後編
神主さんの祭文の歌い上げが終わると、唐突に神楽が始まった。北神さんが両の腕を大きく開き、手にした神楽鈴を強く震わせると同時に、わざとだろう、大きな足音を立てて神楽堂の奥から、一足で正面まで跳躍した。
私は思わず驚いた。自分のいる目の前、真正面に北神さんが来たこともだけど、その北神さんが跳躍した距離にだ。神楽堂の奥から正面までは5mはある。それを助走もなしで一跳びに跳んだ身体能力に驚いた。
着地の音も大きいがそれ以上に、また強く鈴を一度鳴らす。すると、今度は摺り足で静かに下がりながら、鈴を細やかに鳴らす。そして、また大きく跳躍。今度は正面ではなく左側へ、そして再び静かに下がりながら、鈴を細やかに鳴らしている。そして、三度跳躍、同じように鈴を細やかに鳴らしながら下がっていく。なんとなくだけれど、この跳躍と鈴の音が表すものが分かったような気がする。
多分、潮騒だ。波が砕けて、引いていく、あの音だ。三方に跳び終わったかと思うと、今度は神楽堂の真ん中で立ちつくし、開いた腕を緩め、鈴を先ほどより細やかに鳴らしていく。
きっとこれは凪の時の海だ。静かで優しい感じのする海だ。北神さんは、しばらくその場で鈴を鳴らしていたかと思うと、また摺り足でゆっくりと静かに三方を回っていく。あぁ、きっと北神さんの神楽は、この神楽堂に海を再現しようとしているんだ。
優しい海も、それと多分、残酷な海も。静かに三方を回り終えると、再び北神さんは、神楽堂の中心へと戻ると、今度は左腕を下に、右腕を上に強く鈴を鳴らし、続けて腕の上下を逆にして、また強く鈴を鳴らす。短い跳躍とともに体を捩じり、回転しながら強く、何度も鈴を鳴らす。跳ぶ方向は先ほどまでとは打って変わって、まったくめちゃくちゃ。強くならされる鈴の音と床板を踏み鳴らす音が、神楽堂に響き渡っていく。これはきっと時化の海だ。躊躇も規則性も何もない荒れた海、お父さんを奪った海だ。
何度も何度も、中央と三方を身を捩じりながら、鈴を鳴らし跳びまわるそれが、20分ほど続いたころだろうか、海から音が、いや声が聞こえてきた。低く高く何かが哭いている、ちがう泣いている。そして、私はふと気づいた。周りに緑色に光る小さな明かりが飛び回っていることに。海から泣き声が聞こえるごとに、その数は増えていく。
「そろそろかのぅ」
おじいちゃんが小声でぼそりと呟く。北神さんの神楽はまた最初に戻って、波と潮騒を表し始めた。おそらく、ここまでが一つの区切りなんだ。小さな明かりは、周りの人たちの近くにも集まり始め、徐々に輪郭をとり始めた。それは、私の家族の周りでも同じだ。ふわふわと漂っていた明かりが、意思を持つかのように確かな形を持って集まり始める。それは人の形だ。そして、神楽堂の北神さんの強い鈴の音と、海からの泣き声が重なったとき、それは起きた。緑の明かりが弾け飛び、人の形が誰かはっきりとした。
「お父さん…」
思わず呟いた。目の前には5年前、漁に出ていくと見送ったあの時の姿のままのお父さんの姿があった。『陸に戻す』とはこういう意味だったのか。
「浩一さん」
「喜美、苦労をかけてすまない」
お母さんがそう言って、お父さんに抱きつき、お父さんも抱き返している。娘の私は恥ずかしいなと思ったけど、周りを見渡すとどこも同じようなものだった。『陸に戻った』人に抱きつく人、泣き出す人、中にははたく人なんかもいた。ただきっと同じなのは、離れてしまった人への愛情だと思う。
「浩一さん、優香も高校3年生になったのよ。お父さんがいたころと同じように空手、続けているのよ」
お母さんが私に話を振って、思わずびくんとする。
「大きくなったな、優香。空手続けているってことは浜石高校の空手部か?」
「あ~、うん。そう、浜石高校の女子空手部の主将やってた。インターハイまで入ったけどベスト8がいっぱいいっぱいだった」
「インターハイに出るなんてすごいじゃないか‼ しかもベスト8なんて‼」
昔、お父さんに日本一の空手家になるなんて言ってたことがあった手前、妙に恥ずかしく言葉を濁してしまった。だけど、お父さんは喜んでくれて、昔と変わらない手で私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。恥ずかしいよりも、純粋に嬉しかった。もう会えないと、伝えられないと思った人に会うことができ、伝えられることがこの上なく嬉しかった。そこからは、この5年間で変わったことや、成長したこと、いろんなことを、おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、私が矢継ぎ早に話していった。時間はあっという間に過ぎ去っていき、その時が来た。シャン、と北神さんが鈴を強く鳴らした。
「もう、時間かぁ。早いもんじゃのう」
おばあちゃんが寂しそうにつぶやく。
「なぁに、わしらは老い先短いんじゃし、すぐに浩一と顔をあわせれるわい」
おじいちゃんが冗談めかして言う。時間、それは別れの時が来たということなのだろう。
「浩一さん、こんなこと言うのも変だけど、あっちでも元気でね。これ、好きだったたこ焼き、持って行って」
「おぅ、サンキュ」
お母さんが涙交じりにたこ焼きを渡すと、お父さんはしんみりした空気を嫌うように、明るく返していた。私も何か言わなきゃ、これがお父さんと話せる最後のチャンスなんだ。
「お、お父さん!」
「なんだ、優香?」
「あの、その…」
気持ちが焦り言葉が出てこない。それをみてか、お父さんの方が話しかけてきた。
「優香、空手に没頭するのもいいけど、可愛げもなくちゃ嫁の貰い手がなくなるぞ」
お父さんが茶化して言う。
「よ、嫁って、私にはまだ早いでしょ」
「かもしれんが、お淑やかさも身につけておいて損はないだろ。いつまでも男勝りでは父さんも安心して眠れないからな」
「分かったわよ、お淑やかに努めます‼ お父さんもあっちでお酒ばかり飲んじゃ駄目だよ」
「うぐっ、わかったわかった」
軽口でお父さんに返すと、それを待っていてくれたかのように、その姿が薄くなり始めた。いよいよ、その時なんだろう。覚悟はしていたけど、私の目元がジワリとにじむ。
「お、お父さん…」
「泣くな、優香。いつかはまた、会えるんだ。生きている以上な…」
お父さんは私を軽く抱きしめてくれる。
「できることなら、それが遠いことを願うよ。そしてその時にたくさんの土産話を持ってきてくれ、約束だ」
抱きしめてくれているお父さんの感触がだんだん曖昧なものに変わっていく。
「うん、うん、お父さん、約束する」
「じゃあ、お別れだ。安心して成仏させてもらうよ」
その言葉を最後に、曖昧だった感触が、とうとうすぅっと空にとけていった。北神さんが緩く、規則的に鈴を鳴らしている。なぜか寂しさはなかった。ただ、大切な約束が私にはできた。
こうして50年に1度の特別な神楽は終わりを迎えた。
次の日、黒龍神社に行くと、鳥居をくぐって出てきた北神さんと鉢合わせした。
「昨日は心残しなく、語り合えたか?」
「はい、まさかあんなことが起こるなんて予想しなかったです」
「まぁ、普通のことじゃあないわな。ここの龍神様を俺の体に神降ろしをして、その神通力を持って氏子を陸に戻したのさ」
「??」
「あぁ、分からなくてもいいさ。こっちの話さね。そうだ、こうやって鉢合わせしたのも何かの縁、この名刺をどうぞ」
北神さんが懐の名刺入れから一枚の名刺を差し出してくる。私は受け取って名刺を見る。
「拝み屋九十九堂、北神大希?」
「厄介ごとがあれば、書いてあるところに電話してくれれば良心的な値段で解決するぜ」
「神職の人じゃないんですか?」
「残念ながらね。さて、次の仕事が入ってるから俺はいくぜ」
そういって、北神さんはバイクにまたがるとエンジンをかける。ヘルメットを被ると、振り向きもせずに道にバイクを走らせて行った。私の手に残ったのは一枚の名刺。早速、お父さんへの土産話ができたような気がした。
「誰そ彼に海は泣く」 剣の杜 @Talkstand_bungeibu
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