1-5:お気に入りはヤマアジサイ
古龍の巣――ならぬ住処に招き入れられた少年アラドン。
未だ混乱収まらぬアラドンだが、ニーナに促されるまま彼女の家に入り、椅子に座らされる。
「すぐにお茶も入れますね、お菓子もあるんですよ」
そう言って、彼女は壁に掛けられた白いエプロンを手に取った。
鍋に水を張り、焜炉に薪を並べると息を吹きかける。一瞬にして火が付き、お湯を沸かしていく。
エプロンをつけた彼女の姿は、大きな家で雇われている侍女のように見える。アラドンには、盗みに入った貴族の館で見覚えがあった。テキパキと無表情で働く彼女らに比べて、ニーナは何とも楽しそうに見えた。
そういえばあれもメイドと呼ばれていたな――などと考えるが、ドラゴンメイドとは関係ない。
彼の視線に気づいたのか、ニーナは視線を合わせてほほ笑んだ。さっ、と目を反らした彼の反応を楽しみながらお茶の準備を進めていく。
「先ほどまで、お茶を飲もうかと思って準備をしていたんです。そしたら突然森に誰かが入ってくる気配がして、人間や馬、それに……腐った食べ物の匂いがしたので、気になって変身して遺跡に向かったんです」
つまり、今までの生活で染みついた体臭がニーナを呼んでくれたということだ。アラドンは、初めて風呂に入れなかった自分を誇りたくなった。
「えっと、茶葉はどれにしましょうか。これは渋いし、これは苦い……アラドンくんはどんな味が好きですか?」
「どんな……いや、苦手なものは、ない」
どちらかと言えば、食の好みなど身につく生活を送ってこなかった。ニーナはアラドンの返答の真意に気づかなかったのか、いくつも保管されている茶葉を見比べていく。
「うん、じゃあ甘いのにしましょう。夏ですし、冷やしても美味しいものにしましょう」
そう言って、ニーナはポットに茶葉を淹れると、鍋からお湯を掬って入れる。十分茶葉から成分が抽出されるのを待つ間、棚のお菓子を皿に並べていく。
数枚のクッキーと、ジャム代わりのナシのコンポートが添えてある。アラドンには名前がわからなかったが、美味しそうなものだと思えた。
「どうぞ、お茶も入りました。私のお気に入りのお茶ですよ」
先ほどまで湯気を立てていたはずのお茶は、夏場だというのに自然の清流と変わらない、むしろそれ以上の冷たさになっていた。
「冷やしたのか、一瞬で」
「わたし、古龍ですから」
得意げなニーナは小さな木製の机を挟んで彼の対面に座り、お茶を並べる。
「どうぞ、ご遠慮なく」
「い、いただきます……。あ、甘い」
冷たいお茶が、夏の日差しに焼かれた五臓六腑に染み渡る。
茶葉の品種などアラドンは欠片も理解していないが、苦みや渋みはなく、甘みを感じる。だからと言って甘すぎるわけでもない。
先ほどから混乱するか驚愕するかし続けた心と頭も、冷やされてどこか落ち着きを取り戻しつつあった。
「落ち着けましたか? クッキーもどうぞ」
ずいずいと勧められるので断ることもできず、サクサクと音を立てて齧る。
小腹を満たす最中、ニーナは尋ねる。
「アラドンくんは、逃げていいのかと先ほどわたしに聞きましたが、逃げた後のこれからは、どうするんです?」
「どうするって、関係ないだろ……うまい……」
「お粗末様です。こちらのコンポートも美味しいですよ」
甘みが倍増されて、アラドンは頭の中がすっきりしていく気がした。
「……さぁな。生贄として死ぬはずだった。けど生きてる。どっちにしろ、あんたには関係ねぇよ。好きにするさ」
生贄から逃げたのかと思われるのは面倒だから、もう元いた街と関わらないようにした方がいい。顔の割れた盗人ほど惨めなものはない。
まして、一度捕まった盗人が五体満足で戻ってきたとなったとき、同業者たちはアラドンを今までと同じ扱いにはできない。
裏切りを疑われれば、まともな仕事は不可能だ。
アラドンはそこまで判断し、ひとまず森を反対側に抜ける方針を固めていく。
「反対側に街があるんだろう。だったらその街で仕事をすればいい」
少なくとも、新しい街でアラドンを知っている人間はいない。
まして、街を二、三過ぎれば一盗賊の顔などわからない。またそこで、道具いらずのアラドンとして活動するだけだ。
そんな彼に――
「行く当てがないのなら、ここに住まわれてはどうです? 部屋も空いていますし」
――意外な提案を、ニーナはしてきた。
彼女に対し、さすがにアラドンは言葉を返す。
「……盗人相手に言うことじゃないだろ?」
「アラドンくんは、悪いことをしてきましたが、酷い人ではなさそうですから」
にこやかな笑顔で告げるニーナに、アラドンはむしろ居た堪れなくなる。
これほどに真っ直ぐな良心と言うものを、彼は今まで知らなかった。
少なくとも、あの街で見たことはない。
「その言葉、すぐに後悔するだろうぜ。……そういえば、竜の鱗ってのは、高く売れるらしいな」
だから、悪態をついて見せる。
チラリと視線を台所の辺りに向けるのも、刃物を探しているように見せるためだ。
半分は本気かもしれない。だが、もう半分は……。
「残念ながら、鋼程度の刃ではわたしのまつ毛の一本切れませんよ。あとそれに、鱗のあるタイプではないので、なおさら」
予想外の方向から論破される。
確かに世界最強生物とも言われる竜種だ。鋼の剣で傷つけられるのなら、世の中にはドラゴンスレイヤーと呼ばれる英雄がごまんといる。
竜にとって、人間の使う武器など針ほどの痛みを与えることもできない。
一瞬口ごもるアラドンだが、すぐに次の脅し文句を思いつく。
「薄汚い盗人は敬虔な貴族様と違って、竜にも何をするかわからないぞ。オレは竜奉教会なんてもんな信じてないんだ」
「竜と化したわたしにとって、盗人も貴族も、ただの人間ですし、崇めてもらいたいわけでもないですから」
自信満々に告げられアラドンは口元を痙攣らせる。
竜奉教会とは、竜を神の使徒として進行する宗教だ。アラドンは世話になったことはあるが、信じたことはない。
それはともかく、ニーナからしてみれば、襲われようが攻撃されようが、アラドン含めた人間が自分に勝つはずはないと確信している。
彼は脅威でも何でもない。まして貧富貴賤の差など関係ない、ということだ。
元人間であっても、彼女の感性も身体も竜と変わらない。
別にアラドンが舐められているわけではない。そもそも敵対者と思われていないのだ。
人間一人の相手など、竜にとってはあまりに役不足。
要するに、生物としての次元が違う。
圧倒的上位存在からの誘いに、断る理由はなくなっていた。
「宿代なんか持ってねーぞ、オレは」
「構いません。代わりに、お手伝いをお願いできますか? この先、秋っていろいろ人手が欲しい時期なんですよ」
竜は宝石を好むなどと言われるが、ニーナはそんなものは求めていないという。それよりも彼女は、農作業をするための人手のほうが欲しかった。
「……オレにできることなんて、盗むことしかないぞ」
自嘲気味に言ったアラドンの言葉に、ニーナは微笑みとともに首を横に振る。
「誰だって、初めてはあります。わからなかったら聞いてください。わたしだって、最初は全部手探りでしたから」
一緒にやろう、そう誘われるのはずいぶんと久しぶりだった。
「失敗したらまた一から始めればいいんです。一度でいいから、やってみましょう」
「失敗していいか……そんなこと、言われたことなかったな」
盗みは、初めてだからと言って失敗は許されなかった。失敗すれば、その時点で終わりなのだ。最初からの再開は許されない。
道具いらずの腕は、誰かから教わったわけではない。まだ幼い浮浪児や孤児が集まって徒党を組み、大人たちの目を盗んで生きて来た。
失敗した仲間が捕まっても、見捨てるしかなかった。大人の腕力は振りほどけず、傷だらけで冷たくなっていくのを黙って見ているだけ。
誰かに頼る選択肢は、あの街にはなかった。
「もうすぐブドウの収穫時期ですので、がんばりましょうね」
朗らかな表情で告げられる。時に子どもたちを利用しようとする大人の歪んだ笑顔とは違う。哀れみを与えることで愉悦を得ようとする金持ちの笑顔とも違う。
……もしかして本当に人手が欲しかっただけでは?
そう思いながらも、彼女の提案を断ることはできない。わざわざ竜に逆らう愚を犯そうとは思わなかっただけだ。
決して、どこか安心できそうだ、などと彼は思ってはいない。
思っているはずなどないと、アラドンは内心結論付けた。
「……秋の間だけだぞ」
「はい。短い間でも、大歓迎ですよ」
にこやかに手を合わせたその仕草は、薄汚いものばかりを見てきた少年にとって、眩しく映る。
なんの裏もなく、憐れみでも情けでもない、単純な歓迎など受けたことがない。
生暖かいと表現できる不快感を持ったはずの空気なのに、どこか心地いい。
「でもまず、アラドンくんは服を着替えて、そしたらお昼にしましょう。人にお出しするのは初めてなんですけど、わたし手製のスープでいいですか?」
「古龍様がそういうのなら、お好きにどうぞ」
「あ、だめですよ。アラドンくんはお客様で、その先は居候人になるんですから。さ、まずはお客様として、歓待されてください」
まずは呼び方から、直していくことになりそうだった。
歓待と言うには、ずいぶん強引な気もしたが、口には出さなかった。
こうして、アラドンとニーナの共同生活は、始まった。
※アルティニーナの淹れたお茶はヤマアジサイのお茶である。
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