1-2:白銀の領土ケセフヤアル

"あなたは、お客様ですか?"


 頭の中に響いたのは、そんな気の抜けた言葉だった。



『そんなところで、何をしているんですか?』


 それが、竜の声だと認識するのに、少年は数秒を有した。


 竜の声――言葉は、音ではない。


 人や動物の発する鳴き声や声とは違い、頭の中に直接言葉と音と意味が浮かび上がってくるのだ。頭の中に直接話しかけられている。そんな感覚がする。

 尤も、もし竜がその喉から声を発したら、それだけで少年の鼓膜は破れているだろう。下手をすれば音の衝撃だけで体が潰れかねない。


 同時に軽く翼が動くと、魔法の宿った風が発生する。

 人間なら世界という現実を変えるために長々とした文言と儀式によって魔法を発動する必要があるのだろうが竜にそんなものは必要ない。


 竜による世界への干渉は息をすることと同じ。存在そのものが魔法と言える神話の生物の一種なのだ。その中でも遥かな時を生きる古龍となれば、その力はより巨大かつ無比である。


 ただ息を吹き、翼を揺らめかせるだけで生まれた魔法の風は、少年を縛っていた鎖をバラバラにする。


『邪魔そうなので、その鎖は外しておきますね』


 あまりにもあっさりとした言葉から、少年も古龍にとってはこの程度の魔法、造作もないことなのだと理解できた。だからこそ、思わず唖然としてしまう。


「これが、竜の魔法……なのか……」


 先ほどから驚愕することしかできない少年を、白銀の古龍は首を曲げ、視線を落として見る。まるで大人が幼子と視線を合わせるがごとき行為に、少年はむしろ後退りした。


 巨大な口が真横にあると言うだけで、ある種の恐怖を呼び起こす。


『怖がらないでください。人がこの遺跡にまで来るのは百年以上ぶりなんです。ここにいる事情を、お話いただけますか?』


 竜の言葉はどこまでも穏やかな調子で、敵意を感じさせない。


「わ、わかった……」


 少年は大きく息を吐いて気持ちを落ち着けると、おずおずと話を切り出した。

 正確に言えば、緊張が解けて腰が抜けたので逃げられないのだ。

 小さな男の子のプライドで、必死に誤魔化しながら口を開く。


「俺は、生贄なんだとさ。この地に住む古龍のための、最初の生贄。今街の周囲で魔物が活発化してきて、それと戦うために古龍の力を借りたいんだと」


 隠す必要もないため、少年はわかることを離す。


 あの青年貴族から事前に話はある程度聞いていた。何もかも身勝手な内容だが、今の自分の状況を説明する手立ては、彼の言葉しかない。


「なんでも、昔に比べて世界全体が物騒なんだって。街の衛士だけじゃ対処できなくなりそうだから、あんたの力を借りたいんだろう」


 魔物――人々の生活を脅かす危険な生物群を、そう呼ぶのだ。


 体内に特殊な鉱石を持ち、心臓や頭以外にも、その鉱石を砕くことによって消滅する生物を、人々は魔物と呼ぶ。

 人肉を食らい、石壁すら体当たりで破壊する強靭な生物たちだ。中には竜には及ばずとも人を凌駕する魔法を使う種族もいるらしい。


 街から離れた場所では常に危険が伴う――それが世間の事情だった。


「だから、あんたの力を借りて、街を守りたいんだとさ」


 結局他力本願であると思い、少年はため息を吐き出す。

 幸い、少年は街道から外れた危険地帯にはもちろん、街を囲む防壁の外にも足を踏み入れたこともない。だから魔物というのがどれほど恐ろしいのか、その身を持って体験したことはない。


 街の防壁が破られるような事態も覚えがないため、竜に頼ろうという貴族たちの考えは理解しえなかった。


「正直オレにとってはどうでもいい。あの町がどうなろうと、もう……」


 ふてくされたというより、興味がなさそうに少年は言い捨てる。


 それに対し、白銀の古龍は長い首でふむふむと人間のように首肯する。


『そうですか。わたしに魔物から街を守ってもらいたい、と。確かに、百年ほど前に比べれば、ずいぶんと各地があわただしくなっていますね。人が増えた影響でしょうか。それとも何か別の要因が……』


 喉を鳴らしながら首を左右に振る古龍に、少年は答える。


「貴族の奴らは魔物の凶暴化する時期に入ったって言っていた。その度に生贄をこの森の竜に差し出したって。それでオレをここに置いていったんだ」


 少年のいた街まで馬を使って一日半。その街を統括する領主である貴族にとって、活発化しつつある人間の敵対者たる魔物を倒すのに、手段は選んでいられないのだろう。

 でなければ、護衛がいるとは言えわざわざこんな遠い場所まではやってこない。


「だったら自分が生贄になればいいのに……」


 悪態を吐きながら、少年は自分をここに置いて行った者たちについて、そして自らがどうして生贄に選ばれたのかを話す。


「オレはもともと盗人だったのさ。それが街の貴族の屋敷に入ったところを捕まって、あんたの生贄にちょうどいいってことで連れてこられたんだよ」

『盗人さんだったんですか。まだ、小さな子どもなのに』


 竜からすれば、たとえシワシワの老人ですら子どもだろう。先程、さらりと百年以上ぶりに人間が来たと言った。


 いったい今幾つかなのか知らないが、この世界で生きる人間の誰よりも年上なのは間違いない。


『けれど、生贄なんてしなくても、きちんとお願いしてくれば、お手伝いくらいしましたのに』

「え? そうなのか……」


 あまりにもあっさりとした答えに、少年の方が戸惑ってしまう。


 竜ではあるが、お人好しという言葉が似あう。


 あまりにも想像とはかけ離れた軽い調子に、少年の方が困惑してしまっていた。

 大方話し終えたこともあり、古龍はそれ以上質問しようとはしなかった。


 代わりに少年の体を様々な角度から観察する。

 盗人という生活上、人からじろじろ見られることは少ない。奇妙な恥ずかしさを感じて、少年は少し身をよじる。


「な、なんだよ……」

『だいぶ汚れてますね。近くに川がありますから、そこで体を洗ったほうがいいでしょう。煤や泥を落としておかないと、人間はすぐ病気になっちゃいますから』


 白銀の古龍は有無を言わさず長い尻尾で少年の体をからめとると、軽やかな足取りで森を進む。その巨体でありながら木々に引っ掛かることはなく、むしろ木々の枝葉のほうが古龍の体を避けるように動いた。


 意志を持たないはず木々すら避ける。それは地上に存在する生物としての格の違いを、少年にまざまざと見せつけた。





※白銀の領土「ケセフヤアル」古龍が治める領域、基本的に森の名前を示す。

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