1-3:神話綱・真竜目・白銀類

 森の支配者たる古龍が、悠然と木々の間を進んでいく。


 白銀の巨体が辿り着いたのは、川の流れが湧かれてできた支川だった。太陽光を反射してキラキラと水面は輝き、数匹の水鳥が優雅に浮かんでいる。


『ここら辺がいいですね。――上より下に流れる者たち。少し熱を食べておいて』


 水面に顔を近づけ、炎をチロリと吐く。その炎は水に触れればすぐに消えてしまう。


『さぁ、これでいいですよ』


 そう言って川岸に少年を降ろした。

 一体何をしたのか、見た目ではわからない。


 だが川に手を入れてみたところで分かる。


「暖かい! 今は確かに夏の終わりだけど、風呂場みたいな熱を持ってる!?」


 先ほど、川に向かって炎を吐いたのは意味のない行動ではなかった。自然に流れるはずの川に熱を与え、少年が水浴びしやすいような温度に調整したのだ。


『いきなり川の水に入るのは冷たいですから。これで水浴びしやすいでしょうね』


 古龍に出会ってから驚嘆ばかりが続く中、少年は尻尾が緩んで降ろされた。


『それでは、わたしは向こうに行っていますね』


 そう言って古龍は支川に生い茂る茂みを分け入っていく。その巨体が葉っぱの向こう側に立ち入ると、隠すように枝葉が動いていく。


 古龍の姿を見送った少年は、ひとまずぼろ布を着たまま体を洗い流す。どうせ汚れ切っているのだ、体を洗ってもこれを着たらまた汚れてしまう。


「ああ、あったかい……。風呂って、こんな感じだったな……」


 街ならば、大きな家に住んでいれば自前のものが、そうでなくても大衆浴場へ行けば風呂に入り、垢を落とすことができる。

 だが、少年はそんなものとは無縁だった。


 最後に熱い風呂に入ったのも何年前か。


「つっ……結構血が滲むな……。でも、綺麗にしておかないとな」


 鎖の巻き付いていた個所にできた擦り傷に多少染みるが、土汚れや垢がポロポロと水に流れていく。煤に染まっていたその髪の赤い色と、褐色肌の本来の色が見えてきた。


 服にこびりついた汚れすら、川の流れによって落とされていく。

 ただ水を被るだけならここまで汚れは落ちない。加えて、彼は追手から逃げるために時には下水すら通る。その時に吹くと肌にこびりついた匂いまで消えていく。


「水に、熱以外の何かを仕込んだのか?」


 少年にはわからないことだが、確かにあの古龍は水を温めただけではない。


 竜の嗅覚は人より何倍も強い。だから少年の体が貴族の言う通り鼻が曲がりそうな臭いがしていたのもわかっている。


 そのために、水の中に様々な細工を施したのだ。汚れが落ちやすくなるように。臭いが消えるように。絶えず流れ続ける川の一か所だけに、特別な魔法をかけているのだ。

 気持ちよさそうに水浴びをする少年に、古龍は首を少しだけ向ける。そして茂みの向こうから質問を投げかけてきた。


『まだお名前を聞いていませんでしたね。わたしはアルティニーナ、親しい者からはニーナと呼ばれていました』


 ニーナ、それが白銀の古龍の名前だ。人から畏れ敬われる存在であっても、きちんとした名前がある。そんな当たり前のことに、少年は改めて気づいた。

 ならば、それには答えるのが礼儀というもの。むしろ、応えなかったらこの人知を超えた存在に何をされるのか分かったものではない。


「アラドン、道具いらずのアラドン」

『道具いらず?』


 奇妙な呼ばれ方をしているものだと、少年――アラドン自身も思っている。


 だが、それは彼が盗人であったが故の二つ名だった。


「言ったろう、オレは盗人だって。仲間内じゃあ、それなりに知られた名前なんだよ」


 同じ街で仕事をする者は敵対者ではなく、むしろ仲間だ。

 綿密な連携と、それぞれの仕事場を明確にすることでお互いに干渉しない。必要があれば共闘だってする。


 溢れ者同士でしか通用しない、繋がりと言うものがあった。


「単純さ。道具がなくても盗みを働いてきたから、道具いらず、ってわけ。体が小さいことも含めて、盗みには有利だったから」

『そう、だったんですね……』


 グニグニと指を複雑に動かして見せるアラドンに、納得したようにニーナは首を縦に振る。少し歯切れの悪い様子は、まるで何か思いつめたかのようだった。


 ……同情? まさか。


 古龍の言葉は、今よりもっと小さいころに街の教会で暮らしていたころに聞いた覚えがあった。最後の風呂も、そう言えばそのころだったと思い出す。


「哀れみだったら、いらないぞ。そんなもの腹の足しにもならねえ」


 突き放すように言うが、そんな自分アラドンをここにまで連れてきた古龍ニーナの方を見ると、こちらを見ないように顔を背けながら話を聞いている。

 まるで人間の裸を見ないようにしているのは奇妙な光景だ。


 人間であるならわかるが、ニーナは龍だ。

 不思議な奴だ――そう思いながらアラドンは、竜が何を考えているかはともかく置いておく。代わりに一番重要なことを問いかける。


「生贄がいらないなら、オレはここから逃げていいのか」

『そんな! もったいないです! 久しぶりのお客様ですから、家にどうぞ!』


 その問いかけに、古龍は全身を震わして否定した。

 それだけで地面に微細な振動が走り、川面に波が立つ。


 ニーナの言葉はまるで人間が人間を招待しているようだが、それは少し違う。その言葉はいかに親しげであろうと、他の生物にとっては絶対的な命令と代わりない。


「……では、お言葉に甘えて」


 そのことを相手が認識しているかどうかは、別の話だが。





※古龍は生物学的に記せば、「動物界・脊索動物門・脊索動物亜門・神話綱」に加え、そこから「飛竜目」「地竜目」「海竜目」「真竜目」の4つに細分化できる。白銀の古龍は「真竜目」からさらに「白銀類」に分類される。

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