る限り初めて主精霊自身に魔法を使わせた。


 魔法で「戦う」って、こんな感じなんだ。

 知らなかった。


 正直、魔法の応酬、楽しい。


「(なんだか、ワクワクしてる)」


 けど、この力はそのためのものじゃない。

 愉悦のために精霊を消費するなんて、あってはならない。


 それにこれ以上の規模にされたら流石に見てらんないから、

 適当になにか話でも……


「あのさ、なんで主精霊だけでここまで精霊を扱えるの?」

「……今は、ニンリルがエンリルだから」


 つまり、現界の精神が願わなきゃいけないという条件のために、

 主精霊ニンリル術師エンリル自身のように見せている?

 でも、そんな事するにはそっくりそのまま精神を模倣でもしないと……


「まさか、何らかの方法で複製して……?」

「……元々は、エンリル……様、じゃない」

「じゃあ、あんたは一体何なの?」


 呼吸や仕草、細かい機微が変化した。

 主精霊の本来の性質を引っ張り出してきたか。


「元々は、ここに生まれた精霊の一つだった。

 私はその中で一番強くて、一番エンリル様を愛し、エンリル様を知っていたから、

 エンリル様直々に主精霊に選んで、写し鏡こいびとにしてくださった。

 うあぁう、なんて、なんて有難き幸せぇ……」


 うわ、あのちょっと可愛いだけの仏頂面が恍惚としてるの、気味悪いな。

 つまり、相手を知りたい心だけでほぼ同一といえるくらい精神を似せたのか。

 そんな事が、可能なんだ……


「民も精霊も……なんで皆して自己中殺人鳥あんなのを好いてるわけ?

 どこがいいの?」

「好きになるのに、理由はいらない」

「それを言えるのは人に迷惑をかけてない奴らだけでしょ。

 理由も説明できないのに人を害さないで」

「お前だって、ミオを愛してるでしょ。リル達の事、分かるはず」

「は、いや、は?」


 ちょ、キモ、こいつ何言ってんの。

 そんな訳無いじゃん。

 あんな変態毛玉なんて誰が好きになるんだ。

 あくまで恋人じゃなくて姉として頼りにしてるってだけで。


「動揺しすぎ。さっきミオが断った時だって、お前の魂、とても落ち着いた」

「そんな訳無いし!」

「嘘。お前達はラブラブで、本当はお互い以外どうでもいい」

「うるさいっ!『水、圧縮、大鎚』!」

「(なんでこうも否定するんだろ)」


 大量の雨水を集めて、そこらの家よりも巨大なハンマーに成形する。

 風で吹き飛ばされないよう、魔力で強固に圧縮固定して、

 全体を加速させその質量を全てニンリルにぶつける。


「……『旋風ティフォーナス』」


 ニンリルの周りに、猛々しい嵐が巻き起こった。


 ニンリルの頭上まで届く一歩前で、暴れる風に鎚が削られてゆく。

 ついでに、周辺の家も巻き上げられていって。


 なんで?ちゃんと固めたはずなのに。

 ……ジャリジャリと、音が聞こえる。

 あぁ、風と一緒に硬い石や岩精霊を巻き上げて、刃にしているのか。


 集めた水が、容易く全てかき消されてしまった。


「ねぇ、なんでこんなしょぼいのばっかりなの?」

「家が壊れるのは迷惑でしょ」

「まだ、そんなの気にしてるんだ。

 精霊使いに勝てる奴なんか、いないのに」

「……それがダメなんだって」

「そろそろ、雨も消す。寒いの嫌」


 そう言って、ニンリルは願いを雲のところへと向けた。

 ガーレ中の風精霊達が黄金色に輝きながら天に昇ってゆく。


 まさか、雲を全部吹き飛ばす気?

 そんな事したら、精霊がかなり消費されて……

 あ、ここの精霊はエンリル達にどう使われてもいいんだった。


 ……正しい精霊術って、何なの?


「ほら、ぱーん」


 ニンリルが手を叩くと、国に被さるような雨雲に大きな穴が開き、

 一瞬で広がってゆく。

 あたし達の周りを落ちる雨粒も全て吹き飛ばされ、

 城壁の上に見える限り少なくとも周囲三キロの上空が

 にわか雨なんかよりも早く天候が快晴へと切り替わる。


 遠くに見える王宮や周りの建物が照らされ、

 ニンリルの金色の髪と毛、白い肌、青い服が陽光に映える。


「ぴかぴかのリル、可愛いでしょ」

「……」


 これだけの願い、ガーレの風精霊の大半が消耗して……

 あれ、みんな無事に降りてきた……?


 え、どういう事?

 今までの経験からして、こんな範囲で雲を散らすくらいの出力をしたら、

 いくら風精霊と言えども三割から五割は消滅するはず。


「なんで、みんな無事なの?」

「……?これくらい、何とも無いけど。

 今まで、いっぱいやってきたし」

「そ、そんなはず無い!精霊を無駄遣いしないで!

 それが精霊の力を使わせてもらう上での掟なのに!」

「掟?……教わって、成ったの?

 しかもそんな、強い精霊使うのに?」


 あたしの経験や知識と全く異なる状況が発生している。

 ガーレにいる風精霊が特別に強かったりするだけ?

 いや、願ったり主精霊と共に観察した限り、至って普通の精霊。


 じゃあ、原因は他にある?今の状況とこれまでの経験の違い……

 術師と主精霊、口ぶりからして術師の成り方と価値観……


 エンリルとその主精霊ニンリルは遠慮も無く力をただただ使いまくって、

 あたしはある程度様子を伺いながらお願いをする。

 精霊ってのは、繊細なんだ。だから、丁寧に接するべき。

 奴隷のように扱うなんて、以ての外……


 繊細。そう、繊細で、失礼な態度を取れば機嫌を悪くする。

 あたしが出会ってきた精霊はみんな、そんな性質性格だった。

 術師として認められる出会ったのを除いて、例外無く。


 精霊は、術師の願いに従う。

 願いというのは、こうであるはずだという「思い込み」も、含まれる?

 まさか、そんな、はずが……


 この世界は精霊術師のためにある訳じゃない。

 思い込みさえすれば精霊の力が無限になるなんて、世界が壊れる。

 せめて魔法が真に全能なら、魔術や魔導術の時点でそうなるべきでしょ?


 この世の全ては有限だからこそ、願いだけでは限界があるからこそ、

 世界に意味が生まれて、四獣大陸は今まで繁栄してきたんじゃないの?


 それとも、邪神達を止めるために授けられた一時的な力?

 いやいや、こんな力を与えられて邪神を厭う存在がいるなら、

 そいつが直接退治すればいい。てか、してくれ。


 確かにあたしは昔、お姉ちゃんを助けられるような、

 何者も偃せられるような無敵の力が欲しいって思ったよ。

 だからって本当に、こんな美味い話がある?

 制約無しに、大いなる力を好きに使えるなんてことが。


 先人達の教えは一体何だったっていうの?

 あたしはずっと特別で、もっと世界を好きにしていいの?

 わざわざお姉ちゃんを一瞬死なせて、その敵討ちのためなんていう、

 大義名分なんか必要とせずに。


 もっと好きなように、願ってもいいの?


 じゃあ、あたしは、シャトレスと世界の平和のために、

 ここの国王を支配しなきゃならない。


「お、目に、殺意出た。

 ようやく怒って、リルを本気で見てくれる?」

「さっきからうっさい……

 『全精霊オムニス権限上書オーバーライド静止フリーズ』」


 ここらの精霊に流れる時間を打ち消したり、奪ったりして、一切の活動を止める。

 大変だろうけど……


 …………いいや、上位精霊なんだから、余裕だよね?


 空気は固定されて、ニンリルは一切動けなく、精霊も使えなくなった。

 そして、それらで得た力を精霊界の方向から現界の一点に限りなく重ねて、

 限りなく密になった質量を一瞬だけ、顕現させる。


『時空、制限レストリクト基底アンカー:ニンリル、特異点ブラックホール


 ニンリルを中心とした数メートルほどの範囲の光景がレンズを通したように歪む。

 うん。重力の厳粛な範囲制限はしっかりと全うしてるね。結構。


「……とりあえず、一回死ねよ人殺し」


 一瞬、真っ黒な円が浮かび、人形はその中に跡形もなく消えた。

 一応、ここらの建物が引っ張られて割れてないか術前との差分で確かめる。

 うん、大丈夫そう。


 じゃあ、早くお姉ちゃんの所に戻ろう。




[王宮の舞台上、ミオ視点]


 しかしまぁ、死の苦痛というのは慣れない。

 アカリから痛めつけられるのはとっても気持ちいいのに。


 それで、状況はどうなって……

 エンリルに殺されかけた男はいつの間にかいなくなってて、

 壁に空いた大きな穴。


 外で戦ってるのか。

 アカリなら負けないな。


 とりあえず、アカリにお姉ちゃんが惨殺される様なんてものを見せた

 エンリルを一発殴ろう。


「うああぁああぁあぁっ!!!」


 そう思って立ち上がろうとしたら、一人の女が駆け上がってきた。

 右手にはナイフを持って、血走った目でエンリルを見つめる。


「あ、あぁたしの夫を返せぇっっ!!!」


 あーそういう系か。

 エンリルなら恨みの十個や百個作ってても不思議じゃないな。

 アカリに精霊の力を割いてる今は大きなチャンスだね。


 女はナイフを固く構えて、エンリルに向かって一直線に走った。

 それはもう、深々と突き刺すつもりなのがよく分かる。


 その凶刃がエンリルに肉薄した瞬間、

 舞台袖に相当するところから何かの影が伸びた。


 その影は、ナイフを火花と共に弾き飛ばし、

 エンリルの前に跪いた。


「遅れてしまい、大変申し訳ありません。

 本日の小昼の準備が整いました」


 影の正体は、小綺麗な格好をした鳥獣人のジジイ

 絵に描いたような執事って感じだね。


 衝撃でよろけた女は、すぐに立て直してエンリルに殴りかかろうとした。

 が、突き出した拳を簡単に執事に掴まれて動けなくなる。


「お嬢さん、少々熱意を抑えて頂けると」

「……」


 エンリルが首を横に振って、何かを伝えた。


「そうですか……承知致しました。

 では、ください」


 すると、執事は滑らかに女を掴むのをやめた。


 エンリルは女性の渾身の殴打を頬にそのまま食らって、

 ベッドボードや後ろの壁に激突した。


「う、ぶぅ……」


 うわ、頬真っ赤、鼻血も出てる。

 傍から見りゃ完全に虐待なんだけど。

 でも、エンリルはこの行為を容認したってことだよな。


 何のためなのか考えようとした瞬間――


「びああぁああぁ!!!やあああぁあぁっ!!!

 え゛ゔぅ、ゔうぅ!!ああああぁぁああぁ!!!」


 涙と鼻水と涎を滝のように流して喚き始めた。

 とっても見た目相応の、恐怖と激痛故の号泣。

 何のつもりだろう。

 まさか、人殺しておいて痛いのが嫌だとかじゃないだろうな。


「ぎゃあぎゃあ泣くんじゃないっ!

 こんなのよりずっとずっと酷いのを夫はされたのよぉ!」

「やあぁっ!!!あああああぁ!!!」


 腕や髪を引っ張られて持ち上げられる度、

 殴られる度、蹴られる度、踏みつけられる度に、

 頬や身体はどんどん腫れて、その泣き声は激しさを増す。


 エンリルも女の腕を振り払おうとしたり、

 降りかかる拳を両腕で防ごうとしたり。

 本気で怯えて、耐えたり逃げようとしてる。

 あっ、背中の羽パタパタできるんだ。


 いくら敵討ちとは言え、こんなちっちゃい見た目の奴を

 思いっきり暴行できる女のほうも大分イカれてるな。

 常日頃からこんな事をやってるとしか思えないくらいに

 手慣れた様子で暴力を振るってらっしゃる。


 うん。ご覧の通り酷い現場なのは明らかなんだけど。

 なんというか、違和感がある。

 小さい子を躊躇もなく虐げる加害者の大人に、

 子供らしさ満載の振る舞いで逃げようとする被害者の子供。

 あまりにもこの光景の痛々しさが「完璧」すぎる。


 そうだ。いくらその三歳前後の見た目とは言え、

 純半なんだから一般女性から逃げるなんて簡単じゃないの?

 なのにどういう訳か、エンリルは女の攻撃を食らい続けている。


 ……もしかして、号泣も恐怖も、演技?


「はぁっ、はぁ……何よその顔、それに鼻水や血もこんなにっ……

 抵抗も怯え方も幼子らしくて、切実でぇ……

 こ、こんなの、こんなのっ……」


 復讐である事を差し引いても、女はとても嬉しそうな顔をしていた。

 そして、深呼吸して、様々な体液に塗れたエンリルを片腕で持ち上げながら、

 目線が虚ろなエンリルに顔を近づけて。


「惚れるしかないじゃなぁい!!!」


 ……………………


 うわぁ……


「ね……ぇ……お、まぇ……エンリルの、こ、こと、好き?」

「えぇ、えぇえぇ!その通りです!あたし決めました!

 今日からガーレに移住します!

 あなた様はすぐに逃げ出したあんな腑抜けの元旦那とは違う!

 私の運命の相手は、エンリル様だったのね!!!」

「じゃあ……後で人形、送る。中身、ありの」

「あ、ありがとうございます!ありがとうございます!!」


 そういって、女はエンリルを放してベッドの前にひれ伏した。


 どこからが茶番だったんだこれ。

 んーでも、女は最初本気っぽかったし。

 復讐に狂うあまり、エンリルしか見えてなくて。


 エンリルはそれに気づいて、

 あえて全部食らって女の加虐趣味を引き出しつつ、受け入れた。

 それも、愛としてカウントされるんだ……


「……はぁ……はぁ」


 あ、入口のほうからアカリが走ってきた。

 勝ったんだね。すごい。


「(何この状況?

 エンリルはボコボコだし、知らない女がひれ伏してるし。

 まぁいい)

 おい、エンリル」

「……」


 やだ、怒ってるアカリ、可愛くてかっこいい……


『精霊定義、機械、治癒』


 アカリが、エンリルを治した?

 何するんだろう。


「ふー……はぁ……」


 深呼吸してから、エンリルの胸ぐらを掴んで……


「ぁ……?」


 ベッドから引きずり降ろして、

 私の前の床に顔から思いっきり叩きつけた。


「ごめんなさいは?」

「ぶ……」

「お姉ちゃんに、ごめんなさいはぁ!?」


 あ、なるほど。

 私のために叱ってくれるんだ。


 嬉しいなぁ……

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