3-2:邪竜伝説「ハムダン」
そして、雪は解け、春の温かな日差しを全身に受ける時が来た。
「うーん、いい朝です!」
玄関を開けて庭に飛び出し、ぐぐっ、と背伸びをするニーナ。彼女に誘われて、アラドンは森の散歩に出かけた。
「あ、アラドンくん見てください。イチゴが生っています」
「そういえば、ここの農園にはイチゴはなかったな」
様々な果実、野菜、根菜を育てるニーナの農園だが、そこにイチゴはない。
むろん世界全ての作物を育てているわけではないので、探せば森にはあっても農園にないものはいくらでもある。
「イチゴは自生している分でも十分収穫できるので、こうして散歩している時に見つけたら採るようにしているんです」
腰に提げたポーチを開き、まだ少し硬いものを選んで入れていく。
「まだちょっと硬いですから持ち帰って少し熟すのを待ちましょうか。余ったらジャムにしてもいいですし、シロップ漬けにしても美味しいですよ」
ニーナに促され、アラドンもイチゴを摘み始める。
時折赤く熟したものを見つけては齧り、その甘さに頬が緩む。
「イチゴか、街にいる時は、盗んだものしか食べたことなかったけど……」
「採れたては瑞々しくていいですよね。やっぱりお店に並べられるまでの間で、結構乾燥しちゃいますから」
楽しそうにイチゴを摘む彼女を横目に、アラドンは街の方角を見る。森の木々の向こう。枝葉をどければ、街を囲む壁の一部くらいは見えることもあるだろう。
そう思うと、少し気になることはあった。
多少の逡巡のあと、ニーナにそのことを切り出す。
「冬を越えたのはいいけど、街の奴らが気にしていた魔物のこととか、何もしなくてよかったのか?」
アラドンを生贄に寄越した街の住民を助けることなく半年以上――七か月ほどがすでに経ってしまった。
今までの人生で最も濃密な半年だったとアラドンは思うが、三百年生きている古龍(かのじょ)にとっては、一瞬に等しいだろう。
少年にとって大切な月日だった。瞬く間に過ぎ去ってしまったように思える日々のなかで、一度も気にしなかったわけではない。
少なくとも、一緒に盗みを働いた仲間のことくらいは気にした。
気にしたと言っても、助けようという気にはならなかったが。
「黄金の塊でも持ってきたら、まぁ考えます。アラドンくんを寄越してくれたことには感謝しますが、それとこれは別ですから」
あくまで、彼はニーナにとって客。そこから進んだ同居人なのだ。
竜を動かしたいと思うのなら、竜が求めるものを差し出さなくてはならない。
それは竜以外の神獣と呼ばれる特別な獣たちにとっては当然のことだ。
対価なくして契約はなく、契約なくして行動なし。ヒトの身から神獣となったニーナにとっても、その大原則は変わらない。
「黄金って、そんなものでいいのか?」
「ええ、竜とは力の象徴。わたしたちは黄金とともにあることで、その力を高めます」
「黄金で? なんで?」
「わたしも正直よく知りませんが、お義父さんが言うには、竜とは元来人の欲を担う存在なのだそうです」
ニーナの言い回しに首を傾げるアラドンだが、一つ思い当たる節があった。
「昔話で大体竜は黄金を持っているっていうのは、そういう理由なのか?」
「ええ。地域によっては、黄金を独り占めしようとした男が邪竜になったという話があります。逆に言えば、黄金を守る者は竜である、という解釈もできます」
竜の中には黄金の輝きに幸福感を覚える個体もいるとニーナはいう。
「じゃあ、ニーナも?」
「いいえ。わたしは高いお買い物をする元手が欲しいだけです」
なければ我慢するが、あるのなら買う。それがニーナの買い物に対する信条だった。
「生贄なんて送られても困りますし、そもそも、そんな慣習お義父さんのころからもなかったはずですけど……どこで間違ったんでしょうか」
「つまり生贄なんてしても意味ない、と」
もちろん、とニーナは肯く。アラドンはその言葉に黙考するが、うんと一度頷く。
「まぁ、確かに人間一人生贄にした程度で何かできるわけないもんな。魔法は使えないし、だからと言って特別な価値があるわけでもないし」
「そういうことです。だからアラドンくんは生贄ではなく、わたしのお客様なんです」
その客が来てから、もう半年以上は経ってしまったのだが。
ただ、とニーナは口ごもる。
「もっと南の竜たちならそれで満足かもしれません。心臓とか、肝臓とか、結構血みどろとしたものが好きなんですよ、あの竜たち」
口元を抑え、目を伏せるニーナ。おそらくその食事現場に居合わせたことがあるのだろうとアラドンは思う。どうやら、あまり思い出したくない様子だった。
しばらくして落ち着きを取り戻すと、アラドンと同じく街の方角を見えて呟く。
「昔の人はきちんと知っていたはずなんですけどね、この地域の竜について」
どうしてこうなったと、ニーナは首を傾げる。
今頃街では古龍が助けに来てくれないことで、慌てふためいて過去の記録を洗っているだろうか。それとも竜の助けを期待せず、自分たちで戦っているのか。
アラドンが冬至に造る杖について知らなかったように、ニーナやその先代の竜について、あの街では忘れ去られてしまったことなのかもしれない。
ただ感謝するべきは、その勘違いでアラドンは救われたということ。
「あの貴族の野郎、下調べもなしにオレを放置したってことなのか」
そもそも、あの貴族はまだ古龍を求めているのだろうか。
張り付いたような笑みと、自分を見下す眼は、まだ覚えている。
忘れたくても、忘れられなかった。
「アラドンくんは、自分を生贄にした街の人たちが気になりますか?」
「……そんなわけあるか、あんな奴ら!」
ニーナからの問いかけに、力強く反論する。
街に溢れる孤児を助けようとせず、小さな教会がその役目を一手に引き受けていた。それも潰れれば誰も手を貸してはくれない。
あの街に、いい思い出も感謝するべき人間もいない。
だから徒党を組んだ。遠慮もしなかった。盗みを繰り返す中で、仲間の孤児が何人も挫け、倒れ、潰れていく様は見て来たが、助けようという気持ちはわかない。
あんな場所がどうなろうと――アラドンは、関係ないと首を振る。
そんな彼に、ニーナは少しだけ困ったような笑みを向けていた。
「なら、いいんです。もしかしたら、アラドンくんはまだあの街に戻りたいんじゃないかって、思ったんですけどね」
「ないよ。あんな街に、戻りたいなんて……」
ぐっと、服の端を握りしめる。
竜が人を助けるのは明確な理由と対価があるときだけだ。
世界最強の生物、そう呼ばれることもある古龍が手を貸せば、誰にも止めることのできない力になる。
ニーナはそれがわかっているから、自ら人間に契約を持ちかけはしない。
彼女は決して義憤や同情で動くわけではない。アラドンを住まわせたのも、農作業の人手を確保するという目的があったからだ。
――竜とは、本来そういうもののはずであった。
今のニーナは、明らかに竜と人の関係から逸脱した状況を作り出していた。
そのことにアラドンが、全く不安を感じてないというわけではなかった。
※「ハムダン」は欲望に塗れた人間が至ったという邪竜のこと。竜奉教会においても邪竜として扱われる。一般的には単なる寓話とされているが……。
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