4-2:公爵領街「ヘルツォーグ」
西の空に太陽が落ちていくのを、アラドンは窓から見ていた。
「それでは、本日の授業を終了します。明日までの課題をお部屋に運んでおきますから、今日の夜はきっちり復習と予習をしてくださいね」
そう言ったのは、帝王学の講義だった。
貴族の元に返されてから二か月、毎日の勉強は、すでに彼の日課になっていた。
無感情な講師に、アラドンは返事を返さない。これもまた、日常だ。
まして、講師の言葉は話半分にしか聞いていなかった。アラドンはこれまでの生活の中で、言葉は喋れても字は書けず読めなかった。
ニーナから農作業の傍ら少しずつ教えて貰っていたが、やはり仕事の合間ではあまり勉強は進まなかった。
逆に仕事は何もなく、ただ勉強にのみ打ち込めるこの状況。アラドンは干物が水を吸って膨れるようにどんどん言葉を習得していった。それとは対照的に、この屋敷に訪れる人間たちへの嫌悪感を募らせていく。
なまじ知識を得るから、窓の外に焦燥と苛立ちを募らせる。
「ようやく行ったか……」
講師が部屋を出ていくと、アラドンは窓の外を眺める。
バルコニーにまでは出ることができても、外に出られないように嵌められた鉄格子が自由を阻む。
「ニーナ。君は今日も、戦ってるのか……」
貴族の屋敷は、街の中心部にあって、周囲の建物と合わせてこの街の政治も経済も担う場所だった。
高い建物が周りに少ないため、彼のいる部屋からも周囲の景色はよく見えた。眼下の城下町は賑わい、かつてアラドンが根城にしていた裏通りや貧民街も上から見える。
ただし、街を守るために囲っている壁の向こう側までは見えない。
どんな魔物が現れて、あの古龍がどんなふうに戦っているのか、見ることはできない。
時折空に舞い上がった瞬間見えることもあるが、それも一瞬。
森とは反対側を向いている部屋のため、飛んでくる彼女の姿を見ることもできない。
「幸福って、自由って、何なんだろうな……」
ニーナは、人間は人間の中に幸福があると言って送り出した。
きっと、彼女の言葉は間違いではない。人間と古龍――生物として全く違う存在が一緒に暮らせば、いつか問題が起きるかもしれない。
人間同士ですら問題は多々あるのだ。捕食者と被捕食者のような関係性が、いつまでも成り立つわけがない。
けれど、人間たちの中にも、アラドンの幸福はない。
「みんなは、どうしてるんだろう」
ほんの半年ちょっと前までは一緒に過ごしていた、孤児たちが気になった。
今アラドンが暮らしている屋敷は、以前盗みに入って失敗した結果、捕まった屋敷だ。他の仲間たちは逃げ切った中、アラドンだけが取り残された。
別段、それで彼らを恨んだことはない。裏切りも置き去りも常の世界、むしろ捕まったおかげでニーナに会えたというのなら、幸福と言っていい。
今年の冬で全滅していなければ、裏通りや下水道で暮らしているはずだ。
「会いに行こう。行かなくちゃ――!」
半年前と、この街は変わりがない。
住民のほとんどは、平穏な生活を営んでいる。領主である貴族は、決して愚かな男ではない。民をないがしろにすることもなければ、余計な搾取で嫌悪感を抱かせることもない。うまい具合に調整のとれた治世と言える。
けれど、領主の庇護に含まれない者たちはいる。
路地の奥、橋の裏、道路の下、崩れかけた家の中――アラドンがかつていた場所に。
部屋に戻り、出入り口に耳を当てる。教師の足音が遠ざかり、見張りの気配はない。扉には鍵がかかり、内側からでは鍵がなくては開けられない。
「力を借りるよ、ニーナ」
あの日、森から街へと飛ばされたとき、アラドンの手の中に残っていたのは、ニーナの数本の毛束だけだった。道具は何もなく、爪はきれいに切りそろえられ、素手で鍵を開けることは難しい。
けれど、古龍の毛束が残っていた。捩じり縒って硬い一本の糸にする。
今までなら伸ばした爪や、事前に盗んだ鍵を使って開けるのだが、ここにいるのはもう道具いらずのアラドンではない。
古龍の毛は温めると固くなる。竜の毛の性質なのかどう変わらないが、都合がいい。
古龍の毛束で鍵を開けると、誰にも見つからないうちに窓を開放、壁を伝って外に到達する。堅苦しい服を脱ぎ捨て、半分下着のような恰好で街へ向かう。
浮浪児が下着どころか何も来ていない状態で街の裏通りを歩くなど、この街にとってはよくある光景だ。誰も咎めることもなく、アラドンは久しぶりの街を駆け抜ける。
息を切らして辿り着いた場所は、見覚えのある風景とは、違っていた。
「なんだ、これ……焼け焦げて……え?」
孤児たちの溜まり場であった教会は焼け落ち、黒い炭のようになっていた。
確かに貧民街は放火や暴力が多く、危険な地帯だ。だがそれは、貧民街の住人自体が危険なわけではない。貧民街だからなにをしてもいい、という考えを持った外部の者による犯行の方が多い。
そのため、浄化や清掃という言葉を使って、火を放たれることもある。まさか教会もその被害に遭ったのか。
「もしや、そこにおるのはアラドンか」
聞こえた声に振り替えると、見覚えのある人物がいる。
「爺さん! 教会が、みんなは!?」
この貧民街に昔から住む、住人たちの相談役の老人だった。腰が曲がり、自分で仕事ができず皆からの施しを受ける代わりに、様々な相談を持ち掛けられる知恵袋だ。
半年ほど見なかっただけで、ずいぶんと小さくなったようにアラドンには思えた。
「貴族どもに捕まって、殺されたと思っておったが、無事だったのか」
「う、うん。オレはこの通り。それより、みんなは?」
特別な仲間意識があったわけではない。けれど、短いながら苦楽を共にした仲なのだ。溜まり場であった教会が焼け落ち、どうなったのかと心がざわつく。
「ああ、あれはな。最近魔物が増えているのは知っておろう。街を防衛するための兵士が足りん。貧民街の住民は根こそぎ、壁の防衛に駆り出されておる。今も、昼夜問わず壁を築き直し、魔物の餌になることを覚悟で武器を持っておるだろう」
それを聞くと、アラドンはへなへなとその場に膝を付く。
「そっか……死んじゃった訳じゃないんだ……」
「ああ、じゃが、奴らは逃げ出す者に容赦ない。それを示すように教会に火を放ち、孤児たちの帰る場所を奪ったのじゃよ」
あの場所に、思い入れがないわけではない。少なくとも盗みを働く前は、修道士によって育てられた家のような場所なのだ。
家も、仲間も、貴族が奪っていった。悔しさに地面を殴るアラドンの肩を、老人は軽く叩く。
「わしはもう老い先短いでな。今更奴らに何を奪われた程度で憂いはない」
しわがれた声で告げるのは、年長者ゆえの悟り。
「だが、お前さんはまだ幼い。早いところ、この街から離れ、己の幸せを探すがいい。人の寿命などたかが六十、中には人と一緒におらん方が幸せな者もおる」
この老人は、言うなればアラドンのような盗人の師匠に当たる。足は動かなくなったが頭と口と指は動く。アラドンの背中を軽く叩く。
「ほら、行くがよい。若人よ」
そう言って、アラドンを送り出す。
いつの間にかアラドンの懐からニーナの毛束を盗み、懐に入れようとしていたことだけは、咎めないわけにはいかないが。
「その手癖がなけりゃ、人生の師匠として敬えたんだけどな」
「ふふっ、半年も顔を見せんで、なまったかと思ったがそうでもないみたいじゃな」
ニカリと笑う老人にアラドンは苦笑を返す。
太陽がすっかり地平線の向こうに隠れる頃には、彼らのいる貧民街は闇夜に包まれる。だが、その日は不思議と明かりが溢れる。
ランプを持った貴族の私兵が貧民街を取り囲んでいたのだ。
「なんじゃ、貴様ら! もう連れていく住民なんぞ残っておらんというのに」
私兵の集結に警戒する老人はアラドンを守ろうというように後ろに下げる。
震える足を支えた杖を武器のように構え、皺だらけの目じりを細めて睨む。
微動だにしない私兵たちに変わり、アラドンが老人を止める。
「大丈夫、オレの用事だから」
「何?」
アラドンの言葉に、老人は眼を丸くする。杖を降ろさせ、アラドンは前に出る。
ニーナの毛束を取り戻したアラドンは、懐に大切そうにしまうと真っ直ぐ私兵に向けて歩き出した。
その姿を認めると、私兵の一人が腰を曲げて迎え入れる。
「殿下、お探ししました。勝手に出歩かれては、困ります」
「勝手に出歩かれるような警備を敷いていたお前たちの落ち度だ。こんなものでは簡単に侵入だって許すぞ」
「ご指摘、痛み入ります」
あえて私兵たちには強い言葉で返す。彼らが殿下と呼ぶ以上、アラドンは自分がないがしろにされることはないとわかっている。だからこそ、語気を強める。
「すぐに撤収しろ。もう、オレはここに用がない」
「御意」
アラドンの言葉に一切反論もなく、私兵は迅速に移動していく。何が起こっているのかわからない老人は言葉を発することもできず、歩いていくアラドンを見送るしかない。
ただ、彼の何かが変わったということだけは、理解できていたことだろう。
※アラドンを生贄に差し出した公爵の家名でもあり、街の名前でもある。
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